道を違えて大人になった2人と、初恋の記憶と、軽トラ突撃男


 拓城 良太郎(たくしろ りょうたろう)は疲れていた。帰りの電車の中で、動画を見ていた。大好きな漫才師のネタだ。何度見ても笑えるはずのネタなのに、今日はピクリとも笑えない。それくらい疲れていた。何よりも喉が苦しい。食道にラムネのビー玉みたいなものがあるようで、正常に呼吸ができない。

 すべては今日の職場の会議のせいだ。今日、良太郎は会議で負けた。周囲から「もう黙ってろ」と無言の圧力で口を塞がれ、吐くべき言葉を飲み込んだ。それがビー玉となって喉に詰まっている。

 良太郎が務めるのは、アプリの開発会社だ。営業が取って来た仕事の通り、アプリを開発する。良く言えば、なんでも作る。悪く言えば、節操がない会社だ。案件のたびに求められるスキルが変わるので、社員の入れ替わりは激しい。

 そんな会社で良太郎が会議に上げたのは「業務連絡をLINEでするのをやめて、社内掲示板だけで完結させましょう」という、ごくごく普通の提案だった。一部の社員がLINEでトークグループを作り、そこで仕事の話をしている。「個人のスマホで企業の情報をやり取りする」これは情報保護の観点から問題があるが、何よりそのグループに開発スタッフ全員が入っていなかったのだ。当然、グループに入っている人間と、入っていない人間のあいだには情報の差が出来て、現場の足並みを乱していた。

 しかし良太郎の提案は、全会一致で否決された。いわく「社内掲示板一つに頼るよりも、フレキシブルに対応できる」「グループに入っていないスタッフがいる件は、そのスタッフの周囲からの信頼度が足りないのが悪い。逆に言うと、グループを設けることで、そのグループに入ろうと、コミュニケーションを促進する材料になる」。

 ――みんな死ね~!

 良太郎は叫びそうになった。そんな怒りに任せて反論しようとした。しかし、あの視線を浴びたのだ。「もう黙ってろ」その視線を一斉に向けられ、彼は全てをグッと飲み込み、「了解しました」と頭を下げた。知っていたのだ。思うがままに怒りをぶちまけるなんて、社会人失格だと。ここで堪えるのが大人というものだ。

 そんな夜の帰り道、良太郎はコンビニで酒を買うことにした。こんな喉のつまりを解消するには酒が一番だ。缶ビールと、カップ麺と、おでんも買った。

 そしてコンビニを出るとき、一組の少年少女とすれ違った。中学生くらいのカップルで、ゲラゲラと笑い合っていた。何故、そこまで笑っているかの理由は分からない。けれど笑う気持ちは良太郎には分かった。笑っている理由は、大したことじゃないのだ。幼い頃は、些細なことで爆笑できる。好きな人と一緒だと、なおさらだ。

 ――羨ましいなぁ。あんなに笑えたの、最後はいつだろう?

 そう思った時、良太郎の脳裏に中学2年の冬の景色がよぎった。

 対向車線のランプ。原付バイクのエンジン音。全身を通りすぎてく冷たい風。初恋の相手の背中。そして夜風と共に千切れ飛んでいく、自分と恋人のバカ笑い。

 口もとが緩むが、すぐに記憶を振り払う。この思い出に浸れば、惨めになるだけだと思った。三十路に近い男が、中学時代の初恋の思い出にすがるなんて。

 良太郎はスマホでSNSを開く。ついでに缶ビールも開けて、家に向けて歩き出す。

 活発にタイムラインは流れてゆく。自分と趣味の合う人たちが、好きな話を好きなようにしている――と、流れてきたニュース記事の見出しが視界に入った途端、

「はぁ!?」

 良太郎は怒鳴った。ニュース記事の見出しには、こう書いてあったのだ。


 「東京××区で強盗。警察は逃亡中の容疑者、角口 燐を指名手配」

 

 不意に強い風が吹いて、冷たい空気に頬の皮膚がピリついた。その痛みは、先ほど振り払ったはずの思い出を再び呼び戻す。初恋の相手、角口 燐(かどぐち りん)と過ごした日々だ。



 その日、良太郎は殺されると覚悟した。けれど殺されず、愛の告白をされた。

 中学二年生、梅雨明けの日。校舎裏。降り始めた蝉しぐれ。2人きり。愛の告白。

良太郎は自分が青春映画の世界にいるように錯覚した。けれど同時に、大きな問題もあった。目の前にいたのは男だった。しかも彼とは今日まで何の接点もない。むしろ彼の存在を恐れていた。そんな男が告白してきた。同級生の角口 燐だ。

 「お前が好きだ」

 告白された途端、良太郎の頭は、混乱状態に陥った。情報が多すぎる。まずは男同士だ。それに燐と自分は真逆の人間だ。自分は典型的な陰キャで、向こうは典型的な不良。なぜ告白されるのかも分からない。

 ただ一方で、こうも思った。自分も男性にしか興味がない。これまで好きになったのは、男ばかりだ。それに顔だけで言えば、燐は単純に物凄くカッコいい。眉毛がないのに、それが様になって見える。どストライクの顔ではあった。

 「返事、聞かせろよ」

 燐がドスのきいた声で言った。良太路は頭を高速回転させながら答える。しかし、回る脳みそからは不要な言葉ばかり飛び散って――

 「ちょっ、ちょっと待ってくださいね! ステイ! ステイ! ……なんちゃって。あっ、えっと、いや、今のはね、『ステイ』っていう犬にかける『待て』の指示を思わず人間相手に言ってしまったというギャグで、ぼくの動揺をね、ユーモアを交えて表現しているわけです。フヒッ、どうです? 面白いでしょ……」

 「真面目に答えろ」

 燐は一切笑っていなかった。やらかしたと良太郎は焦り、ますます口数は増える。

 「あ、いや、面白……くはないですね。ごめなさい。場を和ませようとして、アイスブレイクっていうの? ぼくなりに、配慮をしてみたんですよ。フヒヒヒ……スゥゥ、ハァァ~~。ちょい待ってください、お願いします」

 「おう」

 良太郎は深呼吸をする。自分を分析しながら、次に打つべき最善の一手を考える。

 ――ぼくは、喋りすぎるタイプのコミュ障だ。口を開けば余計なことしか言わないだろう。ゆっくりと、考えて喋るのが正解だ。

 という結論が出るまで、3分が経った。

 「……おい。ペチャクチャ喋ったと思ったら、急に黙って、なんだよ?」

 沈黙を破った燐の声に、良太郎は

 「待たせてごめんなさい」

 ゆっくりと答えた。いい調子だと思った。このまま、余計なことを言わず、しっかりコミュニケーションを取ろうと思ったが、口はアッサリと彼の脳を裏切る。

 「あのさ、でもさ、ぼくだよ? ぼくがどんな人間か分かってる? ぼくは、ほら、陰キャだよ。運動神経も悪いし、顔も良くないし、成績も中の下で、人間的にも面白くはないよ。いや、面白さに関しては色んな観点があるから、一概には言えないか。でも今の時代のメジャーなタイプの笑い、たとえば吉本的な『はい、ここで笑ってください』と笑いどころへ誘導するタイプのお笑いはできな……」

 良太郎はヤバいと思った。また余計なことで話が長くなっている。不意に燐が、校舎の壁を思い切り蹴った。ゴンという鈍い音が、良太郎の言葉を止める。

 「お前が好きだ。で、お前は? 『はい』か『いいえ』で答えろ」

 燐の眉毛の部分が吊り上がり、切れ長の目が更に鋭くなる。

 良太郎の足がガクガクと震え出した。燐のことが怖かった。元から怖かったのに、今はもっと怖い。震えてしまって言葉が出てこない。それにこれまでのわずかな会話の中で、やらかしすぎた。これから何を言っても、状況を悪化させる気がする。

 そのとき燐が絞り出すように言った。

 「オレだって、恥ずかしいんだよ」

 燐は両手で目を覆って、天を仰ぐ。

 「こういうの、慣れてねぇ。人を好きになるの、初めてだから」

 そう言ってから、燐が俯き黙った。

 良太郎は、信じられなかった。燐はこんな顔をしないと思っていたからだ。

 前に一度、燐の態度に逆上した教師が、彼の金髪を掴んで、体育館の床にブン投げたことがあった。凄い音がして、クラスメイトも、投げた本人の教師も、「やりすぎた」という顔をした。しかし、燐は無表情だった。かったるそうに立ち上がると「終わりっすか?」と低い声で尋ねた。その態度に圧倒された。自分と全く違う生物と出会ったように。

 そんな燐が、目の前で顔を真っ赤にして俯いている。

 「気持ち悪いでも、嫌いでもいい。答えが知りてぇ。頼むわ」

 そう言って、また燐は頭を下げた。同時に、ぽつりと雫が一滴、コンクリートの地面に落ちる音がした。

 良太郎の震えが止まった。しっかりしなきゃいけないと思った。ほんのさっきまで、燐のことは自分とは全然違う生き物だと思っていた。怖くて仕方がなかった。でも、違うのだ。燐は怖がっている。だったら、自分だけ怖がってはいられない。

良太郎は、ゆっくりと喋る。

 「ま、まず一つ。ぼくは……これ、あんまり他言無用なんだけど、まぁ、ぼくも、女子に対してエロい気持ち……性的にどうこうって気が起きない」

良太郎はいい調子だと思った。少し長くなったが、さっきよりはずっとマシだ。けれど、その言葉を聞いて、一歩、燐が前に踏み込んだ。

 「それって……お前も、女じゃなくて、男が……」

 また脳が混乱しそうになる。良太郎は慌ててパーにした両手を前に突き出した。「待って、落ち着いて」というジェスチャーをしたかったが、距離感が狂った。おまけに燐が一歩だけ前に出ていたから、結果として良太郎は、燐の胸に両手を置く形になった。

 燐の体は熱かった。心臓の鼓動が手のひらから伝わった。鼓動が鳴っている。熱く、乱暴に。それを感じ取ると、

 ――あ、この人、緊張してる。

 そう思うと、恐怖がさらに薄れ、燐がずっと身近に感じられた。だから、

 「そうです。男の人しか、好きになれないです」

 物心ついてから今日まで、誰にも言ったことがないことを伝えた。しかし、それが良くなかった。

 ずっと隠していたことを口に出した途端に、数年間、引きずっていた足かせが砕け散り、体が天に舞い上がりそうになった。この日、この時、良太郎は初めてウソ偽りのない自分を白日の下に曝したのだ。今の自分なら何でも出来る。たった一言の告白で、そう思えた。ゆっくりと時間をかけていた思考が、再び暴走を始めた。彼の口はコントロールを失い、またしても激しく言葉をまき散らす。

 「で、でも! どうして、ぼくを好きになったの? きみなら、もっとイイ人がたくさんいるでしょうよ! そもそもさ、ぼくらって会話したこともないし! 正直、騙されているというか、ドッキリのような……ああ、そうだ! これ、ドッキリでしょう? ぼくは知ってる! 陽キャラの皆さんが、陰キャに告白してバカにするやつ! 今も誰かが撮影してて、ぼくをネットの玩具にする気だな! 分かった! 合点がいった!」

 言葉が止まらない。ありえない状況に説明がついたからだ。「この状況に納得いく説明は、ドッキリ以外にありえない」そう確信した良太郎は、ヒートアップする。細くて長い手足をワチャワチャ動かし、前髪を振り乱し、勢いで黒ぶちのセルフレーム眼鏡が飛んだ。

 「分かった、分かりましたよ! それが陽キャの皆さんのやり口ですからね! そうやって、ぼくみたいな陰キャをバカにするんですよ! 純情をもてあそんだ挙句に、デジタルタトゥーを他人の心と体に無断で入れる! それがお前らのやりかた――もがっ?」

 燐が一歩踏み込み、そのまま良太郎にキスをした。それは人生史上初のキスだった。唇が重なった途端に、周囲の音が消える。そして良太郎は納得した。どんな言葉よりも、遥かに納得できた。

 「ここまでしねぇよ。冗談で」

 唇を離すと、燐は言った。真っ赤な顔に、妙に満足そうな微笑みが浮かぶ。初めて見る顔だった。良太郎には、その燐の顔がたまらなく可愛く見えた。彼をもっと知りたいと思った。だから――。

 「好きだ。付き合ってほしい」

 燐の再びの告白に、良太郎は答えた。

 「ふっ、ふつつか者ですが、よろしくお願いします」



 燐と付き合い始めてから、良太郎は色々なことを知った。最初に知ったのは、燐が自分を想像以上に見ていたことだ。

 「燐くん。なんで、ぼくを好きになったんです?」

 7月の遠慮ない青空が、良太郎に疑問を口にする油断と勇気をくれた。燐は少し照れ、あのたまらなく可愛い笑顔を浮かべて答えた。

 「お前、いつも1人で本を読んでたろ。あれだよ」

 「どういう意味です?」

 「何となく、お前が本を読んでるのが気になってさ。『こいつ、いつも本を読んでんな』って。それでオレさ、本って、そんなに面白いのかと思って、気になって本屋で買ったんだよ。お前が読んでたやつ。そしたら、けっこう面白くて。最後までは読めなかったけど」

 「最後まで読めなかったんですか?」

 「難しい漢字が多かったから。でも、『あいつが読んでる他の本って、ひょっとしてもっと面白かったりすんのか?』って思って。お前が読んでた本、何冊か読んだんだよ。そしたら、最後まで読めた本が何冊かあった。面白いなって。それからだよ。お前が気になるようになって、気が付いたら、『ああ、こいつが好きだな』って、なってた」

 そう言って微笑む燐を見て、良太郎は彼の繊細さを知った。本を面白かったくらいで、人に恋をするなんて。素直に可愛いとも思った。

 こんなこともあった。

 風が冷たい10月の帰り道、燐は前髪を指先にクルクル絡めながら尋ねた。

 「オレの金髪って、似合ってる?」

 「燐、今さら過ぎない? 一年生の入学式の日からそうだったでしょう」

 この頃には、良太郎は彼に「くん」付けをやめていた。やめるように言われたし、やめたらシックリ来た。

 「どれだけ叱られてもそのままだから、とうとう先生の方が折れたじゃないですか。そんな金髪なんだから、『絶対に曲ないオレのこだわり!』みたいなもんじゃないの?」

 「まぁな。でも、オレは好きだけど。お前はどう思うか心配でさ」

 その答えに良太郎はドキッとした。「バカ」と小さく呟いてから、

 「はいはい、恥ずかしいこと言わない。髪型なんて、好きにするのが一番だよ」

 「いや。お前にカッコいいと思われなきゃ、意味ねーよ」

 恥ずかしそうに言う燐を見て、良太郎はますます彼が可愛く見えてきて……。

 「おい、良太郎。何をニヤニヤ笑ってんだよ」

 「いやいや、なんでもないですよ」

 笑ってごまかしたけれど、良太郎は燐が驚くほど純情だと知った。

 そして中学2年生が終わる頃には、一生の思い出も作った。燐がバイクの後ろに乗せてくれたのだ。

 雪が舞い散る中、燐は「除夜の鐘を叩きに行こうぜ」と言って、原チャリに乗るように言った。燐がちゃんと新品のヘルメットまで用意してくれていたから、良太郎は思い切って乗ることにした。

 生まれて初めて走った車道は、とても綺麗だった。バイクで風を切ると、冬の空気はさらに冷たくなる。けれど興奮で火照った体には、それが心地いい。すれ違う車のライトは、まるで流れ星だ。

 けれど、ふっと良太郎の頭を、ある疑問がかすめた。この頃には、もう思ったことをそのまま燐に伝えられるようになっていた。

 「ところでさ、きみって免許は持ってんの? というか中学生でとれたっけ?」

 燐はあっさりと答えた。

 「持ってねーよ。そんなもん」

 良太郎はさっと血の気が引くのを感じた。

 「ダメですよ! 法治国家ですよ、日本は!」

 怒鳴って、燐にしがみついた。

 「法律なんて関係ねーよ」

 「関係ありますって! 警察に捕まったらどうすんの!?」

 「逃げりゃいいじゃん」

 焦ったけれど、降りるわけにもいかない。せめて顔を隠そうと、良太郎は燐の背中に額を置いた。彼の背中は決して大きくないけれど、頼もしくも感じた。そして無事に除夜の鐘は叩くことができたけれど、煩悩が増えた気がした。

 でも、一番驚いたのは、一番知りたくないことでもあった。

 中三の夏の前、燐が「別れよう」と言ってきた。

 「理由を教えてよ」

 そう言って良太郎は初めて燐を睨んだ。もうこの頃には、彼とのあいだに何の溝もなくなっていた。笑うことも、怒ることも、自由にできた。

 「一緒にいれるのは、ここまでだ」

 燐が言った。その表情は、悲しそうな、しかし固い決意を感じさせる顔だった。

 「お前の進路は進学だろ? 普通に生きるんだ。でもオレは、中学出たら先輩たちの世話になる。だから、お前とは一緒にいられない」

 「それは……」と良太郎は曖昧な返事をする。彼は知っていた。この街で不良として生きる人間が「先輩の世話になる」のは、違法が前提の商売をするということだ。

 「お前、言ってたろ。普通に生きたいって。除夜の鐘を叩きに行ったときだって、警察に逆らうなって、ギャーギャー喚いてた。その通りだよ。お前は、そうやって生きた方が、きっといい。だから、別れようぜ」

 燐はそう言うと、良太郎に背を向けた。

 「ダメだ」

 良太郎は燐の背中に言った。途端に、頭に血が上り、言葉が脳から溢れかえる。けれど昔とは違った。燐とは自然に話してきたからだ。これまでそうしてきたように、気持ちを言葉に変えて、流ちょうに燐へ向けて投げかける。

 「ぼくは別れたくない。進学しようよ。どこの高校でもいいから。先輩たちの世話になるなんてやめてさ。普通に勉強して、普通に就職して、普通に一緒にいよう。それでいいだろう。勉強なら教えるし、今からでも頑張れば……」

 突然、燐が振り向き、遠のいた。良太郎は「何が起きた?」と混乱するが、すぐに自分が後ろに飛ばされたと気が付く。同時に、頬に鋭い痛みが走った。地面に倒れた拍子に、手に小石が突き刺さり、口の中には血の味が広がった。

 その痛みで、何が起きたか把握できた。燐に殴られて、自分が吹き飛んだのだ。

 「うるせぇよ」

 燐がそう吐き捨てた。

 「オレは好きな人でも殴れる。そんな人間が今さら普通に生きられるかよ」

 そして燐は、良太郎に再び背を向けた。

 「じゃあな」

 燐は立ち去っていく。その肩も、声も、かすかに震えていた。

 良太郎は立ち上がろうとした。燐を追いかけて、肩を掴んで、振り向かせて、「ふざけるな、こんなの納得できるか」と怒鳴り、燐が別れ話を撤回するまで、ボコボコにしてやると思った。

 しかし実際は、立つこともできなかった。良太郎は人を殴ったことがない。何より彼は納得してしまった。

 良太郎は知っていた。この北関東の小さな町で生きている人間なら常識だ。15年間、ずっと不良をやっていたら、もう取り返しがつかない。極々稀な例を除いて、そういう大人になるしかないのだ。そして普通の人間が普通に生きるためには、悪い連中と接点を持ってはいけない。良太郎は普通に生きたかった。だったら、ここで別れるのが正解なのだ。

 燐がやったことは、恋人を思う行動としては間違っていない。だから、良太郎はたくさんの言葉を飲み込んだ。振り向かせたかった。話したかった。別れるにしても、それでも最後に話をしたかった。でも、それはできない。もう終わったのだから。言葉を全てのみ込んで、彼は燐の背中を見送った。

 このとき良太郎は燐について、もう一つ知った。彼は優しい。たまらなく。それは、涙が止まらなくなるほどに。



 燐の指名手配を知って、良太郎は固まった。そのまま思い出の世界に浸ること数分、彼は重要なことを思い出した。スマホに燐の電話番号が入っていることだ。

 良太郎はSNSを閉じて、電話帳を見た。何度も機種変更をしていたが、幸いデータは引き継がれていて、燐の電話番号も登録されたままだった。

 良太郎は深く息を吸って、電話番号を押した。「この番号に発信しますか?」の確認が表示される。とにかく燐と話したい。無事でいるかを知りたいし、助けたい。警察に捕って、刑務所送りなんて絶対にさせない。そう思って画面をタップしようとした、そのとき、再びあの冷たい冬の風が吹き、良太郎の脳に瞬く間に冷ました。

 良太郎は指を止め、今この状況を整理する。

 燐は指名手配犯になっている。助けようと思ったが、その手段は思いつかない。むしろ助けようとすれば、自分だって共犯になってしまう。

 「そうか」と良太郎は呟く。分かったのだ。

 ――こうなるから、別れたんだ。ぼくらは。

 良太郎は電話帳をスワイプして飛ばした。自分は普通に生きている。中学から高校へ進学し、それなりの大学まで卒業して、都内の会社に勤め、平均程度の給料はもらえている。今も疲れてはいるし、会社に不満もあるが、警察には追われてはいない。すべては燐と別れたからだ。燐が別れ話を切り出してくれたからだ。

 もしも中学生のとき、燐と別れていなかったら? 楽しかったかもしれないが、ずっと燐と一緒にいた。恐らくは今この瞬間も。そうなったら自分も指名手配犯だ。

 良太郎はスマホの画面を切った。電話をかけることは出来ないと思ったからだ。今ここで電話をかけたら、燐が自分を殴った意味がなくなる。燐の優しさを裏切ることになる。そんなことは、決してできない。

 良太郎はスマホを閉じて、懐にしまった。そして小さく、良太郎は呟く。あの日、燐に伝えるべきだった言葉を。

 「さよなら、燐。ぼくもきみが、好きだった」

 初恋が、ようやく終わった。良太郎がそう思ったのと同時に――。

 グギャオオオン! という悲鳴のような音を立てて、何かが良太郎の方へ突っ込んで来た。それは良太郎に正面衝突する。衝撃で彼の体は「く」の字になって吹き飛び、そのまま空を舞って、コンクリート塀に激突した。

 「ぐっ、がぁ……」と良太郎が鈍い声を漏らしながら、冷たいアスファルトの上をゴロゴロと高速回転していく。彼の全身は切り裂かれ、あらゆる箇所の骨に激痛が走る。十数メートは吹き飛んだあと、ようやく回転が止まった。自分は今、道路にうつぶせになっている。そう自覚はできたが、それ以上は頭が回らない。強烈な頭痛がする。視界が急速に暗くなってゆく。瞼は開いているのに、目の前が闇に包まれる。

 その闇の中に、白い軽トラが見えた。その軽トラから男が降りてくる。

 軽トラ男は、どういうわけか全裸だった。さらに良太郎は、激しい耳鳴りの中で男の声を聞いた。

 「これも仕事やからねぇ。生活を支えるためにね、やりたくないことばっかやって、やりたいことをやる元気がなくなっていく。おじさんはね、最近、もうすっかりやりたいことがないんよ。単純に元気がない。物欲も、性欲も、食欲も、なんもかんも、歳を取れば減っていくだけよ。そして残り物を片付けるだけの人生になってしまったんよね」

 男は軽トラに再び乗り込む。

 「それでも腹が減るから。仕事をして金を稼がんとね。生きるためなんよ」

 そう言い残して、軽トラで走り去っていった。

 やがて良太郎の意識は闇の中へ落下を始めた。何も見えず、何も聞こえない。ただ意識だけがある。その意識も瞬く間に、暗くて、狭くて、深い場所まで落ちていく。もしも死ぬとしたら、きっとこういう感覚なのだと彼は思った。

 暗闇の中で、時間が流れていく。痛みはすっかり消えた。しかし、何もない。沈黙と闇だけに包まれる。わずかに残った意識も消えていく。眠りに落ちるように。死ぬのだと思った。このまま自分が消えてしまう。何もできなくなる。どれだけ頭にきても、悲しくても、悔しくても、世界に対して何もできなくなる。この暗くて狭くて深い場所にずっと留まり、意識が消えるのを待つ。それが死を受け入れることだと理解した。

 ――嫌だ。燐に、死ぬ前に燐に会いたい。

 かすかな、しかし強烈な想いが良太郎の中に芽生えた。同時に怒りが沸々と湧いてきた。それは最初こそ小さな怒りだったが、徐々にこれまでの人生で覚えた全ての怒りと連鎖反応を起こし、次々に爆発していく。いきなり軽トラに撥ねられた怒りと、ついさっきの会議での扱いの怒り、普段の生活での怒り、そして自分と別れた燐への怒り。すべての怒りが、軽トラに撥ねられたという事実を起点に大爆発を起こした。

 「待て待て! 見知らぬおっさんに轢かれて、『はい、おしまい』なんて! ぼくの人生、なんなんだ! 死んでたまるか! 言いたいことが山ほどあるのに! やりたいことだって、まだまだたくさんあるのに!」

 闇が薄れていくが、全身が痛み始めた。彼は自分に問う。どうしてこんな痛い思いをしているのだ? それは眠りたくないからだ。死にたくないからだ。死にたくないと願うほどに痛みは増していく。けれど死にたくないのだ。燐に会いたいのだ。どんな痛みを伴っても、やっぱりあいつのことが大好きだから。そこまで至ったとき、良太郎は自分がそもそも大きな間違いを犯していたと気が付いた。

 ――あのとき、別れたくなかった。燐を振り返らせて、こっちを向かせたかった。けれど、ぼくはビビった。そうだ、ビビったんだ。納得したんじゃない。燐にビビって、普通の道を外れることにビビった。もうビビらない。今度は、ぼくが――。

 そのとき、声が聞こえた。

 「はよ殺せや。あいつは指名手配犯で、しかもヤクザだろ。射殺すればいいのに」


 

 声が聞こえて、良太郎は目を覚ました。

 すぐに自分の状態は把握できた。ベッドに寝かされている。体のあちこちに包帯や絆創膏が付いていて、点滴も刺さっている。自分は軽トラに撥ねられて、病院に意識を失って寝ていたのだと理解した。

 そして、あの声が聞こえた。

 「殺していいんじゃねーの。ああいう犯罪者は」

 「ね、早くヤッちゃえばいいのに」 

 声の主は看護師や他の患者たちだった。良太郎は点滴を引きちぎり、痛みに耐えながら体を起こす。そして病室を出て、声のする方へ向かう。すると皆が揃ってテレビを見ていた。その画面には男が2人映っている。1人は拳銃を持って、もう1人は泣き喚いている。画面上の「生中継」「暴力団員が立てこもり」のテロップ。そして拳銃を握っている男は、

 「燐じゃないですか」

 立て籠もっているのは、間違いなく燐だった。中学の頃と変わっていなかった。眉毛が無くて、金髪で、顔がイイ。けれどその顔は恐れと怒りに歪んでいる。何事か喚いては、拳銃を人質のこめかみに突きつけている。

 「だからよ~。あんなヤクザ、さっさと2人とも殺せばイイのに」

 テレビを見ている患者の1人が言った。鶏の骨のように痩せ細った、中年男性だった。その男に良太郎は、

 「あ、すんません。おじさん、それ、本気でおっしゃってます?」

 そう尋ねた。

 「あ? なんだ、お前…!?」

 鶏の骨がケンカ腰で答える

 「あなた、あの人質を取っている人を殺していいって言いましたけど、本気で言ってるんですか? 犯罪者は法で裁くものでしょう。ここは法治国家ですよ」

良太郎が言った。皆、固まっていた。しかし少し経つと、鶏の骨が、我まさに代表者なりと言った様子で、首を突き出して答えた。

 「うるせぇよ。社会の底辺が迷惑かけてるんだから。死刑にした方が話が早い」

 良太郎は答える。

 「そうですか。そうきますか。話が早くても、やっちゃいけないことってあるでしょう。ややっこしくなっても、踏まなきゃいけない段階がある。でも、あなたはそれでもイイとおっしゃるわけですね。話が早くなるのが一番イイって」

良太郎は心で思ったことをスラスラと言葉にした。自分でも不思議なほど心地よかった。全身が痛むが、喉に詰まっていた何かを吐き出したようだ。

 「何だお前、気持ち悪い喋り方しやがって。話が早いのが一番だろうが」

 鶏の骨が言った。その途端、

 「了解です。あなたがそういう人なら、それこそ話が早い。だったらですね、ぼくも今は話を早くしたいから、法律を無視しますよ」

 すぐさま良太郎は鶏の骨を羽交い締めにした。左腕を鶏の骨の顎と鎖骨のあいだに滑り込ませ、ギュッと上方向に締め上げる。鶏の骨は「きゅっ」と悲鳴を上げた。

良太郎は鶏の骨の首を締め上げつつ、病院の受付に置いてあったボールペンを手に取ると、鶏の骨の耳の穴に突っこんだ。鶏の骨の「んぐほぉ!」という悲鳴が響く。

 「今すぐに救急車を用意してください!」

 良太郎の心臓が高鳴った。汗が体中から吹き出した。しかし頭は、不思議なほど落ち着いていた。そして鶏の骨は泣きながら良太郎に尋ねた。

 「おまえぇ、何する気なんだよぉ、こんな酷いことしてよぅ」

 良太郎は思ったことをそのまま答えた。

 「今すぐ、あそこに行くんですよ」

 良太郎の視線の先には、燐を映すテレビがあった。


 

 燐は、良かったと感じていた。八方ふさがり。どん詰まり。あとは死ぬだけ。後悔はない。クソみたいな人生に最愛の恋人を巻き込まずに済んだからだ。

 中学を卒業後、すぐに先輩のツテで半グレの一員として働き始めた。特殊詐欺に関わったり、強盗をやったり、大麻を育てたが、どれも燐には合わなかった。単純に上手く出来なかったのだ。詐欺は演技力が足りずに失敗して、強盗は最初の案件で下手を踏み、二度と誘われなくなった。結局、不良の世界でも成功するのは要領がいいやつで、彼はそうではなかった。ついに今年になって大麻を枯らして、これにキレて制裁を加えに来た先輩を、燐は半殺しにして逃げた。これからもずっと狙われるし、逃げ切れないとも分かった。どうせ殺されるなら、自分から行ってやると考え、半グレ組織の主であるヤクザの組長を仕留めに行ったのである。

 そして今、燐はヤクザの親分を人質に、二階の窓から下に群がる警察たちに吠えている。

 「近づくな! このオッサンの頭をブチ抜くぞ!」

 叫んでいるが、心は落ち着いていた。やることが決まっているからだ。思い切り派手に組長の頭をブチ抜き、自分の頭も撃つ。それで終わりだ。自分をアゴで使っていた連中に、思い切り迷惑をかけてやる。あとは自分とこいつを殺す勇気を振り絞るだけ――燐がそう思った、まさにその時、悲鳴が上がった。「止まりなさい!」「避けろ!」怒号をかき分けて、それは燐が立て籠もっているビルの一階の入り口に突っこんだ。救急車だった。

 暴走救急車は真正面からビルの自動ドアを突き破り、建物の柱に正面衝突した。雷が間近に落ちたような轟音と、地震で言うと震度4の揺れがビル全体を襲う。燐は転がりそうになったが、なんとか踏みとどまった。

燐は、すぐに窓から顔を出して警察を怒鳴りつける。

 「何をしてんだ! 車を突っ込ませるなんて、人質ブッ殺されたいのか!?」

今までずっと敬語だった警察が、怒鳴り返してきた。

 「知らねぇよ! こっちだって轢き殺されそうだったんだよ!」

 「はぁ? 知らねぇって……」

 すると、1人の男が怒鳴りながら、部屋に乗り込んで来た。

 「燐! やっぱきみ、燐ですよね!」

 そう怒鳴った男は、何故かボールペンが耳に刺さった、鶏の骨のような男をつれていた。現実離れした光景だったが、しかし燐は懐かしいと感じた。そこにいたのは、一日たりとも忘れたことのない男だったからだ。あれから何人も抱いたし、抱かれもした。けれど結局、そいつより好きな人には出会えなかった。

 「良太郎? お前……え? 何してんの?」

 燐は問う。人生でただ一人愛した男、拓城 良太郎に向かって。


6


 「燐! 自首! しよう!」

 良太郎が息を切らしながら叫んだ。燐はすぐさま怒鳴り返す。

 「ふざけんじゃねー! この状況が分からねぇのか!」

 燐は右手に握った拳銃をヤクザの親分の側頭部に押し付けた。肉に銃口がズブっとめり込むと、親分は「ひぃ!」と叫んだ。けれど、良太郎は怒鳴った。

 「知らないですよ! ぼくだって、頭に来てるんですから! ね!」

 良太郎は「ね!」と同時に、鶏の骨の耳からペンを引っこ抜いた。鶏骨は「ひょげっ」と声を上げて崩れ落ちた。ペンがON/OFFのスイッチだったかのように。

 良太郎は「ずるるる!」と鼻を啜る。「ああ、ちくしょう! 鼻水がスゲー出る! なんで、涙が、止まんないし!」そう言って鼻を何度も啜るが、鼻水と涙が止まらない。ここに来るまでの救急車の中では平気だったのに、無事に生きている燐を見た途端、涙が止まらなくなった。ほっとして、頭に来て、悲しくなって、喜怒哀楽が一斉に押し寄せてきて、処理能力の限界を超えた。それでも良太郎は叫ぶ。一番伝えたかったことを。

 「燐! ぼくは大事な話がある!」

 叫びながら、一歩、良太郎は前に出る。

 「おい近づくな! こいつ殺すぞ!」

 燐が怒鳴った。しかし、

 「だから知らないから! そんなやつ! それより、ぼくの話を聞いて!」

 良太郎は一喝する。ヤクザの親分は「冷静に! わしの命は大事だよ!」と叫ぶ。

 「中学のとき、ぼくはビビった! きみにも、未来の自分が、普通じゃなくなるのも!でも、あれは間違いでした! ぼくは、きみと別れたくない! 死にかけて……あっ! 鼻血が出た! ……ずるるる!」

 良太郎の真っ赤でドロドロの鼻血が止まらない。それに頭がズキズキと痛んでいる。脳の血管が切れたのかなと思った。けれど良太郎にはどうでも良かった。

 「死にかけて、やっと分かった! ぼくは、間違ってた!」

 叫ぶ良太郎に、燐は拳銃を向けた。

 「近づくな! お前からブチ殺すぞ!」

 「やってみろ! ぼくは!」

 一歩、良太郎は燐に歩み寄る。

 「もう! 絶対に!」

 さらに一歩、良太郎が踏み込む。燐の持つ拳銃の銃口が、彼の額に当たった。しかしそのまま、良太郎は腹の底から怒鳴った。

 「きみにも! きみとの未来にも! ビビったりしない! きみと、どこまでもいく!」

 すると燐は赤ん坊の涎のような、無防備な言葉を漏らした。

 「お前、おかしいのか?」

 刹那、人質のヤクザの親分が、数十年ぶりに喧嘩の才能を発揮した。彼は体を半回転させ、燐のわき腹に肘を叩きこむ。「うぐっ」と声を上げ、燐が体勢を崩し、手から拳銃が滑り落ちる。ヤクザの親分は、「バーカ! バーカ! このイカれZ世代!」と捨て台詞を残し、事務所から逃げ出す。燐は追いかけようと、体勢を立て直した。すると目の前に銃口があった。良太郎だった。

 良太郎に銃を突き付けられ、燐の顔から血の気が引く。

 「何のつもりだ、お前?」

 「燐、ぼくと……」

 良太郎が何か言いかけたとき、窓の下の警察が「人質は保護した! このまま突撃する!」と叫んだ。すると良太郎が窓から身を乗り出し、警察に向けて発砲した。

 「大事な話をしてるから! 黙ってください! ファック・ザ・ポリス!」

 弾丸はパトカーに直撃し、現場は大混乱に陥る。しかし誰よりも混乱したのは燐だった。

 「な、何をしてるんですか?」

 燐は思わず敬語になった。燐は犯罪の世界に身を置くことで学んだのだ。半グレ、ヤクザ、一般人は殴ってもいい。でも警察は別だ。警察に手を出すと大変なことになる。それなのに良太郎は、警察に発砲した。おまけに得意げに笑っている。

 「燐、ぼくを殴って言ったよね! 『オレは好きな人でも殴れる。そんな人間が今さら普通に生きられるかよ』って。ううん! 全然普通! ぼくは、こんなことができる!」

 良太郎は再び窓から身を出して、拳銃を乱射した。

 「かかってこい! 警察! あっ、警察といえば免許の更新! あれ、どの警察署でもできるようにしろ! もしくはコンビニと提携しろ! 分かったか!?」

 良太郎の放つ弾丸が、パトカーのボンネットに穴を開け、フロントガラスに砕いた。警察は「やめたまえ!」とスピーカーで叫ぶが、良太郎は止まらない。なおも絶叫しながら銃を乱射する。すると燐が良太郎に跳びついた。拳銃が宙を舞い、2人はもつれ合いながら床を転がった。

 「バカ野郎! 警察を拳銃で撃つな! 常識だろ!」

 「何が常識ですか! ぼくはね、キミと一緒にいられるなら、いくらでも狂える! ぼくだって狂ってる! きみと同じくらい、狂ってる! だって、ぼくは……!」

鼻血が良太郎の喉の中に流れ込んで来て、口の中が血まみれだ。言葉を放つたびに、真っ赤な血が燐の顔に散る。それでも良太郎は、流ちょうに喋ることができた。燐と付き合っていた頃のように。

 「ぼくは、きみが好きだ! きみがどこに行こうと、一緒にいたい!」

 そのとき燐の瞳から一滴の雫が落ち、良太郎の頬で弾けた。

 「……お前、何で今さらこんなことするんだよ? やるなら、中学のときに、あの時にしろよ。オレを殴って、引き留めてくれたらよかったんだ」

 「それは……ごめんね。でも、今からでも、やらないよりマシでしょ? それとも……」

 良太郎は、血をごくりと飲み込んだ。

 「ぼくのこと、嫌いですか?」

 燐は苦笑いを浮かべた。

 「バーカ。オレも好きなまんまだよ」

 けたたましい足音と共に、機動隊が乗り込んで来た。彼らは良太郎と燐を引きはがし、地面に押さえつけ、警棒でボコボコに殴った。けれど良太郎は見た。燐が笑っているのを。殴られている。腕やら足が、変な方向に曲がっている。それでも燐は笑っていた。すると自分も笑えて来た。自分も殴られているし、たまらなく痛い。それでも燐が笑っていることが嬉しくて、笑えて笑えて仕方がなかった。

 

 

 春の公園に、二人の老人がいた。

 「酒だよ、酒。良太郎、酒はねぇの?」

 「桜を見る楽しみを忘れないでほしいね。大学生じゃないんだから」

 「オレは中卒だよ。大学の話は分かんねー」

 すると髪を緑のモヒカンにした中学生が、その老人たちに走り寄った。

 「おじいさんたちって、警察相手に銃を撃ちまくった人たちでしょ? そっちのメガネの人は……ファック・ザ・ポリスの。俺、YouTubeで昔の動画を見たんです」

 すると、二人は「おう」「そうですけど」と答えた。途端に緑モヒカンの目を輝かせて、記念写真を求める。老人たちは笑顔で応じた。しかし「ファック・ザ・ポリス! 最高っすね」と緑モヒカンが言うと、

 「真似すんなよ。オレらみたいに何十年も刑務所で暮らすことになるし」

 「いや、いざとなったら撃つ根性はあった方がいいですよ。公権力の不正や冤罪を許さない気持ちは。それこそが真のファック・ザ・ポリスの精神です。大事ですよ」

 緑モヒカンは記念写真の礼を言って、何処かへ走って行った。そして2人は、

 「難しい話すんなよ。人は撃つな、でいいだろ?」

 「場合によっては撃ってもいい、が正解です」

 「お前、それはおかしいぞ。刑務所で反省しなかったのか?」

 「何も」

 「お前。つくづく思うけどさ、タチ悪すぎだぞ」

 「元ヤクザに言われたくないですよ。はい、それはさておき……乾杯しましょう。せっかくのビールがぬるくなっちゃいますよ?」

 「お、それはよくねーな」

 2人は乾杯して、350mlを一気に飲み干す。そして他愛のない言葉をいくつか交わすだけで、ゲラゲラと笑い合った。

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