2. BEAST
不破嶺衣奈の秘書が運転するクラウンに乗って、私はメンデル社の研究所に向かっていた。
あの日の夜のうちに、いま運転士をしている秘書から連絡があり、研究所へと招かれたのだ。不破嶺衣奈の真意はまだ知れないが、少なくとも何かしらの興味は持ってもらえたのだろう。
私は念のためにフレンチのレストランに予約を入れ、ホテルの部屋をとった。どう転ぶにせよ、準備はしておくに越したことはない。他にもいくらか、どうにかするための備えもある。
メンデル社は研究所を郊外に設けているが、本社機能は都市部にある。しかし今日招かれたのは、郊外の研究所の方だ。「見てもらいたいものがある」ということだった。
「お待ちしていました、志田狭さん。遠いところまでお呼び立てして失礼いたしました」
研究所で出迎えてくれたのは、不破嶺衣奈本人だった。先日会ったときよりもいくらか柔和な様子である。……いかにもビジネスといった、貼り付けたわけでも作ったわけでもない、情報としての笑顔。あくまで私のことはビジネスパートナーとして迎えようとしているのだろうか?
「随分と立派な研究所だ」
「ええ――叔父から譲り受けた研究所を改築して使っているんですよ」
「佐郷平太博士……ですね? 日本の遺伝子工学の権威だ」
「よくご存知ですね」
「ええ、これくらいは」
挨拶もそこそこに、私は研究所内の社長室まで案内された。
「どうぞ、お掛け下さい」
促され、私は革張りのソファに腰掛ける。不破嶺衣奈もその対面に腰を下ろした。
まどろっこしいのは嫌いなのだろう、不破嶺衣奈は早速話を切り出した。
「――さて、先日はありがとうございました。あなたは私に出会えたことを幸運だ、と仰いましたが、私にとっても、これは幸運でした。今回は……トリスタンの志田狭周子さんではなく、あなた自身にお話が」
「……なるほど、それでは見えない数字が、やはり必要だと」
「そうではありませんわ。私は、あなたという人材に興味があります。――単刀直入に言いましょう。私の元で働きませんか?」
そう、きたか。
そうきたか。これは想定しておかなくてはならなかった。
「光栄なお話ですが……買いかぶりすぎですよ。私はお金を動かすことしか出来ません」
「そんなことはないでしょう。先日の演説には舌を巻きました。……あのように数々の経営者を虜にしてきたのでしょう? あなたの仕事は資金を右から左に動かすだけでは成立しない」
不破嶺衣奈が不適に笑った。
情報的な笑顔でも、意志のない薄らとした微笑みでもない。
全てを見透かすように、不破嶺衣奈が私を見る。
「あなたの能力が――つまりは、あなた自身が欲しい」
私は、欲が出た。
冷静さを欠いた。
彼女を一度見たあの日から、私はずっと冷静ではなかったのだ。
私は彼女に目を奪われていた。彼女の魅力を私のものにしたいと考えていた。
ある意味で、これは彼女の懐に入る最大の好機である。
そして是非、と返事をしそうになったすんでの所で――
しかし、私の詐欺師としての直感が、ここで身を引くべきだと告げた。
「申し訳ありません、そういった話であれば……私は協力できません」
「なぜです? 弊社の行く末を見るのであれば、特等席ですよ」
「先日のやりとりで私の能力を買って頂いたのかもしれまんせんが、メンデル社に必要なのは、より科学的な知識を持って渉外を行える人材のはずです。評価して頂いたことは非常に喜ばしく思いますが、私なんかでは、とても」
この場はつつがなく断り、静かに消えよう、なんてこの時は浅はかにも思っていた。
しかし次の一言で、私は自分の置かれた立場を知る。
「いいえ、あなたが適任です。――適任なんですよ、『箕輪絵里』さん」
私は――私は努めて冷静を装った。
箕輪絵里という名は、三つ前の私の名前だったからだ。
……バレている。
私が詐欺師であることが、すでに知られている。
思考を巡らし、情報を辿る。どこからバレた? 私自身がボロを出したのか? いや、だったら私の以前の名前を知るわけがない。詐欺というのは騙す対象が大きいほど、騙す金が大きいほど、一人で立ち回るのが難しい。私だって誰かに協力することもあれば、私自身が協力を仰ぐこともある。詐欺師同士、互助関係を結ぶ。私の名を知る人物――詐欺相手でなければつまり、私は同業者に売られたのだ。
出来れば私を売った詐欺師が誰なのか知りたいが……そんなことを言っている場合ではない。
切り抜けなければ。何か……何かないか。
……いや、そもそも。
なぜ不破嶺衣奈は、私が詐欺師だと分かってここに呼んだ?
「箕輪絵里、でなければ、『諏訪部菜々』さんとお呼びしましょうか。あるいは『伊田橋結衣希』さんと」
――それは二つ前と一つ前の名前だ。
そして私は気付く。
私を売ったのは「新聞配達」だ。……私が最も信頼していた詐欺師の一人。今回の詐欺も含め、箕輪絵里を名乗っていたところから連続して協力をしてもらっていた。そいつに裏切られた。十分な報酬も払っていたのに。
メンデル社がロビー活動をしているという情報も、そいつから得た情報だ。
――罠だった。と見るべきか。詐欺師としての直感は正しかったが、あまりに遅すぎた。郊外の研究所には逃げ場もない。
「……私の名前は志田狭周子ですよ、不破社長」
「では――そうしておきましょう」
私はまだ切り抜ける手立てを考える。詐欺師であるとバレたことはもういい。新聞配達の裏切りは想定外中の想定外だったが、私たちは詐欺師だ。騙される方が悪い。
取り立てて大事なのは――この場を最悪にしないことだ。
落ち着け、大丈夫だ。
詐欺師にとって大事なのは誠実さ。正直であり、真摯であること。
そして何食わぬ顔で、嘘をつけるこころ。
腹を見せる必要があるだろう、犬のように、態度だけは。
「――これ以上は無理そうだ。もうあなたは私のことを知っているのでしょう。騙すようにして申し訳ありません、不破嶺衣奈さん」
「おや——随分とすぐに白状するんですね」
「確証を得ている相手をだまし続けることほど、不誠実なこともありませんから。――さて、私はこのままお縄に?」
「とんでもない――まだ商談は続いていますよ」
やはりそうだ。
彼女は「詐欺師の私」に用事がある。ならば最悪は避けられそうだ。
「まさか本当に私を雇い入れるつもりですか?」
「ええ、私は嘘をつきませんから。全て本心から話しています。あなたには是非、私の元で働いて欲しいと思っています」
「断ったら?」
「断れる立場ですか?」
「私は警察に捕まっても構いませんよ」
「方便だ。あなたは捕まらないことに矜持がある。それに――」
不破嶺衣奈は足を組み替え、私を見下すようなつもりか、ソファに背を預けた。
「あんたは、金のために人を騙さない。騙すために騙す詐欺師だ。――それがいい」
私は少し恐ろしいような心地だった。不破嶺衣奈の顔が、つい一呼吸前のそれとは明らかに変わったからだ。
「あなたは私に……なにをさせようとしているんです?」
私の問いかけに、不破嶺衣奈は――笑う。
「ふふふふふふふ。志田狭周子――あんたには、国を騙してもらう」
それは、それまでのどれとも違う、邪悪なほど、無邪気な笑みだった。
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