第239話 魔界、科学革命中
朝起きてお風呂に入る。ついでに体をチェックすると、全身に発光して浮かび上がっていた紋様は、昨日に比べてずいぶん薄まっていた。グレンのは完全に見えなくなっている。
「魔力も魔力回路も、ゼニスの体にだんだん馴染んでくるはずだよ」
お風呂から上がってきた私の髪の手入れをしてくれながら、彼が言った。
「グレンのは見えなくなったけど、起動していないということ?」
「どうかな、常に動いてる感触はある。陛下の話では結界更新や儀式以外では、休眠状態になるはずなんだが」
「グレンの受け継いだ疑似魔力回路は、新しく造り直したんだっけ。そのせいかな? それともグレンの魔力が元々かなり強いせい?」
「何かしらあるだろうね。その辺りは学者たちが調べたがって、うずうずしている。協力しないと」
言葉に反してグレンはかなり嫌そうである。
「私はいいんだ。でも、ゼニスの体を奴らがあれこれ調べると思うと、殺意を覚える」
物騒だな!
「仕方ないでしょ。あくまで検査だから、変なことはないって」
「ゼニスは奥手に見えて、妙なところがちょろいから。また騙されて色々されたらどうしよう」
「またって何? 別に私、そういう風に騙されたことなんてないよ?」
「食べ物で釣ったらよく落ちるじゃないか。あとは、珍しい魔法の話も」
「はぁ?」
「あと、理屈をつけて言い負かすと、多少アラがあっても言いくるめられるよね。心配だ」
それはつまり、グレンが私にやって来たことじゃない?
そういう風に思ってたの?
「心外なんですけど!!」
「少しでもおかしいと感じたら……、いいや、おかしいと思わなくても、その日あったことは全部私に教えてくれ。約束だよ」
はい終わり、と髪をひと撫でされたので、振り返って睨んだ。涼しい顔をしている。くそ、ぜんぜん響いていない。
そんな私の額にキスして、彼が言う。
「もし約束を破ったり、誰かに変なことをされてしまったら、ライブラリに連れて行って閉じ込めちゃう」
「残念でした。今の私の力なら全く問題なく自力で帰ってこられるよ」
「そうだった」
くすくすと笑っている。まったくもう。
でも、力があるっていいな。理不尽を殴って跳ね返してやれる。世の中の物語の悪役が力を求める気持ちが今なら分かるね。
というわけで、私の方は何の問題もない。体調もばっちりだ。
首を長くしている皆さんのため、引いては魔族の未来のために協力は惜しまないつもりだ。
研究棟に来てみると、けっこうすごいことになっていた。
ほんの1年前、私が最初にお城に来た頃は中世的な設備しかなかった。それが今や20世紀初頭くらいになっている。
グレンと2人できょろきょろしていると、アンジュくんが出迎えてくれた。
「ようこそ、グレン様、ゼニスちゃん! 研究棟、すごい進歩でしょ。
今は細胞の観察をひと通り終えて、DNAに取り掛かろうとしているところだよ。でも、光学顕微鏡じゃあ倍率が足りなくて思うような研究が出来ないんだ。
だから先に電子顕微鏡の開発を始めたい。そのためには電子の発見が必要なんだよね。真空内での放電で『陰極線』を発生させるところからやってみるつもり」
急に高校物理の話が飛び出てきた。私は文系人間なので、この辺になるともうかなりうろ覚え。
間違いそうで怖かったが、慎重に答えてみた。
「その実験は、高精度の真空管が必要だったはずだけど」
「密閉されたガラス容器の中から、空気をすっかり抜けばいいんでしょ? それなら魔法で簡単だよ」
なんと。またもやマジカルパワーである。
こういった研究に必要なサブ的な技術は、前世では時としてボトルネックになっていた。
顕微鏡の例なら、ガラス加工技術が未熟なうちは高品質なレンズが作れずに停滞。電子顕微鏡は電子を使うが、電子発見の前段階である陰極線の観察は、より完全な真空管を作り出す技術が出てくるまでおあずけだった。
それが魔法の力でさっさと解決されている。
「電子を発見して使いこなせば、電子顕微鏡はもちろん、その先のX線も手に入るんだもの! みんな張り切ってるよ!」
アンジュくんのテンションが高い。そういえば、科学の研究を始めてからずっと高めだった。
私が覚えている限りの知識を本に書き出したので、1つの技術が次に繋がっていくのはよく理解しているようだ。
でも理解だけではどうにもならない点もある。高度な実験をするためには器具が必要で、それらを作り出すためにはその前段階の技術が求められる。
まるでゲームのスキルツリーみたいだね。前提スキルを覚えていくと、次が開放されるの。
「知の高速道路」
ふと、口に出して言ってみた。アンジュくんとグレンが私を見る。
「前世で、教育は知の高速道路と言われていたの。先人が積み重ねて来た知恵と技術を、効率的に学んで短時間で身につける、だから高速道路。
でも、今の魔界は高速道路どころじゃないね。ジェット航空路?」
「へぇ! やっぱりゼニスちゃんの前世は面白いねぇ。そういう考え方は、ボクら魔族にはなかったよ。寿命が長いせいで、時間はたくさんあるから」
「1万年もあれば、そうなるんだね」
「まあね。逆に暇を持て余して退屈しないように、みんな趣味を持つんだ。魔族に学者が多いのはそのせいだよ。学問の研究は一番の暇つぶしになるから」
暇つぶしかぁ。私が苦笑すると、アンジュくんはちょっと慌てたように言った。
「でもね、今は違うよ。みんなで1つの目標に向かって進んでる。それはもうすごいスピードで。ジェット航空路で!」
「みんなすごいやる気だよね」
やはり絶滅問題は大きいのだろう。彼らの死活に直結するもの。
そう思っていたら、グレンが言った。
「ゼニスのためだろう」
「え?」
「科学の研究は確かに、魔族にとって最後の希望。とはいえ、ここまで急ぐ必要はないはずだ。違うか、アンジュ?」
「当たりです。ボクたちはみんな、ゼニスちゃんに成果を見せてあげたくて、とても急いでるんだ。最大であと60年程度。魔族にとっては短すぎる時間だから」
「…………」
そんなことまで気を遣われていると思っていなくて、言葉に詰まってしまった。
黙ってしまった私を見て、アンジュくんは明るく笑う。
「さあさあ、ゼニスちゃん! 科学はもちろん大事だけど、今日は魔力の検査でしょ。グレン様も、よろしくお願いしますね」
「ああ。ただし私のゼニスに必要以上に触らないように」
「こら、そんなこと言わないの」
相変わらずのグレンに、アンジュくんと私は笑いながら研究棟の奥へと入った。
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