金玉ねじ切り虫と、思春期の少年


 イゴールは、弱虫と呼ばれることが何より嫌だった。「弱虫」「臆病者」「情けないやつ」そういう言葉が大嫌いで、記憶にある限り最初にムカついたのは、父親の吐いた一言だ。彼はリオのファベーラ(スラム街)で育った。この場所ではよくある話で、父はろくでなしだった。麻薬と酒に溺れ、ロクに働かなかった。母を性玩具の何かだと思っていて、イゴールの目の前で彼女を乱暴に扱った。まだセックスそのものを知らなかったイゴールは、ただただ母が暴力を振るわれていると感じ、父に猛然と立ち向かった。助けなくていけないと思ったのだ。

 イゴールは、その場で半殺しにされた。血まみれで倒れるイゴールを見下しながら、父は安物のカシャッサを飲み、落ち着いて、酒臭い息を吐いた。そして言ったのだ。「情けないやつめ」それは実際のところ血の泡をブクブクと吐くイゴールだけではなく、彼自身にも向けられた言葉だった。しかし幼いイゴールに、そのような意味まで嗅ぎ取ることはできなかった。ただただ純粋な屈辱のみが残った。だから彼は誓ったのだ。「このロクでなしに、二度と同じことを言わせてたまるか」。イゴールが父を刺し殺して森へ逃げたのは、14歳の時だ。父は最期に命乞いをしたが、すでに怒りを非情に変える術と、行動を起こす際に非情であることの重要性を町で学んだイゴールは耳を貸さなかった。母が覚せい剤の過剰摂取で死んでいなければ、違ったかもしれないが。

 イゴールは森に逃げた。ギャングの叔父の伝手だった。「森へ行け。まだお前の人生には上がり目がある。その唯一の手段だ」彼はきっとドラッグの精製でも手伝わされるのだと思ったが、待っていたのは違った仕事だった。アマゾンの希少動物を捕らえて、先進国の好事家へ売りつける、密猟の仕事だ。

 密猟の仕事は、イゴールの天職だった。違法で、度胸がいる。臆病者には無理な仕事だ。相手は文字通り話の通じない動物だ。神に祈るような輩には、毒蛇や肉食獣、毒虫の相手は務まらない。

 正直なところ、イゴールも最初は恐怖を覚えた。けれど彼には密猟者に必要な気性が備わっていた。恐怖と対峙したとき、恐怖を征服する姿勢だ。年月をかけ、力と知恵を蓄え、恐怖を忘れるのではなく、飼いならし、ついには支配し、征服する。父を超えた時の如く、彼はいくたの猛獣たちと対峙し、恐怖し、学び、これを狩った。食物連鎖の頂点に立つ肉食獣、羊を丸呑みする大蛇、一刺しで人間を殺す毒グモ。なんでも狩って、捕らえた。二十を超える頃、自分はジャングルの王だと感じた。「思った」のではない。感じたのだ。これまでの経験と知識、実力、周囲の羨望がない交ぜとなって、感じたのだ。

 そのイゴールが涙を流し、神に祈っていた。

 ――神様、どうか助けてください。これまでの全ての行いを懺悔します。悔い改めます。父を殺した罪を告白し、法の裁きを受けます。ですから、どうか、どうか、自分だけは助けてください。アイツが、この小屋を見つけないでください。どうか奇跡を起こして、この場所を、私を、あなたの奇跡の力で透明にしてください。

 祈りの時間は、奇妙な音で断ち切られた。ガヂガヂと音がした。アイツが齧っている音だ。彼が立て籠もっていた木造の小屋は、銃で武装した連中に襲われた際に、盾として使えるように作られていた。秒速数百メートルで飛ぶ鉄の塊を受けとめるために作られた壁が、見る見るうちに薄く、削り取られていく。

 イゴールは目を覆う汚れを拭った。それは仲間の血と汗と泥が混ざり合った不快な粘液だ。そして最期の勇気を振り絞った。拳銃を構え、数秒後に室内に飛び込んでくるアイツと戦う。それしか生き残る道はない。戦って、勝って、生き延びる。俺は弱虫なんかじゃない。

 そしてヤツが姿を現した。イゴールは恐怖から自分の睾丸と陰茎が、キュッと腹の中にめり込むのを感じた。それでも彼は、ソイツに銃口を向け、引き金を引いた。

 その翌日、男たちが人間の死骸を囲んでいた。異様な男たちだった。全員が裸になっていて、その下半身にぶら下がる一物は、天を突かんばかりに屹立していた。

男たちのリーダーは指示を出す。

 「お前ら、バイアグラが効いているからって、油断するな。死への恐怖ってやつは、たちまちキンタマを縮ませる。そうなったら終わりだ。こいつはそこに反応する。もし縮んだら、すぐにてめぇの手でまた大きくしろ。死にたくはないだろう?」

 続けてリーダーは、一番の若者に目配せをした。死骸を漁るソレを捕まえろと。

「コレに傷を一つでも付けたら死んでもらうからな? これは金の塊だと……いや、赤ん坊だと思え。丁寧に扱うんだ」

 リーダーの男にとって、今や真っ赤なへと変わり果てた甥っ子の死体はどうでもよかった。彼にとって大切なのは、甥っ子を食い荒らすコレだ。幸運だと感じた。彼は知っていたからだ。コレは滅多に現れないし、現れてもすぐさま消えてしまう。コレがこうして一つ所に留まっていることは奇跡と呼べた。

 ソレは弾丸を弾き返す強化プラスチックのケースに入れられた。捕らえる作業の過程で死者は出なかった。このことも奇跡と呼べた。

 男の指示で、小屋に火が放たれた。ソレによって裁断されたイゴールの肉体は、さらに小さな火の粉となり、満天の星空へ昇って行った。



 夏休み明けの教室には、いまだ夏の香りが充満していた。人の匂いだ。汗と、家から持ち寄った生活臭と、それらを覆い隠す制汗剤の香り。

 しかし倉田 太陽(くらた たいよう)は、異変を感じ取っていた。小学生の時から何度も体験しているはずの夏の香りに、変化が生じている。甘い香りが混ざっている。しかもそれは隣の席に座る、何から何まで見知っているはずの人物から漂っていた。香り自体は大した強さではない。しかし彼女からそういった匂いがすることが鮮烈で、ついついボーっと彼女を見つめてしまった。そのせいで、

 「どうかした?」

 彼女が、板垣 風子(いたがき ふうこ)が太陽に尋ねた。風子は席を立つと、太陽の机の前で中腰になった。そして彼の顔を真ん前から覗き込む。額と額がぶつかりそうになる。それは二人のあいだでは、幼稚園で同じ組だった頃から行われている、いつも通りの行為だった。夏休みが始まる前にも何度もやった、あまりにも慣れ切った日常の一部だった。

 けれど太陽は、ドキリとした。やはり風子から、これまでしない良い匂いがしたからだ。夏休み前まで、彼女からは自分と同じ14の少年の匂いがした。けれど今、目の前にいる彼女からは違う匂いがする。それに見た目も変わった。ずっと「長いと暑くて邪魔だから」と短くしていた髪を、耳がすっぽり隠れるまで伸ばしていた。眉毛も整えているし、薄っすらと生えていた口の周りのヒゲも消えているし、腕の産毛も消えている。

 しかし、こうした変化した箇所はたくさんあるが、太陽には、彼女のもっと根本的な部分が変わっているように思えた。だから太陽は風子に尋ねた。それにも今は少しだけ勇気が必要だった。夏休み前まで、どんな話でもズケズケと聞けたのに。

 「風子、お前さぁ、なんか変わった?」

 すると風子は呆れたように笑った。

 「髪型が分かりやすく変わってんじゃん」

 そう答えた。いつも通りの笑顔だ。

 「そりゃ分かるって。なんつーか、その、もっと、こう」

 言葉を考えるうち、太陽は気が付いた。

 ――そうだ、風子はオレが知ってる風子より、ずっと綺麗になっているんだ。大人みたいになって、綺麗になって、可愛くなっている。

 そう気が付いた途端に、胸が高鳴った。自分で勝手に思い至った言葉、「大人びている」「綺麗」「可愛い」それらの言葉が太陽の脳内に出現するや否や、

 ――いやいや、風子だぞ。っていうか、「綺麗」だの「可愛い」だの、オレはそういうのに興味ねーし。女子とか、恋愛とか、そういうの、関係ねーし。

 太陽はそう否定した。しかし、「女子」「恋愛」今度はその言葉が、彼の脳内にさらに大きな波を立てた。

 ――だから、待て待て。風子だって。そんな恋愛とか、そういう対象には見えねーし。単なる中のいい友だちだから。そういう対象には見るなんて、ありえねぇ……。

 「『もっと、こう』って、何?」

 風子に聞かれた。

 「ながっ」

 太陽の口から、意味のない言葉が漏れた。

 「何をテンパっとるんだね、キミは。あたしは髪型を変えたり、見た目がちょっと変わっただけ。そんだけじゃん。あんただって家で着る服は、小学生の頃とは違うじゃん? それと一緒よ」

 「ま、まぁ、そうだけど。なんで?」

 太陽はそう口に出したあとに後悔した。余計なことを聞いてしまったのではないか、と。

 「なんでって……ま、色々あったわけよ。夏休みのあいだにさ」

 そう言って風子は笑った。その笑顔も、これまで見たことがないものだった。ほんの少しだけ照れた、はにかんだ笑いだ。太陽は、しばらくぶりに「言外の意味を読み取る」という感覚を覚えた。祖母の葬式で「平気だから、あっちへ行ってなさい」と普段通りに笑った父を見て以来だった。風子は口に出さないが、たしかに言ったのだ。「変わった理由? それは詳しくは話したくないかな」。



 郷田 光太郎(ごうだ こうたろう)は昆虫マニアだった。二階建ての家の一階部分は、まるごと様々な昆虫の飼育場所にしてある。特に愛したのは甲虫の類だ。カブトムシ、クワガタ、オサムシ、カミキリムシ。それらは大きく、頑丈で、美しい。だから大好きだった。

 愛しているからこそ、飼育には細心の注意を払っていた。ケージ単位で温度・湿度は管理し、すべての個体の毎日の健康状態を、テンプレート化したチェック用紙に書きこむ。彼はコレクターとして、ある一点を除けば完璧だった。

 その一点は、強烈な収集欲だ。「手に入る」と分かった瞬間に火が点く。それが国際的に取り引きが禁じられている個体でも、関係はなかった。判断基準は法律でも良識でもない。入手できるか否かだ。そして手に入るなら、必ず手に入れる。それが光太郎という男だ。海外の愛好家ともコネクションを築き、怪しげな「仲介人」や「専門家」を相談してもらって、すでにそういった虫を何匹か買っていた。

 危ない橋を渡っている自覚はあったが、抑えきれなかった。やがてその感覚は開き直りへと変容し、ついには自信になった。「オレは特別なコレクターだ。そこらのマニアとは違う。愛はもちろん、経験も豊富で、危険を回避する術も知っている」

 自信はあった。経験もあった。だから、その橋を光太郎は渡った。

 あるブラジルの仲介人がオークションを開いた。光太郎はフェイクだと捉えた。そのサイトは何度か使っていたし、信頼性は高い。それでも信じられなかった。高級スポーツカーほどの値段で即決として出されていた、その商品の説明は、こうだった。

 「全長45㎝超のカミキリムシ」

 そんなバカげたサイズのカミキリムシがいるはずがない。世界最大のタイタンオオウスバカミキリですら、全長は成人男性の手のひら程度だ。17㎝か、大きくて20㎝前後である。その倍以上のサイズだ。ほとんど古代の昆虫だ。仲介人の話が本当なら、それは突然変異か新種だろう。そんなもの、あまりにも可能性が低すぎる。

 しかし、光太郎は見てしまった。

 数日後に仲介人はサイトに動画をアップした。そこには確かに、ソレが映っていたのだ。巨大で分厚いプラスチックケースの中にいる、黒い巨体を輝かせながら動く、六本足のカミキリムシが。

 「本物だ」そう呟くと同時に、光太郎は仲介人と連絡を取る準備に入った。

 そして三か月後、それはとうとう届いた。ブラジルからアメリカまで陸路で運び、アメリカから日本までは船だ。冷凍した牛肉に、強力なヒーターつきのケースを仕込み、その中に虫を入れて運ぶ。仲介人と光太郎は万全を期して挑んだが、それでも積み荷が死ぬ恐れはある。だから無事に届いたとき、光太郎は「勝った」と叫んだ。

 その光太郎が、冷たくなっていた。ブラジルから遠路はるばるやってきたソレに、睾丸を、すなわちキンタマをねじ切られたのである。

 光太郎は大金をはたいて手に入れた宝物に、「触れたい」という至極当然の欲望を抱いた。だから強化プラスチックのケースを開けて、じっとしているソレに触れようとした。仲介人からは凶暴だと聞いていたし、このサイズなら人間の命も危ういと思った。しかし目の前のソレは、おとなしく、静かだった。ついでに言えば、仲介人から聞いていたソレに触れる際の注意点、「直接、触るなら1時間前にはバイアグラを飲んでおけ」をすっかり忘れていた。

 ケースを開けた途端に、死体のようだったソレは恐ろしく素早く動いた。光太郎が尻もちをついて倒れると、すぐさま彼の股間に、成人男性の手ほどもあるハサミのような口を突っ込んだ。悲鳴をあげる光太郎を無視しして、ソレは野生動物の多くがそうであるように、何の躊躇も工夫もなく、力任せに彼の陰茎と睾丸をねじ切った。切断された陰茎と睾丸と共に、尿道、膀胱、それらに付随する筋肉、そして腸を始めとする内臓がズルズルと股間から露出する。光太郎はこの時点で激痛と、自身の内臓を目にした視覚的衝撃、そして大量出血のショックで絶命した。

 ソレは森の原住民から「悪魔」と恐れられる伝説の存在だった。

 しかしソレは実在し、稀に人々を襲った。

 ソレはアンモニアとタンパク質の味を好む。視力はほとんどなく、熱を感知して食物を得る。そして知っているのだ。人間の睾丸は、精子を作るために、体温が低くなるようにできている。だから人体の温度の低い箇所には、好物があることを。

 仲介人は、それをキンタマネジキリムシ=金玉ねじ切り虫と呼んだ。

 金玉ねじ切り虫は好物である睾丸を食らうと、窓ガラスを突き破り、日本の夏の空へ飛び出した。

 

 

 帰宅した太陽は、自室のクーラーをつけた。あれよあれよと言う内に、キンキンに部屋が冷えていく。彼は寒いくらいが好きだったし、今日は体を、その中でも特に頭を冷やしたかった。そして20℃まで下がった部屋で、彼はタオルケットにくるまり、深呼吸をする。落ち着いて、しっかりと考えたい。

 ――風子に何かがあった。この夏休みのあいだに。

 課題が出来上がった。するとまず、太陽の脳内にアイツが出現した。まがりなりにも14年間も生きてきた中で培われた、太陽の中の社会性・道徳・常識を集約した存在、周りのことを考えられる自分、理性太陽だ。

 理性太陽は言う。

 「風子に何かあった。風子が変わった。だからどうしたんです? あの子に何があっても、それは僕には関係ありませんよ」

 その通りだと思った。その通りなのに、納得できなかった。なぜ納得できないかを考えると、今度は太陽の大嫌いな男が脳内に出現した。近ごろ太陽の中で存在が大きくなっている。欲望と本能、好き勝手なことばかり考え、他人のことなんか考えない、本能太陽である。

 「いや、納得できねぇな。知りてぇ」

 そして理性太陽と本能太陽は、口論を始めた。太陽は自分の脳内で起きている、自分自身の葛藤なのに、ほどほど嫌気がさした。理性太陽と欲望太陽。この二つの存在がケンカを始めると、ひたすら厄介だ。そしてどんな結論が出ても、自分が分からなくなって、自分が嫌になる。小3くらいから出現したこいつらの厄介度は日に日に増していて、太陽はこの二人に消えてほしいと願っていた。けれど、その存在はここ最近、特にオナニーを覚えてからは、どんどん濃くなっている。

 「なぜ知りたいんです? 関係ないでしょうし、そもそも風子のプライバシーの侵害だ。聞かないでほしいと言っていたのに、無理に聞くのは失礼です」

 「『聞かないでほしいと言われた』? バカじゃねーの。それはテメェが勝手に察して、勝手にそう思っただけだろ。あとよ、『なぜ知りたい』ってのだけど、理由なんてねーよ。知りたいから知りたい、そんだけ」

 「『知りたいから知りたい』なんて、子どもじゃあるまいし」

「でも太陽はそういう人間だぜ。知りたいことは知りたい。やりたいことはやりたい。そうだろ、太陽? オナニーみたいなもんだ。やりたくなったら、やるんだ。風子のことだって同じだよ。気になるんだから、聞こうぜ」

 本能太陽の言葉に、太陽は自分の行いを振り返る。最近はその通りだった。18歳未満は禁止のコンテンツに触れている。自分を慰める行為の回数が増えている。ダメだとは分かっているし、自慰が終わったあとは酷い自己嫌悪に襲われる。それでも、やってしまう。本能太陽の言う通り、自分はそういう人間だ。やりたいことはやる。

 「性欲は生理現象です。性欲が高まって自慰をするのと、他人の個人情報に土足で踏み込むのはまったく異なる。違いますか、太陽?」

 理性太陽が言った。その通りだと太陽は思ったが、しかし納得できたのは本能太陽の言い分だった。「気になる」「知りたい」その想いだけで十分だ。それに風子とは、これまで気兼ねなく語り合えて来た。それくらい聞いてもいいだろう。

 太陽がそう結論を出したとき、理性太陽が言った。

 「そもそも、どうしてそんなに気になるんです? 彼女はあなたのものじゃない。ただの他人ですよ。他人の人生に干渉する権利はありません」

 太陽は、この理性太陽の発言をしごく真っ当だと思った。しかし、何故かこれにまで納得ができなかった。すると、今度は本能太陽が――。

「そりゃ風子を自分のものだなんて思わねーよ。つーか風子は、誰のものにもなってほしくない。風子は風子で、あのままでいてほしい。だってオレは――」

 本能太陽と理性太陽と太陽が息を飲む。ウソだろうと思う。自分の思い至った結論は信じられなかった。けれどその結論は、脳内でディスカッションする3人の自分全員を問答無用で納得させる強さがあった。

 ――オレ、もしかして風子が好きなの?

 太陽は風子と幼稚園で出会った。殴り合いのケンカもした。でも、すぐに友だちになって、一緒に遊んだ。虫を取ったり、追いかけっこをしたり。小5の時にはお揃いの釣り竿を買って、それから今まで月に一度は釣りに出かけている。ぜんぜん釣れなくても、それはそれで楽しいと思える。それが太陽にとっての風子だ。最高の友だち、そのはずだった。しかし……。

 ――え、好きなの? オレ、あの風子をそういうふうに見ているの?

 この場合の太陽の言う「そういう」とは、恋愛の対象という意味であり、同時に性的な視線のことを指した。

 不意に本能太陽が声を上げた。

 「そうだ、そうだよ! オレは、風子が好きなんだ! 風子と付き合って、エロいことしたいんだよ! オレがこんなに風子のことが気になってんのは、風子が夏休みのあいだに彼氏を作って、誰かに獲られてんじゃねーかって、不安だからだ! やっと分かった!」

 途端に理性太陽が反論する。

「一点だけ否定します。『エロいことがしたい』は訂正を。太陽が彼女を好きなのは認めますが、それは性欲とは直結しない。そのような下等で不純な想いからではありません。太陽、そうですよね?」

 2人の太陽が自分を見る。太陽は結論が出せなかった。どちらの意見にも納得したからだ。

 太陽は性の話が嫌いだった。同級生の男子たちは、その類の話をよくする。スマホに入れたエロ画像を見ながら「シコれる」「シコれない」と語り合う。クラスの女子を勝手に格付けして、見た目について自分を棚に上げて、あーだこーだと批評をする。太陽はそういう輪が心底嫌いで、口は出さないものの、下等な連中だと判断していた。自分がそのような目を風子に、大切な友だちに向けるなど決して許せない。

 しかし許せないと思いながら、同時に風子の細部が、異常なほど具体的に脳裏に浮かび上がってきた。取っ組み合っているとハッとさせられるほど、自分よりずっと細い手足。小麦色の肌。時おり見た引き締まった腹部。肉体のパ-ツが浮かんだところで、今度は風子の声が浮かんだ。すべてが揃った瞬間、妄想の風子が喋り始めた。

 「あたしさ、太陽が好き」

 その妄想の一言に、太陽はどきんとして、ベッドの中でバタバタと足を振った。

 一方で理性太陽は猛抗議をする。

 「本能太陽、やりすぎです。妄想の召喚は卑怯だ」

 「うるせぇな。せっかく自分の気持ちに気が付けたんだ。好きな人に欲情することは何も悪いことじゃねーだろ。」

 妄想の風子は太陽の寝ているベッドの中に入ってきた。そして耳もとで微笑みながら囁く。「あんたって、あたしのことが好きなの?」

 「太陽、こんな妄想はやめなさい。妄想はあなたが消えろと思えば、それだけで片付く。風子が好きなのはいいけれど、こういうのは良くない。あなたもそう思っているはずだ」

 「その通りだ」と太陽は思った。けれど、やめられない。このまま妄想に浸ってしまいたかった。目をつぶり、寝返りをうつ。すると妄想の風子は、鮮やかに目の前に出現した。夏の制服を着た彼女を、思い切り抱きしめる。

 ――好きだ。オレは、お前が好きだ。

 「あたしも」と答えて妄想の風子は笑う。

 その瞬間に体がかすかに、しかし確実に熱を帯び始めた。下腹部へ血が流れて行くのが分かる。太陽も自分を慰める行為は知っていた。いつもはただ漠然と刺激を与え、快感を得る。しかし今は、妄想の風子の指が、自分の一物に触れていた。

太陽はズボンとパンツを下ろし、それを握った。

 「これが最後の警告です」

 理性太陽が厳しい口調で言った。

 「やめろ、太陽」

 それは自分とは思えないほど冷たい声だった。太陽は閉じていた目を開く。すると妄想の風子は消えていて、太陽は見た。丸出しの自分の下半身。そして自分自身を強く握っている右手。見慣れているはずが、涙が出るほど情けなく思えた。同時に、

 ――オレは風子が好きだ。だったらやるべきことは、風子に告白することだ。勝手な妄想でオナニーをすることじゃない。

 「そうでしょうね」

 理性太陽が言った。

 「ケッ、バカ真面目かよ」

 本能太陽は嘲笑った。そのときだった。

 「助けてくれー!」

 叫び声がした。父親だ。続いて、

 「誰か―!」

 母親も叫んでいた。

 太陽は跳び起きた。そして下半身を露出させたまま、部屋を飛び出した。本来ならパンツはもちろん、ズボンも履く。しかし、それを許さないほどに、両親の悲鳴は切迫していた。今までの人生で聞いたことがないほど、激しく、恐ろしい絶叫だったからだ。「服を着る」という社会的な常識を裏切るほどの悲鳴に、太陽は反射的に反応した。そして両親がいる居間に駆け込み、叫んだ。

 「父さん、母さん! どうし……うぉぁぁぁ!?」

 見たことのない光景が、太陽の目の前に出現した。

 鬼の形相の母。激痛に苦しむ父。その父の股間に食いついている、全長45~50㎝のカミキリムシ。

 「こいつをどかして! 早く!」

 父が言った。その直後、

 ジャギン!

 植木ばさみが閉じるような音がして、太陽の父の陰茎と睾丸が宙を舞った。

 「うぎゃー! オレの金玉が、ねじ切られた―!」

 太陽の父はそう叫んで、気を失った。


 

 惨劇に、太陽は言葉を失った。父は血まみれの股間を押さえ、失神している。母は父を抱きしめ「目を覚まして」と叫ぶ。そして巨大なカミキリムシが、太陽の家の居間の中心で、今しがた切断した父の陰茎と睾丸をウジュウジュと咀嚼していた。

 ――なんだ、こいつ?

 太陽は自分の頭がおかしくなったのかと思った。こんな怪物が、何故、どうして、こんなところにいるのか? そもそもコイツは何なのか? 父の金玉をねじ切った、コイツは。

 「こいつは……金玉ねじ切り虫?」

 太陽がそう呟いたとき、金玉ねじ切り虫が答えるかのようにカチカチと顎を鳴らした。そして太陽は気が付いた。何故こんな怪物がここにいるのか? こいつはいったい何者なのか? そんなことはどうでもいい。今、最も大切なことは――。

 金玉ねじ切り虫は太陽を見た。次に有刺鉄線のような足が太陽の方へ向いた。

 太陽は駆け出した。同時に、金玉ねじ切り虫の鋼鉄のような背中が開き、薄い羽が高速で振動した。不快で巨大な羽音を響かせながら、金玉ねじ切り虫は一直線に太陽の背中へ向かった。太陽がその追撃をかわせたのは、彼が家の間取りを熟知していたからだった。金玉ねじ切り虫の前足が太陽の背に掛かる直前、太陽は角を曲がった。金玉ねじ切り虫は壁に衝突し、そのまま床に落ちた。その隙に太陽は、自分の部屋と駆けこんだ。

 太陽はドアを閉める。同時にドガンという衝突音がドアからした。金玉ねじ切り虫が再び飛び立ち、ドアに衝突したのだ。さらにすぐさま、ガジガジガジガジと、木を削れる音が部屋中に響き始めた。それが何を意味するか、太陽は察した。金玉ねじ切り虫が、あの巨大な顎と、鋭い足で扉の削っているのだ。あの巨体が通れる穴が開くまで1~2分もないだろう。

 太陽は部屋の奥へ這った。できるかぎり距離を取ろうとした。しかし、ドアとのあいだには最大でも2メートルほどしかない。

 ――窓だ、窓から逃げよう。

 太陽は窓に手をかけた。同時に、カチカチカチと顎を鳴らす音が聞こえた。扉に穴が開いて、そこから金玉ねじ切り虫が入って来ていた。扉は1分も持たなかった。

 ――終わった。オレ、死ぬ。

 太陽は生まれて初めて腰を抜かした。静かに、ゆっくりと、その場に崩れ落ちた。気を失ってしまいたかったが、それはできなかった。しかし、そのせいで生まれて初めての完全なる絶望と恐怖に直面し、気が狂いそうだった。

 ――なぜ、オレがこんな目に? 死ぬくらいなら、もっと色々やっとけばよかった! エッチなこともしたかった! いや、そんな贅沢は言わない! せめて風子に、この気持ちを伝えたかった……!

 「ですね。少なくとも、風子には告白しておくべきでした」

 「それな。エロいこと抜きに、風子には好きだと言って、結果を知りたかったな」

 「失恋しても構わない。ただ、この気持ちは伝えたかったですね」

 「ま、そういうこった。悔いが残る人生だったぜ」

 理性太陽と本能太陽も観念し、太陽の脳内で話していた。しかし太陽は大事なことに気が付いた。

 ――待て。オレは、まだ死んでいないぞ。

 「ありゃ? そうだな。何でまだ死んでねぇんだ?」

 「妙ですね。あの虫がさっきの勢いで来たら、僕たちはもう死んでますよ」

 太陽は金玉ねじ切り虫を見た。確かにやつは目の前にいて、飛べば一秒もかからず自分のところへ飛んで来る距離にいる。しかし、金玉ねじ切り虫は動かない。まるで目標を見失ったかのように、周りを見渡している。

 「オレらが見えてねーのか? なんでだよ? こんな目の前にいるのに?」

 「一般的に、昆虫の視力はあまり良くありません。あの虫は複眼ですし、恐らく視覚ではなく、もっと別の何かで僕らを追っていた。それが消えたのでしょう」

 そして理性太陽は理性太陽らしく、冷静に分析を続ける。

 「見失ったということは、状況は変わったんです。父さんが金玉をねじ切られた状況、さっきまで追いかけられていた状況、そして今の状況、違う点がある。それは……」

 不意に太陽はクシャミをした。寒かった。部屋の冷房は20℃に設定してある。

 「『温度』だ! 居間も廊下も、ここまで涼しくなかったぜ! やつは涼しいと獲物を見失うんだ!」

 本能太陽が言った。

 「それは少し違うと思いますね。涼しいからじゃなくて、室温と体温の問題じゃないでしょうか? 部屋の温度も、僕らの体も、同じ程度にキンキンに冷えています。仮定ですが、あいつは温度で獲物を検知していて、さっきまでは室温に対して体温が低いから、太陽を一直線に追えた。けれど、この部屋では太陽の体温が、室温にまぎれてしまった。恐らく、こんなふうに」

 理性太陽は、想像図を太陽の脳内に映し出した。映画やTV番組で見たサーモグラフィーの画像だ。冷たい部分は青く、熱い部分は赤く。あの画像で現状を説明したのだ。一面青の部屋の中に、青い自分が立っている。背景に溶け込むように。

 ――オレは見えていないってことか?

 太陽が思う。

 「恐らく、ですがね」

 「だったら逃げようぜ。窓から、さっさと」

 「いえ、それは危険です。窓の外は暑い夏です。真っ赤な中に、冷えた自分が出れば、すぐさま捕まる」

 「なるほど、だったらよ」

 「どうする気です?」

 「あの虫、倒そうぜ」

 「はあ? 何故ですか?」

 「だってアイツ、オレが見えてねぇんだろ? 窓からも逃げられなくて、ドアの外の廊下に出ても逃げられねぇ。だったら、殺るしかねぇだろ」

 「どうやって? あんな頑丈そうな生き物を、どうやって殺すんです?」

 「よく見ろよ。たしかに全身鋼鉄みてぇだけど、そうじゃねぇ部分が一か所だけある。あいつの目、あそこだけは違うんじゃねぇか。んで、目の奥には脳みそがある。目を突いて、そのまま奥にある脳みそを潰す。どうだ? ちょうどイイもんがあそこにあるぜ」

 太陽は見た。釣り竿がある。次に金玉ねじ切り虫の目を見た。たしかに、釣り竿ならば貫けそうな質感をしている。

 「無謀だ」

 「他に手があるのかよ?」

 理性太陽と本能太陽が言い合う。そのとき、太陽は思った。

 ――やろう。オレの手で、あいつを殺す。

 「よっしゃ! そうこなくっちゃな! こんなところで死にたくねぇ! 生きて終わらせて、風子に告白するんだ!」

 本能太陽は笑う。一方の理性太陽は、

 「了解しました。ですが、細心の注意を払いますよ。風子に告白するためにも、失敗は許されません」

 太陽は釣り竿を掴む。そしてゆっくりと、金玉ねじ切り虫に近寄る。

 「ゆっくり呼吸してください。緊張すると体温が変化しますし、さすがに大きな音をさせれば、気づかれる可能性もある」

 理性太陽が言う通り、足音をさせぬように、慎重に一歩一歩、金玉ねじ切り虫へ向かう。しかし近づけば近づくほどに、その異様な容姿の細部を観察できるようになるにつれ、太陽は恐怖を覚えた。

 「やべぇな、こいつは」

 本能太陽が呟く。その通りだと太陽は思った。表面は、鋼鉄そのものだ。黒く分厚い皮は、部屋の電灯を反射して輝いている。足の付け根、ちらりと見える腹の部分も真っ黒で、隙間なく全てが鉄に見える。それは蒸気機関車を想像させた。

 「殺される。マジで。失敗したら」

 心臓の鼓動が早くなる。そして陰嚢が縮み上がり、ギュッと体内に入り込む。

 「今さら弱気になって、どうするんですか? それより集中です。勝負は一瞬、目を刺した瞬間に、全体重をかけるんです。一気にやらないと……」

 そのとき、金玉ねじ切り虫が太陽の方を見た。それは顔を向けたのではなく、

 「おい! こっち見てるぞ!」

 本能太陽が叫んだ。太陽もそう感じた。金玉ねじ切り虫の動きは、ただ顔を動かしただけではなく、明確な意志を持った動きだった。「もしかして、お前はそこにいるんじゃないか?」という疑惑の視線だ。

 「なんで、こっち見てるんだよ! 見えてねぇんじゃなかったのか!?」

 「落ち着いて、考えるんです! 『温度』を基準に考えてください! 反応したなら、それはこちらの『体温』に異常があったから……まさか!」

 「何だよ!?」

 「『睾丸』です! 『睾丸』は基本的に他のすべての部分より、精子を作るために、他の部分より常に2~3度は低い体温を守っていると聞いたことがあります。つまりコイツは他よりも体温が低くて目立っている、僕の『睾丸』に気が付いたんです!」

 「キンタマが冷たいから、そこだけ目立ってるってか!?」

 このとき太陽の脳裏に再びサーモグラフィーの図が浮かんだ。冷たい部屋は、一面の青だろう。その中を動くキンキンに冷えた自分の体も青だ。しかし、その青の中に、もっと濃い青の玉が二つ、浮いている。

 「だったらつまり、キンタマの温度を上げりゃいいのか?」

 「そういうことです! 太陽! キンタマに血液を流し込んで、体温を上げる為です! 今すぐここで『自慰』をしてください!」

 理性太陽が言った。

 「できるかよ!」

 本能太陽が答えた。

 しかし、太陽は股間を握った。

 ――必ず生きる! 風子に告白するため、生きるためなら、何だってしてやる!

 太陽は思った。そして縮み上がった自分自身を右手で包み込んで、ゆっくりと上下運動を始める。もちろん動画も画像もない。しかし何でもいいから、とにかく興奮する何かを想像しなければ。目をつぶって、興奮する映像を思い浮かべる。

 風子の顔が、目の前に浮かんだ。

 「これだろうよ。好きな人なんだからな」

 本能太陽が言った。

 「彼女に告白するんでしょう? 上手くいったら、その後は、そういうことになるかもしれません。想像してみてください」

 理性太陽も言った。

 今や太陽の中に存在する2人の太陽、理性太陽と本能太陽は、まったく同質の存在になりつつあった。太陽の中に存在するアイロニーは、たった一つの想いのもとに、共闘することを選んだのだ。

 ――オレは、死にたくない。生き残って、風子に好きだって伝えたい。

 血が、流れ込んだ。太陽の右手の中で、それが少しずつ大きくなる。植物を種から発芽する光景を早送りしたような、ゆっくりとしたスピードで、それの形状が変化していく。縮み上がったウズラの卵のような形から、単3電池のような形に。

 すると、金玉ねじ切り虫が太陽から視線を逸らした。気のせいだったかと呟くように。太陽はその隙を見逃さず、一物を左手に持ち替え、右手で釣竿を構える。そして金玉ねじ切り虫の目を見た。真っ赤で巨大な複眼。ガラス細工のようで、しかしハッキリと貫けると確信できる質感だった。

 太陽は静かに、釣竿を畳んだ。四段階まで伸ばせるものを、二段階にした。長さは40から50㎝ほどだ。そんな釣竿の先端を金玉ねじ切り虫の目に向けると、全体重をかけながら突進する。

 ずぶしゅ! 

 生まれて初めて聞く音がして、釣り竿は深々と金玉ねじ切り虫の目に突き刺さった。同時に、金玉ねじ切り虫は狂おしく暴れる。しかし太陽は釣竿を手放さない。全身を使って、さらに奥へ、奥へ、金玉ねじ切り虫の頭部の中に、釣竿をねじ込んでいく。しかし金玉ねじ切り虫は止まらない。太陽は、まるでジャイアントスウィングをされているように、部屋中を振り回される。本が、机が、椅子が、丸テーブルが、ベッドの柵が、体のどこかにブツかる。鈍い痛みと鋭い痛みが、体のあちこちで同時多発的に起きた。しかし、やる事は一つだ。物を突きさすための道具ではない武器で、金玉ねじ切り虫を貫く。そのために足を地面につけ、釣竿に体重をかける。かけ続ける。やがて手応えに変化が起きた。竿で感じる肉の層の質が変わった。柔らかく変化したのだ。

 ――脳みそだ!

 瞬間、太陽は思い切り釣竿をかき回した。グチャグチャという手応えがして、途端に金玉ねじ切り虫の動きが止まった。そして、

 力なく、金玉ねじ切り虫が崩れ落ちた。そのまま裏返り、ピクリとも動かない。太陽が釣り竿を引き抜くと、グニャグニャに変形していた。そして釣り竿はもちろん、太陽自身も、全身が金玉ねじ切り虫の体液まみれになっていた。

 「……やった! やったぜ!」

 倒れた怪物を見て、太陽が本能のまま歓喜の声を上げる。しかし次の瞬間に、自分がどれだけ危険なことをしたのかを理解して、彼はその場にヘナヘナと座り込んだ。足が震え、全身から汗が噴き出した。呼吸ができず、苦しくなった。

 「本当に、僕が、生き残れるとは……」

 正常な呼吸を取り戻すまでの数十秒の沈黙。その後、ふと太陽は気が付いた。本能太陽と理性太陽の声が聞こえない。これまで嫌でも何処かから出てきて、勝手に口論を始めていたのに。今は二人とも、綺麗さっぱり頭の中から消えていた。

二人がどこへ行ったかは見当もつかない。だが太陽は、ひと言だけ呟いた。自分自身に向けて。自分の中の何処かにはいるはずの、自分を苦しめ悩ませた意識に対して。

 ――ありがとな。どっちも大事な僕だよ。今だって、どっちかがいなかったら、生き残れなかった。

 太陽は、風子に告白をしようと決めた。だがその前に、男性器が宙を舞った父を助けなければ。

 

 6

 

 事件から数日のあいだは、大変な騒ぎになった。未確認の巨大昆虫が人を襲ったのだ。太陽は警察に拘束され、あれこれと話を聞かれた。

父は物凄く落ち込んでいた。しかし「オレのちんちんの仇をとってくれてありがとう」と冗談めかして言う父を見て、初めて父の凄みを知った。尊敬すら覚えた。そんな父と「病院で、いい大人が『ちんちん』なんて言わない」と冗談めかして叱る母を見て、この人は本当に父のことが好きなのだなと思った。

 事件から三週間後。ようやく太陽の身の回りが落ち着き、登校が許可された。太陽は真っ先に風子を呼び出し、思いを告げた。「好きだ。付き合ってください」と。

 結果は失敗に終わった。風子は夏休みのあいだに彼氏ができたそうだ。加えて太陽のことは、あまりにも仲が良すぎて、恋愛の対象として見ることができないとも言われた。ショックは父親の男性器が目の前で切断された時より大きく、「ありがとう、それじゃ、またな」とは伝えたが、その時に自分がどんな顔かも分からなかった。

 太陽はまだ惨劇と激闘の香りが残る家に戻ると、ベッドに転がり込んだ。裸になり、クーラーを全開にして、タオルケットにくるまった。我慢していた涙が出た。一度、流れ出し始めると止まらなかった。そのまま太陽は泣いた。ただただ泣いた。やがて泣き疲れ、寝た。そして12時間ほど眠り続けて、太陽は目を覚ました。日付は変わって土曜日。午前5時。両親はどちらも病院にいる。涙は止まっていて、代わりに腹が減っていた。

 「腹って、本当にどんな時でも減るんだなぁ」

 太陽はそう思うと、冷凍庫のラザニアをチンして食べることにした。

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