【書籍1巻発売記念】双子のタイムスリップ小冒険:6
ゼニスは泳ぎが上手だった。未来の彼女から聞いた話では、前世でスイミングスクールに通っていたらしい。
けれどジョカは魔力体である。呼吸が必要ないのだから、そもそも勝負にならないのだ。
でも、それではつまらない。そこでジョカは息継ぎするならこのくらい……とタイミングを見計らって、水面に顔を出しながら泳いだ。
アグリッパ浴場のプールは広くて、人がたくさん入っていてもちゃんと泳ぐスペースがある。
プールは一部が屋外につながっていた。
ユピテル式建築の回廊のある中庭のように、柱に取り囲まれた空間の天井が抜けている。
ゼニスとジョカは温水プールで泳ぎながら、秋の少し涼しい空気を吸って楽しんだ。
そうしてたっぷりと遊んで、体に心地よい疲れがやって来た頃。
「そろそろ帰るわよ」
プールサイドにオクタヴィーがやって来て、足だけ水に浸していたゼニスの肩を叩いた。
「はい、師匠。楽しかったですね」
ゼニスはそんなことを言って立ち上がる。
ジョカもプールから上がって、一緒に入口の脱衣所に戻った。
(うーん、楽しかった! 小さい頃のお母さまもかわいいし、来てよかったよ)
ジョカが上機嫌で服を着ようとした――そのとき。
「泥棒!!」
脱衣所の中に叫び声が響いた。見れば女が一人、浴場の案内人を突き飛ばしている。
彼女の手には小袋がいくつかある。浴場の客の財布だろう。
盗人の女は素早く動いて、浴場の中へと走っていった。濡れて滑りやすい床だというのに、ずいぶん手慣れた様子で駆けていく。
「逃さないよ! お財布返して!」
ゼニスが叫んで走り始めた。彼女の足さばきもなかなかのものだが、盗人にはかなわない。距離は縮まらない。それどころか離れていく。
「……こうなったら!」
ジョカの目には視えた。ゼニスの全身が淡く光ったのが。魔力回路を起動させたのだ。
ゼニスの透明な魔力が全身を駆け巡る。それは大人になった彼女と比べれば、まだまだ未熟で拙いもの。
それでもゼニスは訓練を重ねて少しずつ力を高めてきたのだと、ジョカには感じられた。
『凍てつく氷の精霊よ、その息吹で地を凍らせ、道を作り給え!』
ゼニスが魔法語で呪文を唱える。
走りながら床に指先を触れると、そこを起点にたちまち床が凍った。氷の道は一直線に伸びて盗人の女に迫る。
「えーいっ!」
掛け声ひとつ、ゼニスは氷の道に飛び込んだ。
木のサンダルをスケート靴のようにして、ゼニスは滑走を始めた。
走るよりもずっと速いスピードで、ぐんと加速して盗人に近づいていく。
「わっ! すごい、なにあれ。面白そう!」
ジョカは歓声を上げた。
姿勢を低くして滑っていくゼニスを真似して、ジョカも氷の道を滑った。
最初だけバランスを取るのに苦労したが、すぐに慣れる。
スケートの感触が楽しくて、ジョカはくるっと回ってみたりした。
「わわわ!?」
ところが前方のゼニスが焦った声を上げた。
盗人に追いつきかけたものの、相手が九十度直角に方向転換したせいで、止まりきれずに壁にぶつかりそうになったのだ。
……というか、ビターンと音を立てる勢いでぶつかった。
一瞬のことだったので、ジョカも助ける余裕がなかった。
(ごめん、お母さま)
ぶつかって赤くなった鼻をさすっているゼニスを見て、ジョカはバツが悪い。次は遊んでいないでちゃんと注意しようと思った。
立ち直ったゼニスは再び魔力回路を起動させる。それは先ほどよりも一回り力強く、今の彼女にとっての最大級の力であることが見て取れた。
『凍てつく氷の精霊よ、その息吹で地を凍らせ、道を作り給え――!』
呪文そのものは前と同じ。けれど強く込められた魔力が魔法の力を大きく引き出した。
ビキビキと音を立てて氷の道がほとばしる。それは一瞬で浴場の床を凍らせて、ずっと先にいた盗人の足元に達し、さらにその先まで氷で覆った。
盗人の女は見事に足を滑らせた。頭を打ち付けて意識を失ったらしい。そのまま壁に向かって滑っていく。
――頭を壁に向けたまま。
このままでは頭から壁に激突して、大怪我をするだろう。
ゼニスの魔力が困惑と焦燥の感情で揺らめいた。
ジョカには分かる。
ゼニスは盗人をやっつけたかったわけではないのだ。ただ捕まえて、みんなのお財布を取り返したかったのだろう。
(お母さまらしいな)
氷の道を滑りながらジョカはクスリと笑った。
たとえ子供の頃であっても、ゼニスは変わらない。
お人好しで考える前に行動しがち。詰めが甘くて、でもいつだって一生懸命。
(前にお母さまが言ってたよ。ひとりでできないことは、他の人たちと力を合わせればいいんだって)
ジョカはすいと滑ってゼニスを追い抜いた。父譲りの白銀の髪がふわりと風にたなびく。
同時に魔力でもって壁を変質させた。イメージするのはネット。今まさに頭から突っ込んでいく盗人を受け止めるように、網目を広げる。
ぼふん! と音がして、盗人は壁にぶつかった。とても石造りの壁に衝突した音ではない。ジョカの魔法はしっかりと成功したのである。
足を止めたゼニスが呆然としている。
「ジョカ……あなたは、いったい」
その声は驚きと少しの不審感が混じっている。でもジョカは気にしない。
ゼニスは好奇心旺盛で、特に魔法のこととなれば何でも首を突っ込んでくると知っているからだ。
今のゼニスから見れば、ジョカの魔族の魔法はとても理解できないだろう。問い詰めてくるのは目に見える。
だからジョカは振り向いて、満面の笑みで言った。
「あー、面白かった! テルマエは最高だねっ。お風呂もプールも気持ちいいし、スケートは楽しいし!
お家に帰ったら、お父さまに教えてあげなきゃ」
本心からの言葉だった。お風呂とプールだけでも十分楽しめたのに、スケートと泥棒の捕物劇ができるなんて。
ジョカとしてはテルマエをこれ以上ないほど満喫した気分である。
ゼニスがさらに言葉を重ねようとしたところで、壁際の盗人がうめき声を上げる。怪我はないはずだが、ぶつかった衝撃はそれなりにあるのだろう。立ち上がろうとしてふらついていた。
「あ……まずい。あいつ、取り押さえないと」
ゼニスはジョカを気にしながら盗人の方へと滑っていく。
そんな彼女の背中に、ジョカは声を投げかけた。
「じゃあね、ゼニス! あたし、そろそろ帰るから。未来でまた会おうね!」
「え?」
それだけ言って答えは待たず、ジョカはくるっとターンした。追いかけてきたオクタヴィーたちとすれ違い、先に進む。
それなりに時間が経過したのと魔法を使ったのとで、魔力体が消耗してきている。未来へ帰る頃合いだった。
『フーギ、聞こえる? お風呂終わったよ。そろそろ帰ろう!』
服を着て浴場を出ながら、ジョカはフーギに念話を飛ばした。すぐに返事があって、フーギの魔力体が町の雑踏の中に現れる。
気配をかなり薄めてから、二人でそっと飛び立った。
空はもう夕暮れの色に染まり始めている。
二人は首都の空を北へ飛び、北部森林の境界までやってくる。まっすぐ飛んできたので、時間はあまりかからなかった。
沈みきっていない夕日を見ながら魔界に転移する。
それから魔界を移動して、時間旅行の起点へ、魔王城のシリウスの研究室へと戻っていった。
ゼニスに約束した、未来での再会を果たすために。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます