先生と生徒、十数年越しの再会、裏切り、そして軽トラが突っ込んでくる

 

 「暗い」「陰気」「堅物」、岩下 優子(いわした ゆうこ)ことユーコは、そう言われて育ったし、本人もそれらの意見を認めていた。36歳になった今も、その点は変わらない。鏡を見るたびにそう思う。髪型は黒のセミロング。髪質は直毛で、一本一本が太い。眼鏡の奥には釣り上がった目がある(彼女は、これが「堅物」と言われる根本的な原因だろうと捉えている)。眼鏡は金属フレームのものだ。大学生の頃に、一度だけ赤いプラフレームのメガネをかけたが、道端ですれ違った同級生らに「今の見た?」「似合ってねぇ」と笑われて、帰宅直後に叩き捨てた。眉毛の手入れも最低限で、化粧も薄い。これは職業上の理由がある。彼女は高校の教師をしている。派手な格好はできない。

 それに、この容姿は何よりもユーコの思想そのものだった。派手な格好、流行の先端、鮮やかな色使い、そういったチャラチャラした格好は嫌いだ。同い年の女性も男性も、その類のファッションをしている人間は全員嫌いだ。何故ならそういう連中は、中身が空っぽだからだ。恋愛ごとばかりで、勉強もマトモにしていないし、己と向き合うこともしていない。恋愛を宗教のように崇め奉り、人生の最優先事項として絶対視している。彼ら彼女らとは話が合わないし、こっちから合わせようとも思わない。中身のない人間は嫌いだ。不真面目な人間は嫌いだ。ユーコは彼ら彼女らを、明確な穢れを帯びた人間と捉えていた。

 かたや自分を姿見でチェックすると、穢れとは無縁だ。正しく、真面目な人間だ。だから小さく「よしっ」と呟く。胸を張れた。自分はちゃんと自分らしく生きられている。中身のある人間として、自分が信じる正しさを体現できている。

支度を終えるとユーコはワンルームの賃貸マンションを出た。今日は金曜日、きっと恐ろしく忙しくなる。



 ユーコにとって、金曜日は往々にして一番忙しい日だ。同僚は「我先に家に帰ろう」「仕事を1秒でも早く終わらせよう」そんな活気を全身から発散している。ただしそれは自分の仕事だけに向けられ、他人の仕事については「知ったこっちゃない」とも思っている。こういう時、ユーコは不利になる。他人に仕事を振りたくないし、周りから仕事を振られたら全て応える。自分は仕事ができるからだ。仕事が出来る人間は、それ相応に負荷がかかる。ユーコはそう考えていた。肩凝りや腰痛などの身体的問題はともかく、精神的には悪くはない。むしろ仕事が増えるほどに、自分が有能だと認められているようで気持ちが良かった。

 けれど、この日だけは違った。仕事の全体量が少なく、同僚たちは定時付近に帰宅した。ユーコも普段なら三時間は残業するところを、一時間半で帰途につけた。

満員電車に揺られていると、気持ちが外食に向いた。今日は、なんとなく自炊はしたくない。コンビニも、スーパーのお惣菜も気分じゃない。働く人間にとって食は貴重な娯楽だ。せっかく珍しい時間に帰れているのだから、楽しい晩ご飯にしたい。

 ユーコは普段より二つ前の駅で降りた。そこは若者の街で、同時にラーメンの街としても知られる。ユーコは喜多方ラーメン屋に入った。スマホを眺めながら待つこと5分、大盛りの喜多方ラーメンが来た。地元の福岡ではありえない、コシのある太い麺に、ダシの香る醤油スープだ。

 手を合わせて、「いただきます」と呟いて一礼する。麺を啜ると、ほっと肩の力が抜けた。一週間が終わったと実感が湧く。その次に「美味しい」という感想が来た。二口目、三口目、徐々に麺を啜るペースが上がる。

  ――と、不意に後ろから声がした。

 「岩下先生?」

 「はい?」

 素っ頓狂な声を出して、ユーコは麺をモニュモニュと噛みながら、口もとを手で隠して振り返った。同僚だろうか? しかし、こんな声の人はいなかったはず……。

 「え?」

 ユーコは麺を吹き出しそうになった。そこに立っていたのは、忘れられない人物だったからだ。

 幸田 和彦(こうだ かずひこ)、ユーコのかつての教え子だ。それだけならいいが、彼は今までの人生で、ユーコの心の最も深い部分に触れた人物でもあった。

 和彦は生徒の頃に、担任教師だったユーコに告白をしてきたのだ。



 「バカなことしたもんっスよね」

 和彦は麺を啜りながら笑った。

 ユーコも、とりあえず合わせて笑った。

 「生徒なのに、担任と付き合おうとするなんて」

 和彦は麺を啜る。一方、すでにラーメンを食べ終えたユーコは、彼の顔を観察した。当たり前だが、幼さが消えている。目つきも鋭くなっている。髪を短く刈り込んで、ずっと垢ぬけている。それに体格がまったく違う。高校生の頃の和彦は、細かった。身長は170後半だったが、体重は平均以下で、ひょろっとしていた。けれど目の前にいる和彦はガッシリしている。スーツの上からでも分かる。すべて脂肪ではなく筋肉だ。その変化は成長ではなく、もっと意図的なものだとも。

 「あっ、けっこう変わったでしょう? 大学で筋トレに目覚めちゃって」

 和彦が言った。ユーコは自分の視線と感情が筒抜けだったと悟り、少し顔を赤くして「まぁまぁ」と曖昧な返事をした。

 和彦は続ける。

 「高校の頃は、運動が大嫌いだったんです。図書室にばっかいて」

 その言葉に、ユーコの記憶が鮮明に蘇る。あの頃は改装前で、狭くて埃っぽくて、人の少ない図書室だった。そこにいつも入り浸っている絵に描いたような文学少年。それが和彦のあの頃の姿だ。

 「そうだった。放課後に何度も、早く帰りなさいって注意した。ずいぶんと大人しい子だと思ってた。だから余計に、告白してくるなんて、ビックリした」

 「そうでしょう」と和彦は笑った。社交的な人柄をアピールするような、人造的でもある笑顔だ。ユーコはその顔を見て、和彦がこの数年で、色々な経験を積んだと察することができた。大学や会社での人付き合いで、笑顔が鍛えられたのだ。覚えがあった。就職すると、学生の頃よりずっと笑顔を作る機会が増える。

 ユーコは和彦が大人になったと実感した。スーツを着ていても、体つきが変わっていても、まだ彼は子どもに見えた。けれど高校時代に見せなかった社交的な満面の笑顔を見ると、「ああ、私と同じだ。大人になったんだ」と思えた。

 和彦がラーメンのどんぶりを置いた。

 「先生、奢らせてください。あのとき困らせたお詫びっスよ」

 「いや、私の方が年上だから」

 「いいじゃないですか。お願いです」

 結局、ユーコは押し切られた。



 ユーコはラーメン屋から最寄り駅まで、和彦と一緒に歩くことになった。

 昔から和彦は身長が高かった。ユーコはいつも彼を見上げていて、連れだって歩いたことも何度もあった。けれどその時とは、感覚が決定的に違う。あの頃は、彼を引き連れている感覚があった。今はそれがない。一緒に歩いている。もしくは自分が彼に従っているようにも思えた。

 「先生、覚えてます? 僕が告白した時のこと」

 「へ?」

 ユーコを見下ろす和彦の顔には、彼女がよく知る高校の時と同じ、はにかんだ笑いがあった。懐かしい、と思った。けれど同時に、何か不穏なものを感じた。彼の大人になっていない部分が見えたのだ。なぜ、そんな部分を今さら見せるのだろうか?

 「僕が告白したら、先生はこう言いましたよね。大人と子どもだから、それは絶対にダメなんだ、って」

 「うん。それは、そうだった」

 「だったら、僕らが大人と子どもじゃなくなったら、どうなるんでしょうか」

 「え?」

 ユーコは目を逸らしていない。けれどいつの間にか和彦の顔から、笑みが消えていた。あの時よりずっと固くて強い決意が見て取れる顔だ。

 「僕、まだ先生が好きです。大学で上京して、就職して、色々あったけど、変わらないんです。今も思っていますもん。やっぱりオレは、この人が好きだって」

 和彦が、ユーコの手を握った。この手は決して振りほどけない、そう瞬時に理解できるほど、強く。

 「いやいや、無理だって。歳の差もあるし」

 「関係ないです」

 「あるよ。私なんかもったいないよ。私、あんたよりずっと年上で……」

 「もったいなくないです。僕は、先生の今の気持ちが知りたいだけです」

 「急すぎるし、気持ちなんて……」

 ユーコは言葉を濁し続ける。けれど答えはとっくに出ていた。十数年前、和彦に告白された時、ユーコは断った。けれどそれは本音とは真逆のものだった。

 全て和彦の言う通りだった。今のユーコには、断る理由がない。あの時にあった唯一の理由は、年月と共に消え去ったのだ。

 だからユーコは、あの日に飲み込んだ言葉で答えた。


 5


 恋をすると綺麗になる。ユーコは過去に何度もそう聞いた。そのたびにユーコは「嘘つけ、そんな簡単に人が変わるはずがない。浮かれて目が曇っているだけだ」と思っていた。ほんの3日前まで。

 ユーコは鏡を見る。「なんか、綺麗かも」と思う。眼鏡をかける。「やっぱりだ、やっぱり、絶対に綺麗になった気がする」と思う。

 思った次は、何が違うのかを考える。顔のパーツは3日前とまったく同じだ。でも和彦と再会して、手を引かれるままラブホテルに入って、朝までそういうことをしてから、何かが決定的に変わった。その「何か」の正体は分からない。だからモヤモヤとした、しかしニヤニヤと頬が緩ませる「何か」を言葉にしようとする。

 「明るくなったのかな?」

 辿り着いた答えを呟く。漠然とした言葉で、ほとんど答えにはなっていなかったが、それは正解に近い気がした。ユーコ自身だけが納得するには、十分な粒度の表現でもあった。

 和彦を力いっぱい抱きしめた。肌に触れた。「好きだ」と言われたし、言った。

 すべて初めての体験だった。そのせいで、この4日間は強烈だった。仕事を終えると、和彦に会う。そのままホテルに行って、求め合う。そんな日々を金曜日に初めてやって、週が明けて月曜と火曜と水曜にやった。

 腰が痛い。腹痛もある。少しの裂傷と出血も。普段なら憂鬱の種でしかないそういった事実も許せた。だって今日も和彦とは会うのだから。ユーコは今日、学校の仕事はそこそこで切り上げて、メガネを新調しようと思った。



 ユーコは朝に思った通り、仕事を定時で上がった。和彦との待ち合わせ時間には、そうしないと間に合わなかったからだ。これで再会してから4日連続で定時に帰ることになる。その分の仕事は積み上がっていて、明日の金曜日は、深夜残業は避けられないだろう。でも、それは何とかなると思った。深夜残業は、どうせ慣れっこだ。

 待ち合わせの前に、ユーコは眼鏡屋に向かった。手に取ったのは、セルフレームのメガネだ。赤、ピンク、黒。仕事場で使うには派手だと思ったが、すぐに休みの日に使えばいいと思い直した。だったら、もっと派手な色でもいい。

 ユーコは眼鏡屋を出て、町を歩いた。まだ和彦と会うには時間はある。定時上がりの会社員に、放課後を過ごす学生に、お年寄りに、子どもに、たくさんの色んな人が歩いている。ずっと気が付かないだけで、今までずっとそうだったのだ。けれどユーコには、その光景が新鮮に見えた。だからユーコは気になった。

 自分はいい方向に変われた。明るくなれた。日々が楽しくなった。和彦と出会って。それは間違いない。けれど、自分はそもそも何故に彼を好きになったのだろう?

 ユーコは新任の教師だった頃を思い出した。新人で右も左も分からないのに、同僚からは仕事が飛んできた。上には叱られて、すぐに増えた下の面倒を見た。今とはまったく状況が違って、毎日ずっと疲れていた。生徒に愛着を持つヒマすらなかった。でも、少しだけ楽しくはあった。やることがあったから。子どもの頃は誰からも何も言われなかった。それが社会に出ると変わった。絶対に人と関わらなきゃいけないし、やらなきゃいけないことができた。山のような仕事は確かにキツかったけれど、何もやることがないよりはマシだった。どこかで満足していたし、社会に出るまで知らなかった優越感と自己肯定感を持てた。自分は、ちゃんと仕事ができるんだ。遊んでいる連中とは違う。特別な人間なのだと。

 そんなある日、和彦が告白してきた。彼のことは知っていたけれど、数いる生徒の中の一人でしかなかった。けれど告白された途端に、和彦のことが好きになった。自分を必要としてくれる、自分を特別だと思ってくれる。そういう人間と出会えたことが嬉しくて――

 「あれ?」とユーコは声を出した。そして雑踏を歩きながら腕を組み、考える。

 「私は好きだと言って貰えたことが嬉しかった。それで和彦を好きになった」この考えの次に浮かんのだが、「だったら、和彦じゃない人間に好きだと言われていたら、断っていただろうか?」自分の中に勝手に浮かんできた疑問だった。その質問にユーコは即答できなかった。その代わりに、答えではなく、「『もちろん、和彦以外じゃダメだ』と即答すべきだ」という、義務感めいた想いが浮かんできた。

 ユーコは、立ち止まった。

 「ん? 私って……」そう心の中で呟く。自分の価値観・意識が、根本的な部分で転倒しているように思えた。思考が、ユーコを裏切ったようにも。それはすぐに「思えた」というものから、急速に「間違いない」に変わっていき、「気が付いてしまった」という感覚まで辿り着く。

 「私は、和彦が好きなんじゃない。特別扱いされたことが好きなんだ」

 この答えがハッキリと浮かんだ途端に、世界がひっくり返るような、大きな揺らぎがユーコの中で起きた。

 自分は同じだったのだ。今日まで見下してきた者たち、恋愛にばかり関心を抱き、恋愛のことを神聖視する連中と。しかしすぐに「いや、違う」と思った。「むしろ、それ以下かもしれない。だって私は、相手は誰でもいい。ただ愛されて、チヤホヤされたいだけで、そうしてくれる相手なら、相手は誰だっていい」

 脳内で自分が思う自分のことを言葉にしてみる。

 「自分は、ただ愛されたいだけの人間」

 ユーコは街中のガラスに映る自分を見た。今朝は輝いて見えたはずの自分が、今は単なる寂しい人間に見えた。それに哀れで、滑稽だ。恋愛に夢中になっている連中を毛嫌いしてきた。恋愛を遊びとして楽しむ人間たちを穢れとして扱った。しかし自分はそれ以下だ。他人と自分は違うと思っていたが、自分の方が幼稚で未熟で、哀れな存在だ。だって自分は、愛されるだけで自分の全てを預けてしまうような人間なのだから。自分は単に孤独で、愛に餓えた承認欲求の塊なのだ。

 その時だった。

 「今日も、遅くなりそうでさ。ごめんね」

 知っている声が聞こえた。和彦の声だった。

 「うん。日付が変わる前には帰るから」

 和彦は電話をしていた。その内容が明確に聞き取れる。そして、ハッキリと見ることもできた。彼の薬指に光る、銀色の指輪を。

 「それじゃ、またね」

 電話を切った和彦が、こちらを向いた。ユーコは、自分がどういう顔をしているか分からなかった。



 「結婚したんです。去年のことですけど」

 いつものラブホテルのベッドに腰掛けて数分後、和彦が口を開いた。

 「そうなんだ」

 ユーコは答えた。

 「先生にフラれて、大学に行って、就職して、その職場で知り合って。そのまま結婚しました。いい人です。僕には、もったいないくらいの」

 和彦が俯く。かすかにタバコの匂いがした。

 「僕が、バカでした。先生を見た途端に、全部、全部、どうでもよくなった。指輪を外して、偶然見つけたみたいな顔して、先生に話しかけて、そのまま、こんなことになった」

 和彦が薬指の指輪に触れた。けれど何かをするわけでもなく、指は所在なさげに蠢いた。

 「それだけ先生は、僕にとって特別な存在だったんです。でも、そんなことは言い訳でしかないです。僕は最低なことをしたんですから」

 結婚指輪から、指がパッと離れた。そして和彦は立ち上がった。

 「帰ります。そして、もう二度と先生の前には現れません。せっかくまた会えたのに、最低な結末にしてしまって、本当に……ごめんなさい」

 そう言って和彦は深々と頭を下げ、部屋から出て行く。

 「待って」

 ユーコは、和彦の手首を掴んだ。和彦は、何も答えない。

 「待って」

 もう一度、同じ言葉を繰り返す。時間が必要だった。ユーコは頭の中で混沌とする意見を整理しようとした。溢れ出してくる自意識から距離をとって、出来る限りそれを客観的に言葉にしようとする。やがて――。

 「私は今のままで、それでもいい」

 それは、ユーコの結論だった。

 「私、ずっと一人だった。周りと違う特別な人になりたかったから。特別なことは、何もないのに。でも、特別な人になりたかった。誰かに特別扱いされたかった。チヤホヤされたかった。だから私は誰とも仲良くしなかったし、みんなを見下してた。そしたら、私はみんなと違っていられるから。特別でいられるから」

 そこまで言って、ユーコは笑った。

 「性格、ねじ曲がってるでしょ? 拗らせすぎでしょ? こんな人間、もう今さら普通に生きていくなんて無理だよ。だったら、私はこのまま行くところまで行く。このまま普通じゃない生き方をしていい。和彦くん、あなたは家庭を大事にして。だけど時々でいいから、私を特別扱いして。それでいいから」

 和彦は振り返る。驚きと困惑の表情で。その顔は高校生の時と同様に、ひどく幼く見えた。だからユーコは、諭すような優しい口調で伝えた。

 「そういうのは、イヤ?」

 和彦は答えなかった。その代わりにユーコを強く抱いた。

 その感触を全身で味わいながら、ユーコは思った。自分のような幼稚な人間には、このくらいの人間関係がお似合いなのだ。だって、もうこの人しかいないのだ。たとえその関係が間違っていても、手放したくないし、手放せない。こんな幼稚でねじ曲がった自分を愛してくれる人を――。

 バギグォォォ! ドスン! ゴオンォォォン!

 異音がした。そしてラブホテルの薄い壁を突き破り、白い軽トラックが突っ込んで来た。その瞬間、ユーコはハッキリと見た。軽トラのナンバープレートは666。運転席に座っている禿げかかった肥満体の中年男性を。

 そして、まず大きな音がした。それは体内に響いた軽トラとの衝突音だ。わずかに遅れて、ユーコは体中のあちこちから骨が折れる音を聞いた。同時に自分と和彦が宙を舞っていること、二人揃って軽トラに撥ねられたと理解した。

 すぐに床に叩きつけられると、全身に激痛が走った。和彦は白目を剥いて失神している。ユーコは、辛うじて目が開いた。けれど視界はグチャグチャだ。シンバルを振りかぶって叩いたような耳鳴りもした。

 「お前らぁ、すまんかったなぁ」

 軽トラから男が降りてきて、謝った。全裸で、だらしのない体をした男だった。

 「悪いなぁ。おじさんはこれが仕事やから、轢かせてもらったんやけど、本当にね、悪いと思っとるんちゃ。他にええ仕事あるんやったら、今すぐにでも転職したいくらいちゃ」

 ユーコには、軽トラ男が何を言っているか分からなかった。

 「けどなぁ、おじさんは、もうええ歳や。引き返すことなんて出来んのや。こんなおじさん雇いたがる企業がどこにあるか? マクドナルドで働けるか? 裸のまんまポテト揚げられるか? 無理やろ。やからよ、やからね、こうして軽トラであちこち突っ込まんといかんのちゃ」

 相変わらず男の意味は分からなかった。けれどユーコは、男が何を言いたいかは分かった。そうだ、何事にも引き返すことができない年齢というものは、たしかにある。自分はどうだろうか?

 「若いうちに、やり直しができるなら、やり直せよ。つぶしがきく仕事につけよ。そうやないと、おじさんみたいになるぞ。やりたくない仕事を、少しだけのやり甲斐を無理やり見つけて、ずっと続けるんちゃ。そんな人生で、それでいいんか? やめとけちゃ。僕はね、そう思うんですよ」

 そして男は軽トラに戻っていく。「ああ、そうだ」とユーコは思った。「やり直せるなら、やり直すべきで……」軽トラの男の言葉が頭をグルグル回る。そしてユーコは気が付いた。

 和彦は、最初に話しかけてきたときに指輪をしていなかった。指輪を外していたんだ。と言うことは最初から、わりと騙す気満々だったのではないか。セコい男だ。

 そこまで考えたとき、脳みそが強制的に意識を落とした。



 いつからか、ユーコは聞いた。暗闇の中に、男女のヒステリックな怒鳴り声を。

 「どんな気持ちか分かる? 分からないよね! 夫がラブホテルで女と軽トラに撥ねられて、その看病に来る妻が、どれだけみじめな気持ちになるか!」

 「今はオレを心配をしろ! 夫が死にかけたんだぞ! そういう話は後だろ!」

 「いいや、話するのは今だから! 骨が一本か二本、折れたんだっけか!? それだけで偉そうに患者ぶるな! こっちの女なんか、見てよ! 全身あっちこっちがバキボキで、ずっと気を失ってるんだからね!」

 その合間に、「まぁ、落ち着いて」「おっしゃる通りケガ人ですから」と、なだめる声がする。それらの声の種類を聞き分けられたとき、ユーコは目を覚ました。

 「和彦くん?」

 起きて最初の言葉は、それだった。そう言ってユーコはストレッチャーの上の体を起こして、周りを見渡した。まず、自分が病院にいると理解した。医者が周りにいて、自分の血まみれの体にあれこれ何かしている。そして自分のすぐ隣で、横になっている和彦を見つけた。その隣に立っている、顔を真っ赤にしている女性も。

 「ああ、無事だったの。そっちの女の人は、奥さん?」

 和彦は答えない。代わりに、その女性が答えた。

 「幸田美穂(こうだ みほ)です。その通り。これの妻です」

 美穂はそう言って和彦を指さした。そしてすぐにユーコの方に来て、彼女の頬に平手打ちを入れた。

 「どういうつもりです? 他人の夫に手を出して」

 ユーコは叩かれた頬に触れようとした。すると右腕が肘からグニャりと曲がっていることに気づいた。よく見ると足お膝から折れている。それらに気が付くと、痛みが襲ってきた。「うぅ」と呻き声をあげる。

 「聞いているんですよ。答えてください」

 救急隊が止めようとするが、美穂は止まらない。和彦は美穂の背後で、この世の終わりのような顔をしていた。

 「ごめんなさい。結婚していたことは、さっき聞きました」

 ユーコはそう言うと、和彦が「ちょっと、待って」と言いながら上体をストレッチャーから起こそうとした。すると美穂は憤怒の表情で彼の方を振り返り、

 「はぁ!? あんたさっき言ったよね!? あっちから誘って来たって!」

 そう怒鳴って、今度は和彦に平手打ちを入れた。救急隊員が止めようとするが、美穂はその手を振り払って、和彦の胸倉を掴む。

 「あっちから誘ってきて! 妻がいるって断って! でも、あの女が言うことを聞かなくて、迫ってきたって! そういう話をしたよね!?」

 美穂が怒鳴り、和彦の胸倉をつかんで激しく揺さぶる。ユーコは状況が掴めず、ただただ呆然とその光景を見た。

 「違うんだよ! あっちから来たんだ!」

 和彦が怒鳴る。その口から唾と、わずかな血が飛ぶ。

 「そう! あくまでそう言い張るわけね! どう!? そっちのあんたは!? こいつはこう言ってるけど、あんたはどうなの!?」

 ユーコは全てがどうでも良くなるのを感じた。すでに和彦はどうでもよかった。和彦じゃなくていいのだ。自分を特別扱いしてくれれば、相手は誰でもいいのだから。もちろん和彦でも良かったのだが、

 「あいつはちょっと心がおかしい! 美穂! オレを信じてくれ!」

 自分が置かれた状況が掴めるにつれ、和彦の方はダメなようだとユーコは理解した。和彦は、自分を特別扱いしてくれないようだと。ついでに思い出した。自分と再会した時に、結婚指輪を外して隠す、なんともセコいムーブをしていたことに。

 「答えられる!? こいつの言ってること、ホントなの!?」

 美穂にそう問われると、

 「いいえ、違います。和彦くんから私に声をかけてきました。妻がどうでもよくなるくらい、私が特別だってウソをついて」

 ユーコは答えた。ちょっとだけ悪意を込めた。「どうでもよくなるくらい」の箇所は、出来る限り意地の悪く、和彦を突き放すように発音した。

 「ふざけんなよ!」

 和彦が怒鳴った。唾と血と、ついでに歯の欠片が飛んだ。

 「そっちから来たんだろ! オレが嫌がってたのに、無理やり迫ってきて! オレはそれで断り切れなくて……」

 ユーコは、なんてくだらない男だろうと思った。自分を特別扱いしてくれない上に、こんなイイ加減なウソまでつくとは。

 「それ、全部ウソですよ。奥さ……いいえ、美穂さん」

 「黙れよ! てめぇは――」

 不意に、美穂がこれまでと全く違う声で叫んだ。

 「死ねテメェこらぁ」

 美穂の固く握った右拳が、和彦の顔面に叩き落とされた。「ぐえっ」と小さな声が出て、和彦は失神した。

 「お前、最低だな。もう黙ってろ。あと明日には離婚するわ。……で、そっちのあんた、こいつのこと、あんたも殴る?」

 いよいよヤバいと思った救急隊員が、美穂を羽交い絞めにする。「あんた、何言ってんだ!」「そっちのあんたも、真に受けるなよ!」などと怒号が飛ぶ。

 しかしユーコは殴ることにした。思い切り右拳を振り下ろして和彦の鼻を潰した瞬間、あの恋が成就したと錯覚して姿見の前に立ったときのような高揚感を覚え、さらにこうも思った。

 今の私は、きっと綺麗だ。だって、やり直すと決めたのだから。生き方も、考え方も、何もかもを。あの軽トラで突っ込んで来たおっさんは無理らしいけど、自分はそうできる。だから私は――。

 

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