第246話 前世の話
ちょっと暗いです。
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鈴木美波は、透明人間になりたいと思うことがある。
誰にも気づかれず、誰からも顧みられず、誰にも迷惑をかけず。白い目で見られることもなく、ヒソヒソと陰口を叩かれることもない存在になりたかった。
彼女の生い立ちに問題はない。サラリーマンの父にパート主婦の母、二人の姉。親子仲も姉妹仲も良く、家庭は穏やかだった。
美波自身も子供の頃は利発な子だった。勉強の成績はまずまずで、地元の進学校から中堅の公立大に進んだ。
けれどいつからだろう、自分と他人との常識の差を感じ始めたのは。
思春期に入った頃から、美波は『変わった子』と見られる場合が増えた。
そんなに悪意のある評価ではない。天然とかちょっと不思議系とか、そんなたぐいの話だ。
彼女としてはごく普通にしているつもりが、しばしば「変わっているね」と言われる。
何が『普通』で何が『変わっている』のか、美波にはよく分からなかった。
そこで彼女は周囲をよく観察してみた。友人や家族たちの振る舞いや言動を見て覚えて、『普通』と呼ばれる態度を予想した。
成果は一定程度出た。
頑張って『普通』をなぞっているうちは、変わっていると言われるのが減ったのである。
ただし『普通』を意識し続けるのはけっこう大変で、ふと緊張の糸が切れると逆戻り。
それでも学生時代は大きな問題にならなかった。
親しい友人たちは美波の本来の性格を気にしないでくれたし、家族だってもちろんそうだ。
あまり親しくないクラスメイトなどは陰口を叩く人もいたけれど、それはもう仕方ない。
一番苦労したのは就職活動の時だったが、就活はマニュアルがある。その通りに振る舞っていれば、やがて希望の会社の内定も出た。
職業はプログラマを選んだ。
大学は文系の学部だったが、IT系の講義を多めに取って勉強に励んだ。
美波はこの頃になると、自分の対人コミュニケーション能力に難があると理解していた。『普通』が分からないようでは、普通の人たちの社会で暮らしていくのは大変である。
だから営業職や、対人折衝が多くなる職種は無理だと思ったのだ。
ところが彼女の目算は外れた。
プログラマはモニタに向かって黙々と仕事をする職だと思っていたのに、違った。
顧客の要望を――時としてふんわりと固まっていない構想を具体的に示してやるのを含む――汲み取り、営業と打ち合わせをし、開発チームと連携して仕事を進める。
美波はつまづいてしまった。
詳細を省いて伝えられる言葉は、彼女にとって理解不能。周りの皆はきちんと分かっているのに、自分だけが置いていかれる。
連携が必要なのに、美波だけがトンチンカンな行動をしてしまう。足を引っ張ってしまう。
学生時代は天然で済んだズレが、失敗として刻まれてしまう。
最初は新人だからと大目に見てもらっていたが、だんだん周囲の目は冷たくなっていった。
彼女は個人としては優秀なプログラマだった。
だからこそ周囲は、何年経っても直らない美波の失態を、サボっているとか仕事を舐めているなどと感じていたのである。
「なんでかな」
何度となく繰り返した自問を、美波は今日も投げかける。
彼女は頑張っているつもりだ。
昔と同じく周囲をよく観察して暗黙のルールを見つけ出し、乗り遅れないようにする。
けれどやはり、よく観察するだけの集中力を常に保ち続けるのは無理があった。特に仕事が立て込んで忙しかったり、体調が悪い時などは。
「なんでかなぁ……」
先日は大失敗をやってしまった。営業の代打で行ったプレゼンが、さんざんな結果だったのだ。
美波は急な予定を差し込まれるのが苦手だった。同時進行で色んな仕事を進めるのも。
今回はその両方が降り掛かったためだと思う。
本来は営業の仕事だったプレゼンが、急病で急に回ってきた。他の仕事をしながらプレゼンの準備をするのは大変だった。
けれども他の人にとっては、それらはそこまでの負担ではないらしい。美波の苦労は誰も理解してくれなかった。
ここでもまた、彼女と他人の『普通』の差が出てしまったのだ。
いつしか美波も年を取り、三十歳を超えた。
焦って手を付けた婚活はひどい結果で、彼女はすっかり嫌になってしまった。
元々恋愛に興味は薄いし、姉二人は既に結婚して家庭を持っている。両親に孫を見せる親孝行は、悪いが姉たちに任せよう。
仕事に関しては少しマシになっている。
苦手な部分が分かったので、なるべく得意な分野をやるとか、どうしても苦手をやる時はよく準備するとかで乗り切れるようになった。
周囲の観察もできるだけ続けている。消耗するけれど、トラブルを避けるためだ。
そうして仕事を続けていれば、それなりに実績ができて大きなプロジェクトを任されるようになった。
激務の疲れは好物のアイスとビールで癒やした。深夜の会社帰り、コンビニに寄ってそれらを買い求めるのが、美波のほとんど唯一の楽しみになっていた。
でもたまに、透明人間になりたいと思うことがある。
透明になって、誰からも気にされず。誰もが彼女をただ通り過ぎていく、そんな透明人間に。
そうすれば普通とかそうでないとか、気にしなくて済むのに。
「疲れてるなぁ、私」
数日ぶりに帰った自宅で、美波は呟く。
ここの所はプロジェクトが大詰めで、会社で寝泊まりしていた。
久方ぶりのアパートの部屋は薄汚れていて、ろくに掃除もされていない。生活の場が会社メインなので、たいしてゴミも出ずゴミ屋敷になっていないだけマシだろうか。
ベッドに身を投げだせば、布団から埃っぽい匂いがした。
疲れ切って体が重いのに、頭の芯だけが冴えている。
最近は眠る時間が減ってしまった。忙しいだけではなく、眠れないのだ。
思考力が落ちて凡ミスも増えた。焦って取り返そうとしても逆効果だった。
「私、本当に透明人間になっちゃったのかも?」
心が色を失って、透明になって、崩れていくような感覚がある。必死でかき集めても指からこぼれていくばかり。
望んでいた透明は、こんなに苦しいものだったのか。
そんなことをほんやりと考えていると、ふと、身体に異変が走った。
……頭が痛い。それも今まで感じたことがないくらいに、激しく。まるで硬い棒で殴られたように。
視界が暗くなる。狭くなる。
何もかもが遠ざかる。
ベッドに横たわっていなければ、間違いなく倒れていただろう。
――良かった、最初に横になっていて。
そんな馬鹿みたいなことが、美波の最期の思考になった。
「鈴木さんが無断欠席するなんて、初めてのことで。電話しても出ないし、心配になって家まで行ったんです。鍵はかかっていたけど、何だか嫌な予感がして。大家さんにドアを開けてもらったら、彼女がベッドに倒れていて……。私が見つけた時は、もう息がありませんでした」
聞き慣れた会社の部下の声がする。泣いているのか、詰まり気味の声だ。
声もなく立ちすくんでいるのは、両親と姉たち。
そんな光景が透明の膜の向こうに流れていく。遠ざかっていく。
透明を願っていた人間の魂は、ささやかな願いを半ば叶えて漂っていった。名前通り美しい波のように。
透明であるゆえに誰にも気づかれず、なにものにも遮られず、ただ波のように。
ずいぶん、ずいぶん遠くまで漂っていった。
ある時、光に満ちた世界の前を通りかかった時、その世界の存在が透明な魂に気づいた。
珍しい、とそれは思った。遠い異世界の人間の魂が、こんなところまで来るとは――と。
透明な魂は長い旅を経てすり減り、摩耗しきって消え去ろうとしていた。無理もない、元はただの人間なのだ。
光の存在は気まぐれを起こした。透明な魂をすくい上げて少しばかりの魔力を与え、近くの世界に送り込んだのである。
光に満ちる世界のずっと下の方には、人間たちの住む世界があった。透明がやって来た場所とはまた別の世界だった。
透明な魂だったものは、一人の平凡な女に宿った。
彼女は片田舎に住む若い女で、昨年結婚したばかり。
彼女自身も気づいていなかったが、胎内に赤ん坊を――赤子というよりも受精したばかりの未分化の細胞を――宿していた。
未だ魂を宿す前の受精卵は、透明な魂を受け入れた。
この世の肉体とこの世のものではない魂が融合して、新しい生命となった。
魂は赤子の肉体に入れるには多すぎる記憶を持っていたけれど、命というものは存外に強い。多少の混乱がありながらも、胎児はすくすくと育っていった。
やがて生まれた女の赤ん坊は、透明な魔力を持つ人間。
遠い旅を経て生まれた、ただの人間。
彼女の物語が始まるのは、もう少しだけ先のことである。
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おまけ。鈴木家三姉妹
長女、美香。手作り化粧品にハマっている。おかげでアロマとかにもやたら詳しい。
姉妹の中で一番美人だがメイクが上手いだけである。
次女、美鈴。鈴木美鈴で鈴多すぎるのが小さい頃は嫌だった。結婚して改姓しホッとした。
オタクで同人誌とか作る。コスプレも自作派。妹はこき使うものだと思っている。
三女、美波。姉妹全員「美」がつく割にモブ顔なのをなんだかなぁと思っている。
次女に漫画由来のプロレス技を仕込まれた。
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