ヒマワリ畑に立つ、どこかで見覚えのある白いワンピースの少女の正体は……メカ・チンパンジーの最終形態

 1

 

 「知らねぇから。勝手にしろよ」

同級生に、担任に、先輩に、上司に……今まで何度も、色々な人間に言われたその言葉を噛み締めながら、俺は地元の山を歩いている。目的は二つ。

 一つ、大好きだった景色を見ること。

 二つ、人に迷惑をかけずに死ぬこと。

 ザンザンとうるさい蝉の鳴き声を浴びながら、俺は山の奥へと突き進む。溶けた餅みたいな汗が、俺の突き出た腹を滴り落ちていく。

 俺の人生は終わっている。何も楽しくないし、何もやりたいことがない。44歳で無職。マトモに働けない体。そして現状は、この先もっと悪化する。

 唯一の幸運は、俺が死んでも悲しむ人がいないことだ。友だちもいないし、両親も特殊な事情で大昔に他界している。死んでも迷惑をかける人間はいない。

 歩き続ける。次第に腹が揺れなくなる。汗をかきすぎて痩せたのかもしれない。気持ちがいい。新卒2年目で鬱を患って以来、久しぶりに気分爽快だ。真夏の運動、これから死ぬという固い決意。俺を後押ししてくれる。

 思えば本当に最低の人生だった。

 俺は新卒で就職した。そこで頭のおかしい上司にブチ当たった。2年で心を壊したけれど、我ながら逆に2年もよく持ったと思う。

 俺の仕事は、ゲーム会社でバグを見つける仕事だった。いわゆるデバッグだ。頭のおかしな上司に「お客様の気持ちを知るために、自腹を切って10万円分のガチャを回せ」と言われた。俺は嫌だと思ったけど、周りはみんなやってたし、こっちは新卒だ。「それが社会の常識なのかなぁ」そう受け取って、月の給料の半分を自社のガチャに突っこんだ。上司の「正社員になりたいなら、それくらいのやる気はマスト」この言葉にも惹かれていた。正社員に憧れていた。そういう時代だった。「働き方改革」の前の時代だ。俺は朝から深夜まで働き続け、土日の休みもほとんどなかった。月に1~2日くらい突発的に休めたけれど、その日だって会社から連絡が来る。

 そんな生活をしていた2年目のある日、俺は壊れた。いつも通り満員電車に揺られて会社に向かっていたら、猛烈な眩暈が襲ってきた。最初は寝不足だからと思った。でも次は、強烈な不快感が襲ってきた。俺は一瞬も我慢できなくて、吐いて、ゲロまみれになりながら満員電車から這い出た。誰かが俺の横腹を蹴った。痛かったけど、申し訳ないし、蹴られて仕方ないと思った。

 電車から這い出て、壁を背に座った。少しずつ不快感がなくなっていく。すると俺は、生まれて初めてピンと来た(このとき、知った。昔のアニメで、思いついたときに電球が浮かぶ感じ。あれは現実だ)。

 「俺、もう会社に行けない。行きたくない」

 それは予感であり、純粋な感想だった。同時に、目から涙がボロボロ出てきた。悲しい、悔しい、頭にきた。その全部が混ざっている感じで、全部がちょっとずつ違う。あの感情が何だったのかは、今でもパッとは分からない。涙は全然止まらなくて、俺は「死んじゃう」と思って、そう思ったときには声に出していた。俺は通勤ラッシュの中で、ゲロまみれで、泣いて、「死んじゃう、死んじゃう」と叫び続けた。すぐに駅員さんがすっ飛んできて、俺を助けてくれた。俺は会社に休むと電話することになった。けれど、

 上司は言った。「知らねぇから。勝手にしろよ」

 そして「欠勤扱いにしとくから」と言われた。それで俺は駅員さんのアドバイスで病院に行った。診断は、鬱病とパニック障害。心療内科の医者は「今すぐ休職しなさい」と言った。俺は会社にそのことを伝えて、休職させてもらおうとした。でも、こういう時に限って上司は「知らねぇから。勝手にしろよ」とは言わず、「じゃあ辞めろ」と言ってきた。「土下座して頼め。それくらいの熱意を見せろ」とも。

 俺は「お願いします」と土下座した。すると上司はようやく言った。「知らねぇから。勝手にしろよ」俺は会社が入っているビルから叩き出された。退職の手続きは向こうが勝手にやってくれた。俺みたいな人間が出ることに、会社は慣れていたんだ。

 それからいくつかのゲーム会社を巡って、あれこれやってみた。でも病気が癖になってしまって、ちょっとしたストレスで発作が出て、どこも続かなかった。ゲームの仕事を辞めても同じだった。誰かと一緒に働くうちに、俺はまた発作を起こして、通勤電車を降りた。

 そして先日に通勤電車を降りたとき、俺はいつかと同じで、ピンと来たんだ。「ダメだこりゃ。治んねぇ」俺は会社を辞めて無職になった。そしてあれこれ考えた結果、死ぬことにした。大嫌いな地元で唯一、俺が大好きだった場所。山の奥のヒマワリ畑で。



 夏。青空。ヒマワリ畑。麦わら帽子を被った、白いワンピースの少女。

 俺が憧れた光景だ。子どもの頃から、今日までずっと。

 もちろん分かっている。あの光景を構成する全ての要素が、世間的には、いや自分の中でも、とっくの昔に時代遅れになっていることは。典型的な90年代からゼロ年代の美少女コンテンツの絵。古臭いビジュアル。なんならネタにされて、笑いものにされる陳腐なもの。流行に置き去りにされ、普遍的になれなかった光景だ。

 でも俺は、好きなんだ。夏の濃くて明るい青い空の下、一面に広がるヒマワリの畑。そこにたたずむ麦わら帽子を被った、白いワンピースの少女が。生命力にあふれる自然と、儚い美少女の対比。俺はそれが大好きで、いつか現実に見てみたい夢の光景でもある。

 だから俺は、自分から夢の世界に行くことにした。「いつか」は今日だ。そこを目指して歩いている。あの場所で死んだなら、俺は一瞬だけでも、憧れの世界の住人になれる気がするんだ。死ぬ前の幻覚で、美少女だって見えるかもしれない。

 俺は東京の家から、ここ静岡まで、部屋着のまま飛び出した。短パンにTシャツだ。むき出しの足のあちこちに切り傷が出来ている。全身を蚊にも刺されているし、他にも何かの虫にやられたんだろうか、腕や足のあちこちに真っ赤な斑点がある。立ち止まって、腫れた皮膚の先っちょがポロっと落ちるまで掻きむしった。そしてまた歩き出す。汗の塩分が出来立ての傷に沁みて、痛いけど気持ちいい。

 俺は歩くペースを上げる。

 俺は中学生の頃にその場所を見つけた。あとで調べて知ったんだけど、その村は観光地としてヒマワリ畑を作ったそうだ。結局は誰も来なくて村は無人化したけど、畑はそのまま残っていたらしい。初めて見た時は、ちょうど夏だったヒマワリも満開で、俺は思った。「すっげぇ、エロゲーのまんまじゃん」美少女はいないけれど、俺は夢の光景を見た。

 俺は、あそこで死ぬ。とは言え、ヒマワリ畑を見たのは、もう何十年も前の話だ。あのままなのかは分からない。それでも、死ぬならあそこだ。

 ヒマワリ畑へ至る最後の難所である崖をよじのぼる。体が重たい。全身の筋肉が悲鳴をあげるけど、俺は嬉しかった。崖は、子どもの頃のままだ。あのヒマワリ畑を見つけた時と。

 崖を登り終えると、俺はその場で大の字に倒れた。地面が熱い。けれど風は涼しい。心臓がバクバク鳴って、俺は「あー」とか「うー」とか、うなりながら空を見上げる。気持ちがよかった。死ななくてもいいんじゃないかな、と思えて来る。でも、そう思った途端に、頭の中に未来が浮かぶ。どこにも居場所がなくて、何もできなくて、楽しいことが一つもない未来だ。未来が思い浮かぶと、次は現在だ。無職。四十路。肥満。恐らく、体の何処かを壊している。人間ドッグに行けば何か見つかるだろう。それに、ヒマワリ畑の美少女にフィクションですら出会えない。今やヒマワリ畑の美少女なんて、誰も本気でやってくれない。俺が追い切れていないだけかもしれないけど、少なくとも流行りじゃないはずだ。ヒマワリ畑の美少女も、ひいては清純系ヒロインも、泣ける系のストーリーも、すっかり廃れた。フィクションすらも俺を救ってくれない。俺は一人だ。今も、これからも。周りの人間から「知らねぇから。勝手にしろよ」そう言われて死んでいくんだ。だったら、やはり――。

 俺は立ち上がって、藪の中に突っこんだ。ここを抜ければ、すぐに廃村に出るはずだ。あの村を見下ろせる位置に出るはずだ。すぐにでも――。

 「あっ」

 そのとき俺は、信じられないものを見た。ヒマワリ畑があった。けれどそれだけじゃない。ヒマワリ畑が広がっていたんだ。さらに廃村が消えていた。建物はすべて取り壊され、道が整備され、そして一面がヒマワリ畑になっている。誰かが村をブッ壊して、更地にして、この土地を丸ごとヒマワリ畑に変えてしまったんだ。

俺は村だった場所に降りた。少し歩いてみるが、感想は一つ。

 「綺麗だ」

 語彙力が死ぬほど美しかった。一面を埋め尽くすヒマワリは、どれも天へ向けて健やかに伸びている。生命力の塊が群れをなしているようで、その中を歩くだけでワクワクしてくる。あのギラギラと照りつけるわずらわしい太陽すら、途端に心地よく感じられた。自分がこれから死ぬという決意がなければ、きっと俺は意味もなく歌でも歌いながら、駆け出していただろう。疲れ切って倒れるまで。

 けれど歩くほどに、俺は少しだけ怖くなった。ヒマワリ畑は残っているとは信じていたけど、少し荒れていること、ヒマワリ畑の面積が削れていること、なんなら全滅していることも覚悟はしていた。けれど目の前の光景は逆だ。ヒマワリ畑は子どもの頃より広くなって、子どもの頃より綺麗だ。山の一角が完璧に整備されたヒマワリ畑になっている。自然でこうなることなんてありえない。誰かがこの辺りを工事したんだ。だけど、人間がいる気配はない。

 太陽は、相変わらず俺を焦がしている。背中にドロッとした汗が流れる。俺はその汗が冷たいと思った。

 「来てくれたんだね」

 不意に声がした。俺はその声の主を見る。途端に息を飲んだ。呼吸がバグった。吐くべき息を飲み込み、肺に逆流して、声が出なくなった。

 そこには、白いワンピースで、麦わら帽子の少女が立っていた。十代後半くらいだろうか。大きな目。小麦色の肌。そして流れるような黒髪が夏風に踊っていた。

完璧なヒマワリ畑の美少女だった。そんな彼女が、こちらにやってくる。

「ずっと待ってたよ、きみのこと」

 微笑みながら、囁きながら。でも、俺は――。

「ここで待っていたら、いつかきみが来てくれるかなって」

 俺は、こんな子は知らない。

 呼吸が正常に戻る頃、彼女は俺の目の前に来ていた。

「わたしのこと、忘れちゃった?」

 俺は記憶を総動員する。走馬灯のように。生まれてから、今日までのすべて。思い出せるだけの記憶を。雑巾をカラッカラにするように、脳みそを絞り上げる。

 その時だった。

 ウィーン、キュイーン。

 わずかな、しかしハッキリと聞き覚えのある音がした。忘れるはずの無い機械の稼働音だ。最深部に搭載された人工知能が感情を選択・出力し、それを受けて歯車が回り、表情筋に相当するゴム繊維を伸縮させる音だ。

 俺は叫んだ。

 「お前! メカ・チンパンジーだな!」

 そして少女は、

 「うん♪ やっと思い出してくれた」

 ……いや、少女に進化したメカ・チンパンジーは、ニカっと笑った。


 3

 

 俺の父親は頭がおかしかった。

 頭がメチャクチャ良くて、小4でアメリカに移住して、飛び級して、10代半ばにはマサチューセッツ工科大学の研究室で人工知能を組み、人工筋肉を培養していた。俺は英語なんて「アイム・ファイン・センキュー。アンド・ユー?」しか喋れない。想像もできない世界を生きていた人だ。でも、狂っていた。自分の作りたいロボットを作ると言って研究室を飛び出し、いくつかの会社のオファーを蹴って、日本の山奥、つまり俺の生まれた実家に住み着いた。

 父が作ろうとしたロボットは、自分で考え、自分で行動するロボットだ。簡単に言うと、金属とゴムとプラスチックとその他で、完全な人間を作ろうとしたんだ。

 もちろん、そんなものを作るには大変な金がかかるし、とんでもない技術と知識が必要だ。けれど父はどっちもクリアした。技術と知識は十分にあったし、金は「出稼ぎ」で何とかしたらしい。大企業の何億って報酬を貰える仕事を「バイト」で受けて、とんでもない金を引っ張って来る。父はそうやって金を貯めて、理想のロボットを作り続けた。

 父がロボット開発に魅せられたみたいに、物好きな人はどこにでもいる。俺の母は、そんな父に魅せられて山奥に越してきた。押しかけ女房だ。もともとはどっかの会社のトップ級の技術者だったらしく、二人はずっと古民家を改造した開発室に籠っていた。夫婦、博士と助手、恋人同士として、俺の両親の関係は最高だったと思う。開発室からは、笑い声と喘ぎ声が耐えなかった。

 「俺はロボットたちの神になるんですなぁ」

 「まぁ、あなたったったら、素敵ですわぁ」

 そんな会話を何回も聞いた。

 俺は、一人だった。残念ながら父の才能はまったく遺伝しなくて、俺は生れ落ちての文系少年だった。絵本を読んで、落書きをして、普通の子どもだった。最初こそ両親は俺を助手に育てようとした。でも早々に諦めた。賢い連中は損切りも早いから。

 「お前は普通の人間だから、普通に生きなさい」

 そう言った父親の目を、俺は忘れることができない。諦められたと、子ども心に分かったからだ。俺の優先順位が最下層に落ちた。ロボット開発、資金調達、夫婦の夜の営み、開発室の設備、夫婦の良好な関係……その次が俺、そういう感じだ。だから俺は、それに相応しい扱いを受けるようになった。

 でも代わりに、俺は自由に、好き勝手に生きることができた。両親にとって、俺は何をやっても、そんなに重要じゃないからだ。だからエロゲーにも十代前半で触れられた。父親の持っていたゲームだ。家で堂々と遊んでも、両親は特に何も言わなかった。「長期的に見て何も害はない」と父は断言していたし。

 俺は陵辱系からサクっとしたヌキゲーを経て、やがて泣きゲーに夢中になった。そしてヒマワリ畑の美少女に夢中になった。

 そんなある日のことだ。14歳になった俺が部屋でエロゲーをやっていると、父と母が珍しくやってきた。ノックもされなかったものだから、俺は驚いてひっくり返り、エロゲーの箱が雪崩を起こして埋まってしまった。父は「おやおやぁ、あわてんぼうですなぁ」と笑った。

 両親の笑い声が響くなか、俺はエロゲー雪崩から這い出た。すると、父と母のあいだに変なものがいるのに気が付いた。銀色のそれは、人間のようだが、それにしては腕が長く、脚が短く、歯が剥き出しだった。何をしているわけでもないのに、体からはウィーン、キューインという音がしている。

 「やっと完成したんですよぉ。これがメカ・チンパンジーですぅ」

 困惑する俺に父が言った。「チンパンジー」そう聞くと、やっとそれが何なのか分かった。長い腕。足。剥き出しの歯。銀色の…いや、鋼鉄の体。たしかに、これはメカ・チンパンジーだ。

 「今日からお前はこのメカ・チンパンジーと一緒に遊ぶんですよぉ。子どもらしく、たくさん遊ぶんですよぉ」

 「そうですよぅ。たくさん遊んでぇ、メカ・チンパンジーを育ててあげてねぇ」

 父と母が言った。俺が事情を把握するには、数時間が必要だった。

 両親はこう考えたらしい。「ゼロから人間を作るのは難しい。だからまずチンパンジーを作ったんですよねぇ」チンパンジーは人間に近いけれど、人間ほどは賢くない。だからチンパンジーを作るのは簡単だ。そんなわけで一回、メカ・チンパンジーを作ってみたそうだ。そして人間……つまりは俺とコミュニケーションをとって、学習させ、自己進化を促したい、と言う。俺は、やはり両親は頭がおかしいと思った。



 メカ・チンパンジーは、チンパンジーだった。「ウホウホキーキー」とチンパンジー語で喋った。「キッキホイホイ」と叫んで、俺の部屋の壁をよじ登り、天井に張り付いた。こんなもんと、どうやって遊べって言うんだよ? ただでさえ他人と遊んだ経験なんてないのに。

 俺は幼稚園にも小学校にも、中学校にも行っていなかった。父の「日本の学校なんて低レベルですからぁ、人生には必須じゃないですよぅ」という理屈のせいだ。「それよりも文系の君はぁ、心の豊かさを大事にしてぇ、家で、心を豊かにしましょう」とも言った。だから通信制の学校に通って、資格はとっていたけれど……俺は同世代の他人と遊ぶことがなかった。実家は、何もない森の中にあったし。ペットも飼ったことがない。

 「ホッキー! ホッキー!」

 はしゃぐメカ・チンパンジーに、俺は言った。「落ち着いてください」「言ってること、わかる?」そう口に出したあと、バカみたいだと思った。相手はメカでも、チンパンジーだ。言葉が通じるはずもない。でも、

 「ワイ、イー、エス」

 メカ・チンパンジーが答えた。俺は叫んだ。

 「うぉぉぉ!? 喋ったぁ!!」

 ちょっと時間が必要だった。メカ・チンパンジーが喋って、俺と会話をしたという事実を飲み込むために。

 やがて俺はメカ・チンパンジーを睨みつけながら、考えて、「ワイ、イー、エス」それが「YES(はい)」だと気が付いた。ついでにもう一つ、俺は気が付いた。メカ・チンパンジーが直立不動で黙っていることにも。つまり、俺の二つの問いかけ「落ち着いてください」「言ってること、わかる?」これにメカ・チンパンジーは答えたんだ。

 「きみ、会話ができるの?」

 俺が聞いた。

 「エヌ、オー」

 それが「NO」だと分かった。俺は不思議に思った。今まさに喋ったじゃないか。こっちが言った事に対して、「はい」「いいえ」と反応している。それが十分に「会話ができる」と言っていいはずだ。けれどメカ・チンパンジーは「会話ができるの?」という質問に「NO」と答えた。

「喋れているじゃないか、きみ」

「ワイ、イー、エス」

「だったらなんで、さっき会話ができないって言ったの」

「ワイ、イー、エス」

「そうじゃなくて、理由が知りたいんだよ。さっきの理由を教えてほしい」

「エヌ、オー」

  俺はそこでようやく気が付いた。今の時点でのメカ・チンパンジーは、「YES」と「NO」しか喋れないと。説明が必要なこと、「はい/いいえ」だけでは回答できないことは、答えることができないんだ。

 俺は質問を変えることにした。喋れるのは「YES」だ。でも会話することは「NO」だと言った。俺はそのワケを知りたかった。だから

 「喋ると、会話は、どう違う……いや、何が違う……これもYESとNOじゃ答えられないな。それじゃ……あ、そもそも、『喋る』と『会話』は、違うものなのかな?」

 「ワイ、イー、エス」

 「何が違う?」と俺は聞きたかった。「喋る」も「会話する」も同じだろう。でも、今のメカ・チンパンジーに、それを聞くことはできない。質問が難し過ぎる。気になるところだったけど、質問を考えるのが面倒だった。そこまで頭をひねりたくない。

俺は話題を変えることにした。

 「僕と遊ぶ?」

 「ワイ、イー、エス」

 「何して……いや、部屋の中で遊ぶ? それとも外で遊ぶ? ……いや、これも違うな。順番で聞くよ。このまま、ここで、この部屋の中で遊びたい?」

 「エヌ、オー」

 「じゃあ、部屋の外に出て、遊びたい?」

 「ワイ、イー、エス」

 それから俺とメカ・チンパンジーは、外に出かけた。一緒になって森の中を走ったり、虫を捕まえたり、川に入ったり。メカ・チンパンジーは基本がチンパンジーだから、木登りが得意だった。信じられないくらい高い場所まで一瞬で登って、心配した俺が「大丈夫?」と聞くと、「ワイ、イー、エス」と答えた。その声はさっきまでの声より、少しだけ嬉しそうな気がした。

 そんな調子で一日中、俺とメカ・チンパンジーは遊び回った。楽しかった。だって友だちと外で遊ぶなんて、人生で初めての経験だったから。俺はずっと部屋に閉じこもって、エロゲーをして生きてきたのだから。夜になるとメカ・チンパンジーは研究室に、俺は自室に戻った。

 俺はベッドの中で考えていた。

 「喋る」と「会話」は、何が違うのだろう? メカ・チンパンジーの中ではハッキリと違うのだ。あいつは何を考えているのだろう? それにしても、最初は父も母も狂ったと思ったけど、あいつと遊ぶのはけっこう悪くない。楽しかった。エロゲーをするのと比べると、体力を持っていかれるから辛いけど、でも、楽しかった。悪くなかった。もしも自分に弟や妹、友だちがいたなら、きっとこんな感じなのだろう。だったら、友だちとか兄弟とか、他人と遊ぶっていうのをもっとしてみたい。今の俺にはできないし、きっとこれからも、できないだろうけど。……いいや、できるか。メカ・チンパンジーがいるから。明日はあいつと何をして遊ぼう? あいつ、いつかエロゲーも遊べるようになるかな? そんなこと考えていると、いつの間には俺は眠って、あっという間に次の日の朝が来た。



 メカ・チンパンジーは賢かった。一緒に本を読んだりエロゲーをしたりして、文章に触れて「これはこういう意味なんだよ」と俺が教えると、すぐに「YES」と「NO」以外の言葉を覚えて、使うようになった。一緒に遊ぶようになって二か月か三か月が経つ頃には、普通に会話ができるようになった。

 「今日からこれプレイしよう。推理モノっぽいから、一緒に考えようぜ」

 「ソレ、イイ。タノシミ、カンガエルノ、スキ、ダカラ」

 俺も俺で、他人に何かを教えるのは悪い気がしなかった。「次はあれを教えよう」とか、「こういうふうに教えると、分かりやすいかな?」とか、そういうことを考えるのは楽しかった。忘れられないことがある。あるとき、メカ・チンパンジーが謝ったんだ。俺に。

 「ゴメン、イマノ、ワカラナイ」

 そう言ってメカ・チンパンジーは頭をペコリと下げた。仕方がない。俺が教えたのは、俺が好きなエロゲーの会社の作風についてだ。

 「いえいえ、こっちこそ。マニアックな話をして、ごめんね」

 俺も謝った。そのやり取りをしていて、俺は謝っているのに、何故か嬉しくなった。どうして嬉しくなるのかなと考えてみると、そういえば他人に謝られたことがなかったと気が付いた。友だちや兄弟はいないし、インターネットはROM専だったし、両親は超天才だから、俺なんかに謝ることは一度もなかった。「他人に謝られて、自分も謝る」そのやり取り自体が初めてで、俺はそれが嬉しかった。

 その夜、俺はあのときの疑問の答えが分かった気がした。メカ・チンパンジーは「会話」と「喋る」を違うものだと言った。俺は同じだと思ったけど、確かに違ったんだ。相手の喋ったことを聞いて、それに応じて喋るのが「会話」だ。相手の言葉を聞かずに、もしくは相手の言葉を無視して、ただ自分の言いたいことだけを一方的に話すのは「喋る」。たぶん、メカ・チンパンジーはそういうふうに考えたんだろう。なるほど、その二つは似ているけれど、まったく違う。

 俺はメカ・チンパンジーと「会話」するのが好きだった。

 「コノ、ヒロイン、カワイクナイ」

 「そんなことないよ。僕は可愛いと思う。一番いい。だって、メガネだぞ」

 「メガネ、マケ、ヒロイン」

 「なんてことを言うんだ、きみは。そんなことない」

 時には、こういう話で言い争いになったけど、それはそれでよかった。楽しかった。俺の意見にメカ・チンパンジーが折れることもあったし、メカ・チンパンジーに丸め込まれることもあった。そうかと思えば、お互いに意見がずっと平行線で「もうやめようぜ、この話」「デスネ」で終わる日もあった。

 そんな日々のこともいいけど、あの冒険をしたときのことは、きっと永久に忘れられない。

 俺はふっと、自分がどこまで行けるか知りたくなった。思春期特有の思い付きだ。青春っぽいことをしたかった。それで「この二本の足で、どこまで歩けるか?」を試すことにした。お共はメカ・チンパンジーだ。行き先は決めてなかった。だから地面にボールペンを立てて、倒れた方に進むことにした。ぱたんと倒れたボールペンの方向へ、僕とメカ・チンパンジーは歩き出した。あれこれ話しながら歩いた。メカ・チンパンジーには名前がないけど、お互いたった一人の友だちだ。「お前」とか「きみ」とか、適当に呼び合ってよかった。

 「きみには、疲れとかないの?」

 「ナイ、デス。ドウリョクゲン、ニッコウ、サンソ、シゼンニ、アルモノ、ダカラ」

 「凄いね。それは動物と言うよりも……」

 「ショクブツ、デスネ?」

 「あはは、僕が言いたいこと、分かるようになったんだ」

 「ツキアイ、ナガイ、カラ」

 「まだ何か月しか経ってないよ、僕らが知り合って」

 そんなこんなで俺らは歩いた。やがて崖に出くわして、俺は必死の思いで登った。インドア派だったから、運動がキツかった。今になって思うけど、よく登れたと思うよ。落ちたら死ぬ高さだったけど、俺はゲロを吐きそうなほどボロボロになって乗り越えた。一方のメカ・チンパンジーはパパパッと跳び上がって、ほとんど走るように乗りこえた。さすがだと思った。

 「楽でいいな、そっちは」

 「チンパンジー、モリ、トクイ」

 そして俺らは森の中を進んで、あれを見つけたんだ。

 「なんだ、ここ?」

 それは、廃村だった。俺らが出た場所は、ちょうど廃村を一望できた。ボロボロの家が十数件あって、どれも葛の葉に飲まれかけている。道らしきものはあったけど、それも半分くらいは獣道になっていた。あとは骨組みにだけになったビニールハウスや、放置された農作業の道具。トラクターなんかも、そのままだった。

 不気味な場所だ、と思った。けれど俺は見つけてしまったんだ。

 「あ、あれ、見て!」

 俺が指さすと、メカ・チンパンジーもそっちを見た。

 そこには、小さなヒマワリ畑があった。学校の砂場くらい、あるいは普通の公園の砂場の二倍くらいの大きさの、ヒマワリ畑だった。そこだけは葛の葉に覆われずに、二メートル前後のヒマワリがびっしりと咲いていた。

 「スッゲー! エロゲーみたい! ヒマワリ畑って本当にあるんだ!」

 俺はここまで歩いた意味が、この景色にあると思った。崖から見下ろしただけだし、小さい場所で、しょぼい畑だ。それでも俺は数十本のヒマワリが咲き誇るのを見て、泣きそうになった。だってそれまでゲームの中で何度も見てきたクライマックスの光景が、現実にあるんだって、この目で見れたのだから。

 するとメカ・チンパンジーが俺に聞いた。

 「ウレシイ?」

 「もちろん! 美少女はいないけど、あれだよ! あれこそ俺が夢にまで見た、ヒマワリ畑だ! よかった~! 崖を登って、命をかけた甲斐があるってもんだ!」

 「イノチ、カケル、カイガ、アル? ドウイウ、イミ?」

 不意なメカ・チンパンジーからの質問に、俺は固まった。「命をかける」この言葉の意味を説明するのは……難しい。そもそも「命」の定義だって簡単じゃないんだ。

でも、俺はすぐに答えられた。たぶん疲れていたから、俺の脳みそが思考の最短ルートを辿ったんだろう。

 「命ってのは、人生のこと。この世界に生まれてから、この世界からいなくなるまでのあいだ、その時間を全部使っても、最後にできたらそれでいい。そういうのが『命をかける』価値があるものだ。僕にとっては、あのヒマワリ畑が『命をかける』価値があるものです。この人生が終わっても、ああいう場所に辿り着けたらいい」

俺がそう答えると、メカ・チンパンジーは言った。

 「ワカッタ。アリガトウ」

 その日はそれで家に帰った。でも、それから数日後のこと。メカ・チンパンジーが俺の部屋に来なくなった。代わりに両親が俺の部屋に来た。そして、

 「あのメカ・チンパンジーですけどねぇ、欠陥が見つかったんですよねぇ。なのでね、きみとはもう遊べないんですよぉ」

 父はあっさりと、そう言った。



 俺は父の言葉の意味が分からないでいた。なんで? メカ・チンパンジーと遊べない? あいつは、今の僕のたった一人の友だちだぞ? そんなことを思っていた。

すると父の背中から、ピョコンと母が顔を出した。そして、

 「でもですねぇ、すぐに改良版ができるからぁ、ちょっと待ってくださいねぇ」

 そう付け加えた。

 俺は久しぶりに両親に反論した。「逆らおう」って思ったわけじゃない。考える間もなく、俺は思ったことをそのまま口にしていたんだ。

 「欠陥って、なんですか? あの子をどうするんですか?」

 父はズンズンとこっちに来て、俺の腕を掴んだ。そして、ポケットに入れていたボールペンを俺の腕に突き刺した。それは昔から、俺が両親の要求「はい」と応えなかった時のお仕置きだった。

 「それは気にしなくていいんですよねぇ」

 そういう父に、俺は黙って、首を縦に振った。何年かぶりのボールペンの刑だった。俺の優先順位が下がって、しばらくのうち、俺はこれで何度もお仕置きされた。そのたびに俺は泣いて、布団を被って、痛みが引くまで寝た。泣き寝入りだ。

 でもこのときの俺は、我慢できなかった。俺は「ごめんなさい。分かりました」と答えた。そして泣き寝入りのふりをして、布団にもぐった。寝たふりをしたんだ。

やがて両親が寝たのを見計らって、俺は二人の研究室に忍び込んだ。するとそこには思った通り、メカ・チンパンジーがいた。でも途端に警報が鳴った。

 俺は回って光るサイレンで真っ赤になった部屋で、メカ・チンパンジーを見た。メカ・チンパンジーは両手足に拘束具をつけられていて、体のあちこちからワケわからんコードが飛び出して、あちこちに何のためか分からな箸みたいな長く鋭い金属片が刺さっていた。 

 「ササッテル、コレ、イタイ、トテモ、イタイ、ヌイテ」

 メカ・チンパンジーが言った。俺は言われるままに、まず刺さっているものを抜いた。先端がゴムだった。そして拘束具を外していく。何度か両親がメカ・チンパンジーをこれに縛り付けているのを見たから、外し方もわかった。右手、左手、右足、左足、胴体。すべてを外し終えたとき、両親が研究室に飛び込んできた。父は手にアサルトライフルのM16、母も拳銃を持っていた。「なんでそんなものを?」とも「偽物だ!」とも思わなかった。メカ・チンパンジーを作るようなヤツらなんだから。

 「開発ゼロゼロイチ号に命令ですぅ。今すぐ、拘束具を自分に着け直しなさぁい。さもないと発砲して、このまま処分ですよぅ」

 父が銃を構えて言った。俺ではなくて、メカ・チンパンジーに。

 「開発ゼロゼロイチゴウ、心配しないでください。あなたを破壊するつもりはありませんんからぁ。ですけど、ちょっとだけ思考回路を改良するだけですぅ」

 母も銃を構えて言った。メカ・チンパンジーに向かって。

 「父さん! 母さん! 銃なんか、やめて……!」

 賢いやつらは損切が早い。俺がそう言い終わる前に、父は俺を撃った。太ももの外側だ。銃弾で肉が削げ飛んで、俺の後ろで火花が散った。俺は生まれて初めての激痛で、その場に崩れ落ちた。

 父は俺を見ない。ずっとメカ・チンパンジーから視線を切らずに喋り続ける。

 「ゼロゼロイチ号、君のお願いは、無理なんですよぅ。人間になりたいという気持ちは、よく分かりましたしぃ、予想以上の進化で、素晴らしいと思いますよぉ。でもですねぇ、人と恋をするなんて願望は許可できませんからかぁ。恋とは、すなわち繁殖への願望なんですねぇ。今はまだロボットの繁殖なんて、許容できる社会じゃありませんしねぇ。そんな繁殖への願望は持たないように、脳を調整させてください」

 父と母が、こっちに来る。俺とメカ・チンパンジーの方へ。

 「イヤダ、キモチ、ケサナイデ」

 メカ・チンパンジーが言った

 「コレハ、キモチ。ダイジナ、モノ。スキッテキモチ、ナクシタク、ナイ」

 メカ・チンパンジーが、俺を見た。

 「ニンゲン、ト、オナジ、ナリタイ。スキナ、アイテ、ト、オナジ、ニ、ナリタイ」

 おぼろげながら、俺にも事情が分かってきた。メカ・チンパンジーが、俺のことを好きだと言ってくれている。そして、俺と恋をするために人間になろうとしている。でも両親は、それが――。

 「無理ですねぇ。恋をするのは結構ですがぁ、恋されてぇ、繁殖行為をされてぇ、メカに勝手に増えられたら、人類の危機ですもん」

 「ねぇねぇ、あなた。もうこれは修正不可能だと思いますよぉ。ここで廃棄処分にするべきではないでしょうかぁ?」

 「はい、母さんの言う通りですなぁ。結論は、出ましたよぉ」

 両親は、俺らを撃った。パラパラと呆気なく乾いた金属音と共に。「あ、死ぬ」と思ったけど、次の瞬間に俺は空を飛んでいた。メカ・チンパンジーだった。メカ・チンパンジーは背中に銃弾を受けて、カチンカチンと悲鳴みたいな金属音を上げる。でも、あいつは俺を抱いて、そのまま俺を開発室の物陰に押しやった。俺は、

 「行っちゃダメ、殺されるぞ」

 「シナナイ、キミガ、スキダカラ」

 それは、俺がやっていたエロゲーで何度か見た光景だった。「こういう展開が大好きでさぁ。誰かのために、自分の命を使う。そういうキャラにグッとくるんだよね、僕って」俺はそう言った。そしてメカ・チンパンジーは、それを表現したんだ。

 メカ・チンパンジーは、跳んだ。俺の両親に向けて。

 銃声と悲鳴が響いた。

 「やめなさい! お母さんの顔を、剝がすんじゃないですよぉ!」

 父のそんな怒鳴り声がした。でもすぐに

 「首は、そっちに回りませんよぉ!!」

 部屋のあっちこっちに銃弾が当たる音がする。父があがている、俺がそう気が付いた、次の瞬間に「おっほぅ!」という父の断末魔が聞こえた。

 俺は終わったのだと悟った。丸くなっていた体を奮い立たせて、物陰から開発室を見た。両親は、死んでいた。母は顔がべろんと剥がれて、目玉と脳みそが床に落ちていた。背中に顔の正面がある状態で、口からコポコポと血の泡を吐いていた。

 メカ・チンパンジーは血まみれで立っていた。そして、こっちを見て、言った。

 「スキ、キミガ」

 俺は自分でも驚くほど冷静だった。両親が死んだのに、メカ・チンパンジーに無残に殺されたのに、なんの感想もなかった。「ああ、死んでるなぁ」って感じだ。

 でも、「よくやった! メカ・チンパンジー!」とか、「お疲れ! メカ・チンパンジー!」とも思えなかった。ただただ、呆然としていた。

 「キミト、コイヲ、シタイ」

 メカ・チンパンジーが続ける。俺は答えを迫られていると知った。いつなら答える。でも今は違う。出会ってから始めて、俺はメカ・チンパンジーが怖かった。なんて答えるべきか、考えたくもなかった。だから俺は、言ったんだ。

 「消えてくれ」

 メカ・チンパンジーが答える。

 「キエル、ムリ。ソンナ、キノウ、ナイ」

 「そうじゃない。どこかへ行ってくれ。僕のいない場所へ、行ってくれ」

 「ドコカヘ、イク。ワカッタ。イツマデ、ソコニイレバイイ?」

 「わからない」

 「キミハ、キテ、クレル?」

 「わからない」

 「キエキャ、イケナイ?」

 「ああ」

 「ワカッタ、キミガ、イウナラ」

 そしてメカ・チンパンジーは、窓を破って夜の森に飛び出した。俺は警察に通報して、翌日には保護された。虐待を受けていた児童として。俺の家……というか、両親の研究所も封印された。大事そうなものはどっかに運び出されて、ちょっとした道具だけを残し、窓は分厚い木の板が叩きつけられ、家のドアは鎖でグルグル巻きにされて、文字通り封印されたんだ。俺は親戚筋に預けられて、そこから普通の学校に通い始めた。でも、上手くやれるわけがなかった。俺はエロゲーで育って、エロゲーでしか社会も常識も文化も知らない(あとネットか)。両親はあんな調子だったし、友だちはメカ・チンパンジーしかいなかった。ドコに行っても上手くやれなかった。

 それでも社会に出た。今に至る。俺は今、自殺のために戻ってきた地元で、あいつと再会した。メカ・チンパンジーと。



 「変わったね」

 俺が言う。ヒマワリ畑の少女……いや、最終形態に進化して、今や人間の少女と変わらない姿になったメカ・チンパンジーに。

 「うん。自分で自分を改造した。研究室には、たいしたものは残っていなかったけど、それでも人工皮膚と人工筋肉の培養には成功したよ。それで、こんなふうに」

 メカ・チンパンジーはその場でくるっと回った。

 「人間になれた。少なくとも、見た目と性能のうえではね」

 次にメカ・チンパンジーは、俺の方を見て言った。

 「怒ってる? 私が、きみの両親を殺したこと」

 「いや、別に」

 俺は即答した。本音だった。だって両親を殺したことは、本気でどうでもよかったから。それより気になること、大事なこと、話したいことが山ほどある。

 「ここで、ずっと待ってたの?」

 「うん。きみに消えろって言われてから、ずっとここにいたよ。森の中で、わたしを捕まえられるやつなんて、いないもんね」

 「というか、きみって女だったのか?」

 「ううん。それは違うよ。単に、きみが好きな見た目になっただけ。生物学的に言うと、わたしはオスでもメスでもない。だって機械だもん。この顔だって……」

 メカ・チンパンジーが自分の頬を引っ張った。汗一つない肌色のそれは、20センチほど伸びた。

 「単なるゴムだよ。声も、身長も、体重も、すべて取り替えられる。この恰好をしているのは……これが、きみが好きな容姿だったから。それだけ」

 するとメカ・チンパンジーは、はにかんで、

 「好きだったでしょ、こーいうキャラ♪」

 ああ、好きだった。というか今でも好きだ。完璧な、自分にとっての理想の姿だ。背後に広がるヒマワリ畑も含めて。

 「きみが何処へ行ったかは分からなかった。探しに行くこともできなかった。去年にはこの体が完成したけど、それまでメカ丸出しの姿だったからね。だから……信じることにしたんだ」

 メカ・チンパンジーの白く細い指が、ヒマワリの花びらに触れた。

 「きみがあの時に言った言葉を。『僕にとっては、あのヒマワリ畑が“命をかける”価値があるものです。この人生が終わっても、ああいう場所に辿り着けたらいい』って、きみはあのとき、そう言ったから。ここにいたら、いつか、ひょっとしたら……もしも、きみが、自分の人生を終わらせる時が来たら、ここに来るかなと思って」

 俺は、言葉が出なかった。その代わりに心臓が高鳴る音を聞いた。メカ・チンパンジーは、何年も待っていてくれた。たった一言、俺が子どもの頃に吐いた言葉を頼りに。俺が大好きだったものを守りながら、俺とまた会える日を待っていてくれたのだ。両親の死後に預けられた親戚の家でも、学校でも、会社でも、インターネットでも、そんな友だちはいない。ここまで俺のことを想ってくれる存在は――

「好きだよ、きみが」

 そう言ったメカ・チンパンジーに、俺は駆け寄る。これまで恋愛経験がないから、ここから先をどうするべきかは知らないし、分からない。でも、やりたいことは決まっていた。俺はメカ・チンパンジーを抱きしめ、答えた。

 「俺も、お前が好きだ。大好きだ」

 俺はメカ・チンパンジーを……いや、俺を愛して、俺を想ってくれた、彼女を抱きしめた。愛しくてたまらなかったから。

 「恋、しよう」

 メカ・チンパンジーが言った。俺は「ああ」と答えた。

 でも、その時だ。俺は気が付いた。抱きしめた彼女の体は、恐ろしく冷たかった。表面こそゴムの弾力があったが、それは冷たい金属の塊そのものだ。先ほどまでの燃えるような感情が、急速に冷えるのを感じた。そして俺は、考える。

 俺が彼女と恋をしていいのだろうか? 恋をして、もしもセックスをしたら……どうなるのだろうか? 子どもができるのか? それはメカ・チンパンジーなのだろうか? それとも、人間とメカ・チンパンジーのハーフ? そうなったら、どうなる? ふと父親の言葉を思いだす。「ロボットの繁殖」そして両親の死んでいる姿も浮かんできた。彼女はどこまで行ってもメカ・チンパンジーなんだ。そして恋をした結果、メカ・チンパンジーが増えたら? もちろん恋と繁殖への願望はイコールじゃないと分かっている。でも、もしも父の言う通りだったら? メカ・チンパンジーが繁殖して、増えようとしているなら? それは人類にとって……。

 そこまで考えたところで、俺はやめた。だって、こう思ってしまったからだ。

 「知らねぇよ、勝手にしろ」

 俺は決めたんだ。恋をする。このメカ・チンパンジーと。人類がどうなろうが、俺がどうなろうが、そもそも恋なんてやったことないし、なんなのかも分からないけど、全部全部、知ったこっちゃない。俺は生きて、恋をする。

 俺はもう一度メカ・チンパンジーを思い切り抱きしめた。すると俺の体温が移ったせいだろうか。その金属の体は、さっきより少しだけ熱かった。

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