少年らの恋、そしてスペース空手

1

 斎藤 悠馬(さいとう ゆうま)は、男性が好きだった。気が付いたのは小学生高学年の頃だ。同級生が「女子の〇〇が可愛いよな」と照れながら話すとき、まったくそうは思えなかった。そして思うだけなら良かったのだけど、彼はウッカリ「そう? ××くんの方が、よっぽど可愛いと思うけど」とクラスの男子の名前を出してしまった。その後、彼は中学進学を機に転校するまで身をもって学んだ。周りと決定的に違う部分は、隠して生きるべきなんだ、と。

 小学校の頃に痛い思いをして学んだ。賢くなれた。だから中学3年間は上手くやれた。そう思ったけれど、その3年間は苦しかった。隠した。懸命に、徹底的に、自分の内側にあるものを。それはたまらなく苦しいことだった。

 時には自分で自分を踏みにじることもあった。

 「男を好きになるなんて、ありえないよな」

 「気持ち悪いよな」

 そんな周囲の声に「だよな」と笑う。そのとき悠馬は、自分が恐ろしく惨めで、生きている価値がないように思えた。だから左手首には一か所だけ、小さいけれど深い躊躇い傷がある。

 3年間は終わった。けれど人生は終わらない。これから高校の3年間があって、そのあとは大学があって、そのあとは――。

 高校の入学式の前日、悠馬は15歳になってから月に一度処方してもらっている睡眠導入剤を3錠飲んだ。通常1錠のところを。

 そしてベッドに入ると、何年も前から考えていることを懲りずにまた考える。明日からどうやって生きようか? 自分はどんなふうに生きて、どんなふうに死ぬのか? いつになったら死ぬのか? そんなことを考え始めると、決まって頭痛がしてくる。キリキリと頭をしめつける頭痛の中で、やがて意識が失せていく。そして決定的な暗闇に落ちていくなか、いつも通りのことを思った。

 ――このまま目が覚めなければいい。


2


 高校1年生の1日目の朝、悠馬は目を覚ました。今日から新しい日々が始まる。けれど眠気が残っていて、「かったるい」と露骨に感じる。3錠じゃ、てんで何も変わらない。単に寝起きが悪くなるだけだ。

 洗面所で顔をざぶざぶと洗って、鏡を見る。くりんとした年齢よりずっと幼い瞳が、真空パックされた魚のように光を無くして真っ黒だ。もう少し明るい目をしなければ、親が心配してしまう。そう思って、もう一度、顔を洗った。少しはマシになったと思うと(傍から見て回復している自信はない)、天然のパーマがかかった髪にワックスをつけながら、心も落ち着くように整える。そして今日一日、どう生きるかを考えるんだ。

 不安そうにするのも良くない。はしゃぎすぎるのも、それはそれでいけない。目立たないこと、自然になること、背景になること。中学3年間をそうしたように。

 悠馬は身支度を終えると、家族にハキハキと「いってきます」を言う。外に出て乗り込んだ新品の自転車は、今の身長170㎝、体重55キロにピッタリと合った。中3まで乗っていた自転車は窮屈だったから、新調して良かった。

 こうして悠馬は新しい生活に漕ぎ出した。胸の中にあるのはただ一つ、何事も起きなければという想いだけだ。けれどそんな想いは、入学式の最中に一変した。同じクラスの日向 峻(ひたな しゅん)を見てしまったからだ。


3


 悠馬は、峻のような人間を見たことがなかった。

 入学式で彼を見た瞬間、悠馬は

 ――綺麗だ。

 心の中で呟いた。ひょっとすると本当に言葉に出してしまったかと思って、慌てて悠馬は口をふさいだ(幸いそんなことはなかった)。

 悠馬は今まで生きてきて、男子にも女子にも、こんなふうに感じたことはなかった。「好きだ」とか、「可愛い」とか、「カッコいい」だとか、そういう感想を抱いたことはあったが、「綺麗だ」なんて。絵画や絶景を見たときのような感覚だった。

 峻の身長は175㎝くらいで、特別に背が高いわけじゃない。体格も少し瘦せ型で、これまた取り立てて目立つ体型ではなかった。けれど……長めの黒髪は艶々と輝いていて、切れ長の目、毛筆でさらりと書いたような整った眉毛、少しだけ不健康そうな白い肌。ピンク色の唇は少しだけ厚い。決して派手な顔ではなかったけれど、確かに悠馬は感じた。峻は自分と同じく入学生たちの列に並んでいたけれど、ちょうどそこだけスポットライトが当たっているように、彼の存在だけが周囲から浮き上がっているのを。

 そのあとは入学のオリエンテーションや、先生との顔合わせがあったが、何も入ってこなかった。そして悠馬は家に帰ったあとも、峻のことを考えていた。

 「綺麗」という言葉が浮かんだ――あの顔をよくよく思い出す。どうして綺麗なんて思ったのだろう? 何がどう綺麗なのだろう? そうやって峻のことを見るうちに、悠馬はあまり詳しくないけれど、峻は浮世絵の美人画のようだ、と思った。実在しそうで実在しない。人間のようだけど、どこか人間とは違う。顔を形作る、もっといえば人の顔の個性になる部分が、すべて強調されているようだ。

 やがて夜がやってきて、睡眠導入剤を飲む。今夜は4錠。いつも眠りに落ちるまで、自分がどうやって生きるかを考える。遠い将来、あるいは明日まで、どうやって生きて、どんなふうに死ぬかを考える。頭痛がしてくる。けれど今日は少し違った。絡まった思考のが紡ぐキリキリとした痛み、そのあいだに何かがある。

 「あんな綺麗な人が、いるんだな」

 峻のことが、頭から離れない。


4


 峻は綺麗だった。しかし、綺麗なだけではなかった。そのことを悠馬はすぐに知ることになる。

 入学式の日から、峻は皆の注目を集めた。誰もが悠馬と同じ想いを抱いた。彼を綺麗だと感じ、彼のことを知りたいと思った。

 峻は他県から高校進学を機に引っ越してきたらしく、彼について詳しく知っている人間はいなかった。そのことが余計に周囲の好奇心を駆り立てた。そして入学式の数日後には、早くも何人かの女子が彼に告白をした。

 「あなたのことを一番近くで知りたいです」

 「気になって夜も眠れません」

 「顔が好きです」などなど。

 様々な切り口から峻に迫ったが、その全てが失敗に終わった。そしてフラれた女子生徒らは、何故かその理由を口にしなかった。普通なら話題の種になりそうなものだが、彼女らは一様に「まぁ、いろいろね」と言葉を濁すばかりだった。そのことがさらに周囲の気を引き、やがて――。

 ある日、1人の女子生徒が昼休みに、教室で峻に告白をした。

 悠馬はその女子生徒に対して「卑怯だな」と思った。

 教室の中には40人ほどの同級生がいる。これから1年間、同じ時間を過ごす人間たちだ。そんな人間たちが見ている前で、「人の好意を断る」には勇気がいる。ある種の悪役になってしまうからだ。

 告白した女子生徒はまず「こんな場所でごめんなさい」と彼女は頭を下げたが、すぐに「どうしても気持ちを伝えたくて」と続けた。その2つのセンテンスは繋がっていない。悠馬はそんあモヤモヤした想いを抱えながら成り行きを見守っていた。

 すると、

 「えっとね……オレ、ゲイなんだよね」

 峻はそう言ってペコリと頭を下げた。

 クラスの時間が止まった。悠馬も止まった。動いているのは峻だけだった。

 「そういうわけで、オレは君をそういう目で見れないんだ。好きって言ってもらって悪いけど、ごめんなさい」

 峻は顔を上げて、さっさと教室から出て行った。残された女子生徒は呆然と立っていた。

 この日から、峻に話しかける者はいなくなった(もちろん授業やクラスの運営に関する用事がある場合は除く)。別に嫌われたわけではない。男子も女子も、ただ彼にどう接するべきか分からなくなったのだ。

 しかし悠馬は違った。この日から、峻に対する興味が決定的なものになった。

 ――アッサリ言い過ぎだろ。ぼくがどれだけ悩んでいると思っているんだ。

 そういう怒りもあった。それと同時に、

 ――あんなふうにスパッと言い切るなんて、凄いな。もしもぼくも、あんなふうにい自分の思っていることを、そのまんま口に出せたら……。

 純粋な驚きと、ほんの少しの憧れを持った。それからは、いっそう峻のことが気になるようになった。

 学校で授業を受けるとき、峻を見る。背筋をピシっと伸ばして、先生の話をしっかり受けている。凛々しいという言葉が背中に貼りついているようだ。

 家に帰って部屋にこもり、ふと目をつぶると……学校で1日ずっと見つめていたせいだろう。峻の姿が脳裏に勝手に浮かび上がってくる。授業を受けている時の凛々しい顔、体育のときに少し息を弾ませる顔、昼休みに1人で本を読んでいるときの顔……それらを思い浮かべると、胸が苦しくなった。あいつについて、もっと知りたい。今、知っている顔だけじゃなくて、もっと色々な顔が見たかった。峻はいつも1人でいるから、笑っている顔を見ることができない。そもそも、あいつは誰かと雑談もしない。だったら、もし雑談をするときは、どんな話題を出すのだろう? 笑うことがあるなら、もちろん泣くこともあるはずだ。それはどんなときだろう? あいつは普段は何を考えて生きているのだろう? 彼はどういう人間なのだろう? 

 そんなふうに過ごして3か月。悠馬は自分の想いに気が付いた。峻のことばかり考えているうち、ぽんと疑問が浮かんだ。

 「どうしてこんなに峻のことばかり考えているのだろう?」

 答えはすぐに出た。

 「ああ、そうか。ぼくは峻が好きなんだ」

 気づくと同時に、信じられないほど深いため息が出た。厄介な相手を好きになってしまった。ずっと隠して生きていくつもりだったのに、あいつと付き合ったら、きっと僕も、自分のことを明かさないといけなくなる。

 その夜、悠馬は睡眠導入剤を5錠飲んだ。明日からどう生きるべきか、どんな風に自分が死ぬのか。そして、もし自分の傍らに峻が一緒にいたら……。

 いつも通りの頭痛の中、悠馬は眠りに落ちる。その直前、雨が窓を叩く音を聞いた。季節は梅雨になっていた。


5


 その日の夕方も雨だった。通学路のアジサイは梅雨らしく活き活きと花開いているが、悠馬の胸はずっと締め付けられている。

 ――峻が好きだ。でも、告白したらどうなるんだろう?

 フラれる。その可能性は大いにある。けれど、もしも上手く行って、峻と付き合うことになったら? 峻は自分のことを隠さない。「オレら、付き合ってるんだから」と、手を繋いで学校に行こうと言い出すかもしれない。いや、さすがにそれはないか。でも手くらい繋がないと、次に行けない。次っていうのは、つまりそういうことだ。本音を言うと、峻とそういうことはしたい。けれど隠したい。隠れてそっと、そういうことをしたい。けれど峻はそういう人間じゃない。そうなると――。

 答えに辿り付けない。ずっと同じ場所で堂々巡りだ。憂鬱な雨に降られながら、心はもっと憂鬱な場所で足踏みをしている。

 そのとき、

 「あっ」

 悠馬は声をあげた。まさに悩みの種、峻が目の前にいたのだ。シャンシャンと降る雨のなか、傘もささずに、しかし走ることもなく、普通に歩いている。

 反射的に悠馬は声をかけた。

「そこにいるの、日向くん、日向峻くんだよね?」

 分かり切っている質問に振り返った顔は、やはり峻だった。雨に降られてズブ濡れだが、何も起きていないような、いつも通りの顔をしている。

 「傘、持ってないの?」

 再び答えの分かっている質問。

 「うん、持ってねーよ」

 と、峻が答える。不思議に思った悠馬が尋ねる。

 「朝から雨だったじゃん」

 いくら変わり者でも、雨に打たれたい人間などいるだろうか? いや、もしかするとそういう気分なのかもしれない――などと悠馬は考えたが、

 「いや、パクられた。傘」

 あっさりとした答えたが返ってきた。同時に、その先は聞く必要がないと思った。峻は傘を盗まれた、けれど自分も盗むこともせず、そして今この瞬間まで誰かに借りることも、入れてもらうこともできなかったのだ。

 悠馬はすぐに言った。

 「えっと……風邪ひくよ。ぼくの傘、入る?」

 言った後で、自分がいつか妄想したような状況にあると気が付いた。雨の日、二人きり、相合傘。峻と自分とで、いつかそんなことが出来たらいいなぁと思った。そういえば今日は両親が親戚の集まりで揃って泊まりで出かけている。今のこれは、妄想通りなんかじゃない。妄想以上だ。

 「いいのかよ?」

 「いいよ、それくらい」

 悠馬は冷静に、冷静に、と思う。自分の妄想通りに相手が動いている。そう気が付いた途端に、自分が何かとんでもない悪だくみをしているような気がした。

 「でもよ、お前の手、スゲー震えてるぜ」

 不意に峻にそう言われ、

 「え?」と小さな声を出して、悠馬は視線を落とす。すると……峻に言われたとおり、傘を持つ自分の手がガタガタ震えていた。

 「大丈夫か? お前の方のこそ、すでに風邪なんじゃないか?」

 「ああ、これは何でもないよ。気にしなくて平気だから」

 「そうか?」

 峻が悠馬の傘に入った。すると、

 「おっ、やっぱ傘があると便利だな。濡れねぇ」

 峻があまりにも当たり前のことを言って笑った。そのせいで、

 「当たり前だろ」

 悠馬はタメ口で笑ってしまった。せっかく今まで意識していたのに。


6


 「けっこうイイ家に住んでんじゃん」

 雨に濡れた峻が皮肉っぽく笑うと、悠馬には自分の家がまるで知らない場所のように見えた。

 悠馬は頭の中を整理する。

 ――峻が雨に降られていた。だから傘を貸した。それは間違っていない。当たり前のことをしただけだ。だけどその後の一言は……余計だった。調子に乗ったと言ってもいい。妄想通りのシチュエーションに出くわしたばっかりに、ついついそんなことを言ってしまったんだ。「そのままだと風邪ひくよ。もしよかったら、ぼくの家で服を乾かしていく? 乾燥機があるから、1時間くらいかかるけど……」そう言ったあとに不安と期待が半々で胸が高鳴った。そのドキドキで気が付いたんだ。自分が、調子に乗って行き過ぎたことを言ったと。けれど、そのときには遅かった。「いいの!? やったー!」と峻が万歳をすると、もう引き返せなくなった。

 「そんじゃ風呂を借りるぜ~」

 悠馬の葛藤を無視して、峻は前へ進んでいく。

 「ああ、どうぞどうぞ。タオルはその辺にあるのを適当に使って」

 悠馬が答えると、

 「なぁ、お前は入らなくていいの?」

 峻が聞いた。ドキリとする。そんなこと、妄想の通りだけれど、やりすぎだ。

 「な、何を言って……」

 そう聞き返そうと振り返ると、峻が立っていた。ただ立っているだけだ。しかし悠馬には明確な違いが見て取れた。目が違う。さっきまで無邪気な子どものように笑っていた瞳が、妙に妖しく輝いている。これは子どもの目じゃない。まるで大人の――自分の知らないことをたくさん知っている人間――の目だ。

 「お前ってゲイだろ?」

 峻はそう言って、雨に触れたシャツのボタンを外した。白い半そでのカッターシャツがはだけ、少しだけ赤みを帯びた胸の肌が露わになる。

 「えっ」と小さく悲鳴のような声をあげる悠馬に、峻は微笑みを返す。だがそれは、やはりさっきまでとは違った。それは――

 「その反応……ハハ、やっぱりか」

 もっとタチの悪い悪戯な笑みだ。

 困惑する悠馬に、峻はその笑みを浮かべたまま続ける。

 「分かるよ。今日、ここに来るまでのオレを見る目とか。っていうか、普段もチラチラ目が合うたびに、そうなんじゃないかな~って思った」

 峻の手が、悠馬の頬に触れた。

 「オレはお前と違って、そういう目で見られるの慣れてるからさ」

 峻の手が首の後ろに回っていく。細く冷たい指が、這うように、撫でるように、首筋を進む。そしてゆっくりと、悠馬の顔を自分の方へ引き寄せた。

 「ま、待て!」

 悠馬が声を振り絞った。妄想はしていた。こんな展開を。けれど、これは急すぎる。こんなことになるなら、もっと途中が必要だ。

 「誘ったのはそっちじゃん。家に上げたのだって、期待してたからだろ?」

 悠馬が怪訝な顔をする。

 「待ってくれ。ぼくは、そういうのは……ちゃんと、その、お付き合いをして、それから、そういうふうになってから、そういうことを……」

 悠馬は自分でもワケの分からないことを言っている自覚があった。言葉が出てこない。授業中に寝ているときに急に「ここの問題に答えなさい」と当てられた感覚だ。正しい答えどころか、そもそも問題の全容が分からない。

 しかし峻は、また意地の悪い顔で笑った。

 「バーカ。いきなり最後までやれるわけねーだろ。最後までするには、いろいろ準備しなきゃだ。今日するのは、その途中まで」

 「途中……」それが何を指すか、悠馬にはよく分からなかった。ただ一つだけ言えることは、このまま進むのは――どこへ辿り着こうと――それは違うということだ。だって自分は、まだ先へ進みたくないのだから。

 悠馬は峻の胸に手を置いて、できるかぎり乱暴にならないように押し返した。そして顔をそむけ、首を横に振った。それは嫌だという意志表示で、自分の考えをまとめるための時間稼ぎだった。

 そして、

 「やっぱりダメだ。ぼくは、まだきみから、好きか、嫌いかを聞いてない。それを聞かないと、ぼくは……ダメだ」

 悠馬が言葉を絞り出すと、峻は露骨に、呆れたように笑った。

 「オレが聞いてるのは、ヤりたいか、ヤりたくないか。そんだけ」

 乱暴すぎる、と悠馬は思った。怒りを覚えた。同時に幻滅の気配がした。美しい顔をした彼に憧れた。恋をした。けれど、その内面は――。

 「オレらって、まだまだガキだろ? 相手と出会うだけでも難しい。だからヤれる相手とは、ヤれるうちにヤっておくのが正義じゃね?」

 「なっ」

 悠馬は、言葉を失った。これが絶句だと思った。そして、あんまりにもあんまりだと思った。気持ちがさっと冷めていく感覚もあった。好きだと思っていた気持ちが、オセロのように滑稽に、ひっくり返っていく。だから、

 「さ、最低すぎないか? そういう考え方は」

 冷静に、まるで普段通りに言葉を紡いで反論することができた。

 「そうか? オレはそうやって生きてきたけど。今日まで」

 悠馬は激しく首を横に振る。

 「いや、いやいやいやいや、ダメだ。ぼくには理解できない」

 「何でよ? 人生は一回きりだぜ。後悔しねぇように生きてぇじゃん」

 このとき、悠馬は確信を得た。目の前にいる男は、自分とは価値観が根本的に違う。何がどうしてそうなったかは知らないが、彼と自分は同じ人間だけど、180度違う価値観を持っているのだ。

 「逆だよ、ぼくは。ここできみとそういうことをしたら、ぼくは一生後悔する」

 すると峻は少し眉をしかめて、

 「……あ、もしかして初めてだから? だったら大事にするけど……」

 「そういう問題じゃなくて!」

 すぐさま反論した。初めてなのは事実だが、そういう問題じゃない。

 「ぼくは、きみのことをもっと知りたいだけだ。きみのことを知って、それから、それから……それからでいいんだ、そういうのは」

 「ふーん。オレはヤることヤってから考えればいいと思うけど」

 何て男だ、と悠馬は思った。こんな綺麗な顔をしているのに、中身はまるで性欲のケダモノじゃないか。信じられない。ぼくはこんな人間に恋をしていたのか。

 「っていうかさ、そっちだって反応はしてるじゃんか。さっきから色々と理屈は言ってるけど、これについてはどう弁解すんだ?」

 するっと峻の指が、悠馬の下腹部を掻いた。同時に「あっ」と小さい喘ぎ声が漏れる。すぐさま悠馬は首を横にブンブンと振って

 「こ、これは生理現象だ! 男なら分かるだろ!」

 「まだ言い訳すんのかよ。ったく、理屈っぽいヤツだなぁ」

 そういうと峻は、またしてもあの妖しい笑顔を見せた。

 「ハハッ、お前みたいなのには初めて会った。だいたいここまでくれば、もう落ちるし、普通にヤってんだけど……ここまで頑張るやつ、初めてだよ。なんか意地でもお前のこと、落としたくなってきた」

 「はぁ!? なんだそれ!?」

 悠馬が驚きの声を上げると同時に、峻は彼を力づくで床に押し倒した。

 叫びたかった。はねのけたかった。けれど悠馬は声すら出せなかった。峻に両方の手首を押さえつけられ、身動き一つできないまま、ただただ自分の心臓の音だけが聞こえる。頭の中を混乱だけが駆け抜けていく。ぼくは、こうなりたかったのか? こいつが好きなのか? 嫌いなのか? このまま身を任せてもいいような気がするのは、何故なんだ? もうダメだ、何も分からなくなっていく。

 そして、

 ――カッ!

 刹那、窓の外が光った。

 悠馬は庭に雷が落ちたのかと思ったが、それにしては轟音がしない。ただ窓の外が光った。そんなことがあるのか?

 悠馬は窓の外を見る。雷が落ちたなら、火があるはずだ。それとも地面に穴が開いているか、木が折れているか――しかし結果は、そのいずれでもなかった。しかし、そのどれよりも信じられない変化が庭に起きていた。

 悠馬の家の庭に、タコが立っていた。全長は2メートルほどだろうか。真っ赤なタコが、8本足(腕?)でしっかりと大地に立ち、鋭い目つきでこちらを睨んでいる。

 悠馬は自分がおかしくなったのかと思った。自分の精神が破綻した、それが一番納得できる説明だったからだ。もしくは夢を見ているか。こんな現実があるはずがない。しかし目をいくら擦っても、己の頬をペシペシ叩いても、夢から覚める気配もなければ、タコが消える気配もない。

 悠馬の何もかもが止まった。肉体も、思考も、何をどうすればいいのか分からない。しかし、峻は違った。

 「おいおい、オレは今、取り込み中なんだけど」

 そう言いながら、窓をガラガラと開けて外へ出た。そしてそのまま、峻はタコと向き合う。雨はいくぶんか小降りになっている。

 「おまけに、ここオレんちじゃねぇんだけど。来るならオレんちに来いよ」

 峻は雨に降られながら、慣れた様子で柔軟体操を始める。指を折り曲げ、二の腕、膝、膝を伸ばす。

 「常在戦場。地球も火星も、武道家ならば常識だろう」

 ――タコが喋った!

 悠馬は悲鳴を上げそうになったが、心の中で叫ぶに留まった。自分の意志で封じたのではない。あまりに現実離れした光景に、声を上げることすらできなかったのだ。

 タコは続ける。

 「スペース空手3段、シュン・ヒナタだな」

 峻は応える。

 「そうだけど」

 タコは表情を変えず、しかし一歩だけ前に出る。そして、

 「私は火星人のヘンリー。立ち合いが望みだ」

 タコは峻に、深く美しい一礼をした。


7


 スペース空手の歴史は案外に短い。すべては1969年、人類が月へ降り立った日に始まった。月面着陸に成功したアポロ11号の船長、ミール・アームストロングは計画に一切ない緊急事態に遭遇した。宇宙人との第三種接近遭遇である。アームストロングが着陸した月面には、人類の他に火星人がいたのだ。

 火星人たちは地球よりも遥かに優れた科学技術を持っていた。彼らは地球人が月に出てくるのを知ると、月面でそれを待ち受けた。目的は一つ、嘲笑うためだ。「君たちが心血を注いで辿り着いたこの場所は、とっくの昔に自分たちが箱庭にしているのだ」そう科学力の違いを見せつけ、人の心を折り、あわよくば火星人の配下に置こうと考えたのだ。

 しかし今度は火星人にとって想定外の事件が起きる。喜び勇んで3人の火星人はアームストロングの前に飛び出したが、彼らはことごとく叩きのめされてしまったのだ。火星人たちは銃器で武装していた。宇宙服だって、地球人のそれとは比較にならないほど自由に動けた。おまけに足は八本ある。しかし彼ら火星人は、地球人アームストロングの素手の前に敗れ散ったのである。

 火星人たちが敗北したのは、アームストロングの腕っぷしが強かったからではない。彼はこうした事態備え、とある格闘技の訓練を行っていたのだ。それこそがNASAに伝わる極秘の格闘技、Space KARATEである。

 Space KARATEは1947年に有名なロズウェルのUFO落下事件をキッカケに誕生した格闘技である。ロズウェル事件を受けて、アメリカ合衆国政府は地球外生命体の存在を確信した。そして彼らのとの接触に備えていくつもの準備をしていた。その中には友好的なものもあれば、戦いに使用するものもあった。Space KARATEは完全な後者である。合衆国政府は、レスリングやボクシングのような対人間の格闘技ではなく、「どのような形状の生き物と戦っても勝てる格闘術」の完成を求めた。そして当時、日本で猛牛や熊と戦っていた空手家・不動 拳(後の実戦空手・拳芯会館創始者)に目を付けた。牛や熊と戦える格闘術ならば、人間以外の相手にも応用できると確信したのである。合衆国政府は日本の昭和のプロレス王・力剛山を介して不動にコンタクトを取り、プロレスの興行だと偽って彼をアメリカに招いた。そして極秘のうちにFBIや米軍の格闘技顧問らとエリア51 Dojoにて、Space KARATEを完成させた。アームストロング船長は、このSpace KARATE=スペース空手を習得していたのである。

 火星人は驚愕した。同時に、彼らの誇りは深く傷ついた。科学力も、生命としての格も、何もかもが勝っていると思っていた。しかし素手での戦い、早い話が「ケンカに負けた」この事実は受け入れがたかった。火星人は地球人以上に、そう言った部分を気にする種族だったのである。

 そしてアームストロング船長が月面で火星人を叩きのめした日から、火星と地球の素手による戦争が幕を開けた。火星人は傷ついた誇りを取り戻すために、一心に格闘技術を磨いた。もちろんレーザー銃で焼けば一瞬だ。しかし、それでは意味がない。たとえ地球人を滅ぼしたところで、「最初に出会ったときは素手でボコボコにされた」という屈辱の歴史は永久にそのままだ。

 火星人ヘンリーは、こうした歴史を背負っていた。だから今日、ここにやってきたのだ。彼はこれまでに地球に住むスペース空手の達人を何人も倒してきた。しかし今度の相手は物が違う。これまで100人近い火星人を返り討ちにしているスペース空手の麒麟児、シュン・ヒナタ。間違いなく強敵だが、彼を超えれば歴史は変わる。火星人の誇りも取り戻せる。


8


 悠馬の眼前に、異様な光景が出現した。

 8本の足(腕?)で立つ身長2メートルの真っ赤なタコ。まさしく異形そのものだが目の前にありながら、しかし峻は、それについて何も反応しない。慣れたというよりも、むしろ飽き飽きしたような様子で、タコと向き合っている。

 「シュン・ヒナタ、貴様の話は聞いている」

 タコが、喋る。

 「現時点でNASAのエリア51 Dojoが認めた数少ない黒帯にして、スペース空手三段。しかし、実際はその素行の悪さで三段に留まっているのであって、地球屈指の実力者であると。貴様の首には、三段以上の価値がある」

 「よく調べてるこった」

 峻は笑った。わざとらしく、肩をすくめて。今日、悠馬に見せたどの笑顔とも違う。余裕を見せつけるような笑顔だった。

 「ルールはどうする?」

 峻が尋ねると、

 「ルールなしだ。目突きも、性器への攻撃も、自由にしていい」

 タコが……ヘンリーが答えた。峻はため息をつき、

 「承知した。あとで文句を言うなよ?」

 峻の問いに、ヘンリーは

 「言うわけがない」

 そう応えて、8本あるうちの6本の足(腕?)を掲げた。

 「では、始めよう」

 ヘンリーの言葉に応え

 「おう」

 そして、峻が構えた。

 途端に悠馬の全身に鳥肌が立った。寒気がした。空気がピンと張りつめた。まだ宇宙人が出現したこと以外には、何も特別なことは起きていないのに、全身が明らかな異常をきたしている。震えが止まらず、背中を大量の冷たい汗が流れていく。彼は大昔に熱病に罹ったときのことを思い出していた。そして、

 ――これは、峻が構えたせいだ。でも、あんな構えで何故ここまで?

 悠馬には格闘技の経験はない。しかし自分の身に起きた異変が峻の構えによるものだと察知できた。それほどまでに彼の構えは一見すると何の変哲もなく、しかし信じられないほど強烈な威圧感を放っていた。

 開いた左右の手が胸の上に在り、左の足が一歩分だけ後ろに下がっている。峻の構えは、それだけだった。それだけにも関わらず、悠馬はまるで真剣を眺めているような感覚に陥った。これに触ったなら、肉も骨も断たれる。

 火星人ヘンリーもまた、同じ感覚を覚えていた。彼の考えは単純だった。空手家と立ち技で勝負するのは賢いとは言えない。空手家を倒すには、組み技、投げ技、寝技である。この6本の腕を使って、敵に組みつき、崩し、投げて、極める。そうして何人もの地球人空手家を倒してきた。地球人空手家は腕が2本と足が2本だ。不揃いの4と完璧なる6ならば、6が有利。そう考えて、その通りに勝利してきた。しかし、

 ――甘かった……!

 峻が構えた瞬間に、ヘンリーは己の未熟を悟った。しかし、

 「今さら退けるものか!」

 ヘンリーは定石通り、6本の手足を峻へと伸ばした。この6本を使って、組む。崩す。ヘンリーの手足は高速で同時に、直線も曲線も描ける。六手の動きは人間の反応の限界を遥かに凌駕する。しかし、そのはずが

 「がっ……!」

 苦痛の喘ぎと共に、ヘンリーは痛みに顔を歪める。組みに行った手足から緑色の血が噴出していた。激痛の中、ヘンリーは何が起きたかを瞬時に理解する。

 伸ばした6本の手足を、峻に打たれたのだ。

 峻が放ったのは、右手刀、右肘打ち、左の中高一本拳、右肘打ち、左手刀、右足刀(蹴りあげ)の6連撃。ヘンリーが放った6本の手足を使った同時攻撃が、すべて捌かれたのである。そして彼は気が付く。手足が6本ある有利は、この男の前では急所が6か所ある不利に転じたと。

 狼狽するヘンリーに対して峻は、

 「アンタ、空手を勘違いしたな。殴る蹴るは、空手の本質じゃない」

 そう呟くと腰を落とし、拳を握った。

 「空手とは――」

 すり足、すり足。ヘンリーの全身を見ながら、少しずつ間合いを詰めていく。

 「空手とは――」

 峻は、ゆっくりと、しかし真っすぐにヘンリーへ迫る。

 ヘンリーは自分が気圧されるのを感じた。そういうとき、どうするべきか? 彼は知っていた。前に出るのだ。恐ろしい時こそ、前に出なければならない。6本の足は傷つき、思い通りに動かないが、それでもこれに頼るしかないのだ。最後まで戦う。火星人として地球人に勝たなければ……その想いで、わずか数ミリだけ全前進した。

 同時に、峻が跳んだ。

 「シャイッッツ」

 峻の気合一閃。同時に間合いはゼロとなり、彼の右正拳がヘンリーの顔面を捕らえた。鉄のような拳は、ヘンリーの顔面に10センチほどメリ込み、骨を砕き、脳を揺らし、意識を彼方へ飛ばした。

 「空手とは、肉体そのものを凶器とすることだ。鍛え上げた肉体は、防御すら攻撃になる」

 峻の言葉をヘンリーは確かに聞いた。そして崩れ落ちる刹那、彼は言った。たとえこのまま目が覚めないにしても、これだけは言わなければならない。火星人を代表して勝負に来た限りは。

 「参りました」

 文字通り陸揚げされたタコのようになったヘンリーに、峻は深く礼をした。悠馬はその光景を眺め、素直にこう思った。

 ――何だ、これ?


9


 失神から30秒が経ち、タコこと火星人ヘンリーは目を覚ました。彼は覚醒すると、まず自身の陥没した顔面に慌てた。そして悠馬と峻に「ちょっと治療してきます」と言って、再び光に包まれた。

 そのあいだ、悠馬は峻にいくつかの質問をした。そして彼のことを知った。

 地球人と火星人の空手による「どっちが強いか」の国威ならぬ「星威(せいい)」の競い合いが行われていること。峻がアメリカのエリア51 Dojoという場所で生まれ育ったこと。父親がスペース空手の達人で、少年時代から熱心に修行をしたこと。中学1年生になってから、日本に移り住んだこと。そして数々の他流派を学び、己の腕を磨いていること。さらに一度だけ火星人に大敗を喫し、死にかけたうえに、顔面が修復不可能なほどの重傷を負ったこと。

 「顔、直してもらったんだよ。整形。で、それからモテだした。目と鼻のバランスが微妙に変なんだよ。でも、多分そのせいでモテてる」

 そして

 「だいたいの相手は、すぐ落ちるんだよ。でも、お前は違った。落ちなかった。ハハハ、面白いやつだな、お前は」

 峻にそう言われると、悠馬は「間が悪かっただけだよ」とも思った。あのとき火星人がやってこなかったら、どうなっていたか分からない。流されそうになっていたのも事実だ。けれども悠馬は、

 「当然だよ。そう簡単に、そういうことをする気はないからね。そもそもきみが好きなのか嫌いなのか、ぼくは、まずそこから知りたいんだ」

 そう強がった。

 「ガンコなやつだな。でもさ、そんな悠長なこと、言ってらんねぇかもだぜ。オレは真剣勝負してるんだ。今日は勝てたけど、いつか死ぬかもしんねぇ。だから生きているうちに……ヤれるうちに、ヤっとく方が安心だと思うけどな」

 そのとき峻は、初めて見せる表情をした。諦めのような、不安のような、頼りの無い感情がそこにはあった。

 悠馬は応える。

 「言ってることは分かる。でも、それでも、いやだ。ぼくは、きみのことを好きだって思ってから、そういうことをしたい。だから……」

 「だから?」

 「ぼくがきみのことを知るまで、きみに勝ち続けて、生きててほしい」

 悠馬がそう言うと、峻は小さく笑った。

 「お前なぁ、わがまますぎるだろ」

 「強引に人を抱こうとするヤツに言われたくないな」

 「そりゃそうか」

 「でしょ?」

 「オッケー分かった、頑張って勝って生きて、お前とヤることヤるわ」

 そう応える峻の顔からは、あの頼りのない感情が消えていた。けれど悠馬はそのことよりも、彼の発した言葉に反応した。

 「だ、だから! そういうことをするかは、そのときの互いの関係次第で……!」

 すると再び光と共に、あの宇宙人が現れた。凹んでいた顔面と、傷ついた足(腕?)がもとに戻っている。

 悠馬は地球の医学を完全に通り越した治療技術に驚愕し、どう反応すべきか困った。しかし峻もヘンリーも、これが当然と言う顔をしていたので、変なことを言って浮くのも嫌だったので、何も言わずに成り行きを見守ることにした。

 「私の負けです。あなたを……いや、空手を甘く見ていました」

 ヘンリーは再び深く頭を下げた。

 「ま、そういうワケだな」

 峻も頭を下げた。

 悠馬は思った。スペース空手とやらが何なのかサッパリ分からないが、どうやら多くの競技と同じく、礼に始まり礼に終わるようだ。

 そんなことを考えていると、ヘンリーが悠馬を3本の手足で指さした。

 「ところで、そちらはどなたでしょうか?」

 「え、ぼくですか? ぼくは地球人です」

 「それは一目で分かります」

 火星人の言う通りだったが、悠馬の中に何か納得できないものがあった。宇宙人相手の自己紹介の仕方なんて、知っているわけがないじゃないか。厳しいな。

 「こちらの方は、シュンさんの関係者でしょうか? それとも単なる目撃者ですか? その場合は対処が必要になってきますが……」

 「ああ、そうだな。えっと……」

 峻が悩んでいる。しかし悠馬の答えは決まっていた。「いや、単なる目撃者です」でイイのだ。そう答えるべきだと思った。

 「ぼくは単なる……」

 悠馬が言いかけたところで、

 「目撃者の場合は、記憶の修正が必要です。私の船で脳への施術を行います」

 そのヘンリーの言葉を聞いて、悠馬は踏みとどまった。記憶の修正? 脳への施術? それはいったいなんだ? いや、何となくは分かるけれども。彼は自分が第三種接近遭遇の真っ最中であることを思い出した。下手なことを言えば、何が起きるか分からない。ひとまず脳みそをイジられるのはカンベンだ。けれども、かと言って関係者だとも言い難い。というか関係したくなかった。ただでさえ悩み事の多い人生を送っているのに、地球と火星の揉め事に巻き込まれたくない。

 すると峻が口を開いた。

 「ああ、こいつは関係者だよ」

 「ええぇ!? 何を言ってるんですか!?」

 驚く悠馬を、峻がヘッドロックの要領で引き寄せる。そして高速で耳打ちをした。

 「脳みそイジられたいのかよ? 決まってんだよ。地球と火星で。スペース空手の関係者同士は第三種接近遭遇し放題だけど、それ以外の一般人の場合は、火星人を見たら記憶を消すことになってんだ。24時間分、きっちりな」

 「24時間分!?」

 それはつまり、今日が丸っと消えてなくなるということだ。タコと峻が戦っていた光景はもちろん、峻に傘を貸したことも。彼に秘密を悟られたことも。好きだった彼の本性を知ったことも。彼のことが好きか嫌いかも分からなくなったことも。

 「記憶は、ぼくだけ消されるの?」

 「そうだよ」

 「ぼくの記憶が消えたとしたら、きみは……ぼくをどうする?」

 「はぁ? なんの話だよ」

 「さっきの続きだよ! 彼が……えっと、ヘンリーさんが来る直前のこと!」

 「ああ、そっちな。オレは、さっきも言ったけど、お前が好きになってきた」

 「そ、そうなんだ」

 悠馬のほおが緩む。峻に好きだと言われると、やはり悪い気がしない。しかし、

 「でも、思ったより理屈っぽくて、強引なのは嫌いみたいだから。なんか違う切り口で攻めるだろうな。落とすために。あっ……ってことは、お前の記憶が消えた方がオレには都合がいいのか?」

 その一言を聞いた途端に、悠馬の心は決まった。

 「ぼく、関係者です!」

 「おおっ、待てよ! お前!」

 峻が驚きの声を上げる。そしてヘンリーは尋ねる。

 「失礼ですが、どのようなご関係で?」

 「あ、えっと……で、弟子です! 弟子ですね!」

 「いやいや! こいつは目撃者だぞ!」

 峻が主張するが、

 「いいえ! 弟子です! スペース空手、最高!」

 悠馬も負けじと主張する。もちろん弟子というのは、まったくのテキトーだ。今の彼の第一目標は、記憶を守ることである。もし記憶を消されてしまったら、峻との今日一日が消えてしまう。火星人と空手の腕を競い合っているのはさておき、大事なのはそれ以外だ。「好きだ」という気持ちが、たった1日で「嫌いかも」にまで変化した。そのことを忘れたくなかった。それに忘れてしまったら、峻はそのことを踏まえて自分に寄って来る。すると……たぶん、自分が落ちてしまう。そんなことは、させてたまるか。好きになるにも、嫌いになるにも、自分の意志で決めたいんだ。

 「お前、テキトーなことを言うな!」

 「テキトーなんかじゃないですよ! 峻くん……いや、師匠!」

 ヘンリーは言い合う2人を眺め、そして

 「えっと……了解です。お弟子さんなんですね」

 「違うって! こいつは、えっと……単なるオレの彼氏候補!」

 峻が思ったことをそのまま言ってしまうと、ヘンリーは

 「弟子よりも踏み込んだ関係じゃないですか」

 正論を言った。

 「しまった! 今のなし!」

 否定する峻に、悠馬は追撃を入れる。

 「そうです! 実は弟子であり、彼氏候補でもあるんです! ね、師匠!」

 「いや、そりゃ彼氏にするつもりだけど……」

 峻が見せた曖昧な返答。それを持って、ヘンリーは判断を下した。

 「では記憶はそのままで。それと……お弟子さんということなら、いつか私の弟子とも戦ってくれますか?」

 「もちろんです! ぼくは師匠の弟子ですから!」

 何も考えず、悠馬は言った。

 「よろしくお願いします。では、今日の所はこれにて……」

 そしてヘンリーは、またしても光に包まれる。

 「ちょっと待て! こいつは……」

 峻が言い終わる前に、ヘンリーは消えてしまった。一方の悠馬は「よしっ」と小さくガッツポーズをする。

 すぐさま峻は悠馬に迫った。

 「お前~! なんでウソつくんだよ~!」

 「忘れたくないからさ! 今日何があって、きみがどういう人間かってことを! それに……きみのことが、本当に好きかどうか分からなくなったことも!」

 「ああ、もうっ。ホントに理屈っぽい野郎だな。オレがどういう人間かなんて、オレのことが好きか嫌いかなんて、ヤってから考えればいいだろ?」

 「やだ!」

 悠馬は怒鳴った。いやだった。そういう考え方は大嫌いだ。

 「えっと……確認させてくれよ。お前、オレのこと嫌いなの?」

 「だから、それを確かめたいんだ。きみのことを、もっと知ってね」

 「めんどくねーか、それ?」

 「ううん。全然めんどうじゃないね」

 峻はため息をついた。火星人を前にした時よりも、困惑しているように見えた。

 「とりあえず、今日は帰るわ。もうそういう感じじゃないし」

 背を向けた峻を、悠馬が引き留める。

 「あ、お風呂と着替え!」

 「そこはいいのかよ?」

 「それはそれ、これはこれ。きみを濡らして帰らせるわけにはいかないよ」

 「お前、本当に面倒な性格してるなぁ」

 そういって峻は風呂に入った。そのあいだに悠馬は彼の服を選択して、乾燥機にかけた。ついでにアイロンをかけ終わる頃、峻が上がってきた。

 そして風呂上りで全裸の峻が「なぁ、やっぱ今のうち1回ヤっておかないか?」と提案したが、悠馬はそれを却下した。そして服を着せて、傘を持たせて、連絡先を好感して、彼を家に帰した。時間は20時になっていた。

 悠馬も風呂に入ることにした。体を洗って、湯船につかる。そして、今日に起きたことを考える。好きになった男は、中身が思っていたのと違った。というか、ぼくとはまったく合わない価値感を持っている。けれど彼は美しくて、彼に迫られたとき、ぼくはこのまま進んでもいいと思ってしまった。わからない。彼が好きか嫌いかも分からない。それに、そういえばスペース空手も分からない。あの火星人に記憶を消されたくなくて、弟子だとウソをついてしまった。あれってバレたら記憶が消されるのだろうか? それに弟子と名乗ってしまったからには、修行とかしないといけないのだろうか? そういえば、あのタコが弟子と戦って欲しいと言っていたような……?

 疑問は無数にあった。しかし、とにかく疲れたので、さっさと寝ようと思った。

 風呂から上がった悠馬は、いつも通り睡眠導入剤を1粒飲んでベッドに倒れ込んだ。ともかく今日はもう終わったんだ。明日のことは、また明日考えよう。

 そう思うか思わないかの頃、スマートフォンに峻からメッセージが来た。



「明日の放課後から、お前にスペース空手の基礎を教える」


                 「(『よろしくお願いします』のスタンプ)」


「教えてやるから、ちゃんと頑張れよ」


                               「がんばるよ」


「(『がんばれ』のスタンプ)」


「おれ、やっぱけっこうお前が好きみたいだ」


「そっちは?」


                        「ぼくはどうだかわかんない」


「やればわかる」


「↑セックスのことな」


                              「性欲の権化か」


「言い方がひどくない?」


                               「ひどくない」


                    「(『おやすみなさい』のスタンプ)」


「おう」


「また明日」


                                  「うん」

                           

                                「また明日」


 やり取りが終わると、悠馬は眠りに落ちた。いつもと違って頭痛はしなかったが、彼自身はそのことに気が付かなかった。

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