失恋と因習村、そしてマイアミ市警

1.


 三河 美香梨(みかわ みかり)が騙されたと気が付いたのは、22歳のときでした。いつから騙されていたかと言うと、14歳のときからです。

 美香梨は福岡県 北九州市の山奥の村で生まれました。実家は一粒何千円のレベルのイチゴを育てる農家です。森と川だけが遊び場で、小さい頃は森を駆けずり回って虫を捕まえて、汗だくになった体で川に飛び込んでサッパリご機嫌になって帰宅したものです。けれども14歳になってスマートフォンを手に入れると、地元のすべてが東京に生きる若者たちには見劣りするようになりました。インスタに毎日のように上がる誰かの自撮りは、異世界のお姫様のように見えました。何万人というファンを抱えるインフルエンサーたちの大ゲンカは、神々の戦いです。泥沼のゴシップすら、キラキラと見えました。ハロウィンの日には渋谷のスクランブル交差点を定点カメラで眺めて、ここに加わりたいと強く祈ったものです。

 やがて美香梨は上京を決意します。小・中・高校は山の向こうの学校に通いましたが、大学は東京に出ようと。

 美香梨は猛勉強しました。挫けそうになると、スマートフォンを開きました。とりわけ憧れたのは、いわゆる地雷系・病み系のファッションです。

 澄んだ空気と美しい緑に覆われた地元は、何もかもがとても健康的です。「病み」なんて存在する余地がなかったのです。戦時中のマジ地雷が見つかることはありましたが、地雷系の服は地元のどこを探しても手に入りません。それに美香梨の両親はバリバリの農家で、早寝早起きの超健康体です。美香梨も毎朝のラジオ体操に付き合っていました。そんな健康すぎる環境だったから、美香梨は「病み」に憧れたのです。病みまくった服を身に纏い、ストロング缶で酔い潰れ、夜の新宿をさ迷う。そんな自分を夢見ました。美香梨自身は超短気で、口も出れば手も出ました。ムカついたらすぐに言い返して、必要なら殴り合いもします。でもそれはそれとして、「私だって、東京に出りゃ変われるんちゃ。東京に出りゃあ……」

努力は実り、東京の大学に進学が決まって、無事に引っ越すことができました。

上京後は、大学そっちのけでバイトを入れまくり、その給料で欲しかったアイテムを次々と買いました。当時流行っていた通りに、ストロング系の缶チューハイにストローを突っ込んで、美味しくないなぁと思いながら飲み、噂に聞くホストクラブに行きました。そうしてトキヤと出会ったのです。19歳、大学1年生の夏でした。

 美香梨は知っていました。ホストは女を食い物にするものです。本気で恋するなんてありえないと思っていて、事実、出会った当初はまったく好きでもなんでもなく、手玉にとって遊ぶつもりでした。お店に顔を出さなかったり、自分から連絡しないでいると、トキヤはイチイチ動揺するのです。焦らすだけ焦らせて会うと、「良かった、嫌われたのかと思って心配したよ」半泣きで抱き着いてきました。トキヤは20歳です。美香梨の地元で20歳となれば、もう立派な大人です。こんな頼りない男が、本当にホストの世界で生きていけるのか? それに、お店での先輩にアゴで使われているトキヤを見ていると。可哀そうで、不快だとも思いました。美香梨は人が叱責されているのを見るのが嫌いでした。店の先輩連中を殴ってやろうかとも思いましたが、「暴力は北九州で卒業したので、やめましょう」と自分に言い聞かせました。

 なので美香梨は、トキヤに自分の相手をさせるようにしました。そうすれば、トキヤが誰かに叱られている不快な光景は見なくて済みます。

 トキヤは感謝してくれたのでしょう。美香梨に会うたびに弾けるような笑顔で言いました。「こんなオレに、ありがとう」そのたび美香梨は「ホストなんだからさ~、もっとシャンとしなさいよ」と返す。そんな夜を何度か過ごすうち、トキヤが言いました。「オレ、美香梨が好きだ」そして「お金が貯まったらホストを辞めて、真面目な仕事に就いて、美香梨と一緒に家族を持ちたい」。美香梨は「その方がいいよ」と答えて、トキヤと初めてヤることをヤって、同棲を始めました。

 美香梨は運命と使命感に燃えました。「ホストの世界からトキヤを救い出さなければ」そう強く思ったのです。大学は眼中から消え、それまで以上に一生懸命にバイトして、お金を稼いで、お店でトキヤに使いながら、トキヤと同じ口座に貯金しました。大学を除籍になって、もっと稼げる夜職に就いて、お金も借りました。すべてはトキヤを夜の世界から救い出すために。

 けれど美香梨がお金を渡す生活が続くこと数年、次第にトキヤは外泊が多くなりました。「昨日の夜、どこに行ってたの?」と尋ねると、逆ギレされました。そのとき美香梨は、とても嫌な想像をしました。「あれ? 私って騙されている? もう何年も……」。そう思うたびに「いやいや、私に限って」とストロング缶をガブ飲みして寝ました。泥酔して寝る生活を一か月ほど続けたすえ、美香梨は行動を起こします。トキヤの「1人の時間」を調べたのです。するとトキヤが「将来のための2人のお金」を8割くらい使い込んでいて、別に彼女が4人ほどいることが分かりました。そして美香梨は、その事実以上に、これらのことがあっという間に分かったことに心がゾクゾクと震えました。トキヤは隠してもいなかった。隠す気もなかった。そして美香梨は気が付いたのです。『ホストの世界に馴染めない、心優しくて、繊細で、臆病で、実は真面目なトキヤ』は、そういうキャラだったのです。

 ある夜、美香梨はトキヤに思い切って訊きました。

「私のこと、騙してたの?」と。答えは「その通りだよ」でも、「騙してた、ごめん」と謝られても、どっちでもいいと思いました。もう自分がトキヤにとって大切な存在ではないと確信していました。せめて対等に接してくれればと思ったのです。けれど答えは、

 「うるせぇなぁ、テメェだって楽しかっただろ? クソ田舎から出てきて、オレみたいなのと過ごせるなんて、それだけで夢みてぇなもんじゃん。これ以上テメェの夢をオレに押し付けねぇでくれる? めんどくせぇから」

 翌朝の朝4時、美香梨はそっと目を覚ましました。

 眠っているトキヤの顔を見ました。安らかに寝ています。その傍らには目覚まし時計がありました。美香梨は考えます。もしも、この金属製の時計でトキヤを殴ったらどうなるでしょう? きっと鼻は45度以上に曲がるでしょう。鼻血を吹き出しながら、「ふんごっぱぁっ、ごっぱぁっ」と、詰まった風呂の排水溝みたいな悲鳴を発し、床をのたうち回るのです。立派な暴行罪ですが、トキヤが警察に駆け込む可能性はありません。だってトキヤは、大麻の常習犯だったから。ごくごくわずかですが質の悪いものを売って、小遣い稼ぎもしていました。警察を呼べば、彼は(被害者として扱ってもらいつつ)最終的には大麻で捕まるでしょう。「自分が捕まってでも、あの女(美香梨)の罪を暴く!」ような度胸も根性も、彼にあるとは思えません。

 しかし、美香梨は殴るのはやめておきました。昔なら確実に殴っているところなのですが、大目に見ようと思ったのです。それに騙されたのはムカつきますが、楽しかった思い出もゼロじゃないから。そう自分に言い聞かせると、大人になったような気がしました。

 そうして美香梨は何もしないまま、コロコロバッグを引いて家を出ました。新幹線に乗って、福岡県は北九州市の小倉駅で降りて、高速バスに乗りました。外はすっかり真っ暗です。一面の闇を眺めながら、美香梨はトキヤと初めてヤった日のこと、大麻入りのタバコに火を点けた夜のこと、「これで共犯だね、オレら」と悪戯っぽく笑うトキヤの顔、あのときの暖かな時間と、それにすっかり酔っていた自分を思い出していました。そして、全部が嘘だったのだと思うと……。

 美香梨は静かに泣きました。14歳のときから憧れた東京に騙されたことが、悔しく、悲しく、惨めでした。けれど帰り着いたら全部忘れて、笑顔で生きていこうとも思いました。


2.


 福岡県、北九州市、高杢村たかもくむら。人口は1000人ほど。ここが美香梨の故郷です。数年ぶりの地元は、何も変わっていませんでした。村を囲む森は深く美しい緑のままで、川の水も相変わらず透き通っています。夏の日差しは厳しいのですが、山から絶え間なく涼風が吹くので、不思議なほど不快感はありません。

 不思議といえば、両親の反応もそうでした。美香梨は実家に戻ったら、絶対に両親と揉めると思っていました。しかし両親は玄関を開けた彼女を見るなり「おかえりなさい」と笑顔を浮かべました。そして美香梨は自分のことを――大麻の吸引以外は――隠さず話しました。それでも両親の反応は、ただ一言。

 「帰って来てくれて、ありがとう」

 数年ぶりに戻った地元は、美香梨が思っているよりずっと優しかったのです。近所のおじいちゃん、おばあちゃんは、「良く戻ったね」といったことだけで、説教をする気配も見せません。美香梨は地元に戻ると、散々な目に遭うと想像していたので、これには少し拍子抜けしました。

 美香梨に厳しいことを言う人間は、ただ1人だけでした。それは彼女の幼馴染で、元カレの春日井 理人(かずがい りひと)という男です。

 美香梨は地元に帰ると、まず理人にメッセージを送りました。そして「会おう」となったのです。けれど数年ぶりの再会、それも第一声で、理人はこう言いました。

 「よう、美香梨。お前、東京で男に騙されて、帰ってきたんやろ」

 すかさず美香梨は言い返します。

 「イイ経験になったちゃ。男っちゅうのは、福岡も東京もロクでもないってな。いいや、アレやったら、元カノ相手に田舎特有のチンケな当てこすりをしてくる男よりは、東京のホストの方がマシかもしれんなァ」

 「十倍くらい言い返してくるやんか。相変わらずヒネた性格しちょる」

 「お前に言われたくないちゃ」

 そういうと、理人が手を差し出しました。

 「おかえり。元気そうで何よりやワ」

 美香梨はその手を握って返します。

 「ただいま。そっちも変わってないな」

 故郷と同じく、理人もまた昔のままでした。好き勝手に乱暴を言っても、適当に返してくれる。大嫌いだったのが、大好きになって、そして別れた、あの頃のままだったのです。


3.


 理人は同じ村で育った、数少ない美香梨の同世代です。人間的には正反対だったのですが、理人が隣町の連中にイジメられているとき、美香梨がイジメっ子をブチくらして、理人を助けてあげました。それがキッカケで何となく話すようになりました。

そしてある日、理人から告白されたのです。

 「美香梨、お前って好きな人っておるんか?」

 「おらんよ」

 「だったら、オレが好きって言ったら、どうするか?」

 「はぁ?」と思いました。何がどう「だったら」なのかも分かりません。けれどこのとき美香梨の頭の中には、「彼氏って、いたら実際どうよ?」という、一種の知的好奇心が湧き上がってきたのです。なので、

 「あ~、付き合ってもいいよ」

 テキトーに返事をしました。すると、

 「マジでか!? やったー!」

 理人はそれまで見たことがないほど、感情を爆発させました。

 そうして2人は付き合いました。

 理人は何か面白いことを知ると、すぐに美香梨に教えるようになりました。インターネットに落ちているネタがほとんどです。美香梨には何が面白いのか分からないことが多かったのですが、楽しそうに話す理人を見るのは、悪い気がしませんでした。それに中には当たりもあって、腹を抱えて笑いもしました。

 そして美香梨には、笑いには笑いで応えたくなる、ある意味でのサービス精神のようなものがあったのです。美香梨もまた面白いと思ったことを教えて、2人で床を転がって爆笑することもありました。

 話題はインターネットのネタだけではなく、真剣な話になることもありました。

 理人の祖父が死んだときのことです。美香梨は通夜の席から理人を連れ出し、

 「泣いていいんやない?」

 そう美香梨が言うと、理人はすぐに、

 「泣くか。オレ、もう高校生やぞ」

 理人が震え、その場に座り込みました。

 「なんで分かるんかちゃ」

 理人はオイオイと声を上げて泣きました。葬式が全て終わったあと、理人は学校で「ありがとう」と美香梨に言いました。

 こんなこともありました。台風が来て美香梨の飼い猫のチコが消えたのです。チコは丸々と太った元野良の三毛猫でした。

 美里香は部屋で、ずっと手を合わせていました。もしも山の神様がいるなら、チコを無事に返してください。お願いします、と。

 すると窓の外から、

 「おい! お前んところの豚ネコ、見つけてきたぞ! はよ開けてくれ!」

 理人でした。理人は森の中にチコを探しに行ったのです。理人は全身が切り傷だらけでした。荒れ狂う木の枝や葉っぱで切った傷、チコに思い切り引っ掻かれた傷。理人は胸にチコを抱いていました。そしてずぶ濡れのチコを理人から手渡されたとき、美香梨は声をあげて泣きました。翌日、両親に「台風が来とるのに山ん中に入るアホがおるか」と死ぬほど叱られて寝不足気味の理人に、ありがとうを言いました。

 そんな日々が続くうち、美香梨は理人を好きになったことに気が付きました。これが「好き」という感情なのかどうか、最初は悩みました。けれど「理人がいない人生は想像できない」と素直に思えたとき、「ああ、好きなんだ」と実感したのです。そして2人は一緒に笑って、泣いて、また笑って、高校生活を過ごしました。

 けれど、卒業が見えてきた、ある日の帰り道で美香梨は切り出しました。

 「私は東京に出る。理人、そしたら遠距離恋愛になるね」

 理人は答えません。一方の美香梨は、

 「続けられんのかな?」

 そう言ったあとに「しまった」と思いました。けれど思ったことを包み隠して喋るには、2人は仲良くなりすぎていたのです。

 「お前、相変わらず痛いところ突いてくるなぁ」

 理人が漏らしました。

 「正直、難しいと思う。オレは東京に出られんから」

「なんで?」と美香梨が尋ねます。

 「オレ、この村が好きなんよね。できれば一生、ここで生きていきたい。ここで生きて、美香梨と結婚して、それで……」

 「結婚?」

 あまりに急な発言に、美香梨は驚きました。同時にカチンと来ました。自分には上京して青春を謳歌するという夢があります。憧れの、なりたい自分があります。なのに、このまま地元に残って結婚しろと? 目の前に見えていた光り輝くトンネルの出口が、急に塞がれたような気分がしました。そんなの冗談ではありません。

 「結婚ってなん? そんな先のこと、もう考えよるん? 1人で勝手に?」

 「勝手に? いやいや、現実問題としてあるやろ? 高校卒業したら、すぐ成人して、大人になるんやから。人生全体のことを考えんと……」

 「高校卒業したら、成人したら、大人かちゃ? そんな早いもんやないやろ、人生って。私はしたいことが山ほどあるんちゃ」

 「いやいや、現実的に考えても、人生って、そういうもんやない?」

 「私はちゃんと現実的に考えよるちゃ。人生って、そんなもんやないヨ」

お互いに、余計なことを、必要以上に感情的に喋っている自覚はありました。話せば話すほどに、話が食い違っていく感覚もありました。けれど美香梨も理人も、喋るのを止められませんでした。そして決定的な質問をしたのです。

 「私と東京に来るって選択肢はないんか?」

 「それは……」

「この村に一生おるって、そう思っとるんか?」

「それは……」

 理人がうつむいてゴニョゴニョとなったとき、美香梨は結論を出しました。理人は「東京に行くな」とも、「ここに残れ」とも言いません。その態度が美香梨には無性にイラっときたのです。どんな形でも「自分と一緒にいる」と言って欲しかったのに。

 だから、美香梨は言いました。

 「別れよう。私ら、たぶんそれが一番いいよ」

 理人はうつむき、けれど頷きました。

 「そうやろうな。オレら、それが一番いい」

 ちょうどそのとき、空から雪が降ってきました。傘を持っている理人が美香梨を家まで送って、「またな」「またね」といつも通りの挨拶をしました。そうして高校生だった2人は別れたのでした。


4.


 プシュっという缶ビールを開ける音と同時に、

「元サヤにだけは戻らんけんね、私は」

 美香梨は数年ぶりに会った理人に、まず伝えました。

 すると理人も首を横に振って、「オレもないわ」と答えました。そして部屋のクーラーの温度を1度、下げてから、近況を説明しました。村の山を越えた場所にある役場に勤めていること。そして、職場でお見合いが毎月1件は転がり込んでくること。

 「けっこう充実してて、けっこう忙しい。ま、それなり充実してる感じやな」

 「そら何より。で、会いに来たのは何よ?」

 「お前のこと、村の連中から色々と聞いたんよ。で、落ち込んでるんやないかと思って来たんやけど……全然そんなことはないみたいやな」

 美香梨は理人の言葉で気が付きました。村のみんなは優しいようで、やはり自分を噂話の種にしていると。

 美香梨はビールを一気に空けました。ストロング系に慣れているせいか、苦みが強くて苦手だったはずのビールが、するすると喉を通過していきました。

 「言ったやろ。イイ経験を積んで、帰ってきただけちゃ」

 理人もビールを一気に行きます。そして2本目に口をつけます。

 「そんだけ強がれるんやったら平気やな。来て損した」

 美香梨も2本目に行きます。

「強がりやないし。ホントにそう思ってるヨ」

 「そうかそうか、そうやったらええ」

 理人はビール缶を美香梨の方へ向けました。美香梨はそれに応えます。2人はこちんとビール缶で乾杯すると、また一気に2本目を空けました。そのまま家飲みは続き、ビールが10本まで行ったところで、「そろそろ帰るワ」と理人が席を立ちました。「見送る」と美香梨は理人と階段を下りて、玄関へ向かいます。

 そして理人は靴を履くと、急に美香梨の方へ向き直って……。

 「なぁ、美香梨、これだけ言わせてほしい。騙されたことは悪くない。いつだって、何だって、騙したやつが悪いんよ」

 呆れの溜息と共に、美香梨が答えます。

 「やけん、騙されたとか、もうどうでもいいんって」

 すると理人は、まるでシラフのような目つきで、

 「どうでもよくねぇちゃ」

 そう言って続けました。

 「騙されたもんは、騙されたと認めんといかんよ。けど、認めても、自分を責めちゃいけん。絶対ね。自分を責めるなら、騙したヤツをブチくらした方がマシや」

 美香梨は「はいはい。さっさ帰れ」と言いながら、理人の背中を押しました。そして同時に、昔を思い出しました。そういえばこの男は、変なところで正義感が強いのです。義憤に駆られ易いというか、他人のことで本気になって怒る面倒な男なのです。昔イジメられていたのも、ケンカが弱いくせに、イジメっ子たちが駄菓子屋で万引きしているのを咎めたからでした。

 「田舎モンがいっちょ前に説教すんなちゃ」そういって美香梨は理人を軽くこづきました。そして、

「東京で私が経験したことは、全部ひっくるめてイイ思い出よ」

 「なんやそれ。騙されたのが、どこがイイ思い出か。殴っとらんのも理解できんな。お前やったら、その男をブチくらして帰るのが普通やろ」

 「人をなんやと思っとんかちゃ。暴力を振るうのは、高校で卒業したんや」

 美香梨も苦笑しました。すると理人が、

 「でも、スッキリせんやろ?」

 「そりゃ……」

 もちろんスッキリはしません。実を言うと、今でも美香梨は思うのです。あのときトキヤを殴っておくべきだったのかもしれないと。

美香梨が黙っていると、理人が「すまん、今のは余計やった」と頭を下げました。そして、わざとしらく手を叩いて、

 「そういえば、今度なぁ夏祭りがあるらしいぞ」

 まったく繋がっていない「そういえば」でしたが、美香梨は突っ込まずに話に乗りました。

 「あん? そんなんやってなかったやろ」

 「そうそう。何十年かに一度のお祭りらしくてなぁ。山の神様がどうたら言うやつで、村の人たちで盆踊りみたいなことするらしい」

 聞いているうちに、美香梨は昔のことを思い出しました。

 「ああ、なんかあった。私ら『子どもやから』って言われて、連れて行ってもらえんかったやつ」

 「そう、多分それ。それで、もしよかったら……」

 「元サヤには戻らん。言うたやろ」

 すると理人は「そんなつもりやなくてなぁ」と言いました。

 「元サヤには戻らない」その美香梨の言葉は本音です。けれど理人の態度があまりも昔のままだったので、美香梨もまたあの時のように応えてしまいました。

 「どうせヒマやけ、いいよ。一緒に行っちゃるワ」


5.


 お祭りの日がやってきました。けれど村は静かなものでした。お祭りといえば、騒ぐものです。出店が出たり、お神輿が出たり、踊ったりするものです。けれど当日になっても、それらしい気配はありませんでした。

 それに、いつも聞こえてくる子どもの声が聞こえなくなりました。この時間帯には、まだ外で遊ぶ子どもたちの声がするものです。けれど今日は、昼くらいから子どもの声も姿も消えました。

「そういえば昔に祭りがあった日も、自分は公民館のようなところで、お泊り合宿みたいなのをやったような?」

 美香梨は時計に目をやります。理人との待ち合わせの時間まで、あと1時間です。部屋のベッドの上に寝転んで、何をするわけでもなく天井を眺めます。こうしていると、まるで高校生の頃に戻ったようでした。

 「ずっとこうやってたなぁ」

美香梨は、この村を出たいとずっと思っていました。そして実際に東京に出て行ったのに、結局戻ってきて、またこうして天井を眺めているのです。けれど、もうあの頃みたいに、どこかに行く予定もないし、どこかに行きたいとも思いません。

「なんもないなぁ」

 美香梨は呟きました。体重は51キロありますが、今は0キロのようにも思えます。もしも目の前の天井がなかったら、そのまま糸が切れた風船みたく何処かへ飛んで行きそうでした。このままずっと宙ぶらりんで、どこにも行かずに生きていくのでしょうか? そう思うと少しだけ怖くなってきました。けれど考えても考えても、行きたい場所なんでないのです。だって私は行きたい場所に行って、騙されて帰ってきたのだから。

 そのとき、スマホが鳴りました。見て見ると、理人からのメッセージでした。ただ、それは

 「にげろ」

 その一言でした。

 美香梨は意味が分かりませんでした。すぐにメッセージアプリを開きます。理人のメッセージに既読マークがつきました。「何それ?」と返すと、すぐに理人から返信が来ました。

 「いいから」

「すぐにげろ」

 相変わらず意味が分かりません。逃げろ? 何から? どこへ? 聞きたいことは山ほどあります。戸惑う美香梨を無視して、ポコンポコンと理人からメッセージが届きます

「でんわむり」

 「ばれるから」

 「まわりひとがいる」

 「にげろ」

 「むらから」

 「とおく」

 「いま」

 窓から山の涼風が吹きこんできます。美香梨は背中に汗で貼りついたTシャツが、急速に冷たくなっていくのを感じました。理人の身に、何かが起きている。それは何かとても厄介なもので、その脅威は自分の方にも向いている。

 美香梨はベッドから起き上がりました。鏡を見ます。Tシャツに高校時代のジャージのズボン。このまま外へ出かけられる格好だと確認します。けれど自分の後ろに、いつの間に部屋に入っていたのか、両親が立っていました。2人は裸でした。母は陰毛だけを真っ赤に染めています。

 「父さん? 母さん?」

 そういって振り返った途端に、2人が美香梨に飛びかかってきました。毎日の過酷な農作業で鍛えられた2人の腕力は強く、美香梨は組み伏せられ、そして口に水びたしの布をあてがわれました。途端に不快な味が口中に広がります。布を濡らしていたのは、水ではありません。森の香りがしました。ただしそれは、腐った森の匂いです。腐った木の根、動物の糞尿、重なった落ち葉、それらが何年も溜っている水たまり。そんなものを丸ごと口に突っこまれた感覚でした。

 不快な森の匂いの中で、

 「なんかちゃ、これ」

 美香梨はそう呟き、気を失いました。


 6.


 美香梨が目を覚ますと、お祭りの会場にいました。なぜお祭り会場だと分かったのか? だって目を覚ますきっかけになったのが、音が割れまくったジッタリン・ジンの『夏祭り』だったからです。世代的にジッタリン・ジンは知りませんが、『夏祭り』は知っていました。「太鼓の達人」で何度もやったからです。

 爆音で『夏祭り』が鳴る中で、次に目に入ってきたのは裸の村人たちでした。この村の人口は1000人ほどですが、その全員が裸のまま、手にたいまつを持って踊っていました。場所は村で一番広いの神社の境内です。ぎゅうぎゅうに詰まった人間たちが汗だくになりながら『夏祭り』で踊っていたのです。しかも男も女も全裸で。

 そして美香梨は、自分が白装束を着せられていることに気づきました。さらに手足を荒縄で縛られて、一畳ほどの木の板に大の字に縛り付けられていました。木は腐っているようで、また嫌な臭いがしました。ここでようやく、自分は神社の本殿にいるとも気が付きました。

 「おおい、うちのが目を覚ましたぞ」

 不意にしたのは、美香梨の父さんの声でした。

 「父さん?」

 美香梨は尋ねます。けれど父さんは、たいまつをグルングルン振り回しながら、「目を覚ました! 目を覚ました!」と叫ぶばかり。大好きな玩具を手にしたチンパンジーみたいです。するとチンパンジーが他にも何匹もやってきました。見慣れた顔でした。ずっと昔から自分に優しくしてくれたご近所さんです。彼らは美香梨がしばりつけられた板を持ち上げると、境内で踊る1000人のうえに投げました。1000人の熱狂の中を、美香梨を載せた板が渡っていきます。まるで音楽フェスで、観客の上をサーフィンするように。

 人々はさらに熱狂しました。ジッタリン・ジンの『夏祭り』を歌い、踊り、叫んでいます。痙攣して、泡を吹いている人もいました。これまでの人生で美香梨が見たことがないほど盛り上がっているお祭りです。

 けれど美香梨だけは置き去りでした。何も分からないまま、彼女を載せた板はドンドン群衆の中を流されて行きます。今の彼女には何もできません。何が起きているかを理解できないから、ただただ言葉を失い、字通りの人波に流されてゆくだけです。すると、

 「今夜ようやく、外から血が入る」

 誰かが叫びました。

 「外からの血に、山の神が宿る」

 声は続きます。それは美香梨にも、聞き覚えのある声でした。

 「私の息子が、山の神の依り代と交わる」

 美香梨は気が付きました。「ああ、そうだ、この太い声は、理人の父親の声だ」

 理人の父親、春日井 談野芯(かずがい だんのしん)は元相撲取りです。身長は2メートルもあって、体重は今でも100キロを超えます。しかも脂肪が少なく、ほとんどが筋肉でした。横綱になれる素質があったと評判でしたが、気に入らない親方を半殺しにして村に戻り、今は普通に椎茸を育てながら、村長をやっています。

 そんな談野芯が野太い声で叫びます。

 「よく見ろ! それが今宵の依り代だ!」

 美香梨を載せた板は、境内をぐるりと回って元の場所に戻りました。するとそこにはさっきまでいなかった理人がいました。彼もまた白装束を着ていて、両脇を男たちに抱えられていました。唾がダラダラと口から足もとまで落ちて、目は左右で違う方向を見ています。顔が紫色で、髪は汗でグシャグシャ。「うげぇうぐっくくっけっ」と唸り声も上げていたので、美香梨はゾンビのようだなと思いました。生きているか死んでいるかも微妙なところです。

 「今から息子が、交わる。交わるんだぞ。みんなで祝おう」

 談野芯がそう怒鳴ると、1000人の全裸の人々が歓声を上げました。同時に美香梨の白装束が乱暴に剝ぎ取られます。履いていたはずの下着は消えていました。そして裸にされるや否や、理人が彼女のうえに倒れ込んできました。目の前にやってきた理人の口からは、両親に口を塞がれたときと同じ匂いがしました。不快な森の匂いです。思わず顔を背けると、美香梨は自分の両親が「よかった、よかった」と言っているのを見てしまいました。美香梨は「助けて」と言いました。けれど両親は笑いながら、その場で抱き合い、舌を絡め合い始めました。

 そして美香梨は見てしまいました。拘束されている自分のところへ、巨大な斧が運ばれてくるのを。


7.


 フェラーリ812スーパーファストは最高で時速340キロに達する。文字通りのスーパーカーだが、入り組んだ山道を進むには、その性能の何百分の一も発揮できなかった。むしろ踏み込めばたちまち時速300キロを超える車で、時速40~50キロしか出さずに走ることは、跳ね馬の異名を持つこの車にとっては負担であり、運転手にとっても、このうえないストレスだった。

 「くそったれ。真っすぐなハイウェイは何処にあんだ」

 カーブを曲がるたびに、運転するトッドが悪態をつく。彼はただでさえイライラしていた。

 「あのベルトランのクソガキ、死んだ後までオレらに迷惑をかけやがる。なんだって日本で迷子になんなきゃなんねぇんだ」

 ベルトランとは、メキシコの麻薬カルテルを仕切るカルロス・ベルトランのことだ。やつは合成麻薬のアジア・アメリカ間での販売ルート開拓を計画していたが、拠点をマイアミに作ったのが悪手だった。トッドの所属するマイアミ市警はたちまちベルトランの捜査を始めて、その拠点を押さえた。しかしベルトランは日本へ逃亡した。本来ならば捜査は打ち切りだが、マイアミ市警の執念深い問題児コンビは、獲物を見逃すようなタマではない。特に仲間を撃ったクソ野郎は、たとえ南極に逃げようが落とし前をつけさせる。

 トッドは相棒のカーティスとベルトランを追って日本までやってきた。すると2人のバカを放っておけないと、マイアミ市警の仲間たちも同行を申し出た。ほぼ軍隊同然に武装をしたメンバーは、軍の手引きで日本に入り、ベルトランの隠れ家のある福岡県は北九州市に入った。そして彼を襲撃し、その頭をブチ抜くことに成功した。すべて丸く収まったはずだったのだが。

 「お言葉ですがね、お前さんがベルトランの頭を撃ち抜いたあとに『オレらは自分の車で帰ります』なんて言わなきゃ、オレらはもう戻って眠れてたんだよ。お気に入りのフェラーリをブッ飛ばしたい気持ちは分かるけどよ、今こうしてオレらが迷ってんのは自業自得だかんな」

 助手席に座るカーティスは眩暈を押さえながら吐き捨てた。今までの人生でトッドの無茶に付き合って酷い目にあってきたが、今回も最悪だ。彼は日曜に家族と教会に行くし、神の存在は疑っていない。しかしトッドのバカに巻き込まれるたび、神の存在を疑ってしまう。神様、どうしてこんな暴れん坊で無計画な男が相棒なのでしょう? オレには妻もいて、娘は2人もいます。あとはちょっと正義をなして、平凡に生きていたいだけなのに。

 「はぁ!? カーティス、ちょっと待て。迷ってんのはオレのせいだってか!?」

 「誰がどう考えも100%おたくのせい! テンション上がりすぎなんだよ!」

 「お前だってノリノリで助手席に乗り込んだじゃねぇか。勝ち誇った顔で、オレの車に! まるで自分の車みてぇな顔して! テンション上がりすぎなのはそっちだろ!」

 「アホみたいに銃を撃ちまくって、興奮しない方がおかしいだろ!」

 「あーあー! もう論理が破綻してる! 『お前もオレも最高に興奮してた』そうだな? なのに『悪いのはオレだけ』ってのはおかしいだろ? ああ?」

 「はっはー! こいつは驚いたね! お前の口から『論理的』! 車をブッ飛ばして銃を撃ちまくる野蛮な男が『論理的』ね!」

 「車をブッ飛ばすのも、銃を撃ちまくるのも、オレらの仕事だろ!」

 「違います―! オレらは法律を守る警察官!」

 職業倫理をぶつけ合いながら、さらに車は山道を進む。すると――。

 「おい、カーティス。あれ見ろよ。なんか村があるぜ」

 「ホントだ。それに燃えるみてぇに明るいな」

 「あそこに泊めてもらおうぜ。オレ、もう運転したくねぇよ。お前が運転を変わってくれんなら話は別だけどよ」

 「勘弁しろ。オレにフェラーリなんて運転できるかよ」

 「だよな。傷をつけたら、オレは大事なダチを殺さにゃならん」

 「オレも大事な友だちを警官殺しにしたくねーよ。そんじゃ行こうぜ」

 トッドの運転するフェラーリ812は暗闇を法定速度で進んだ。しかし、一つの不幸があった。彼らは日本語を「ありがとう」しか知らない。当然ながら草むらにひっそりと置かれた「高杢村」と書かれた石碑にはまったく気が付かなかったし、気が付いても読めなかった。


8.


 熱狂と絶望、そして爆音のジッタリン・ジンの『夏祭り』の中で、美香梨は真っ直ぐ前を見ていました。そこには理人がいます。ただしそれは理人には見えないし、理人だと信じたくありませんでした。

1000人の裸の村人たちが拳を突き上げながら怒鳴ります。

 「交われ、交われ!」

 理人の父の談野芯、美香梨の両親、村の老人ら、皆が手を叩いて叫びます。

 「交われ、交われ!」

 美香梨は自分に何が起きるか、嫌でも理解しました。「交わる」とは、つまりは理人と今すぐここでヤレということ。

 「いやだ」

 声がしました。

 「いやだ、いやだ」

 声が出ている場所は目の前にある顔、理人でした。

 理人は美香梨に覆いかぶさっていました。唾が垂れて、血があちこちから出ています。しかし理人は止まっています。そして強く噛み締めた歯が削れるカリカリという音と共に、ただ呟いていたのです。「いやだ」と。

 美香梨は、理人が抵抗していると悟りました。彼が何をされたのかは分かりません。ただ、恐らくは意識が曖昧になるような薬を盛られて、ここに村人の手で運ばれてきたのです。けれど彼は、抗って――。

美香梨は思いました。やはり目の前にいるのは理人です。

 村人たちが怒鳴ります。

 「はよ交わらせて、それで御両人の首ば落とさんと、祭りにならんやろうが」

 「うるせぇちゃ、もうちょっと待っとけや」

 一方の美香梨は、自分でも驚くほど冷静でした。

 今、この場所から逃げるなんて不可能です。自分は縛られていて、周りには1000人の狂った村人に囲まれていて、どうやって逃げればいいのでしょう?

そのとき談野芯がピカピカと光り輝く大きな斧を握り、片手にペッと唾を飛ばしました。美香梨には、これが何の祭りなのかは分かりません。けれど自分と理人がどうなるかは、だいたい分かってきました。ここでセックスをして、それが終わったら、あの斧で2人揃って首を落とされるのです。

美香梨は考えます。もうどうしようもない。ここで自分たちは殺される。あとは楽に死ぬか、苦しんで死ぬか、どちらかです。

「……殺される?」

そう思い至ったとき、途端に腹が立ってきました。

「なんで私が殺されんといかんのや?」

地元が狂ってた。東京で病みファッションなんてしてる場合じゃなかった。本当の狂気はここにあった。全裸で踊り狂う人々を眺めながら思いました。美香梨は「狂気なんてロクなもんじゃねぇ」と。そして、

「父さんも母さんも、村の連中も、ずっと私を騙しとったんか」

笑顔で舌を絡ませ合う両親に、怒りが湧いてきました。「娘やぞ、私は」と。そっちがそういうつもりなら、こっちもお前らを両親とは思わん。

 次に騙されていた自分がムカつきました。十何年も暮らしていたのに、この村の異常性に気が付かなかった自分がバカすぎると思えたのです。ですが、自分がバカなのはさておき、やっぱり騙した方が悪いに決まっています。

けれど騙した連中はお祭りで盛り上がって、騙された私は、理人とセックスをして、首を撥ねられて死ぬ。そんなの――。

「ふざけるなよ」

 美香梨は呟きました。そして理人の頬を撫でました。彼の口から美香梨の顔に、噛み締めすぎて折れた彼の歯が何本か転がってきました。美香梨は彼の口周りの血を拭って言いました。

 「私は今、すげぇムカついてきた」

 理人は言葉を発することが出来ずにいましたが、首を縦に振りました。

 そして美香梨は思いました。こうなったら、死ぬまで抵抗してやる。黙って殺されてなるものか。最後の最後まで暴れて、泣きわめいて、徹底的に逆らってやる。

 そう決意した、まさにそのときです。美香梨がこれまでの人生で聞いたことがないほどの猛々しいエンジン音と、続けて銃声が聞こえたのは。

 村人たちが叫びました。

 「何の音かぁ!?」

 「よそもんが入り込んできとる! 黒人2人組で、銃を持ってて、ポリスって書いた防弾チョッキを着ちょるぞ!」


9.


 トッドとカーティスにとって、日本のイメージはシンプルだった。寿司、忍者、『NARUTO』。だから村の入り口でフェラーリを降りたとき、目の前の光景に我が目を疑った。日本人がヌーディストだとは知らなかった。しかも燃えるたいまつを持って、村のあちこちで激しく踊り狂っている。その光景はアナーキスト、もしくはカルトそのものだ。流れている古い女性ボーカルのロックソングは悪くないが。

 「なあトッド、ここはマズいんじゃないか?」

 カーティスが言ったときには遅かった。村人の1人がフェラーリにぶつかってきた。そいつは窓に顔をのっぺりとくっつけ、

 「お前らなんとね? なんしよっとね?」

 意味の分からない日本語を怒鳴った。

 「カーティス、銃は?」

 「グロックが2丁。弾倉は、10か9。そっちはどうだ?」

 「同じくグロックが2丁。シートのうしろに、MP5と防弾チョッキがある」

 「準備しろ」

 「了解」

 2人は防弾チョッキをつけながら、辺りを見渡した。村人たちが恐る恐る、しかしジワジワと確実に集まって来る。近寄って来る連中の手に持っているものが変わり始めた。最初は、たいまつだった。しかし今や連中の手には鎌や斧、日本刀もある。

 「こいつらゾンビじゃねぇだろうな?」とカーティスが言った。

 直後、村人の1人が口火を切った。

 「よそもんば入れんな!」

 全裸の男が金槌を振り上げ、思い切り助手席を叩いた。ガラスが防弾だが、それでも蜘蛛の巣のようなひびが走る。

 「こいつら帰せんぞ! 殺せ!」

 村人らが叫びながら、2人の乗るフェラーリに突っこんでくる。その全員が酒とドラッグのカクテルを一気飲みした人間の目をしていた。

 「ゾンビだ!」

 悲鳴を上げるカーティス。一方のトッドは叩き割られた窓にキレた。

 「あ~~!? オレの車! ふざけんじゃねぇ!」

 怒りと共に、トッドはアクセルを踏み込む。跳ね馬は山道の徐行運転の鬱憤を晴らすが如く、広く開けた道を疾走し、目の前に立ち塞がった男たちを轢き飛ばした。

 「待て待て! 人を撥ねたぞ!」

 カーティスが叫ぶ。

 「人!? こいつら人か!? ゾンビじゃねーのかよ!」

 トッドも叫ぶ。

 「人に決まってるだろ! ゾンビってのは、言葉のあやだよ!」

 そのとき村人が車のボンネットに飛び乗ってきた。彼らは手にカマや石を持って、フロントガラスを叩く。

 「やっぱ人じゃないかもっ」

 カーティスが悲鳴を上げる。一方のトッドは「くそったれ」とハンドルを切った。車が回転する勢いで、ボンネットの上の連中は数メートル先へ飛ばされてゆく。

そしてフェラーリは村人を綺麗に撥ね飛ばし、ちょうど円形の空白地帯ができた。すぐさまトッドは車を降りて、両手に銃を構えて怒鳴る。

 「マイアミ市警だ! てめぇら動くな! オレらはただでさえ迷子になって頭に来てんだ! 『ミッドサマー』の真似事には付き合わねぇ! 死にたくなかったら今すぐ両手を上げて地べたに這いつくばってろ!」

 カーティスも助手席から飛び出し、銃を一丁、大事に構えながら叫ぶ。

 「皆さん! こいつの言ってることはマジです! こいつはアメリカの負の象徴でして、銃を撃たないと死んじゃう病気なの! 『アメリカン・スナイパー』みたいに病んでる! だからお願い! 今のは不幸な事故ってことで水に流して、ここからは暴力なしで行こう! 日本流の平和なやり方、たとえばZENやHAIKUの精神を思い出して! ほら、みんなZENもHAIKUも好きだろ!?」

 しかし不幸なことが2つあった。1つ目は、その場にいた村人たちの中で、英語が分かる人間が1人もいなかったこと。ゆえに2人のメッセージは何一つ響かなかった。そして2つ目は村人の武装だ。銃を構える2人に対し、村人たちは立ち止まり、躊躇を示した。しかし、

 「おおい! 持ってきたぞ!」

 そういって村人の1人が倉庫から引っ張り出してきたのは、第二次世界大戦で使用された旧日本軍の軽機関銃だ。骨董品のレベルだが、光り輝くそのボディは十分に手入れの行き届いていること、武器として十分に機能するとトッドとカーティスの2人にも見てとれた。

 「村の祭りを邪魔する奴らは許せん!」

 村人の叫びは日本語だ。当然意味は分からないが、何が起きるかは分かる。

 「伏せろカーティス!」

 「嘘だろ!?」

 トッドとカーティスはフェラーリの陰に跳んだ。同時に機関銃の轟音。骨董品は、その秘められた性能を存分に発揮する。たちまちフェラーリは穴だらけになったが、トッドにも幸運なことがあった。それは彼が愛車をこういう時に備えて改造してあったことだ。このボディは軽機関銃では撃ち抜けない。身を伏せておけば、ひとまずは盾として機能する。

 「カーティス! 署長に連絡! 応援を呼べ! てめぇの大事な部下2人が、このままじゃカルト村で殺されちまうぞ!」

 「了解! 日本は平和な国じゃねぇのかよ!」

 カーティスはスマホを来日中の署長につなぐ。署長は今、北九州にある自衛隊の小倉駐屯地に仲間たちと極秘で滞在している。スマホの先で「どうした? もう夜だぞ。パーティーのSHIMEのTONKOTSUラーメンも食べたし、私はゆっくりしたいんだ」と呑気な顔の署長に、「応援を! カルトかゾンビか、とにかくイカれた連中に撃たれてる!」そういってスマホを掲げて、機関銃を撃ちまくる村人を映す。

 一方のトッドは、銃を構えて反撃した。この村が何であるかは分からない。こいつらが何を考えて、どうして自分たちを殺そうとするのかは理解できないし、もちろん何故に全裸なのかも知ったこっちゃない。ただ、殺されるのはごめんだ。

 トッドは撃つ。冷静に狙いを定め、呼吸を止めて引き金を引く。すると1発の弾丸が、村人の頭を1つブチ抜いた。飛び散る脳しょう。ぶっ倒れる五体。その周りに広がる悲鳴と怒声。そいつを聞きながら、トッドは自分に言い聞かせる。オッケー、余裕。これはいつも自分がやってる仕事の通り。いつも通り、狙いを定めて引き金を引け。


10.


 美香梨は異変を感じ取りました。同時に、希望が湧いてくるのを感じました。お祭りは、明らかに乱れ始めました。祭りを開いた者たちにも、思ってもみなかったことが起きている。だから先ほどまで楽しそうに笑っていた連中も焦っているし、不安そうな顔をして「どうしたんかちゃ」と叫んでいる。銃声が聞こえている。そして自分たちを置いて、談野芯をはじめとする村の大人たちは、何処かへ走って行ってしまいました。

 祭りに異常が起き、混乱している――そうなってくると、話が変わってきます。

 殺されるにしても、死ぬまで抵抗してやる。そのつもりでしたが「生きる」「助かる」新たな選択肢が頭に浮かびました。美香梨は自分の手足を縛る荒縄を見ました。ガッチリと板に固定され、身動きが取れません。けれど本当にそうでしょうか? 美香梨は工夫もクソもない作戦を取りました。つまり力任せに右手を引き抜くのです。実行してみると、荒縄が手首に食い込みました。皮膚が裂けるのが分かりました。ぬるっとした出血の感覚が手首から広がります。痛いです。とても痛いです。皮膚がでろんと剥がれ、肉が削げるのは、耐えがたいほどの痛みでした。けれど美香梨は手首を引き抜くために力を込めます。何故なら、

 「理人、もうちょい我慢せぇ。もうちょっとしたら、助けるから」

まだ自分の上には理人が覆いかぶさっていて、彼もまた苦痛に耐えていたからです。全身を痙攣させながら、泡を吹きながら、盛られた薬の効果を必死に体内に抑え込んでいたのです。

 美香梨は思いました。この男を助けるためにも、自分は今すぐ手を抜かないといけない。だから、脳みその中の怒りの炎に油をそそぎます。

皮膚が剥がれた? 肉が削げた? 骨が折れるかも? 知るかよ。助かる可能性が見えたんだから、そこに向かって走れ。いや、助かるだけじゃない。自由になれたら、私らをこんな目に遭わせた連中に、仕返しだってできる。私を今、こんな目に遭わせてる連中に、仕返しもできる。ムカついて我慢するなんて、やっぱ私は絶対に嫌だね。ああちくしょう、そうだ。トキヤの野郎もブン殴っておきたい。私を騙しやがって。無事に生き延びて殴りに行くぞ。今ごろきっと、私以外の女とセックスでもしてんだろうけどな。見てろよ。私はそういう人間だ。病み系に憧れて、非暴力で生きようと思ったけど、やっぱムカつくもんはムカつくんだよ。

怒りが無限に湧いてきます。その怒りのままに――。

 「うぐぁがぁぁ」

美香梨は右手を引き抜きました。そしてその血まみれの右手を、理人の口に突っこみます。彼女は慣れていたのです。酔っぱらった人を吐かせるのを。急性アルコール中毒には、まず胃の中を空っぽにするのが定石です。彼女は東京で何度もそういう状態になった人を見てきましたし、天性の面倒見の良さゆえに、応急処置もしました。だから人を吐かせる経験は豊富なのです。世間一般的には損な役回ですが、今はそのスキルを身に着けたことに感謝しました。

 美香梨の頭に「余計なものなど無いよね」というフレーズが浮かんだ瞬間、理人は胃の中のものを全てブチまけました。あの不快な森の匂いがするゲロでした。

理人が1度目のゲロを一通り吐き終えると、再び美香梨は理人の口に手を突っ込みました。まだ胃の中を空っぽにするには足りません。まず中指で理人の喉の奥を突き、次に人差し指を立てて、中指で突いた部分を掻きます。これは美香梨のテクニックでした。効果は抜群で、再び理人は吐きました。2回目のゲロでは、不快な森の匂いはかなり薄くなり、人間の胃液の匂いになってきました。「もういっちょ」そう言って美香梨が3度目の突きを入れると、理人も3度目のゲロを吐き、そして、

 「や、やめろや。もう、もう出らん」

 会話ができる、そのことから美香梨は、理人の意識は元に戻りつつあると感じました。ですが、

 「オレは、やらんぞ。絶対にやらん。何が山の神様の依り代か。生贄か、オレも、美香梨も、そんなもんのために命はやらんぞ」

 理人はそんなことをうわ言のように言っていました。美香梨は思い切り理人の頬にビンタを入れました。

 「なんっ!?」

 と驚きの声を上げる理人。美香梨は続けます。

 「しっかりしろ!」

 「おおっ、美香梨か。ごめんなぁ」

 「はぁ?」

 「騙されとったのはオレの方ちゃ。お前よりもずっと前から、オレはこの村に騙されとったんちゃ。平和な村やと思ったのに、とんだ因習村で……」

 美香梨は、もう一発ビンタを入れました。

 「しっかりせぇ! 今そういう話はしとらんのちゃ! 私の手足の縄をほどけ!」

すると理人は、

 「いや、違うな。オレが間違っとったんちゃ。そもそもなぁ、オレも東京に行くべきやって……」

美香梨は血まみれの右手で拳を作り、思い切り理人の鼻っ柱を殴りました。経験上、ビンタで覚醒しない人はグーで殴るしかないのです。

 「ぶがっ! お前、なんするんかちゃ!」

 「そんな話は後でいいんちゃ! 逃げれるぞ!」

 「逃げれる? おおっ!? 何かちゃこれ!?」

 理人が素っ頓狂な驚きの声を上げました。自分の周りを見たのです。裸の自分、目の前に寝転がる美香梨、そして辺り一面ゲロまみれ。

 「このゲロ、オレのか!?」

 その反応を見て、美香梨は理人が正気に戻ったと確信しました。

 「そう! 私の手足の縄、ほどけるか!?」

 「お、おう! 今すぐやる!」

 理人は言葉の通り美香梨を縛っていた縄をほどきます。美香梨は立ち上がり、理人の手を取って叫びます。

 「逃げるぞ!」

 「逃げる? どこにか?」

 「知らん! けど、どこに逃げても、ここにおるよりマシやろ!」

 「そらそうや!」

 理人が美香梨の手を握り返します。血とゲロまみれですが、シッカリと。

そのとき、けたたましいヘリコプターの音がしました。美香梨も理人も分かりませんでしたが、そのヘリはブラックホークと言いました。


11.


 トッドとカーティスは、依然として危機的な状況にあった。盾になったフェラーリは、もはやボロボロだ。機関銃の射撃に耐えながら、隙を突いて凶器と共に突っこんでくる全裸の人間を撃ち殺していたが、そもそも相手が多すぎる。しかし、

 「トッド! 応援が来たぞ!」

 カーティスの歓喜の声は、暗闇を切り裂くブラックホークの爆音にかき消された。しかしトッドとカーティスの目には希望が宿る。同時に、ブラックホークに乗っている仲間の1人が地上に向けてマシンガンを撃ちまくった。空の連中が狙ったのは、2人をフェラーリの盾に釘付けにしていた軽機関銃を構えた爺様たちだ。瞬く間に爺様たちは吹き飛び、軽機関銃も銃弾の雨でスクラップになった。空中で停止したブラックホークからは依然として援護射撃が続く。

 「イケるな」

 トッドが言う。

 「イケるぜ」

 カーティスが応える。

 2人は両手に拳銃を持ち、鉄塊になったフェラーリから飛び出した。


12.


 美香梨と理人の目の前に、ヘリコプターが降りてきました。その風圧で村人たちが飛ばされて行きます。さらにヘリから防弾チョッキに身を包んだ屈強な兵士たちが降りてきたのです。白人、黒人、黄色人種、中には女性も。人種も肌の色もバラバラでしたが、ごんぶとの上腕二頭筋は共通していました。

 全裸の村人たちは手に凶器を持って、兵士たちに向かっていきます。兵士たちは素早く陣形を作って応戦し、次々と村人を撃ち殺していきました。数が違いすぎると美香梨は思いましたが、そのときヒュイっと風を切る鋭い音も。同時に遠方で大爆発が起きました。ちょうど家が一件、炎に包まれるような爆発です。それから爆発が4連続で起きたとき、美香梨は遠くのヘリからミサイル攻撃が行われているのに気が付きました。

 「何かちゃこれ!?」

 叫ぶ理人に

 「分からんけど、戦争やと思う」

 美香梨は応えました。実際その通りで、目の前で起きていることは戦争そのものでした。そして自分たちも戦争の現場、つまりは戦場にいるのです。だとしたら立ち止まってはいられません。逃げなくては、どこか安全なところに。

 ちなみに見知った連中がバンバカに射殺されていましたが、美香梨の心は1ミリも痛みませんでした。やっぱ一度殺されかけると、見る目が変わるものです。


13.


 トッドは状況が急速に好転しているのを感じた。修羅場の空気はいつだって一瞬で変わる。駆けつけた仲間たち、そしてヘリの航空支援が決定的に戦局を変えた。全裸の集団と完全武装のマイアミ市警では、結果は火を見るよりも明らかだ。しかし、だからといって油断はできない。敵はこちらに無い、劣勢を覆すものを持っている。火力や練度を超えるもの、それは狂気だ。

 「トッド! 伏せろ!」

 不意にカーティスが叫びながら飛びかかってきた。そしてトッドは地面に押し倒される寸前、信じられない物を見た。ダイナマイトを腹に巻いた全裸の老婆だ。

 「こんバチ当たりどもが!!」

 老婆はそう叫ぶと、ダイナマイトを起爆した。爆音、爆炎、火薬くさい煙と一緒に、泥と老婆の肉片が飛んでくる。トッドもカーティスも日本語が分からない。それでも確信した。あのババァはイカれてて、イカれたことを言って死んだ。

 「日本はどうなってんだ!?」

 カーティスが泣きそうな声で叫ぶ。

 「知るか!」

 そうしてトッドが顔を上げると、

 「おいおいマジかよ」

 ダイナマイトを腹に巻いた全裸の日本人たちが、あたりを元気に走り回っている。悪い夢なら覚めてくれと願ったが、ばあさんの血の匂いはハッキリとしていて、爆音のせいで耳がズキズキと痛んでいた。だからこいつは、夢じゃない。

 「行くぞ! カーティス!」

 「どこにだよ!」

 「知らねぇよ! 立ち止まってたら、何されるか分かんねぇ! ダイナマイト野郎が、また来るぞ!」

 「そりゃカンベン!」

 トッドとカーティスは銃を握り直して、再び戦場へ飛び込んでいった。戦局は有利、だが修羅場の空気はいつだって一瞬で変わる。


14.


 美香梨は理人と手を繋いで、戦場を走り回ります。銃弾が頬をかすめました。すぐ横で誰かの頭が吹き飛びました。それでも止まりません。決して止まりません。走り続けてやると思いました。境内から出なくては。

 けれども――絶対に見たくないものを見たとき、美香梨も理人も足が止まってしまいました。美香梨の両親です。2人は腹にダイナマイトを巻きつけ合っていました。ちょうど結婚式の指輪交換みたいに、向き合って。

 「お父さん、お母さん、何しよるん?」

 一応、聞きました。するとお母さんが笑顔で答えてくれました。

 「ダイナマイトで、よそもんを殺しに行くんよ」

 お父さんが続きます。

 「この村はなぁ、山の神様のおかげで災害にも、何にも遭わずに、平和にやれちょったんよ。お前が大学に行けたのも、オレらの畑で立派なイチゴが育ったのも、山の神様のおかげよ。でもなぁ、山の神様には生贄を捧げないかん。それで、お前と理人くんを捧げようと思ったら、こんな騒ぎになってしもうた。よそもんばブチ殺して、祭りに戻らんとね」

 そう言い残して2人は手を繋いで駆けてゆきました。そんな両親の背中に向けて、美香梨は思っていることをそのまま言いました。

 「2人とも頭おかしいんか?」

 爆発音が二連続で響くと、美香梨は全身の力が抜けていくのを感じました。

 ですが、脱力している場合ではないとも分かっていました。だから美香梨は拳を作ると、自分の鼻っ柱を思い切り殴りました。目を覚まさないと。騙されたときには、騙されたと認めることが肝心です。そして騙されたと認めたら、自分を責めるのではなく、騙したやつをブチくらす。いつか理人が言ったことです。この場合、自分を騙していた両親は爆死したので、もう放っておいていい。今はとにかく逃げるのみです。

 「理人、行こう。うちの両親はもう死んだ」

 しかし理人の反応がありません。彼は固まって、何かを見つめていました。美香梨は彼の視線の先を見ます。途端に「げっ」と声が出ました。理人のお父さんこと談野芯が、ゆっくりとこっちに向かってきているのです。その右手には、巨大な斧が握られ、左手には外国人の生首が2つありました。胴体には何か所も撃たれた跡がありましたが、本人はまるで涼しい顔をしています。

 談野芯が左手の外国人の生首を放り投げ、両手で斧を構えました。

 「お前らは、山の神様に黙って捧げられんといかんのちゃ。そうやないと、この村がメチャクチャになる。みんなが上手いこと生きていけんくなる。オレの椎茸も育たん。お前らは、交わって、死なんといかんのちゃ。外に出た女と、中に残る男が交わって、山に還る。そうやって村は循環して、栄えてきたんちゃ。」

 「父さん、何を言うとるんか? もう今の時点でメチャクチャやろ? 山の神様も何も、村のほとんどが燃えとるやないか」

 「今からでも遅くない。死ねちゃ、お前ら」

 談野芯は答えにならない答えを返します。そして斧を大きく振り上げました。同時に理人は、

 「逃げろ、美香梨」

 そういって美香梨の一歩前に出ました。そして足もとに落ちていた鎌を手に取りました。

 「はぁ!? なんで私だけ!?」

 「いいから行け! お前だけは生きとけ!」

 理人に怒鳴られ、美香梨は走り出しました。けれど自分だけ逃げる気はありません。理人が持った鎌のように、何か武器になるものを見つけて、戻るために走り出したのです。

 一方の理人は、向かってくる談野芯を迎え撃ちます。理人は鎌を握り、斧を持った談野芯に向かっていきました。そして2人が交差した瞬間には、鎌を握った理人の右手が宙を舞いました。


15


 「トッド! カーティス! この先はダメだ! バケモンがいる!」

 血みどろのキャシーが叫んだ。トッドもカーティスも、彼女がどれだけタフか知っていた。体力測定じゃそこらへんの男より高い数値を叩きだすし、今だって体重が100キロ近い同僚のケイルを背負っている。体も心もタフな女だ。そんな彼女が震えて、怯えている。

 「でかい斧を手足みたいに振り回して、うちのが2人もやられた。マルコムとキムが、首を……ちくしょう! それにこっちのケイルも、背中をばっさりやられてる!」

 「マルコムとキムがやられたのか?」

 トッドが尋ねる。マルコムも、キムも、彼の友人だった。休日には一緒にバーベキューをやって、葉巻を吸う仲だった。

 カーティスは天を仰いだ。彼もまたマルコムとキムと親しかった。どっちも娘の誕生日を覚えていてくれて、毎年プレゼントを用意してくれていた。

 トッドとカーティは目を合わせた。

 「了解だ。だったら行こうぜ、カーティス」

 「おうよ。バケモン退治だ」

 2人は銃を持ち直した。

 「私の話を聞いてなかったのかよ! 行くと危険だって話をしてんだ!」

 キレるキャシーに、カーティスが応える。

 「だから行くんだよ」

 「オレらのツレを殺ったこと、地獄で後悔させてやろうぜ」

 トッドとカーティスはキャシーが危険だと言った方向、境内に向けて駆けて行った。そして残されたキャシーは、2人がバカだと思い出した。


17.


 理人の右手が飛びました。理人本人も、宙を舞う自分の右手をしっかりと見ました。赤い放物線を描きながら、手はポサっと地面に落下します。

 けれど理人は動くのを止めません。辛うじて激痛に理性が勝ったのです。止まったら死にます。あの斧が、今度は自分の頭を直撃するでしょう。首を飛ばされたら即死です。それだけは避けなければ。理人は運動神経が良くありません。だから談野芯の攻撃を避けるには、全身を使って、全力で飛び跳ねる必要がありました。

 対して談野芯は、何十キロもありそうな斧を軽々と振り回し、舞うように致命の一撃を放ち続けます。

 首。

 心臓。

 二の腕。

 太もも。

 いずれも太い血管の通っている箇所を、正確に狙います。その内の何発かは、理人の体をかすめました。

あっという間に理人は血まみれになっていました。そもそも右手が飛んでいます。出血量は凄まじく、そろそろ動けなくなると実感がありました。けれど何故か意識はハッキリして、頭が冴えわたる感覚がありました。アドレナリンの関係でしょうか。

だから攻撃を避けながら(時には食らいながら)考えます。オレは美香梨を助けられただろうか? この米軍(みたいな連中)に、上手く拾われていてくれ。オレはここで死ぬけれど。こんなバカは、こんな死に方が当然だ。村が狂っていることに何十年も住んでいて気が付かず、騙され続けていた。父親に斧でブチ殺されるのが似合いの末路だ。オレはそれでいい。だけど美香梨は違う。

 そのとき、理人の左の太ももに、談野芯が振るう斧が食い込みました。

 しかし同時に、理人は美香梨の叫び声を聞きました。「てめぇこらぁぁぁぁ」と叫ぶ美香梨は、銃を持っていました。彼女は落ちていた銃を拾って、戻ってきたのです。談野芯が殺した外国人のものでした。

 「戻ってくんなちゃ……」

 理人は呟きましたが、当然、美香梨には聞こえません。そして美香梨は銃を構えて、談野芯に向けました。談野芯は斧をその場に捨てて、地面に伏せて体を丸くします。美香梨はそんな状態の談野芯に向けて、引き金を引きます。

 1発、2発、3発、カチン。

 弾切れ。そして3発の銃弾は、どれも明後日の方向に飛んだのでした。

 談野芯は爆笑しながら、ゆっくり立ち上がります。そして地面に放り捨てた斧を持ち直しました。

 「なぬ!?」そう呟いた美香梨は、理人と目が合いました。「終わった」2人は同時にそう思いましたが、直後に、

 「Get out of the way!」

 流ちょうな英語が響きました。そして2人の黒人刑事が美香梨たちの方に走って来るのが見えました。なぜ刑事と分かったかと聞かれたら、胸にでっかくPOLICEと書いてあったからです。そして2人とも拳銃を持っていました。英語で何やら喋っていますが、「Fuck」と「Shit」くらいしか聞き取れません。

 しかし、2人を確認すると同時に、美香梨は叫びました。

 「ポリスメン! プリーズ、キル、ヒム!」

 本人も英語には自信がありませんでしたが、

 「Ok! Girl !!」

 通じました。

 まずはトッドが銃を構えて、談野芯の膝を撃ち抜きました。しかし談野芯も負けてはいません。撃たれると同時に、斧をブン投げてきたのです。トッドは辛うじて避けましたが、地面に吹き飛ばされました。

 「Fuck You !!」

 怒鳴ったのはカーティスでした。彼は銃を構え、5発の銃弾を談野芯の胴体にブチ込みました。血を噴出しながら、談野芯は崩れ落ちます。しかし、彼は死んでいませんでした。

 その光景を目にしたとき、時間にしてほんの一秒だけ、理人の心に迷いが生じました。思っている言葉を、口に出すべきか? 何十年も自分を育てた父親に対して、その言葉を言うべきか? しかし、

 「理人! お前、騙されとったんぞ! 私に言ったこと忘れたんか!?」

 美香梨の声がしました。

 「お前、私に偉そうに言ったよなぁ! 騙されとったら、どうするんか!?」

 その瞬間、理人の中で覚悟が決まりました。

 「美香梨! 覚えとるわ! 騙したヤツをブチくらすんちゃ!」

 理人は談野芯を羽交い締めにして、無理やり立ち上がらせました。父親の動きを止めて、父親の頭を撃ってもらうためです。いくら横綱候補の体の持ち主でも、頭を撃ち抜けば死ぬはずだと。もちろん自分に弾が当たるのも、覚悟のうえです。

理人の考えを察知した談野芯は、血を吐きながら叫びました。

 「待て! オレは、お前のお父さんだぞ!」

 「知るかバカ野郎! そこのポリスメン! プリーズ、キル、ヒム! アズ、スーン、アズ、ポッシブル!」

 理人の叫びは、体制を立て直したトッドと、弾倉を入れ替えたカーティスに届きました。

 「Good Job, Boy !!」

 トッドとカーティスは、理人に羽交い絞めにされた談野芯の頭に、ありったけの弾丸を叩き込みました。的が止まれば外しません。まるで真っ赤な花火のように、鮮やかに、談野芯の頭は木端微塵に砕け散ったのでした。

 父親だったものが崩れ落ちると、理人は自分が生きているのに気が付きました。父親ごと撃たれて死ぬ覚悟でしたが、あの黒人刑事2人組は、正確に父の頭だけに銃弾を叩き込んだのでした。

 同時に、ずっと爆音で鳴り響いていた『夏祭り』が途切れました。そして流ちょうな英語であちこちから「Clear!」「Clear!」と聞こえてきます。

 英語に強くない美香梨も理人も、感じ取りました。お祭りは、もう終わりました。そして勝ったのはこっち側で、自分たちは生き残ったのだと。


18.


 事件から数か月が経ちました。前代未聞の事件に、日本中が揺れました。マイアミ市警が日本国内で銃撃戦を繰り広げ、さらには戦闘ヘリからミサイルまで打ち込んで、村を一つ破壊したうえに、数百人を殺害したのです。国際問題になるかと思われましたが、市警側がボディカメラを装備していたのが吉と出ました。録画されていたのは、村人たちの映像でした。全裸で雄たけびを上げながら凶器を片手にマイアミ市警に向けて全力疾走してくる姿、あるいは自分たちが切断したマイアミ市警の生首を抱えてケタケタ笑っている姿は、「これは殺されても仕方がない」と世界中を納得させるには十分でした。SNSでも共有され、「#JpaneseCrazyFestival」のハッシュタグは世界で持ち切りでした。

 また、生き残った村人は全員刑務所にブチ込まれたわけですが、そのほとんどが薬物と酒を併用して、正気を失っていました。さらに村人の家を探ると、多くの家から人骨や人肉の類が出てきました。そして日常的にキャンパーなどを殺害して、山に捧げていたという事実も発覚し、これまた大騒ぎになりました。

 そんな感じで、あまりにも特殊な事例ということになり、マイアミ市警はお咎めなしで帰国しました。

 一方、美香梨は理人と東京にいました。お互い実家はヘリからのミサイル攻撃で吹き飛んでいましたし、そもそも村が爆発のクレーターだらけで生活できる状態じゃなくなりました。高杢村は、このまま廃村になる予定です。

それに2人は、今回の事件の重要参考人です。アメリカと日本の政府関係者と何度も面談することになりました。そのためにも 北九州よりは東京の方がいいと判断され、日本政府が用意したマンスリーレオパレスに住んでいたのです。

 人の噂も七五日。事件発生から半年も経つ頃には、世間の関心は話題の若手イケメン俳優の不倫に移りました。その頃には2人への面談も終わり、正式に「お咎めなし」が決まりました。

 ようやく自由になった2人は、ちょっとした野暮用を片付けるために一緒に出掛けました。向かった先は高田馬場です。

 美香梨が、その部屋のインターホンを押しました。ピンポーンという音がして、数十秒すると、

 「美香梨、戻って来てくれたのか?」

 ドアを開けてタンクトップにパンツ姿の男が現れました。トキヤです。その顔は期待で輝いていました。実際、彼は嬉しかったのです。金づるの一つが戻ってきたので、これは助かったと。そう思ってドアを開けたのです。

同時に美香梨は右拳を思い切り振りかぶりました。そしてトキヤが顔を出した瞬間に、その顔面に美香梨の右ストレートが叩き込まれました。そのままトキヤは後方数メートルへ吹き飛びます。

 「わぉ、やるな」

 理人はそう言って、手首から先が無くなった右手と、無事に残っている左手で拍手しました。

 そして美香梨は、「おぐぐぐ」と唸りながら鼻っ柱を押さえるトキヤに伝えます。

 「うっし。スッキリした。トキヤ、これでチャラにしてやるワ。んで、もう二度と連絡してくんなや。次したら、本格的にブチくらすぞ」

ワケもわからいまま、トキヤは何度も頷きます。

 「そんじゃ理人、飲みに行こう」

 そして2人はタクシーに乗り込みました。

 「で、美香梨。明日からオレらは自由やけど、どうするかね?」

 理人が言いました。

 「うーん、どうしようかねぇ?」

美香梨が腕を組んだ、ちょうどそのときです。タクシーのラジオから洋楽が流れ始めました。それは90年代くらいのレゲエの曲で、少し哀しみがあるような、しかし陽気で、なんとなくマイアミっぽい曲でした。

 その曲を聴いているうちに、ふと美香梨は思いつきました。そういえば、助けてもらったのに、マイアミ市警の皆さんに「ありがとう」を言っていないと。国際問題になりかけた関係で、雑談すらさせてもらえなかったのです。

ですから、

 「理人、金を貯めてさ、マイアミに行ってみない? マイアミ市警の人らに、ありがとうを言いに行かんといけんと思うんよね。英語も勉強してさぁ」

 完全な思い付きでしたが、どうせ先のことなど何も決まっていません。

美香梨の提案に、理人はすぐさま答えます。

 「そうやな。ま、お前の行くところなら、何処でも一緒に行くワ。地元は焼け野原やし、イカレ親父も死んだから、もうなんにも気にする必要ねーし」

 すると「決まりやね」と美香梨が言いました。そして、

 「理人! マイアミに行きたいか―!?」

 「おーっ!」

 2人は揃って拳を突き上げました。その後、2人は飲み屋で飲みまくって、終電を逃し、そもそも酔い過ぎて帰るのが面倒だったのでカラオケ館に行きました。そしてタクシーで聴いた曲を何回も歌いながら徹夜したのでした。ちなみに今日まで聴いたことがない曲でしたが、サビで検索をかけたら一発で出てきました。それは『Bad Boys』という曲で、美香梨も理人もサビ以外はテキトーに歌いましたが、楽しくて4回連続で歌ったのでした。

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