第23話

 海風が、ベルカの髪を撫でていく。


 取り戻したコートを抱えて、ベルカは黙々と歩き続ける。

 公園で子供たちが遊んでいた。何が楽しいのか、歓声を上げながら、子供たちは満面の笑顔で元気に走り回っている。

 その様子を、ベルカはぼぅっと見つめ続ける。


 ▽大丈夫か?


 沈黙に耐えきれず、俺は訊ねる。

 子供たちから目を逸らして、ベルカは歩道と海岸を隔てる柵に寄りかかった。海水浴には向かなそうな、ごつごつした岩だらけの海岸に、波が白く砕けている。

 ベルカの唇が薄く開く。だが、言葉は出てこない。


「……ぼくは、」


 怯えるように、ベルカは喉を震わせ声をひそめてこう言った。


「ぼくはね、ユーリの顔が思い出せなかったの……」


 意味が、よく解らなかった。


 ▽俺の顔?


 コクン、とベルカが頷く。


「これまで喰い殺してきた人の顔は、思い出せる……ううん、忘れられないんだ。忘れたくても、ずっと瞼の裏に焼き付いて、消したくても絶対に消えてくれなくて、それなのに……」


 俺の顔は、思い出せなくなっていた。


「ずっと、ずっと不安だった。ぼくは、どこかおかしいんじゃないか、頭がおかしくなって来ているんじゃないかって、獣堕ちの前触れなんじゃないかって……」


 あぁ、そういうことだったのか……。


 記憶力の低下が獣堕ちの前兆だと、ベルカは語っていた。自分にもそれが起きているのではないかと、ベルカは怯えていた?

 ようやく俺は理解した。ベルカがどうしてあそこまで必死になって、俺の荷物を取り戻そうとしていたのか。


 ▽それで、俺の写真が欲しかったのか……。


 ベルカがうつむく。


「ぼくは、ぜったいユーリの顔を思い出さなきゃって思って、そのためにユーリの写真が欲しかった。だから、ユーリの荷物に写真があるって聞いたときはすごくほっとしたし、荷物が捨てられたって聞いたときは、もう……」


 ベルカがコートを抱きしめる。


「でもね、この写真を見たときに、気付いたんだ」


 ポケットから写真を取りだして、ベルカは気恥ずかしそうに、頬を染めながら言った。


「写真を見て、ぼくはどれがユーリかすぐにわかった。子供時代の写真で、だよ?」


 ベルカは、俺の顔を忘れてなどいなかった。思い出せないというのは、忘れてしまったという意味ではない。それに気付いた。

 これまで喰い殺してきた人間の顔が、ベルカの脳裏にはトラウマとしてこびり付いている。

 強烈な光が印画紙に像を結ぶように、ベルカの心には犠牲者の今際の表情が刻みつけられていた。

 身じろぎするだけで痛む古傷は常に意識の表層に浮かぶ。しかし、俺の場合は、ベルカのもっと深いところにそっと仕舞われていた。


「あ、ユーリがいる。ってすぐにわかって。あぁ、ぼくの中にはユーリが生きてるんだなって思って……あ、もちろん、ユーリはずっといるんだけど、そういうことじゃなくて、その、えっとね……」


 うまく説明できずにしどろもどろになるベルカの様子が、くすぐったいほどに心地よく感じられた。

 ベルカがうつむいていた顔を上げる。

 心地よい潮風を受けて、彼女の髪が穏やかに舞う。


「きっと、ぼくはキミのことが好きなんだ。ユーリ」


 そう言って、ベルカはあどけなく笑った。

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