余命一か月の彼女と、彼氏と、そして殺人カナブンと

 

 必要に迫られたとき、生物の進化は不自然なほど急速な速度で起きる。

 今、日本のとある地帯にてカナブンが急速な進化を遂げつつあった。

 カナブンは樹液や腐敗した果実を主な餌とする。しかし、その地帯では開発によって森林が消え、樹液が滴る木も、果実を枝から落とす木も、カナブンの生息域から消えてしまった。食物が消える。餌がなくなる。こうした環境の変化は、多くの場合、生物の絶滅に直結する。このままでは、この地に生きる我々は絶滅する。カナブンたちはそう悟った。

 しかし幸運にも、カナブンらは新たな餌を見つける。森に捨てられた人間の体だ。

開発工事の作業中に、事故で瀕死の状態に陥った彼は、「開発をスムーズに進めるために」と同僚たちの手で、まだ未開発の森の奥深くへ捨てられた。なかったことにされたのだ。そして、そこは残り僅かなカナブンたちの住む場所だった。

 カナブンたちは、死にゆく人間の肉を食った。果実とも樹液とも違う。しかし、その肉は栄養に満ちていた。カナブンたちは確信する。「やめろ、やめろ、俺を食うな」。か細い声でそう鳴くこの生き物は、自分たちの食糧難を解決する存在だ。たった一つの人間の体が、数千匹のカナブンらに新たな餌の情報を教えたのである。

 「この生物は、我々カナブンの食物である」

 その区域に生きる特定世代のカナブンたちはそう認識し、その認識は速やかに種全体に共有された。「人間は自分たちの食料」その認識を遺伝子に刻み込み、カナブンは繁殖する。さらに遺伝子は、認識に見合う新たな姿をデザインした。あの肉と噛み千切るために必要な、今よりもさらに強靭な前足と顎。「それを持たなければ、種が滅びる」脅迫めいた危機感が、たった一世代でカナブンの遺伝子を激変させた。

 そしてカナブンのメスは、一匹が百個近い卵を産む。

 2025年の夏。人間は食物だと遺伝子に刻まれ、人間を食物にするために最適化された数万匹のカナブンたちが、幼虫から成虫に変化し、飛び立つときを待っていた。遥か彼方から香る餌の匂い。あの人間という生き物の血の香りを道しるべにして。



 「ごめんけど、奇跡はありえないよ」

 工藤 美雪は言った。

 「治るなんてことは、絶対にない。どう転んでも、私はあと一か月の命なんだ」

 その言葉に、有田 太一郎は反論できなかった。そして沈黙が訪れる。幼稚園の頃から高2の今日まで、何度も何度もケンカして、そのたびに「チー牛女」とか「非モテ弱者男性」とか、もっと酷い言葉をぶつけ合った仲なのに。気兼ねなく悪意と皮肉に溢れた言葉を投げつけ合え、それが許される仲だったのに。今は美雪も太一郎も、お互いに溜息をつくことも遠慮し合っている。

 美雪は高2の春に病を患った。初めは頭痛だと思った。しかし痛みは酷くなる一方で、さらに腹部や手足まで痛み始め、歩く事すらできなくなった。病院に行くと、医者は検査後すぐに切り出した。「残念ですが……」そして美雪が患ったのは世界的に珍しい病気で、半年も持たないだろうと言われた。すぐさま入院して、検査を受けて、可能な限りの治療も受けた。それでも体は見る見るうちに痩せ細り、全身を襲う痛みはますます酷くなる。今は痛み止めを使わなければ、会話も難しくなり、杖を使わないと歩くこともできない。

 美雪は、病室の窓の外を見た。憎たらしいほど青い、夏の空だ。去年までは、この空の下を歩き回っていた。太一郎と「クソ暑いよ~」「オレに言うな、運動不足女」「そっちも運動能力カスじゃん」などと話しながら。あの日々は、今や夢か幻のように思えた。

 「私、あと一か月しかないの。まだ動けるうちに、やりたいことがある」

 美雪は視線を窓の外から太一郎に戻した。やせぎすで、メガネをかけて、いかにもな非モテだ。見るたびに「自分が男になったら、きっとこんな感じだろうなぁ」と思う。三白眼の目には、性格の悪さが出ている。けれど、

 「教えてくれ。オレにできることなら、何でもする」

 太一郎は真っすぐと美雪を見据えて言った。ほんの少し前まで他人の目を見て話すことすらしなかったのに。もっとも、それは美雪も同様だったが。美雪もまた、太一郎の目を見て話すことなんて、まったくしていなかった。ほんの数か月前までは。

 「オレは、お前のためなら何でもするから」

 美雪を見る太一郎の視線には、一片の曇りもない。その視線に、美雪は二つの事を実感する。この男は、自分のことを心から愛してくれていること。そして、自分の命が尽き欠けていること。

 美雪は太一郎に言った。

 「ここから出かけたい。最期に、あんたと二人で。場所は……」

 「隣町のゲーセンか?」

 太一郎に先を越された。その通りだった。美雪は笑いたかったが、顔がその方法を忘れているようで、口もとがわずかに歪んだだけだった。けれど太一郎は、美雪が喜んでいるのを読み取って、だったらそれで充分だと思った。

 太一郎は美雪の思う通りで、ひねくれた性根の少年だった。普段は正論に唾を吐くのに、都合の良い時だけ正論に頼る。そして他人の悪口を言うのが大好きだ。たとえば、もしも他人が今の自分たちのようなことをしていたら、すなわち瀕死の状態なのに病院から出るような真似をしているのを見たら、まず間違いなく心の中で「死ぬ気かよ。おとなしく寝てろよ。つーか男も止めろよ」と呆れただろう。美雪も同様だ。彼女も呆れる太一郎の横で、「自分に酔ってんじゃないの? あーあー、これだから陽キャさんの考えることは分からんですね」と、瀕死の二人を内心で煽るだろう(もちろん2人とも、そんな本音を口に出すような無礼はしない)。

 そんな太一郎だが、今は違った。美雪が喜んでいる。だったら、それだけでいい。どんなことでもやる価値がある。美雪もまた同様だった。太一郎が自分の最期に付き合ってくれる。それだけでよかった。

 太一郎と美雪は、これまで恋に夢中な人間や、自分に酔っている輩をバカにしてきた。しかし、それは間違っていたと痛感した。2人は知ってしまったのだ。恋とはそういうものだ。同じ価値観に酔うことだ。そして一緒に酔える人がいるのは、幸せなことなのだ。

 太一郎は美雪の手を握る。すると美雪は今度こそ、しっかりと笑えた。頬が緩み、体が熱くなる。2人に飲酒の経験はなかったが、酒に酔うのは、こんな感じなのかと思った。



 美雪はしばらくぶりに、恐らく最初に頭痛が出たとき以来に、心が躍っていた。病院の外は暑くて、湿度も高い。不快な天気だが、それでも心が躍る。外の世界の空気は、病院とは違う。ここでは消毒液の匂いがしない。

 太一郎もまた、そんな美雪を見ると心が躍った。格ゲーで対戦をして、今にも台パンしそうな美雪を見ていると、病気のことなんて嘘みたいだ。すべては悪い冗談だった。美雪は実は健康そのもので、明日は普通に登校できる。もう放課後にお見舞いに行くだけじゃない。もっと長い時間を2人で過ごせるんだと思えた。

 しかし2人は、錯覚すると同時に分かっていた。現実はそうじゃないと。

 外出なんて絶対に反対されると思ったのに、病院はOKを出してくれた。「楽しんでらっしゃい」そう言った美雪の母の目には、涙が浮かんでいた。2人はそれがどういう意味を持つか、一瞬で理解できた。美雪は、もう手の施しようがない。これは最期の思い出作りだ。

 やがて、格ゲーでの四回目の対決が終わった。美雪が勝って、これで結果が互いに2勝2敗だ。

「もう一戦」

 咳き込みながら、美雪が言った。すると太一郎は、

「次に来たら、決着をつけようぜ」

 そう答えて席を立ち、缶ジュースを二本、買って戻った。

 太一郎が席に座るなり、美雪は再び咳き込み、怒鳴った。

 「次って、いつよ? 次はないよ」

 「次は次だよ」

 太一郎が答える。それは答えと言うより、願いだった。美雪もそのことを理解した。けれど、

 「そういうの、ナシで行こうよ」

 かすれた声で美雪が言う。笑おうとするが、また笑えない。それに声は、震えた。

 「あたし的には、死んだあとも決着ついてない方がシックリこないし」

 それを聞いた太一郎は、声を飲み込んだ。ちゃんと言葉で返したかったが、今、何かを喋ったら、ずっと我慢してきたものが込み上げてきそうだった。

 だから太一郎は、100円をゲーム機に放り込んだ。

 「そうこなくっちゃ」

 美雪が答える。

 「だな」

 太一郎が答える。必死に笑顔を作って。その時だった。

 「うっ」と美雪が呻いた。

 「おい、美雪?」

 太一郎が美雪の顔を見る。その顔が、波が引くように白くなっていく。そして彼女は大きくフラついて、崩れ落ちそうになる。太一郎は慌てて美雪を抱き留めた。

 「発作か!? しっかりしろ! しっかり!」

 「あはは……」

 美雪は、笑った。

 「悪い、無理っぽい。私は……」

 美雪は笑えていた。脱力しきった、顔は笑顔に近い表情をしていた。

 「でも、いい……死に方だと……思う」

 美雪は続ける。

 「最期にさ、好きな人と、思い出の……大好きだった場所で……いつも、大好きだったことをして……死ねるなら……それって……」

 美雪の体内の痛みは、ピークに達しつつあった。それでも幸せだと思った。同時にロマンティックだとも思った。まるで悲劇的な恋愛小説のヒロインになったようだ。一生に一度だけ、最期の最期に神様が自分にスポットライトを当ててくれたような、そんな気がした。

 太一郎もまた、そんな美雪の心を理解していた。彼女のことは誰よりも分かっているつもりだ。どこかで彼女が病院での死を嫌がっているなと思っていた。だから出かけると聞いたとき、その出先が死に場所になるような気がした。そうなったら、受け入れる覚悟もしてきた。だから、

 「こんな死に方……幸せだと、思わない?」

 美雪がそう言ったとき、

 「ああ、いい死に方だ」

 太一郎はそう答えた。次の瞬間――。

 「助けてくれー! 殺人カナブンだー!」

 悲鳴を上げながら、ゲーセンの中に1人の男が転がり込んできた。死にかけていた美雪は目を覚まし、太一郎は息を飲んだ。そして2人は、同時に混乱した。男が目の覚めるようなグリーンの全身スーツを着ていたからだ。しかし、すぐにそれが服ではないことが分かる。そのグリーンには、数えきれないほどの隙間があった。さらにその隙間はウジョウジョと動いている。

 美雪と太一郎は、ほぼ同じタイミングで気が付いた。動いているのは、隙間ではない。動いた結果、隙間ができているのだ。男は、覆われているのだ。何百、いや何千匹という緑色のカナブンに。

 「ぎゃー! こいつら俺を食ってる―! やめてカナブンー!」

 男が叫ぶ。同時に、カナブンとカナブンの隙間から、真っ赤な血が噴出した。男は倒れ、悲鳴を上げながら、のたうち回る。すると男の中からカナブンが現れた。

口からは、大量の吐血に溺れながら。

 両の目からは、眼球を強靭な前足で押し出しながら。

 二つの鼻と口からは、まるで土の中から顔を出すように。

 そしてポツポツと皮膚を食い破りながら、体のあちらこちらから。

 誰がどう見ても男が絶命した。その途端にゲームセンターの中がパニックに陥った。悲鳴と怒号が上がるなか、男に付着していたカナブンが一斉に飛び立つ。それが合図だったかのように、ドアを突き破って、第二、第三のカナブンまみれの人体がゲームセンターの中に飛び込んできた。

 「うひゃひゃ! 食われてる! 助けてぇぇぇ!」

 「体の中にカナブンが入ってくる―! おかさぁぁん!」

 悲鳴と怒号の渦の中、

 「逃げるぞ!」

 太一郎は美雪を強引に背負って、走り出した。行く当てはなかったが、別の確信はあった。黙ってここにいたら死ぬ。殺人カナブンに食われて。



 太一郎は美雪を背負って走った。しかし、今や町のどこもかしこも悲鳴と殺人カナブンに溢れていた。一匹は数センチの虫ケラだが、それが数百・数千の塊となって人間に襲いかかっている。そして襲われた人間は、全身を食い破られながら絶命していく。老若男女がカナブンの群から逃げ、屋内へ入ろうとする。しかし屋内に逃げ込んだ人々は、カナブンを入れてなるものかと、逃げ込もうとする人間を力づくで追い返す。しかし、その最中に扉や窓が割れて、カナブンの群れが屋内に侵入する。そんな光景が各所で起きていた。

 「地獄だ。なんなんだよ、これ」

 太一郎が呟く。走っている最中にも、体のあちこちにカナブンが張り付いて来る。それを手で跳ねのけながら、あてもなく走り続ける。足の筋肉が悲鳴を上げていた。彼はもともと体力がない。いくら痩せ細っているとは言え、美雪を背負ったまま走るには、もう限界が来ていた。

 その時だった。

 「嫌だよ、死にたくない」

 美雪が呟いた。彼女は、自分のあちこちにへばり付いていたカナブンを、弱々しく、忌々しそうに払いのけながら、続けた。

 「死にたくない」

 その言葉に、太一郎が息を切らしながら聞き返す。

 「死にたくないのか?」

 すると美雪が、今度は叫んだ。

 「嫌に決まってるよ! あんな死に方するの!」

 「そりゃそうだ!」

 太一郎も叫んだ。2人の脳裏に、さっきのゲームセンターで見た、男の死に様が鮮やかに蘇る。全身をカナブンに食い破られ、体中の穴という穴からカナブンが出てきた。思い出すだけで鳥肌が立ち、血の気が引く。何より酔いが醒めた。2人は一緒に酔っていた。恋と死に存分に酔っていた。しかし今は氷水を頭からブチまけられたように、酔いが吹き飛んでしまった。

 「あんな死に方したくない!」

 美雪は叫びながら思った。「死ぬ」覚悟はしてきた。「死ぬ」つもりだ。さっきまで発作で死にかけたとき、このまま死んでいいと思った。でも、それは病気での「死」だ。恋人と看取られての「死」だ。そういう「死」ならいいけれど、カナブンに生きたまま食われる「死」なんて絶対に嫌だ。美雪は自分がバカだと思った。すっかり自分に酔っていた。自分に酔って、悲劇のヒロインになった気で、病院の外で死にたいと思って、行動に移した。大好きな太一郎を巻き込んで。まさか殺人カナブンが襲ってくるとは思わなかったが、しかし自分が自分に酔っていなければ、おとなしく病院で死を待っていれば、少なくとも太一郎を命の危険に晒すことはなかった。

 「ごめん、私のせいで――」

 言いかけた言葉を、太一郎の叫び声が遮る。

 「オレだって、死んでほしくない!」

 太一郎は思う。美雪に、あんな死に方をさせたくない。最愛の人を、カナブンに食わせるわけには……いや、そもそも美雪の死を受け入れるのが間違っている。思い出の場所で、恋人に抱かれながら死ぬこと。正体不明のカナブンに食われて死ぬこと。どっちも同じ「死」だ。死は死でしかない。だったら、どんな形でも美雪に死んでほしくない。

 「バカだ、オレは」

 太一郎は自分を恥じた。自分に酔っていた自分を。美雪の「病院から出たい」という提案に乗った自分を。ゲーセンで発作を起こして死にかけた美雪を、見送ろうとした自分を。あのとき、完全に自分に酔っていた。そうじゃないはずだ。百歩譲って病院から出るのはいい。けれど、最期まで自分が美雪にかけるべき言葉は「死ぬな」だ。「ああ、いい死に方だ」なんて言うべきじゃなかった。

 「こっちだー! みんなー! こっちへ来い!」

 太一郎の思考を、野太い男の叫ぶ声が遮った。声の主は警察官だった。交番の中に人を誘導している。窓を閉めて、飛んでくるカナブンを必死で追い払いながら。

 太一郎は思った。こんな異常な状態で、どれほど警察官が頼りになるかは分からない。それでも普通の人間よりは頼りになるはずだ。

 しかし、

 「もう限界だ! そろそろ閉めるぞ!」

 警察官が叫んだ。見れば交番の中には小さな子供たちや、老人、若者……数十人の人間がすし詰め状態になっている。

 太一郎は「待ってくれ」と叫んだ。しかし、相手が待っていられないのも理解できた。美雪を背負ったままじゃ、間に合わない。でも美雪を生かさないと。

 そのとき、

 「私を置いて行って。どうせ死ぬから」

 美雪が言った。

 「私はもう充分」

 そして美雪は、太一郎の首に回していた腕を外した。いつでも自分を投げ落としていい、そういう姿勢だった。しかしそれは、太一郎には逆効果だった。美雪のその行為だけは、許せなかった。

 「美雪、やっぱ生きろよ」

 太一郎が走りながら言った。あの交番のドアは、もう閉まりそうだ。しかし警察官は、美雪と太一郎の姿を把握し、ドアにかけた手を止めた。「お前ら急げ!」と叫びながら。

 「なんで?」

 美雪が聞く。

 「生きててほしいから」

 「苦しいだけだよ。生きてても」

 「生きてたら、『生きててよかった~』って思える。死んで、『死んでてよかった~』はねぇ。たぶん。だから、生きろよ」

 「そんなことない!」

 「うるさいな! このチー牛女! ぶっちゃけると、オレは単に、お前が死ぬとこを見たくねぇの! オレが死んでも、お前が死ぬのはナシだ!」

 「はぁ!? 今さら何を言ってんの! この非モテ野郎!」

 「元気だな! よし! オレがカナブンを引き付けるから、お前だけで行け!」

 次の瞬間、太一郎は美雪を投げ落とした。そして自分の親指を強く噛んだ。たちまち親指から血が溢れ出す。

 「何してんの! あんた!」

 「いいから行け! あの交番に逃げろ!」

 美雪が顔を上げる。交番までの距離は10mほどだ。

 しかし同時に、美雪は気が付く。周囲にいたカナブンたちが、一斉に太一郎の方へ向かっていく。まるで自分は眼中にないかのように。

 太一郎は知っていた。カナブンの視力は、虫の中でも特に低い。ほとんど目は見えておらず、代わりに嗅覚で獲物を探る。何かの匂いが、カナブンと獲物である人間を結び付けているのだ。仮説を立てた後は、逆算だ。これまでカナブンに襲われていた人間は、全員が群がられていた。つまり、すでに襲われた人間のところカナブンたちは集まっていたのだ。噛みつき、肉を破る虫に襲われた人間が発する強烈な匂いとは? 「血」だ。だから太一郎は親指を噛みちぎって、血を流した。すると思惑通り、カナブンたちが一斉に太一郎の方へ飛んだ。倒れた美雪に目もくれず。

 「美雪! 行け!」

 太一郎が叫ぶ。美雪は悲鳴を上げる。立ち上がり、太一郎の方へ走ろうとする。しかし、

 「こっち来んな!! 行け!」

 太一郎の大きく開けた口の中にカナブンたちが吸い込まれていく。それでも太一郎は叫び続ける。

 「生きろ!」

 太一郎の全身の皮膚を無数の前足が掴み、皮膚を突き破りながら小さな塊が肉の中へ入って来る。口、耳、鼻の穴から侵入を試みる連中もいた。さっき作ったばかりの傷口には、ちょうど樹液に集まるように、大量のカナブンたちが折り重なっている。

 美雪は、交番の方を見た。おっさんが「急げ」と怒鳴っている。そして太一郎は、もうカナブンに全身を覆われていた。

 「私、行くよ」 

 美雪は呟き、立ち上がった。まっすぐは進めない。杖がないと歩けないほど体は弱っている。けれど交番まで、あと9メートル。命をかけて走れば、あるいは――。

 その頃、太一郎は実感していた。自分は今、食われている。しかし、彼の中にあるナルシズムが激痛を麻痺させた。満足感もあった。やるべきことをやった。「大好きな異性の前でカッコつけたい」ただそれだけの想いが、自分の肉体をズタズタに貪り食われる痛みを凌駕したのである。

 「生きるんだぞ!」

 カナブンが巻き起こすエメラルドグリーンの霧の向こうから、太一郎の声がした。

 「約束だぞ!」

 太一郎は、笑っていた。まるで学校の帰り道で「そんじゃ明日も。またなー」と別れる時のように。

 「約束ね!」

 美雪が答えて駆け出す。グラグラと足は揺れる、しかし前へ進めた。残すは3メートル。警察官が身を乗り出して、美雪の手を取ろうとする。

 「少しでも長く! 生きろ!」

 太一郎の声が、かすれてゆく。美雪にそんな経験はなかったけれど、まるで喉の一部に穴が開いたまま喋っているような声だった。リコーダーの穴を抑え損ねたような、音の高さが合っていない声だった。そんな太一郎の声に、

 「わかった!」

 美雪は叫んで答えた。自分の叫び声に、骨がきしんだ。腹から声を出したのは、久しぶりだった。病に倒れてから、ずっとこんな声は出していなかった。しかし、

 「わたし、生きるから! 絶対に生きるから!」

 美雪は痛みを無視して叫ぶ。そして走った。がむしゃらに。向かい風のように飛んでくるカナブンたちを跳ねのけ、叫び、太一郎の言葉を胸に抱いて。

 「絶対だぞ!」

 それが最後に聞こえた太一郎の声だった。

 「任せて!」

 それが美雪から太一郎への、最期の言葉になった。

 交番から身を乗り出した警察官が、美雪の手を掴んだ。そして彼女を交番の中に引きずり込むと、扉が素早く閉じられた。



 「今日の殺人カナブン警報です。大きな群れの移動が確認されましたので、この群れの進路方向にある以下の町は、夕方から夜にかけては外出禁止です」

 美雪は、テレビのアナウンサーが、今夜の殺人のカナブンの動きを説明する声を聞いていた。

 殺人カナブンは、今や日本の日常の一つとなった。第一回目の襲撃から、国を挙げての対策がとられた。成虫と幼虫を可能な限り駆除し、動物の肉を使った囮作戦も取り入れられて、市街地に群れが飛来することは減った。しかし、完全にゼロ・殺人カナブン政策は実現せず、政府はwith殺人カナブン政策に切り替えた。駆除は続けつつ、殺人カナブンが発生する時期には、地域によっては外出禁止令を出すのだ。初めこそ混乱はあったが、カナブンに食われて死ぬのは誰だって嫌である。外出禁止令は受け入れられ、日本はwith殺人カナブンで回っている。

 そんな今日この頃、美雪はよく考える。「自分は、あとどれくらい生きられるだろうか?」

 しかし、すぐにそんなことは関係ないと思い直す。「どれくらいなんか、関係ない。生きることができるだけ、生きなければならない」と。

 病院のベッドの上。視線を横にやると、棒切れのような自分の腕が見える。針が刺さっていて、その上を見れば点滴が一滴ずつ落ちている。この腕に注がれる透明な液体が、今日一日の食事だ。

 足は存在しているが、感覚がない。「ある」が、「ある」だけだ。重いとか軽いとか、キツいとかダルいとか、そういうものがない。立ち上がれるかどうかも分からないし、力を入れられるかも分からない。もう何か月も自力では立っていないし、移動は車椅子のみだ。

 美雪は、もはや腕も足も、自分の体の一部かどうか怪しいと思っていた。逆に自分の一部だと断言できるのは、鼓動と呼吸だけだ。一定のリズムで鳴る心臓、一定の間隔で上下する胸。そして口もとから、息が漏れていく。それは涎のようにだらしがないが、世界と自分を繋いでいる最も強固な命綱にも思える。だから、いかに弱々しく、だらしなく、未練がましくても、漏れてゆく息は美雪には誇らしかった。これは、自分の生きている証だ。

 代り映えの無い光景を見終えると、「んっ」と力を込めて目を閉じる。近ごろは目を閉じるのにも気合いが必要だ。そのうち眼球を動かすことも辛くなるだろう。

 暗闇の中で、美雪は考える。

 自分は依然として瀕死の状態にある。体は、もうマトモに動かない。それに薬が切れたら、すぐさま激痛に襲われるだろう。そういえば最近は、薬が効かない夢を見るようになった。激痛は収まらず、自分は叫び、苦しみ、ついに発狂する。言いたくもないような汚い言葉で周囲を罵り、呪いの言葉を吐く。そういう夢を見ては、叫び声をあげて目を覚ます。そして夢で良かったと思うと同時に、それがいつ現実になるかと思って泣きそうになる。家族や友人の前で狂ってしまう自分を想像すると、とても怖かった。そんなことになる前に、いっそのこと死んでしまった方がいいと思う。こうして生き続けることが、恐ろしくてたまらない。

 けれど、そう思うたびに太一郎の顔が浮かぶのだ。殺人カナブンの中に立つ、あいつの顔が。

 すると美雪は、必ず頬が緩む。生きることへの恐怖が薄まり、生きていくうえでの激痛に対峙しようと思えて来る。こういった心の動きを何と呼ぶべきか、美雪本人にも分からない。太一郎に貰った勇気なのか、あるいは、太一郎にかけられた呪いなのか。死ぬのは怖くなくなったが、おかげで楽に死ねなくなった。

 美雪の運命は変わらない。検査で出る数値は、すべてが着実に悪化している。毎日一歩ずつ、死へ向かっているのは間違いない。

 しかし、あの病院を抜け出た日から既に丸一年が経っている。余命一か月だったはずのあの日から。

 昨日、検査中に医者が言った。

 「こんなのありえない。これは奇跡と言っていいです。あなたのデータが、この病についての研究を十年分……いや、ひょっとすると、決定的な回復薬の開発まで導くかもしれません」

 興奮する医者に、美雪は答えた。

 「そんな奇跡が経験できるなんて、生きててよかった」

 今日もまた、美雪は生きている。目をつぶって、眠りに落ちる。目が覚めないかもしれないと不安に思うたび、「絶対に覚めろ」と強く想う。それが大好きな太一郎と約束したのだから。だから想うのだ。しっかり目覚めて、明日もまた、あの忌々しい青空を見てやろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る