あの人の手紙に、すべての理由が記されていた

春風秋雄

差し出された手紙は、41年前に別れたあの人の手紙だった

目の前に差し出された厚みのある封筒には、力ない文字で、俺の名前“杉本達彦”と書いてあり、そのあとに記されていたのは敬称の「様」ではなく、「さんへ」だった。裏には差出人の名前“柴山由美子”と書かれていた。

俺は封を開けて、手紙を読む。


“達彦さん、あなたに手紙を書くのは何年ぶりでしょう。最後にお別れの手紙をあなたに送ったのは、私が23歳の時でしたから、もう41年も経つのですね。

初めて会った時のことを覚えていますか?“


忘れるはずがない。俺はあの時のことを昨日のことのように鮮明に覚えている。

そう、42年前になる。当時俺は、新しいプロジェクトに配属され、その調べもので、毎日のように図書館へ通っていた。今ならインターネットで簡単に調べられるが、当時は調べものをするときは図書館に頼る時代だった。俺はまだ28歳だった。大学卒業と同時に高校時代から付き合っていた女房と結婚し、子供も3歳の可愛いさかりの長男と、生後6か月の長女がいた。

その日は、平日にもかかわらず、図書館は混んでいた。俺は隣の席に鞄を置いて、借りた本を開き必要な部分をノートに書き写していた。

「すみません、ここよろしいですか?」

女性の声が聞こえ、振り向くと本を3冊くらい抱えた若い女性が立っていた。それが柴山由美子だった。俺は周りを見渡し、他に席が空いていないことに気づいた。

「ああ、ごめんなさい。どうぞ」

と言って隣の席に置いていた鞄を自分の足元に置いて席を空けてあげた。空いた席に座った女性は机に本を広げて書き物を始めた。チラッと見ると、経済関係の書物だ。おそらく経済学部の学生なのだろう。

しばらくすると、女性が筆箱や鞄を漁って探し物を始めた。どうやら消しゴムがないようだ。俺は自分の消しゴムを差し出し、

「よかったら使って下さい」

と言った。女性は驚いたようだが、

「ありがとうございます」

と言って、俺の消しゴムを使った。

2時間ほど作業をし、俺は帰り支度を始めた。周りを見ると、あれほど混んでいた館内に人がほとんど残っていなかった。図書館の出口に行って雨が降っていることに初めて気づいた。天気予報では夕方から雨ということだったが、それまでには会社に戻るつもりだったので、傘を持たずに来たのだが、予報より早く雨が降り始めたようだ。駅までは10分ほど歩くので、この雨だと傘なしで歩くのは辛い。どれくらいで止むのだろうと考えて立ちすくんでいたところ、後ろから声がかかった。

「駅までですか?傘に入りますか?」

先ほどの女性が傘を持って立っていた。イントネーションが関西弁のイントネーションだった。

「いや、申し訳ないですから、止むのを待ちます」

「この雨は、なかなか止みそうにないですよ。私の傘は大きいので、二人で入っても大丈夫ですから、遠慮しなくていいですよ」

「1時間くらいでは止みませんかね?」

「予報では夜まで雨です」

他に手段がない俺としては、好意に甘えるしかなかった。駅まで送ってもらえれば、駅の売店で傘を買うことができる。

肩を寄せ合い、雨の中を歩きながら会話を交わした。

「大きな傘ですね。これは男性用ですか?」

「一応女性用なのですが、荷物を持ち歩くので大きな傘を買ったんです」

「学生さんですか?」

「ええ、今大学4年生です。卒論を書くのに図書館に通っているのです」

「卒論ですか、大変ですね」

「大学生なら、みな通る道ですから」

「関西の方なんですか?」

「わかりますか?大阪なんです。できるだけ標準語で話すようにしているのですが」

「関西弁は隠す必要はないですよ。うちの会社にも関西出身のやつがいますが、平気で関西弁でしゃべっています」

「私の友達も東京へ来ても平気で関西弁で話していると言っていますが、私は根っからの関西人ではないので、ちょっと抵抗があるのです」

「元はどちらなんですか?」

「岡山です。高校1年の時に大阪へ引っ越したので、実際大阪には3年ほどしかいなかったんです」

「もう就職は決まったのですか?」

「はい、大阪の会社に内定をもらっていますので、なんとか卒論を仕上げて卒業しなければいけないのです」

もっと話していたかったが、駅が近づいてきた。

「本当にありがとうございました。助かりました」

「消しゴムを貸して頂いたお礼です」

女性は笑顔でそう言った。笑顔がとても可愛かった。

「私は杉本達彦と言います。仕事の調べもので毎日のように図書館へ行っていますので、今度会ったらお礼をしますよ」

「私は柴山由美子と言います。また図書館でお会いするかもしれませんが、お礼なんか気にしないでください」


由美子さんと再会したのは、二日後だった。図書館へ行くと、由美子さんは先に席について卒論に取り組んでいた。俺は近寄り、肩をトントンと叩いた。振り向いた由美子さんは俺に気づき笑顔で会釈した。俺は外を指さし、ちょっと外に出ようと誘った。外に出て、俺は鞄から箱を取り出した。

「これ、この前のお礼です」

そう言って差し出すと、

「そんな、お礼なんかいいって言うたのに」

「せっかく用意したので、もらって下さい」

由美子さんは箱を開けた。女性用のピンク色のデザインのボールペンだった。一応パーカーのボールペンだ。

「可愛い。こんな高価な物、いいんですか?」

「それほど高いものではないです。書き味は良いので、社会人になってからも使えると思います」

「ありがとうございます。とてもうれしいです」


“あのボールペンをもらったときは、本当にうれしかった。あとで文房具店へ行って値段を調べたら、それほど高いものではないと知って安心しました。それだけに、達彦さんのセンスの良さに惹かれてしまいました。ボールペンは大切に、大切に使って、今も現役です。この手紙もあのボールペンで書いています。あのボールペンをもらった日から、私たちの不思議な付き合いが始まりましたね。毎日のように通った喫茶店覚えていますか?名前は「香」でしたね”


喫茶店の名前をよく覚えているものだと感心した。そうだ『香』という喫茶店だった。記憶が鮮明に蘇ってきた。

ボールペンをプレゼントした日、由美子さんが帰り支度を始めたのを見て、俺も調べものを切り上げ、荷物をまとめた。先に図書館を出て行った由美子さんを追いかけ、声をかけた。

「柴山さん、今日はもう終わりですか?」

俺が追いかけてくることを予想していたように由美子さんは振り返り笑顔で答えた。

「今日はもう終わりにしました。杉本さんのお仕事の方はもういいのですか?」

「私の仕事は長期戦ですから、今日はここまでやらなければいけないといったノルマはないので、適当なところで切り上げています」

二人並んで駅までの道を歩いていると、喫茶店の看板が目についた。しかし、そこは果物屋だった。

「喫茶店の看板があるのに、果物屋ですね」

「2階が喫茶店みたいですよ」

由美子さんが上を見上げながら言った。よく見ると、果物屋の横に狭い階段があった。

「よかったらお茶でも飲んでいきませんか」

俺が誘うと由美子さんは笑顔で頷いた。

果物の香りがする店の横の階段を上っていくと、階段の途中からコーヒーの香りがしてきた。

「この店の名前、『香』でしたよね。階段の途中まではフルーツの香りがして、上にあがるとコーヒーの香りがする、ピッタリの名前ですね」

由美子さんが嬉しそうに話した。コーヒーを飲みながら二人は様々な話をした。由美子さんは頭の回転が速く、話題は豊富で、話が尽きることはなかった。あっという間に1時間経っていた。

「そろそろ会社に戻らなければいけないな」

俺は腕時計を見ながら言った。

店を出て階段を下りながら由美子さんが

「とても良い店でしたね。また来たいですね」

と言った。

「私は明日も図書館へ行きますが、柴山さんは?」

「私も行く予定です」

「だったら、明日も帰りに寄りましょうか?」

「はい」

由美子さんは笑顔で返事をした。それからは図書館へ行って、帰りに『香』に寄って話をするのが二人の日課になった。

「杉本さんは、ご結婚されているのですね」

ある日、俺の左手の指輪を見ながら由美子さんは言った。

「高校時代から付き合っていた人と結婚しました」

「お子さんは?」

「上が3歳の男の子と、下に今年生まれた女の子がいます」

由美子さんはニコッと笑っただけで、それ以上何も言わなかった。


“あの喫茶店での時間は、本当に楽しかった。あれはデートだったのでしょうか?毎日毎日、あなたと『香』へ行くのが楽しみで、卒論より、それが目的で図書館へ行っていました。でも、あなたに奥さんとお子さんがいると意識したとき、とても複雑な気持ちになったのを覚えています。その時にはもう、あなたのことを好きになっていたのでしょう。私はあの時点であなたと会うのを止めるべきでした。でも、頭ではそう思っていても、駅で別れたあとすぐに、あなたに会いたくなってしまう。その気持ちを自分ではどうしようもなかったのです。私はあなたに会えない日曜日が大嫌いになりました“


2か月以上経ったのに、『香』での会話は尽きることがなかった。

「この前の年末に大阪へ帰ったとき、牛鬼に行ったの」

牛鬼とは、由美子さんが高校時代から通っている喫茶店で、夜はお酒も出す店らしい。成人してからは、もっぱら夜に行って友達とお酒を飲んでいるとのことで、マスターの渡辺さんことナベさんのエピソードや、仲良くなった常連客のテツのことなど、牛鬼でのエピソードはそれまでにも何回も話してくれた。

「ナベさんがね、由美ちゃん、お前最近綺麗になったんやないかって言うの。そしたらテツも東京で色気づいたんやろって言うし、私綺麗になったのかな?」

確かに、由美子さんは出会った頃より、輝いて見え、とても綺麗になっていた。

「確かに綺麗になったと思うよ」

「そう?惚れた?」

笑いながら自分を指さす由美子さんは可愛かった。

「ずっと前から惚れているよ」

「杉本さんは大人やね。ようも照れんと言えるね」

翌日、図書館で由美子さんは大阪の地図を持ってきて俺に見せた。

「牛鬼はここなんやで」

指さしたところは天王寺の交差点から少し歩いたところだった。お返しに俺が住んでいる場所を東京の地図で教えてあげた。


由美子さんは無事に卒論が通り、もうすぐ卒業式を迎える。卒業するということは、大阪に帰るということだ。別れの時が近づいていた。その頃には由美子さんは図書館には来たり来なかったりで、来ない日は『香』で俺が来るのを待っていた。

「卒業祝いに、何か美味しいもの食べに行こうか」

「ほんま?連れてってくれるの?」

「うん、何が食べたい?」

「そしたら、お寿司が食べたい」

大阪へ帰る3日前の夜、『香』で待ち合わせ、俺たちは近くの寿司屋に入った。由美子さんはよく食べ、そしてよく飲んだ。お酒はかなり飲む方らしい。

「私、そろそろ引っ越しの準備せなあかんので、もう『香』にはいかれへんと思う」

「そうか、じゃあ、柴山さんと会うのは今日が最後かな」

「この数か月、とても楽しかった。ありがとう」

「こちらこそ。本当に楽しかった」

食事が終わり、駅に着いたところで俺は言ってみた。

「これから柴山さんのアパートに一緒についていったらダメかな?」

由美子さんはジッと俺の顔をみて、一拍おいて答えた。

「それはダメ。ここでサヨナラしましょう」

由美子さんはそう言って反対側のホームへ渡っていった。線路を挟んだホームで由美子さんは俺の正面に立った。

「ボールペン、ありがとうね。大切にするね」

由美子さんは向こうのホームから大きな声で言った。周りの人がどう思おうが関係なかった。俺は黙って頷いた。電車が来る音がした。由美子さんが乗る電車だ。俺たちは、電車で遮られるまでジッと見つめ合った。電車がホームに滑り込んで、由美子さんの姿は消えた。電車は意外と混んでいるようで、電車に乗った由美子さんの姿を確認することができなかった。ホームに鳴り響く発車の合図で、ゆっくりと電車は動き出した。俺はその電車を見送るしかなかった。最後の車両が過ぎ去り、視界が戻った。そこに由美子さんがポツリと立っていた。

「どうしたの?乗らなかったの?」

俺が大きな声で聞くと、由美子さんは黙って右手を顔の横まであげ、おいでおいでと、手招きした。俺は向こうのホームへ渡る階段を駆け上った。


“あの時、最後の最後まで私は迷っていたの。あなたには妻子がいる。そんな人と関係をもって、忘れることができるのだろうか、大阪に帰って、しばらくしてから、また東京に来たくなるんじゃないだろうか。でも、私は電車に乗らなかった。どうしてもこのまま帰れない、せめて一度でもいいから、あなたの腕に抱かれたい、それを東京の思い出にしよう、そう思ったの”


由美子さんのアパートで、俺たちはむさぼるように何度も何度も交わった。まだ寒い時季だったのにも関わらず、俺たちは汗だくだった。

「そろそろ帰らないと、家族が心配するんじゃないの?」

そう言われて俺は時計を見た。確かに、今から帰っても言い訳が必要な時間だった。

「大阪の連絡先を教えてくれないか?」

俺はそう頼んだが、由美子さんは頑なに拒んだ。


“あなたが、大阪の連絡先を教えてほしいと言った時、本当は教えたかった。また会いたい。月に一度、私が東京に来てもいい。でも、当時は携帯電話もない時代だから、連絡先は実家の電話しかない。実家に電話がかかってくれば、親にも知れるところになる。妻子ある男性と付き合っているとは、決して親には言えない。だから私は連絡先を言うことができなかった。それなのに、あなたは、私が想像してなかった行動に出た。本当にビックリした”


由美子さんが大阪に帰ってから、俺はプロジェクトに関連付けて大阪へ出張できる方策がないか探した。1か月くらいして、やっと大阪の業者とアポイントがとれた。早速大阪へ行って話を詰めてくることになった。2泊3日の予定で大阪へ行った1日目の夜、俺は天王寺へ行って、牛鬼を探した。由美子さんが見せてくれた地図の記憶だけが頼りだった。地図では天王寺の交差点から左に歩いて少し行ったところだったが、あの地図の上が北を向いていたとは限らない。俺は4方向すべてを歩いてみることにした。最初の方向へ20分ほど歩いたが見つからなかった。戻って違う方向へ歩き出す。7分ほど歩いたところに、牛鬼の看板を見つけた。俺の心は躍った。由美子さんに会えるかもしれない。おれは勇んで牛鬼のドアを開けた。

「いらっしゃい。おひとり様?カウンターでいい?」

カウンターの中にいたマスターらしき人が言った。この人がナベさんなのだろう。俺はカウンターに座るなりマスターに聞いた。

「今日は柴山さん来てないですか?」

「お客さん、由美ちゃんの知り合い?」

「ええ、東京で知り合いまして、この店を教えてもらったので、どんな店なのか来てみたんです」

「今週はまだ来てないから、今日か明日あたり来ると思うけどな。それより何にします?由美ちゃんのボトルを飲む?」

「そしたら、柴山さんと同じボトルをおろしてもらえますか」

店はカウンターと4人掛けのテーブルが2つあるだけの広さだった。みんな常連のようで、和気あいあいと、にぎやかに飲んでいた。2時間弱粘ったが、由美子さんは来なかった。俺は明日もう一度来ますと言って店を出た。翌日も牛鬼へ行ってみたが、由美子さんは来ていなかった。やはり2時間ほど粘ったが来る様子はない。仕方なく、俺は用意していた手紙をマスターに渡した。

「今度柴山さんが来たら、これ渡してもらえますか」

「ボトルはどうする?うちはキープ3か月だけど」

「じゃあ、柴山さんにあげて下さい」

俺はそう言って、昨日ボトルに書いた自分の名前の隣に由美子さんの名前を加えた。マスターは俺が渡した手紙をセロテープでボトルにくっつけた。


東京に帰った2日後の昼間、女性社員が電話をつないでくれた。

「杉本さん、大阪の三船商事の柴山さんからお電話です」

俺は急いで電話に出た。

「電話替わりました。杉本です」

「杉本さん?私。びっくりしたわ」

由美子さんの声だった。

「久しぶりですね。元気でした?」

「私、今仕事中やから、長話でけへんのやけど、近々大阪来る予定ある?」

「来週の水曜日に出張予定が入っています」

「ほなら、水曜日の夜、7時から牛鬼に行ってるさかい、来れたら来て」

「了解しました」

「無理したらあかんで」

「承知致しました」


“牛鬼に行ったらナベさんが「東京から来た男前がこれ置いてったで」と手紙を渡されて、見てびっくりしました。どうやって牛鬼を見つけたの?ほんのちょっと地図を見せただけなのにって。でもうれしかった。探すのに苦労しただろうに、私に会いに来てくれたと思うと、居てもたってもいられず、翌日電話をしてしまいました。手紙に入っていた名刺は今も大事にしまってあるのですよ。あの頃の状況では連絡するには会社しかなかったですものね。確か変な会社名を名乗って電話しましたっけ。手紙に書いてあった指示を呼んで、何これ?って笑ってしまいましたよ”


翌週の水曜日、取引先との会食を終え、牛鬼に着いたのは8時だった。由美子さんはカウンターで飲んでいた。ドアが開いた瞬間、こちらを振り返ったので、お客がくる度に俺ではないかと振り返っていたのだろう。俺だと確認すると、由美子さんはマスターに言って席をテーブルに移した。

由美子さんは、俺の顔をまともに見ようともせず、この前俺がおろしたボトルで水割りを作ってくれた。

「久しぶり」

俺がグラスを掲げると、由美子さんは初めて俺の顔を見て

「ようこそ牛鬼へ」

と言ってグラスを合わせた。

二人は、今までの時間を埋めるように様々なことを話した。どうやって牛鬼をみつけたか、牛鬼の印象、そして由美子さんの仕事のことなど、あっという間に時間は過ぎていた。

「今日はどこのホテルをとったの?」

「阿倍野のホテル」

「そこ、私も泊まれる?」

見ると、由美子さんは泊まるつもりで大きなバッグを持っていた。

「シングルだから、ちょっときついかな。ダブルベッドのあるホテルに行こうか」

「もうチェックインしたんじゃないの?」

「明日の朝、荷物だけとりに行けばいいよ」

俺たちは天王寺のラブホテルに入った。


“あれから私たちは、月に1度のペースで逢うようになりましたね。私が会社に電話して様子を伺うと、来週あたりに電話くれればスケジュールが決まると言われて、翌週にもう一度電話するって感じで逢う日を決めていましたっけ。携帯電話がない時代って、本当に不便でしたね。今の人は幸せですよ。昔より不倫がしやすくなったんじゃないかしら。

私たちが付き合い始めて、どれくらい経った頃でしょう。もう季節は秋でしたね。急にあなたが「俺と結婚しよう。妻とは別れる」と言い出して、私は驚きました。でもあなたの目は真剣だったので、とてもうれしかった。本当に結婚できたらいいなと思いました”


由美子と付き合うようになって、妻への愛情はすっかり冷めていた。もう由美子なしの人生は考えられなくなっていた。俺は思い切って由美子に結婚しようと言った。由美子はどう思っているのだろう。愛されているという実感はあったが、結婚まで考えてくれているのかが疑問だった。由美子の返答は、「あなたと結婚したいとは思うけど、奥さんとちゃんと別れてから、もう一度言って」だった。俺はどうやって妻に切り出そうか悩んだ。一番の悩みは二人の子供だった。妻への愛情は冷めていたが、子供は可愛かった。それでも由美子と結婚したいという気持ちがどんどん大きくなり、「今日こそ妻に言おう」と毎日考えていた。

そんなとき、会社に手紙が届いた。由美子からだった。ご丁寧に差出人欄には「三船商事」と書いてあった。俺は何か嫌な予感がして、外回りに行く振りをして、喫茶店に入り手紙を読んだ。


『拝啓 杉本様 

 手紙を出すのは初めてですね。でも、これが最初で最後の手紙になります。この前、結婚しようと言ってくださり、私はとてもうれしかったです。東京の図書館で偶然出会ったとき、まさかこんな関係になるとは夢にも思いませんでした。でも、この1年弱の期間、私はとても幸せでした。毎日喫茶店でおしゃべりしたことは、私の大切な思い出です。東京最後の夜、駅の向こう側のホームからこちらのホームへ駆けてきて、私を抱きしめてくれたこと、そしてあの温もりが今でも忘れられません。出来ることならあなたと結婚したかった。でも、あなたには二人のお子さんがいます。私にはお子さん達の幸せを奪うことは、どうしてもできません。だから、あなたとは、お別れにします。これ以上関係を続けていたら、あなたは本当に奥さんとお子さんを捨ててしまいそうだから。もう牛鬼にも行きません。あなたは、あなたの家族と幸せになって下さい。今までありがとう。』


俺は、由美子の実家の電話番号も住所も知らない。勤め先も聞いてなかった。なんということだ。せめて勤め先の会社名だけでも聞いておけばよかったと、今さらながら後悔した。俺は茫然と喫茶店に座っていた。


“あなたが、結婚しようと言ってくれたあと、私は、嬉しくて、嬉しくて、毎日が宙に浮いているような気持で過ごしました。そうすると、来てくれたばかりなのに、もう会いたくなって、1週間もした頃、我慢できなくて私は有給休暇をもらって東京へ行ったのです。突然行って、夕方に電話して驚かせてやろうと思いました。午後から大阪を出ればいいのに、気が急いて、朝早くに新幹線に乗ってしまいました。あまりにも早く東京に着いたので、あなたの家に行ってみようと思いつきました。何も意図はなかったのです。あなたが住んでいる街が見てみたかった、どんな家に住んでいるのか見てみたかった、ただそれだけなのです。あなたが牛鬼を探し出したのと同じ方法です。古い一軒家だと聞いていたので、以前地図で教えてくれた場所を手掛かりに、一軒一軒、表札を見ながら探しました。長いこと探し、やっと見つけました。見つけてすぐに帰れば良かったのですが、しばらくそこに立って、あなたがどんな生活をしているのかなと、想像していました。すると、玄関から人が出てきたのです。奥さんとお子さんでした。その日はあいにく雨が降っていました。東京に着いたときは降っていませんでしたが、あなたの家を探している最中に降ってきて、私は用意していた折りたたみ傘をさしていました。


「ママ、雨が降っているよ」

「もう降ってきたの?じゃあ傘さしなさい」

「パパは傘持って行ったのかな」

「天気予報を見てたら持って行ってるでしょう」

「会社に傘持っていかなくていいの?」

「大丈夫だよ」

「心配だなあ」

「シュン君はパパが好きだね」

「うん、ボク、パパ大好き」


私は、その親子の会話を聞いて、いたたまれなくなって、あなたに電話することもなく、そのまま大阪に帰りました。私は大阪に帰ってから悩みました。私は、あの家族の幸せを壊そうとしているのか。あのシュン君と呼ばれた男の子の大好きなパパを奪おうとしているのか。一体どうすればいいのか、わからなくなりました。

東京へ行って1週間ほどした頃、体調を崩し、風邪だろうと思い病院へ行きました。その時、医師に妊娠を告げられました。あなたの子供を宿してしまったのです。驚きました。どうしようと戸惑いました。しかし、それは一瞬のことでした。お腹の中に宿った命が愛しくて、愛しくて、あなたの子供を産めるということが、この上ない幸せに感じました。私は決心しました。妊娠を告げれば、もう曖昧な関係は成り立たず、あなたは決断をしなければならなくなる。その時は、あなたの家族か、私のこの子のどちらかが不幸になる。そんな選択をあなたにさせたくありませんでした。だから、別れの手紙を送ったのです。このことは、あなたには何も言わず墓場まで持っていくつもりでした。でも、いざ私の体がもう長くもたないと悟ったとき、自分の娘が不憫に思えてきました。この40年、片親で育ててきて、娘には肩身の狭い思いをさせてきて、最後まで父親が誰であるかも教えないというのは、あまりにも可哀そうだと思ったのです。達彦さんからしてみれば、今さら知らないほうが良かったと思うかもしれませんが、どうか、自分の娘の姿を、その目で見てやって下さい。この手紙を娘に託しますので、この手紙を読んで頂いているのであれば、今、目の前にいる女性が、あなたの娘、香です”


俺は、読み終わった手紙を封筒に戻した。それを見て、目の前に座っていた目元が由美子にそっくりな女性が口を開いた。

「お読みになりました?それでは母のお墓にご案内しますね。お父さん」

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