第236話 神界


【グレン視点、三人称】


 神界はどこまでも見渡す限り、輝く光で満たされていた。

 あまりに強い光のために、視覚は役に立たない。

 グレンは肉体のまぶたを閉じて、さらに視覚の魔力感知も弱めた。その方が周囲の様子を把握できる。


 光には濃淡があり、どうやら景色らしいものを描いている。

 さらに感覚の網を広げれば、音が聞こえた。高く低く、揺れるような、祈るような歌声だった。

 グレンはそちらに意識を向けた。歌声の主もグレンに気づいたようだ。

 魔力の触覚が何本も伸びてきて、そっと彼に触れる。悪意を感じなかったから、グレンは抵抗はしなかった。


 歌声が調子を少し変えた。懐かしむような、喜ぶような。

 波紋のように広がる音が、他の存在を呼び寄せる。いつの間にかグレンの周囲に何重もの合唱が響いていた。


 ――懐かしい、懐かしい。還ってきた。

 ――また会えて嬉しい。もうお別れだと思っていた。


 そのような意味の歌がゆるりと渦巻いて、光を揺らす。

 グレンはどうやら、誰かと勘違いされているらしいと気づいた。

 彼が宿した疑似魔力回路は、原初の魔王パングゥのもの。最初の魔族たちは神界からこぼれ落ちた存在だという。


『神界の住人たちよ』


 グレンは言った。肉体の声は出なかったので、魔力に意志をのせて。


『私はグレン。魔界に住む魔族、天雷族のグレンだ。あなたたちの懐かしむ存在とは、また別の生命』


 歌声は不思議そうに周囲を回った。旋律が彼を取り巻いて、音楽の余韻を引いた。


『私はここに、探しものをしに来た。ゼニスという名の人間の女性だ。彼女を魔界に連れ戻したい。心当たりはないだろうか?』


 ――ゼニス。ゼニス?

 ――人間。人間はほとんど見たことがない。

 ――彼らはここまで来ない。


『透明な色の魔力をした人なんだ。魔界や人界ではない世界の記憶があって、とても意志の強い人』


 ――透明。

 ――透明、透明な魔力、魔力が透明だなんて珍しい。

 ――透明ってどんな色?


『この魔力だ。もし知っていたら、教えて欲しい』


 グレンが指先から少しだけゼニスの魔力を流すと、声たちはにぎやかに歌い始めた。


 ――透明! きれいな色。

 ――この色は、どこまでも通る。

 ――光に邪魔されずに、どこまでも透き通る。


 ――探そう、探そう、透明を。

 ――透き通った人間を探せ。


 歌声は1つの主題を得て、高らかに歌い始める。果てなく取り交わされる輪唱は、やがてたえなる旋律となってどこまでも深く響いていった。

 さざなみのように連なる音楽が、いつしか少しばかり調子を変える。

 見つけた、と誰かが歌って、他の歌声もそれに続いた。

 再び魔力の腕が伸びてきて、グレンの手を取った。導かれるままに進んでいく――







++++







【ゼニス視点】


 また無茶をしてしまったなぁ、グレンに申し訳が立たないや、と、たゆたうような思考で思った。

 私は体ごと神界に取り込まれ、認識できないほど高次の魔力の海に放り込まれて、間近に迫った消滅をただ待っている。肉体はとっくに溶けて還ってしまった。

 

 辺り一面、識る限りの範囲でまばゆい魔力が満ちている。どこまで続いているのか想像もできないし、少しばかり感覚を伸ばしてみようとするとたちまち自我が薄れていく。こんな体験をする機会は二度とないだろうに、ろくに観察もできず残念である。

 今はまだかろうじて自分という意識を保っているけれど、これも時間の問題みたいだ。

 わずかばかりの間とはいえ、こんな高濃度の魔力の中で自我を保っていられるのは、私がよっぽど意地っ張りだからか、それとも前世と合わせて2人分の魂なり記憶なりを持っているからか。もしくは両方かな。


 そんなことをふわふわと思う。油断をすれば今にも自我が溶け出してしまいそうだった。


 ――そうだ。最期に魔界を観ておこう。本当は、私が帰る場所だったはずの大地を。

 鈍る意識を叱咤して、『下』の方を覗き込んだ。


 神界から見る景色は、魔力の本質が浮き彫りになる。

 魔界は世界の存在そのものが崩落しかけていた。今こうしている瞬間も、乾燥しきってひび割れた土がこぼれ落ちるように、ぱらぱらと欠片を虚空に散らしていた。

 魔界そのものが死んでいくようで、視ていると心が痛んだ。

 あの大地には、魔族や魔獣や他の生き物たちが今も生きているのに。彼らは何も知らないまま、ゆるやかに滅亡へと向かっている。


 痛ましい思いで魔界を視て。

 ふと、気づいた。

 何というか……意外に物質界と馴染んでいる部分もある。あぁ、そうか、境界だ。

 境界は魔界と人界、2つの世界の接触を制御している。逆に言えば常に2つを、魔力と物質を干渉させ続けている。

 そのために境界の周囲は、魔力よりも物質に本質が傾きつつある。なだらかに親和させているおかげで、急激な崩落を避けられている。

 けれどそれらは、全体から見れば微々たるもの。何かを変えるにはあまりに力不足だった。




 ……また意識が薄くなってきた。そろそろ終わりのようだ。

 私からお別れを告げてしまったけれど、もう一度だけ彼の姿を視たかった。

 眠くて眠くて仕方がない、でも重いまぶたをこじ開けるようにして――といっても肉体はもうないので、慣習というか比喩だが――下を眺める。

 伸ばした魔力の感覚に、ふと、結界から立ち上る魔界の魔力を感じた。

 消えかけている意識と思考が刺激された。全力で可能性を考える。




 今のこの私は、半ば神界と一体化している。ならばある程度はここの魔力に干渉できるはずだ。

 最後の意思をありったけ使って、結界を通してこの神界の魔力を注げたら。どこまでも濃く、まばゆい、純粋な魔力を魔界に与えれば。

 魔界の落下と崩落をもっと緩やかに、あるいは一時的にでも浮揚させて、現状を変えられるかもしれない……!


 たとえ変えるほどの量を注げなくとも、私の一部が溶けた魔力の雨を降らせれば。

 それは魔界そのものに混じり合って、あの世界が終わるまで、――グレンの生涯を見届けられるほどの長い時間、寄り添っていられるだろう。

 大地に、空気に、空に。魔界の魔素の一部となって、ずっと彼と一緒にいられるだろう。


 薄まりすぎて、それはもう『私』とは呼べないと思うけど。それでもゼロではない。

 やろう。やってやろう。

 少しでも意思が残っているうちに、急いで。残りの力をかき集めて。


 私はたぶん、ここにたどり着くために旅をしてきた。そう信じたい。

 それならば、グレンと出会わなければ良かったと、後ろ向きに嘆くよりずっといい。

 異世界に生まれ変わった意味はここにあったと、信じていたい。1つの世界を救うだなんて、まるで物語の主人公のようだ。


 肉体はもうないけれど、魔力回路の感覚はまだかろうじて残っている。脳だった部分を起点に心臓、下腹部へ。末端の部分まで、隅々に起動した。

 骨も肉も内臓もないから、魔力回路の形がよく分かる。

 これ以上ないほどの力を込めて、励起させた。

 そう、最初にグレンに出会ったあの日。全力で殺しにかかった時以来の強さで。


 ほんの一瞬でいい、残った心と魂を全部かき集めて燃やそう。

 燃やして燃やして、最後に小さい奇跡を起こそう。


 そうすればきっと、グレンに何かを遺してあげられる――



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