もしもカップルが……

加藤よしき

【書籍版収録作品】恋に落ちたら~殺人ザリガニ~

 1

 

 安川恵子(やすかわ けいこ)は、ごくごく平凡に歳を取った。子どもの頃に思い描いた、悪い意味での平凡そのままの人生。普通に就職して、結婚して、家庭を持った。もちろん彼女は今の時代に、この平凡を得るのがどれだけ難しいか分かっていて、維持するのも同様に困難だと理解していた。住まいは東京23区内。もっと家賃の相場が安い場所へ移りたいが、夫も自分も残業――日付を平気で跨ぐ――で遅くなる日が多く、多少は高くても23区内にいたかった。少しでも早く家に帰って、家のベッドで寝たい。35歳の体は、会社の椅子や机の下で眠るには歳を取り過ぎている。

 月から金はクタクタになるまで働いて、土曜日は平日に手を付けられなかった家事をやる。日曜日は夫と出かけて、それなりに笑って、まだ月曜日を向かえる。結婚して5年、この生活がずっと続いていた。たまに会う独身の友だちには「しっかり生きてるね」と言われる。しかし、そのたびに小さいが、確実な違和を覚えた。

 ――確かにしっかり働いてるけど、しっかり生きてるやろうか?

 最近、結婚した理由を考えることがある。結婚したのは、夫がいい人だったからだ。夫は友人経由で知り合った同業者で、年齢は自分より一つ上。元気で、常に明るい。初めて会った日の夜に、「また会えないかな?」とすぐに連絡が来た。そして何かにつけてはプレゼントをくれて、いざという時に金はケチらない。揉めることはあっても、必ず夫から頭を下げる。

 そんな人間から差し伸べられた「結婚してください」という手を、「ごめんなさい」と払いのける理由は、恵子には見つけられなかった。世間一般的にちょうどいい年齢でもあり、両親の目も厳しさを増していたから、渡りに船だと結婚した。

 けれど、結婚情報誌を買った頃から、何かが違うと感じた。何種類もの大小さまざまな違和の波が、心をザワつかせた。そして最大のビッグウェーブは、結婚式の当日にやってきた。司会者の「初めての共同作業です!」の言葉に促され、夫とウェディングケーキにナイフを入れた。招待客たちが満面の笑顔を浮かべ、写真や動画を撮ってくれる。拍手と歓声に包まれる。両親への手紙の朗読と並んで、結婚式の最も盛り上がる箇所の一つだ。疑う余地もなく、幸せな空間のはずだ。しかし恵子は驚くほど冷静な自分に気が付いた。そもそも前日にも「あれ? そんなに楽しみじゃないぞ」と思ったが、いざ本番になれば幸せに感じると思っていた。けれどズブズブとスポンジを割っていくナイフを見て、とある疑問が浮かんだ。

 ――みんな笑顔やけど、これってそんなに楽しいんかな?

 もちろん疑問は口に出さず、笑顔(意識できる限り、全力で口角を吊り上げて)で結婚式を終えて、翌日は顔面が筋肉痛になった。

 結婚後も違和は消えなかった。夫は変わった様子はない。記念日や誕生日は忘れないし、何もない日でも、「会社帰りに見かけたから」と、ちょっとしたお土産を買ってきてくれる。彼と過ごす時間は、決して悪くない。けれど心のどこかで、ずっと何かが声を上げていた。

 ――本当にこれでいいんかな? 何かが違う気がする。

 心の奥底の声は脇に置いて、その日も恵子は働いていた。彼女の仕事はWebアプリの制作ディレクションだ。ディレクターと言えば聞こえはいいが、ようは上と下を繋ぐ中間管理職であり、一癖も二癖もある専門技術者のケアを行う役回りだ。毎日30分単位の会議で1日がビッシリと埋まる。彼女のGoogleカレンダーは様々な色が隙間なく埋まる現代アートのようで、長く見ていると、目がチカチカしてくる。

 そんなものをずっと見つめていたからだろうか。その日の16時37分、恵子は会議中に倒れた。理由は自分で分かった。貧血だ。今週は月曜から特に忙しかった。家に帰って、メイクを落として、風呂に入って寝る。起きたらすぐにメイクをして、朝を抜いて出社する。いつも抜いた分だけ昼ご飯をガッツリ食べるのだけど、今日は時間がなくて昼休みが取れなかった。あれが良くなかった。単純な空腹が原因だ。けれど良かったこともある。倒れたのはエンジニアに仕様を説明する社内会議だった。社外の人間に見られていたら、大事になっていただろう。

 恵子は「大丈夫ですから」と言ったが、周りのススメで早退することになった。金曜、17時きっちり。こんな時間に会社を出ることは稀だ。終電以外の満員電車に揺られるのは、いつぶりだろうか? 金曜は、とりわけ駆け込みの仕事が入りやすい。

 電車に揺られること30分、恵子は家に帰り着いた。4階建ての低層マンションの3階。そこが彼女と夫の家だ。エレベーターはない。3階までの階段を昇っていくあいだ、ふと彼女は気が付く。夫に早退すると教えていない。しまった、もう今から近所のコンビニまで歩く気力はないから、部屋に帰ったら、適当な晩ご飯とスポーツ飲料でも買ってきてもらうように連絡しよう。やっぱりまだフラフラする。

 ドアに鍵を差し込み、回す。ドアが開くと、そこには靴があった。仕事に出ているはずの夫の靴と、見知らぬ女物の靴。途端に心臓が高鳴る。貧血ではない。むしろ、自分にはこんな大量の血が流れているのかと驚くほど、つま先から頭のてっぺんまで、血管が隙間なく踊った。

 廊下の向こう側、うち扉の向こうから、かすかな声がした。そこには台所と小さなリビングがある。リビングにはソファーとミニテーブルとテレビが置いてあって、ささやかな憩いの場だ。

 うち扉の向こうから声がした。夫の声、そして見知らぬ若い女性の声だ。ただの声ではなく、そういう声だった。男と女が、そういう時に出す声だ。たやすく光景が思い浮かんだ。リビングのソファーで絡み合う、夫と見知らぬ女。

 恵子は自分でも驚くほどに冷静だった。静かに後ずさりして、ドアから家の外へ出る。そしてスマホで夫へメッセージを送る。

 「今日は早く会社を出れそう」

 既読マークがついて、返信が届く。

 「了解。俺は遅くなりそう」

 恵子は、なおも冷静だった。怒りもない、悲しみもない。むしろ何もない。空っぽのまま、階段を降りる。マンションが遠ざかり、空が薄暗くなり始める。12月の風は冷たい。けれど今夜は我が家に戻らないと決めた。恵子は財布の中にキャッシュカードがあって良かったと思った。貯金はそれなりにあるから、このまま何処へだって行ける。ふと雨の匂いがした。もし降り出したら、100均で傘を買おう。


2


 恵子は電車を乗り継いて、学生時代によく遊んだ町へやってきた。学生が多い飲み屋街で、結婚してからは来ていなかったが、彼女はこの街が大好きだった。友だちと酔っぱらって、路上で歌って、電信柱に吐いた。もうずっと昔の話だが、あれは楽しかった。そんな思い出の居酒屋は相変わらず、若者たちで繁盛していた。当時の自分のように、男も女もギャハハハと腹を抱えて笑っている。恵子は「そういえば最近、こんなふうに爆笑してないな」と思った。夫と飲むとき、会社で飲むとき、常にそこには、少しの礼儀と打算が必要だった。

 恵子はビールとモツ煮込みと串盛りと、ポテトサラダを頼んだ。これは1人でこの店で飲んでいたときの定番だった。

 「ハイヨ、オマチデース」

 店員さんは名も知らない外国の人になっていたが、変わっているのはそれくらいで、料理の味は昔と同じだった。ゴロンとしたモツの濃い味の煮込みは、ひと口食べるごとにお腹が空いてくる。恵子はさらに思い出す。

 ――そうやった、私は元々、こういう濃い味の居酒屋メニューが好きやった。

恵子の夫は気の利いた居酒屋を見つけてきてくれるが、こうした雑然とした店は避けていた。当時、そういうところが新鮮に映ったが、同時に少しの寂しさもあった。

 ――でも、どうして寂しいなんて思ったんやろうね?

 そう考えたとき、すぐに恵子は「ああっ」と声を出した。やっと気が付いた。ずっと抱いていた違和感の正体に。夫は私の好きなものを聞いたことがない。嫌いなものは必ず確認してくれたけれど、好きなもの聞いてくれたことはなかった。付き合っていた当時から、結婚した今まで。自分がこの手の居酒屋が好きなことも、濃い味のモツ煮が好きなことも、彼は知らない。彼は聞いてこなかったし、聞かれなかったから私も答えていない。いつも私が誘うより先に、夫が店を用意してくれた。そこは美味しくて、清潔感もあって、居心地のいい店ばかりだった。嫌な思いは一切していない。けれど同時に、私が好きな店でもなかった。

 夫は私の好きなものを知らない……そう気が付いた途端、恵子の中でいろいろなものが繋がって、ひとつの結論が出た。

 夫は、単に人付き合いが上手いだけなのだ。行動力があって、小まめにケアをして、一緒にいる相手を退屈させない。夫は誰にとってもイイ人で、それが当たり前だった。逆にいえば、誰にも特別なことをしていない、ということだ。そして恵子自身も、彼から特別なことはされていなかったのだ。

 一方の自分にも、問題があったことに気が付いた。そんな夫の態度を誠実だと感じた。特別に扱われていると感じた。好きだから結婚したのではない。特別な人だとして接してくれる、彼の礼儀に応えなければと思って結婚した。これだけ愛してくれる人なのだから、私も愛さなければ、と思った。

 何かが違うと思って当然だった。

 夫は、別に私を特別な人だと思っていなかった。

 私は、夫に特別な人だと思われていると思った。

 ボタンの掛け違えのように、根本的に大事な部分がズレていた。最初から。

 その結論に達したとき、恵子の目からゆっくりと涙が落ちた。この数年間、自分は大いなる勘違いをしていたのだ。自分と夫は、特別な関係にあると思った。この関係を維持するために、できることは全部やった。仕事で苦しくて、もうダメだと思ったときだって、今の生活を維持する為ならと踏ん張れた。特別なあの人のために頑張ろうと思った。けれど、そんなものは初めから全て勘違いだったのだ。夫にとって自分は特別な人間ではなかった。じゃあどういう人間なのか? かつて好かれていたのは事実だろうけど、現時点ではそうじゃない。だって夫は、今この瞬間も会社に行ったとウソをついて、女を家に連れ込んでいるのだから。いや、夫の気持ちなんてどうでもいいのだ。問題は事実だ。自分が浮気をされたことが問題なのだ。

 「最悪やなぁ。なんしよんか、私は」

 思わず地元の九州弁が出た。方言は乱暴に聞こえるから、上京時に封印していた。けれど今は、言葉を取り繕う隙もなかった。

 涙が止まらないが、何故だか笑えた。気持ちの整理がつかなくなってきた。いや、最初からついていなかった。この街に来たときからか、夫の浮気現場を見たときからか、それとも、もっと前の……結婚した時からか。ずっと気持ちの整理なんて、できてなかったのだ。

 深く息を吐いて、状況を整理しようとする。恵子は知っていた。ディレクションに大事なのは、事実を洗い出して整理することだ。今、はっきり言える事実は、今まで信じてきたものは、すべてウソだったこと。夫も、自分も、ウソを基調方針にして生きてきた。勘違いしていた。認識の齟齬があった。それだけの話だと思うと、くだらなくて笑えた。

 「オキャクサン、ダイジョーブ? オーケー?」

 店員さんが話しかけてきた。恵子は「大丈夫、大丈夫」と返した。

 そのときだった。

 「あ、あの! あなたって、もしかして……恵子先輩じゃないですか?」

 聞き覚えのある男の声がした。


3


 鎌田康人(かまだ やすと)は、金がなかった。彼は正社員として週5で働いている。残業時間だってハンパじゃない。人並み以上に働いている自信すらあったが、それでも彼は金がなかった。元々の給料が安いので、単純な生活費で給料はガッツリ削られる。自炊する時間も心の余裕もないから、外食やコンビニに頼っていて、食費はかなりの額になっていた。そして会社で先輩らから、出たくもない飲み会に誘われれば……自由にできる金は、ほんのわずかしか残らない。

 そんな康人にとって、唯一の外せない金の使い道は、近所の安い居酒屋で飲むことだった。安くて、量が多くて、いかにも大学生向けの居酒屋だ。世間一般の34歳にとっては、少しキツい味と量かもしれないが、ここが一番安心できた。九州のド田舎から就職で上京してきて初めて見つけた安心できる場所だ。東京の居酒屋は、一品一品が九州の居酒屋と比べてドキッとするほど高い。この店は九州と同じか、何なら九州より安い。

 金曜の夜に1人で飲めるのは、康人にとって奇跡だった。たまたま上手く行って残業もなく定時に退勤できて、おまけに誰にも誘われなかった(みんな残業で死んでいた)。こんな夜は滅多にない。だから今夜は少し多めに、上限3000円と設定して1人で飲むつもりだった。しかし、

 「わはははっ! ねぇ? ねぇ? バカみたいでしょう? 私さぁ、かなり頑張ってたんだよ。働き方改革があるまでは、タイムカードなんてデタラメしか書いてなかったもんね。メチャクチャ働いて、休日出勤しなくて済む様にして、恋人やって、夫婦やってたわけよ。すっごく頑張ってたのに、でも、それでも浮気されてたからね。くっ……はははは! 何やろうね、何でこうなるんやろう? 康人くん、キミには分かるかね?」

 思わぬ相手と再会してしまった。向井恵子(むかい けいこ)、苗字は結婚して「安川」に変わっている。けれど間違いなく、中学時代の部活の先輩であり、そして初めて付き合った彼女だ。そんな女性が夫に浮気をされて、目の前で泥酔している。

 「いや、そんなん分からないっすよ。恵子先輩」

 康人が返す。

 「分からないじゃ困るんだよ、キミィ~。いいかい? 私はね、今ね、心の底から相談してるわけよ。なんだって浮気されなきゃいけんのや? しかも家に女を連れ込むとかね、もう最悪やんか。相手の家か、せめて最低でもラブホを使えって話よ」

 「あ、そりゃそうっすね。最低でもラブホっすワ」

 「そうそう。最低でもラブホ。わははは」

 先輩は変わっていなかった。九州のクソ田舎の中学校の漫画研究部の部長で、いつか週刊連載を勝ち獲ってやると息巻いていた。少女漫画を描いていて、何度も投稿しては落ちていた。けれどまったくへこたれず、「編集に見る目がない!」とうそぶいて、豪快に笑い飛ばし、新作を描き続けていた。そんな恵子の姿に、フラフラ生きてきた康人は憧れた。生まれて初めて出会った人生の目的を持つ人間は、とても眩しくて、自分もこうなりたいと思った。

 それで康人も、4コマ漫画の投稿を始めた。絵もストーリーも酷いものだったが、恵子に「面白いね」と言ってもらえると嬉しかった。やがて2人で漫画のアイディアを練るようになると、何かとてつもない悪事をしているようで興奮した。他の部員からは「趣味の範囲でやろーぜ」と冷たい目で見られることもあったが(むしろその視線への反動からか)、ますます2人で過ごす時間が増えた。そして気が付くと恵子のことで頭がいっぱいになって、漫画のことが考えられなくなった。それで康人は恵子に「好きだ」と言った。それから付き合うことになって、先輩と後輩ではなく、彼氏と彼女になったのだが……それが良くなかった。急に出来た肩書きに、2人揃って振り回された。漫画のアイディアを練る時間をデートに変えて、慣れない場所へ出かけた。あまり楽しくない動物園デートのあと、内心では「こんな感じなら、漫画のことをやりゃ良かった」と思っても、口に出すことができず、「楽しかったね」と取り繕った。そんな関係が長続きするはずもなく、やがて恵子の卒業と同時に、2人の関係は自然消滅した。それが……。

 「あの時は、私ら若かったんやろうねー。彼氏と彼女になっても、それまで通りフツーにしてれば続いとったかも」

 「それ、オレも思いますね。やっぱほら、カップルになったらデートとか、そーいうのしなくちゃって思うじゃないっすか」

 「うんうん。今になって思えば、漫画のアイディアを練るのが、あの頃の私らにとっては一番のデートやったんよ。それが変に形から入ったから……」

 「オレもそう思います。なのに無理してあっちこっち言ったから。あれじゃフェードアウトして当然ですよね。ハハハ」

 「でもね~~、あの頃は楽しかったなぁ。ほら、お互い漫画家になれるって本気で思ってたし、実際、本気やったやん?」

 「漫画ばっか描いてましたもんね。でもSNSをやってなくて良かったっすよ。オレ、けっこうブラックなネタに流れた時期もあったし……」

 「あー! あったー! なんか政治ネタやってた!」

 「あんなもんが世に出ていたら……たぶん現在進行形でバカ扱いですよ」

 「アハハハ、やと思う。デジタルタトゥーになっとったね」

 「それか変にバズって、ワケ分からん政治家とかに声かけられて、その気になってたかもですね。いやぁ、人生って紙一重っすワ」

 康人は自分でも驚いていた。話題がポンポンと出て来る。先輩を見つけたとき、彼女は泣きながら笑っていた。何でそうなっているのかと話を聞いたら、最低の話だった。正直、何を話すべきか分からなかった。話しかけなければ良かったとも思った。けれど、ぎこちなかったのは最初だけで、すぐに思い出話に花が咲いた。話したいことは山ほどあったし、ちょうどよくお互いに大人になっていた。

 「でも、やっぱ世の中って上手くいかないもんっすね。オレ、けっこう頑張ったんです。大学に入ってからも漫画を描いて、1回だけ編集さんとも話したんですけど、そこまででした。で、就職で上京したら……そっからはずっと社畜って感じです」

 「それを言ったら、私だってそうよ。大学入って、上京して、漫画家になろうとして、アシスタントもやったんだよ? でも、結局はそこまでだった。あとは普通に就職して、そんで結婚した。で、浮気された」

 そこまで言って、恵子が手元のジョッキに満杯のビールを一気飲みした。

 「飲もう! どうせ明日は土曜日だし」

 「付き合いますよ」

 2人は気が付かなかったが、外では静かに雨が降り始めていた。


4


 「先輩、やっぱダメだと思います」

 康人はワンルームの我が家で、恵子に言った。窓の外からは、雨が降る音が聞こえる。明日の朝まで降り続けるだろう。

 「なんで?」

 恵子はコンビニで買ったお泊りセットで、寝る準備をしながら聞き返した。

 「色々あったのは分かりますけど、オレん家に泊まるのはダメですって。仮にも既婚者なんっすから」

 「ああ、そういう話」

 「『ああ、そういう話』じゃないですよ。っていうか、家に連絡って入れたんですか?」

 「急に昔の友だちに会って、盛り上がったから、今日はその子の家に泊まるって伝えといた」

 恵子が携帯電話を康人の方にポイっと投げ渡した。そこには夫へ送ったメッセージと、夫から送られた了解のスタンプがあった。

 「……分かりましたよ。ただ、本当に泊めるだけですからね?」

 康人が尋ねると、

 「泊まる以外に何かあるの?」

 恵子が返す。康人は「なっ」と顔を真っ赤にした。その様子が、恵子にはとても懐かしく見えた。そうだそうだ、こういう感じだった。これまで何人かと付き合ったけれど、こういう事を言うと、相手は決まってこういう顔をする。それを見るのが、恵子はけっこう好きだった。

 「いいから寝ましょう」

 そういって康人は床で、恵子はベッドで横になった。康人は、この冬のためにホットカーペットを買っておいた自分に感心した。そして、

 「寝ますよ。タイマーは10時でイイっすか?」

 「うん。ありがとね」

 電気を消して、「おやすみなさい」と言った。

 それから、10分。

 「……楽しかった。ありがとね」

 恵子が言った。本当に楽しかったからだ。つい数時間前まで人生最悪の一日だったが、今はそれほど悪くはないと思えた。

 「私さ、久々に標準語や敬語なくて、普通に喋れた。あとバカバカ酒も飲めた。楽しかった。マジで、そう思ってる」

 恵子がそう言うと、康人が尋ねた。

 「標準語はアレとして、普段は敬語なんっすか?」

 「うん。会社の飲み会では敬語の方が楽やから。旦那だって、年上やしね」

 「旦那さんとは、敬語じゃなくていいじゃないっすか」

 「でも、年上やからさ」

 「いやいや、夫婦って、そういうもんじゃなくないっすか。オレなら……」

 康人は言葉を少しだけ止めて、

 「年齢とか関係ないっすよ。夫婦っていうのは、対等っていうか……特別な相手じゃないっすか。オレが先輩と結婚してたら、タメ口で喋りたいし、常識とか礼儀より、先輩が楽しい感じで喋って欲しいっすよ」

 康人はそれだけのことを言ったあと、「すみません、余計なことを言ったかもです」と付け加え、黙った。

 けれど恵子は、「特別な」……康人のその言葉で、胸に小さな火が点いたのを感じた。同時に今の康人の言葉を「余計なこと」で終わらせたくなかった。

だから、

 「……余計なことなんて、言ってないよ」

 恵子はそう言って、静かにベッドから降りた。そして床で自分に背を向けたまま眠る康人を見下ろし、尋ねる。

 「こっち、向かないの?」

 康人は答えなかった。単純に何て答えればいいのか分からなかったからだ。

 恵子は唾をのんだ。自分でも興奮しているのが分かった。今、自分は取り返しのつかない一歩を踏み出そうとしている。酒が残っているから? ううん、違う。これは私がしたいからだ。私自身の思いだ。ウソのない、本当の――

 恵子は康人の隣に寝た。床で寝るなんて、学生の頃以来だ。堅いけれど、しかしワクワクしてくる。そして彼女は康人の背中に額をつけ、絞り出すように呟く。

 「さっきね、強がっちゃった」

 恵子の言葉が何を指しているか、康人には分かった。先輩は居酒屋では浮気されたと笑っていた。中学校で漫画を描いていた頃と変わらない。康人は覚えていた。苦労して描いた漫画が新人賞に落ちて、編集者の的確で厳しい講評を読んだあとに、いつも恵子はああいうふうに強がっていた。豪快に笑い飛ばす。本当に落ち込んでいるときほど、恵子は大袈裟に笑うのだ。

 「だと思いました」

 康人が返す。すると恵子の腕が、彼の腰に絡まった。体温と呼吸が感じられるほどの距離。康人は出来る限り動揺を隠しながら、

 「それはダメですよ、先輩」

 そういって腰にある恵子の手に触れた。そっと遠ざけるつもりだった。けれど、その手は遠い昔のあの頃より柔らかくて、優しくて、それでいて力強かった。

 「なんで?」

 恵子が聞く。彼女自身、答えの分かっている意地悪な質問だと分かった。でも、今夜だけは意地悪だと思われていいから、言いたいことを言おうと思った。

 「だって……これって、浮気じゃないですか」

 康人が答える。すでに康人には、恵子の気持ちが分かった。けれど、そんな「気持ち」は理由にならない。これは他人の家の事情で、今の自分が立ち入るべき問題じゃないのだ。むしろ、ここで立ち入ったなら悪化してしまう。あの憧れだった先輩が、大切な先輩が、今よりさらに厄介な状況に陥る。

 「先輩、悪いけど……オレには、その話は関係ないです」

 康人の口調は冷たかった。けれど恵子は、康人は相変わらず優しいと思った。康人は昔から不器用だ。人に冷たく接することができない。彼が今、あえて突き放すような言い方をしているのが分かった。それを分かった上で……自分は卑怯だ思いながら、恵子は言った。

 「関係あるよ」

 そのたった一言に、康人は体が熱くなるのを感じた。恵子にここまで言わせているのだから、何も聞かずに応えるべきだと心の何処かが叫び始めた。その声を必死で抑えながら、彼はたった一言、答えた。

 「ないです。今のオレには、関係ないです」

 少しの間を置いて、恵子は答えた。

 「『ある』って言ってほしい」

 恵子は理屈になっていない理屈を口にした。

 そして……沈黙。

 聞こえるのは、雨の音、時計の鳴る音、外を走る車の音、隣の部屋の住人が家に帰り着く音。

 やがて康人が言った。

 「もし今……先輩がそういう目に遭ってなかったら、オレは……」

 建前を言う余裕も、嘘をつく気にもなれなかった。だから康人は、ただ本心を口にした。

 「先輩、オレを旦那さんへの当てつけに使うのはやめてほしいです。浮気されたから、し返してやるみたいな。オレは、そういう感じで、先輩と一緒になりたくないです。そんなの、オレも先輩も、ミジメになるだけです」

 「相変わらず、キミは理屈っぽいね」

 「先輩がガサツすぎるんっすよ」

 康人は、恵子が自分の背中に顔を押し付けたまま、クスっと笑うのが分かった。

 「でもさ、私のわがままに付き合ってくれん?」

 「わがまま?」

 「うん。わがまま」

 恵子が続ける。

 「私ね、ずっと勘違いしとったんよね。特別な人に、特別な人やって思われとるって。でも、それが全部勘違いやった」

 康人は黙る。答える言葉が見つからなかった。さっきの居酒屋では、一緒になって笑い飛ばせていた話題なのに。

 「やから誰かに、一晩だけでいいから本当に特別扱いされたい。一晩だけでいいけん。明日になったら、綺麗に忘れる。なーんもなかったみたいに、家に帰る。私もキミも、普段通りに戻る」

 恵子の声が震えた。その手が、さらに強く康人にすがる。彼女は何も考える気にならなかった。考えるのも、取り繕うのも、今はどうでもいい。そんなことより、自分の思ったことにそのまま従いたかった。

 一方の康人は考えた。けれど考えれば考えるほど、正解が遠のいていく。「そんなことできません。今すぐ寝ましょう」これが正解だとは分かっているが、正解だとは思えない。今、自分が言いたいことは、本当に思っていることは、全然そんなことではない。

 「先輩、一晩だけなんて、無理です。オレだって本当は……」

 恵子のことは忘れたつもりだった。中学時代、遠い十代の頃の思い出。とっくの昔に終わった初恋だ。しかし、あの日々は――

 「もし、あの時のやり直しができるならって、思ってました。ずっと前からです。オレは結局、先輩より好きな人を見つけられなかった。先輩を忘れられなかった。オレにとっては、あなたがずっと特別な人だったんです。だから……」

 康人は振り返った。恵子と目が合う。真夜中だが、すっかりお互いに暗闇に目が慣れている。だから、すっかり大人らしく変わった顔も、まるで子どもみたいに顔が真っ赤になっていることも、ハッキリと見て取れた。

 「先輩がわがままを言うなら、オレだってわがまま言わせてください」

 そういって康人は、恵子を抱き締める。何も考えず、思うがまま――。

 「オレは、一晩なんかじゃイヤだ。一晩なんかで我慢できるわけない」

 康人に強く抱きしめられた瞬間、恵子は心臓が飛び出しそうになった。今、自分は全然全霊で特別だと思われている。胸の高鳴りは喜びへ変わり、ほんの少しの胸の痛みと引き換えに感じながら、彼女は深く頷いた。

 「今ね……私、どうにでもなれって気分」

 恵子が言った。

 「オレも」

 康人が応える。そして――

 ――ドグオォン!

 不意に外から巨大な異音がした。爆発音と言っていい、巨大な音だ。

 「え、何!?」

 慌てる恵子、一方の康人は、音が恐ろしく近くからしたことに気が付いた。音は隣の部屋からしたのだ。

 「何でしょう? えっと、そこにいてください。オレ、見てきますよ」

 ジャージ姿の康人は、部屋の扉へ向かった。

 ――今のは何だ? 音はアパートの中でした。ガス爆発か? 

 そして覗き穴から外を伺うが……何も見えない。「なんでだ?」と、扉を開ける。その途端にタプンと大量の液体が下駄箱に流れ込んできた。生暖かいその液体は、真っ黒で、強烈な匂いを発していた。

 「血!?」

 アパートの廊下一面に、血がブチまけられていた。ついでに扉の覗き穴が使えなかった理由もわかった。自室の扉も血まみれになっていたからだ。

 「何じゃこりゃ!?」

 悲鳴に近い声を上げながら、康人は廊下を見る。そこには切断された男の上半身と下半身が転がっていた。康人は目を疑った。次にこれは幽霊か、何らかの心霊現象だと思った。まだそっちの方が説明がつく。東京23区内、よりによってオレの部屋の前で、人が真っ二つになるわけがない。けれど、どれだけ目を凝らしても、そこにあるのは真っ二つになった本物の中年男性の死体だった。

 康人がその事実を受け入れたとき、今度はシューシューという、聞き慣れない音がした。一定のリズムの繰り返すそれは、昔に行った動物園を思い出した。これは巨大な呼吸音だ。象やサイが漏らすような。

 音がする方を康人は見た。そして彼は再び悲鳴をあげた。

 赤い殻に巨大なハサミ型の手を持った生き物がいた。ハサミの部分にはべっとりと血がついていて、これがあの男を真っ二つにしたのだと、ひと目でわかった。それはあまりに大きく、バケモノとしか思えなかった。けれど数秒も経つと、そいつがずいぶんと見慣れた形をしていると気が付いた。単に馬鹿デカいから異形に見えたが、それは田舎で飽きるほど見た生き物だ。

 そこにいたのは、巨大なザリガニだった。


5


 湯川源蔵(ゆかわ げんぞう)は、ワシこそが救世主だと思っていた。地球規模の食糧問題、飢餓に対する解決策を見出したのである。彼が注目したのはアメリカザリガニだ。この生物は驚異的な繁殖力を持ち、なおかつ美味い。海外では食品としてポピュラーだ。これに注目しない手はない。もしもザリガニをより美味く、より大きく、伊勢エビやロブスターのようにできれば、人類は食べるに困らないのではないか? 自分は人類の救世主となり、ノーベル賞とか貰って、この狭いワンルームマンションでの暮らしからサヨナラできるのではないか? 彼は自説を信じて、ひたすらザリガニを大きくする研究を行った。ステロイドの投与や遺伝子組み換えを繰り返し、遂に彼の部屋で全長80センチメートルに迫る個体が生まれた。予想以上の成果に、源蔵は興奮した。ノーベル賞は目前、オレは山中教授を超えた。

 しかしその日、予想外のことが起きた。いつも通り安月給の職場から我が家に戻ってみると、ボロ布のような見慣れない何かが落ちていた。それはヌメヌメと粘液で濡れていて、次いで改造ザリガニを閉じ込めるために用意した、大型犬用のゲージが内側から破壊さていることにも気が付いた。嫌な予感がした。彼はザリガニを黙らせるための鋼鉄製さすまたを手にした。スタンガンとも合体させた自信作だ。しかし、それを手にしても不安が勝った。あれがまた脱皮するとは思っていなかった。脱皮をしたなら、さらに大きくなっているはずだ。80センチからだ。90か? それとも100、つまり1メートルか?

 それらの予想は外れた。背後からシューシューという鳴き声が聞こえたとき、源蔵が背を向けていた壁全体がぬらりと動いた。同時に彼は、その存在に気が付いた。壁全体を覆うほど、やつは大きくなっていた。全長は3メートル程度、ハサミだけでも1メートルはある。

 「待てよ、おい」

 源蔵は、さすまたを投げ捨てた。こんな物が通じる相手ではないと一瞬で察知できた。戦うのはありえない。逃げるしかない。ドアに向けて走り、鍵を開け、飛び出した。が、同時に腰の部分に激痛が走った。

 「ぐえっ」

 悲鳴と同時に、想像もしたくなかった状況に自分が陥ったことに気が付く。巨大なザリガニのハサミが、自分の腰をガッチリと掴んでいたのだ。

 「助けっ」

 ドアは開いている。あと一歩で外の世界に、この部屋から出られる。誰かがやってきて、自分を引っ張り出してくれれば、何とかなるかもしれない。両手で開きかけのドアを掴み、部屋の奥へ引きずり込まれないようにしながら、源蔵は助けが来ることを祈った。しかし、それよりも先に、

 「ごげぇっ」

 ザリガニのハサミが閉じていく。源蔵の腰の肉を切り裂き、骨を砕き、骨が守っていた内臓が千切れていく。自分の体がミリミリと力任せに落ち潰されていてく感覚に、断末魔を上げようとした。けれど喉は体内から噴出してきた血液に満たされていたから、口からは断末魔ではなく血が零れ落ちた。自分の肉体が腰から真っ二つになっていくのを実感しながら、ついに源蔵は叫ぶこともできず、ただ一言だけ呟いた。

 「ミスった」

 渾身の辞世の句を発した直後、源蔵は真っ二つに両断された。ばちんという音と共に、源蔵の上半身と下半身は、勢いよく部屋の外へ飛び出した。

 そしてザリガニは部屋の扉を一撃で破壊して、外の世界へと這い出て行った。


6


 「ザリガニだ!」

 康人が叫んだが、恵子は意味が解らなかった。ザリガニ? もちろんザリガニは分かる。九州の田舎でよく見かけたし、何なら康人と食べたこともあった。「味もみておこう」と岸辺露伴ごっこをしたのだ。焼いて食べたら、普通に美味しかった。だからザリガニのことはよく知っている。けれど今、ザリガニの話をするのは意味が分からない。

 「外にめちゃくちゃ大きいザリガニがいます! そいつが、人を真っ二つにしていて……!」

 「はぁ?」

 ますますワケが分からなくなった。どうにか説明をつけようと、恵子の脳みそが暴走する。私と浮気セックスをする空気になったけれど、それを回避するために突飛なことを言い出したのだろうか? いや、それにしたってもう少し理屈があるだろう?

 ――ドグオォン!

 再びの爆発音。同時に、ドアを背にしていた康人が自分の方まで吹き飛んできた。

 「なに!?」

 声を上げると同時に、恵子は見た。ドアがひしゃげている。何かが外側から、物凄い力でドアを叩いたのだ。先ほどから聞こえた異音は、このドアを破壊する音だ。そして、何かがドアの向こう側から覗いていた。黒く丸い目と、赤い光沢のある体……その二つの特徴だけで、彼女はその正体に気が付いた。

 「あ、あれ! ザリガニやん!」

 「だからそう言ったじゃないですか!」

 康人は叫んだ。そしてテレビのリモコンを片手に持って、恵子の前に立つ。ザリガニから彼女をかばうために。何故リモコンかと言うと、武器になりそうなものがそれしかなったのだ。

 「こっち来るなよ!」

 康人が叫ぶ。目を見開いて、真っ黒なザリガニの目を睨みつける。目の周りの血管がズキズキと痛んだ。普段まったく使わない顔面の筋肉を全動員しているからだ。

 「先輩がいるからな!」

 奥歯を噛んだ。もしザリガニが部屋に入ってきたら、そのときは全力で正面からブツかりに行く覚悟が出来た。

 「何もさせんからな! どっかいけ!」

 次の瞬間、カリっと奇妙な音が康人の口からこぼれた。噛み締めすぎて、奥歯が欠けたのだ。

 同時に、2人を覗く黒い球体の目が消え、次に赤い体が消えた。2人はザリガニが自分たちへの関心を失い、どこかへ去ったと理解した。やがてボリボリと、ザリガニが何かを食らう音がした。康人はあの真っ二つになった中年男性が食われているのだと分かったが、それをわざわざ恵子に伝えようとは思わなかった。

 恵子も康人も、全身からどっと汗が吹き出し、その場に座り込んだ。

 「な、何あれ?」

 恵子が聞くと

 「デカいザリガニです!」

 康人が答える。答えになっていないとは重々承知だ。けれど今は、別にやることがある。彼の頭の中は、とある感情でいっぱいになっていた。不安、あるいは恐怖だ。あのザリガニがまた戻ってきたら、どうなるか? さっき助かったのは間違いなく偶然だ。「たまたまザリガニがその気にならなかった」にすぎない。ザリガニがその気になったら、自分たちも廊下に転がってる中年男性よろしく切断されるだろう。あいつは人を殺すだけじゃない。まさに今、ボリボリとザリガニが人体を嚙み砕くが響いているが、あいつは人を食うのだ。放っておけば、あいつに殺されて食われる。その道を回避する方法は、一つしかない。話し合いは無理。警察じゃ、どうにもならない。自衛隊なら何とかなるかもしれない。だがそれは何時間後だ? 廊下にいるザリガニが真っ二つの人体を食べ終えて、“その気”になる前に、自衛隊が駆けつけてあいつを倒してくれるだろうか? さすがに厳しいだろう。だから――

 「オレ、ちょっとあいつ殺してきます!」

 「はぁ!?」

 恵子の素っ頓狂な声を背に、康人は台所へ走った。なるべく新しい包丁を手に取り、スニーカーを履く。靴ひもは万が一にもほどけないように、キツく、キツく、縛っておく。

 康人の恐怖は、今や完全なる闘争心に変換されていた。

 アイツを取り除かねばならない。殺される脅威は排除しなければ。先輩のためであり、オレのためにも。

 康人は包丁を持って、玄関から飛び出した。

 

 7

 

 「どこ行くん!?」

 恵子の疑問に答える前に、康人は部屋を飛び出した。だから残された彼女は、何がどうなっているかを1人で考える必要があった。巨大なザリガニが現れ、どこかへ消えた。直後に康人は包丁を持って部屋を出た。繋がりそうで繋がらないが、ひょっとして……と恵子が彼の意図に気が付いたのは、グシャグシャに変形したドアの向こうから、怒声とも悲鳴ともつかない声が聞こえてからだった。

 ――まさか康人、あのザリガニと戦ってる?

 途端に「なんで?」の嵐が噴出した。戦う必要なんて何処にも無い。というか、どう考えても勝てる相手じゃない。ここで隠れて、どこかの誰かがあいつをどうにかしてくれるのを待つのが当たり前じゃないか。

 そこまで考えたとき、恵子の頭の中にまったく別の思考が起きた。あのとき、結婚式のケーキ入刀で冷静になったように。

 ――でも、“どこかの誰かがどうにかしてくれなかったら?”

 途端に康人の行動が理解できた。どうしても理解できなかった英語の長文読解問題が、キーワード一つで繋がる様に。

 ――康人は、“どこかの誰かがどうにかしてくれる”のを待てないと思ったんだ。待てばいいのに、待ってダメだったときを恐れたんだ。どうして恐れたのか? 自分が殺されるのが嫌だから? 違う、それだけじゃない。あいつはさっき、あのザリガニが現れたとき、私をかばった。テレビのリモコンという全く意味のないものを武器にして、私を守ろうとした。きっと今のあいつの頭の中は、私を守ることでいっぱいなんだ。だから包丁を持って出て行った。あのザリガニが、もう二度と私たちの前に現れないようにするために。

 そう気が付いた瞬間、恵子は立ち上がり、部屋の外へ走り始めていた。

 ――助けるんだ、康人を。

 どう考えても勝ち目がない、そんなことは恵子にも分かっている。けれど戦う必要は十分にあった。自分を命がけで守ろうとしている人がいる、そう考えると、黙って隠れていることなどできなかった。だから恵子は、少し大きめの康人のスニーカーを履いて、靴紐を痛いほど締めて、部屋の外へ駆け出した。

 

 8

 

 康人に勝算はなかった。相手は巨大なザリガニだ。そして人体を真っ二つにするハサミを持っている。どう考えても勝てるはずのない相手だが、それでも止まれなかった。あいつが恵子に手を出す可能性があるうちは。

 しかし、中年男性を食べ終えて、アパートの廊下をつたって移動した巨大ザリガニを追いながら、康人は少しだけ冷静になった。

 ――やっぱり、逃げるべきだ。

 それは先ほどの闘争心とは違った。自分の中から湧き上がってきたものではない。誰かが鼓膜の内側で囁いた。動物としての本能が告げたのだ。自分より圧倒的に強い生命体を前にして、彼は1匹の動物になった。

 だが、康人はすぐに人間に戻った。

 ――いや、オレはこの場で、あいつを倒さなければならない。

 康人がそう思い直したのは、ザリガニが人を襲っていたからだ。ザリガニがアパートの扉を叩くと、一撃でぐにゃりと曲がった。そして、まるで人が箸で貝の中身を摘まみだすように、部屋の中から人間を1人、ハサミで摘まみだした。50~60歳くらいの男性が、右腕をハサミで掴まれている。男性は「助けて、助けて」と叫びながら暴れる。その足もとには、彼のパートナーだろうか? 同じくらいの年頃の女性が、腰を抜かしていた。

 ――やっぱりだ! さっき自分たちが助かったのは、たまたまだった! 自分たちがこうなっていてもおかしくない! いや、こうなるかもしれない……! ならば、その前にザリガニを殺さなければ!

 次の瞬間、老人の右腕が飛んだ。「ぎゃあ」と声をあげて、老人が地べたで、のたうち回る。「お父さんの腕がー!」と、妻らしき女性も悲鳴を上げた。ザリガニはそんな2人を襲うわけでもなく、ただ眺めていた。不思議そうに、ワケが分からないと言わんばかりの様子で。

 それを見たとき、康人はこれまで体験したことがないほどの怒りに支配された。

 ――こいつは危険だ! 今こいつは、食欲ではなく、面白半分で人の腕を切断した! 何てことをする生き物だ! お前のような存在は、この場所に生きていてはいけない!

 康人は人間代表を気取るつもりはなかったが、今、自分がここでザリガニに退いたなら、人間という種全体が敗北するような気がした。

 不意にザリガニが、康人の方を向いた。口元がうじゃうじゃと動く。黒い球体上の目は、何の感情も読み取れない。改めて見ると、それは生物というより機械に近い印象だった。全身を覆う赤い殻のせいもあるだろう。

 ――殻? ザリガニの殻!?

 康人は思い出した。九州にいた頃、ザリガニを採って遊んでいた。あの頃に、彼はザリガニの強さを知った。凶暴性を知った。同時に、弱さも知った。凶暴なハサミを持ち、体中を硬い殻に覆われていながら、その足の付け根は驚くほど柔い。

 ――狙うのは、あそこだ!

 康人、生まれて初めてのスライディング。右足を突き出し、全力でザリガニの足もとに滑り込む。両足の腿が火傷するように熱くなったが、人生初の滑り込みは成功に終わった。そして持ち出した包丁を真上に向けて突き上げた。そこはちょうどザリガニの頭部に位置する場所だった。

自然界にザリガニの足元に潜り込み、頭部から腹部へ鋭利な一撃を入れる生命体はいない。まさに自然の盲点を突いた一撃。これで勝った、と康人は思った。

 だが、すぐさまその甘い幻想は打ち砕かれる。

 康人が刺したそこは、たしかに殻ではなく肉だった。包丁は深々と、ザリガニの肉の中に入り込んだ。神経にも達していた。けれど何重にも折り重なった肉は分厚く、致命傷にはなりえなかった。そして包丁が突き刺さった途端に、「キシュゥゥゥ!」とザリガニは悲鳴を上げ、あらん限りの力を持って暴れ始める。

 包丁を飲み込んだザリガニの肉は、包丁に付随する康人の両手・両腕までも折らんばかりに強烈に凝固した。ちょうど釣り針が刺さった獲物のように、暴れれば暴れるほど、包丁は深く深く入っていく。致命傷へと近づく痛みが、さらにザリガニを凶暴にした。しかし、突き刺さっているのは物言わぬ吊り針ではなく、包丁を掴んだ痩せ型の30代男性、康人である。まるでアイドルの現場のサイリウムのように、康人は荒れ狂うザリガニによって縦横無尽に振り回された。

 側頭部に激痛が走り、片目の視界が消えた。クシュンと乾いた音がして、脇腹から何かが飛び出した(折れた骨だ)。皮膚が着ている服と一緒に、でろんと剥がれて飛んでいくのが分かった。ザリガニは、悲鳴を上げる康人を振り回し続ける。康人はボロ人形のようになりながら、朦朧とする意識の中で、自分が仕掛けた戦いの無謀さを文字通り痛感していた。

 ――痛い。全身がバカみたいに痛い。バカなことをした。何でこんなことをしたんだ? 何故、こんなことになったんだ。何でオレの家に巨大な殺人ザリガニがいるんだよ。百歩譲って、ザリガニがいるのは仕方ないとして、なぜ戦っているのだろう? ああ、そうだ。恵子先輩を守るためだ。守るために、こいつを殺すんだった。でもさ、できれば他の人にやってもらいたかった。自分じゃなくて良かったんじゃないかなと今さらになって思う。そもそも、そもそもだ。オレが、ここにいなければ良かったんだ。居酒屋で先輩を家に帰していたら、また違った未来もあっただろう。そうだ、あそこで自分は間違えたのだ。どうして先輩が浮気をされたと聞いたときに、笑ってしまったのだろう。たしかに先輩は笑っていたけれど、あのとき自分が言うべきだったのは「笑いごとじゃないですよ」だった。先輩の冗談につられて笑ってしまったけれど、あそこは怒るところだった。あそこで自分が怒っていれば、先輩は早々に切り上げて、自分も1人で家に帰っていただろう。そしたらきっと、ザリガニに襲われても、戦おうなんて思わなかった。ちくしょう。ちくしょう。ああ、ミスった。ところで先輩は……無事かな? 無事ならいいの……だけ……ど……。

 康人の意識が飛んだ瞬間、影が康人の傍らに滑り込んできた。その拍子で康人は覚醒した。ぼやけた視界の中で、影は康人の手を掴み、包丁を巨大ザリガニのさらに奥へと押し込んだ。そして、

「しっかりして! 手を絶対に離すな!」

 影が、叫んだ。


9


 恵子は珍しく何も考えていなかった。普段なら、彼女は後々のことを考える。職場でも、何か話すときは十分に考えてから言葉を紡ぐ。けれど今は、ただ思うがままに行動した。行動せざるをえなかった。だってザリガニに包丁を突き刺した康人が、ザリガニに振り回されてボロボロになっていたのだから。

 体のあちこちに傷が出来て、血まみれで、目は虚ろで、今にも意識が飛んでしまいそう――いや、死んでしまいそうだ。

 だから恵子はザリガニの腹の下に滑り込み、康人を支えながら叫んだ。

「しっかりして! 手を絶対に離すな!」

 すると康人の目に、小さな光が戻った。

同時に恵子は、ザリガニの体内に手を入れた。グチャグチャと肉をかきわける音、不快で生ぬるさを帯びた体液を全身に浴びながら、彼女は康人の手を掴んだ。そしてザリガニの体内にある包丁を、さらに奥深くへ突き入れる。

 次の瞬間、康人の手が動いた。恵子には、その手が包丁を握り直すのが分かった。

「生きてるか!?」

恵子が怒鳴る。

「それでいいんですよ」

 康人が応える。

「はぁ!?」

「先輩、怒ってください。浮気されたんだから」

「何を言ってんだよ!?」

「笑いごとじゃない。先輩をナメた夫は、クソ野郎だと、オレは思います」

 恵子は一瞬だけ、ザリガニのことを忘れた。あまりに、その通りだったからだ。酔って、笑い話みたいに話した。けれど本当は、はらわたの中が煮えくり返っていた。私は怒るべきだった。もっといえば、マンションから逃げ出したのも間違いだった。あのとき、うち扉の向こうに乗り込んで、夫と浮気相手を問い詰めるべきだった。けれど私は反射的に逃げた。逃げ出してしまった。あのとき私は、逃げ出すべきではなかった。

「そうやな!」

 恵子は答えた。そして康人の目が、遠くを見ていることに気が付いた。だから恵子は、彼の顔面に頭突きをした。本当はビンタをしたかったが、手は両方ともザリガニの肉の中にうずまっていた。

 その一発の頭突きが、康人の意識を決定的に回復させた。

「先輩!? 何でここにおるんですか!?」

「キミは私を特別な人やと言ったね!」

「はぁ!?」

「私もキミを特別な人やと思う! だから私も、特別なことをする! 聞け!」

 恵子は包丁と、康人の手を強く握った。

「このザリガニは、さっきからエラい暴れる! けどな、元気がなくなってきよる!私らの足が地面につく瞬間がある! 次に着いたら、走るぞ!」

「どこに!?」

「しっぽの方や!」

 恵子が目線をザリガニの尾の方へやった。

「包丁握ったまんま、全力で走るんや! 私とキミ、一緒に! 私が合図する!」

 恵子がザリガニの肉の中で、包丁をグリグリと強引に回転させ、刃が尾の方向を向くように調整した。彼女はふと結婚式のウェディングケーキのことを思い出した。あのときも冷静になったが、今も冷静だ。どうやらこういう大舞台で冷静になるのは、私の、私自身も認識していなかった個性、否、能力らしい。

「まだ待て! まだ、まだだ!」

 恵子は計る。ザリガニが隙を見せるのを。2人の足が地面に着く、その瞬間を。

「まだだ!」

 その瞬間に、すべてを爆発させる。怒りでも、悲しみでも、何でもいい。あるいはマンションから立ち去ったときのように、無心でもいいいのだ。とにかく尻尾まで走り抜けられるなら、感情は問わない。

「まだ!」

 大きく体が浮いた。壁に叩きつけられ、内臓が痛んだ。それでも恵子は計る。そして、遂に足が地面に着いた。

「走れ!」

 恵子の合図と共に、2人は走った。途端にミチチチチチと肉が割ける音がして、ザリガニの体液が噴き出した。けれど2人の口の中ではパキンと乾いた音が響いていた。食いしばった奥歯が割れたのだ。そして全身の力を爆発させて、2人は走った。ザリガニの肉が割ける鈍い音は、やがて鋭い音へと変わっていく。そしてカキンと乾いた音がして、包丁は砕き折れた。包丁がザリガニの殻に激突したのだ。しかしそれは、2人がザリガニの尾まで駆け抜けた瞬間でもあった。2人はザリガニの腹部を縦一文字に切断したのだ。

「終わった」

全身がザリガニの体液まみれになった恵子が呟くと、

「まだです!」

 康人が叫んだ。ザリガニの足が痙攣している。まだ自分たちは、あのザリガニの下にいるのだ。康人が恵子を抱き、跳んだ。

 次の瞬間、2人の背後でザリガニが崩れ落ちた。はらわたを全てブチまけ、手足が微妙に痙攣しているが、その黒い瞳に命の輝きはなかった。

 やがてザリガニの体の震えが、完全に止まった頃、

「ちゃんと死んでる?」

 恵子が言った。

「死んでると思います。お腹のなか、全部、出たみたいですから」

 康人が言った。

 次の瞬間、2人は揃って倒れ込んだ。ザリガニの体液でビチャビチャになっていたが、そんなことはどうでもよかった。人生最大の負荷をかけられた肉体は、このまま寝てしまいたいと訴えていた。

 けれどその前に、恵子は言っておきたいことがあった。

「明日、夫と話すワ」

「はい。ちゃんと話してください。つーか怒ってきてください。オレ、この話ってしましたっけ?」

「で、たぶん別れるわ」

「はい。たぶん、そうなると思いますし、その方がいいと思いますね」

「別れたら、また会ってくれる?」

「もちろんですよ」

「そうなったら、お付き合いしない?」

「しましょう」

 そして2人は眠りについた。


10


 巨大生物による一般市民への攻撃と捕食……まさしく前代未聞のバイオハザード(生物災害)から一か月、世間はいまだにザリガニの話題で持ちきりだった。ニュースではマッドサイエンティストにして、巨大ザリガニの生みの親、そして唯一の犠牲者、湯川源蔵の功罪について、日々、活発な議論がなされた。そして、

 「ザリガニは実は産卵していて、子どもが下水道に逃げ込んだ」

 「大きなザリガニを〇〇という池で見た」

 こういった都市伝説が巷に溢れた。

 一方、恵子は夫と別れた。驚くほど早く離婚が成立したので、恵子は夫に感心すら覚えた。この男の優しさという名の他人への無関心は、寂しさや怒りが付け入る隙がないほどだと。

 そして恵子は康人と付き合うことにした。

 35歳の女子と、34歳の男子。そんな2人の初めてのデートは、喫茶店で待ち合わせ。まずはあのとき、ザリガニに腕を切断されていた老夫婦から「その節はどうも。おかげさまで、右腕はくっつきました」とお礼を言われ、デパートで買ったらしき菓子折りを貰った。そして「今の売れ筋を知りたい」と2人そろってマンガ喫茶に行って、『SAKAMOTO DAYS』を一気読みした後に、ラブホテルでセックスをすると、「来週は金曜から泊まり込みで私の家で漫画を描こう」と約束して、それぞれの家に帰った。

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