第207話 酒宴
【三人称】
ゼニスの宣言を受けて、ティベリウスは目を細めた。
「帰れると思うのかい?」
「ええ、思いますとも。強引な手段を取るならば、いくらでも方法はありますから。
……けど、大恩あるティベリウスさんとオクタヴィー師匠にそんな真似はしたくありません。可能な限り今までのご迷惑を精算、ご恩を返してから、帰りたいと思っています。どちらも本心です」
沈黙が落ちた。痛いくらいの静けさだった。
長い静寂を破ったのはオクタヴィーである。
「兄様、これは駄目だわ。この子がここまで言う以上、隠し玉があるわね。ここで下手に喧嘩別れするより、譲歩したほうが得じゃないかしら」
「師匠、すみません……。魔界と人界は今のところは関わるべきじゃないと思って……」
ゼニスは眉をハの字にしている。
「今のところ、ねぇ。まあいいわ。きみ、今後も時々戻ってくるって言ったわね。じゃあゼニスに個人的に力を貸してもらうのはいいわよね?」
「はい、それはもちろん。私1人の力であれば、いくらでも使って下さい」
「ふむ。そこが落とし所か」
ティベリウスが苦笑した。その笑みと言葉を機に緊張が緩んで、再び和やかな空気が戻ってきた。
「……びっくりした」
ティトがマルクスにひそひそと話している。ミリィとガイウスは軍人という職業柄か、特に動揺は見せなかった。
ラスは思う。
いくら信用できる人間とはいえ、平民組を巻き込んだ場でこんな話をするとは、ティベリウスらしくない。あるいは彼は本気で要求を通すつもりはなかったのかもしれない。
何せ1万年も生きる種族だの魔法の始祖だの、信じがたい話ばかりだ。ゼニスがホラを吹いているとも考えにくいが、通常の人間相手の交渉と同じには考えられないだろう。
もしくは、現役の百人隊長であるガイウスがいるのを念頭に置いた上で、ゼニスを軍事利用する意図はないとアピールしたのかもしれない。ラスとしては、考え始めるときりがなかった。
それに万が一、ティベリウスが本気で何かを望むのであれば。ゼニスの家族を人質に取るなり、それこそ「いくらでも方法がある」。
別に家族に直接剣を突きつける必要はない。ただその旨を告げればいいだけだ。
ゼニスが1人の魔法使いとしてどれだけ大きな力を持っていようと、ユピテルにいる以上はフェリクスの権力に勝ち目は絶対にない。
昔、ゼニスが「私は政治家に向いていない」と言っていたのを、ラスは思い出した。
同時に、ティベリウスの中の天秤が極端な方向に傾かなかったのを汲み取って、安堵した。
ラスの視線に気づいているのだろうが、ティベリウスはあえてにこやかに言う。
「さて、そういうわけだ。結婚の許可は出そう。もちろん、実家のお父さんからもきちんと許しをもらうんだよ」
「――はい! ありがとうございます」
ゼニスが最跪礼の姿勢を取った。オクタヴィーが彼女を立たせてやって、言った。
「さあ皆、お祝いの続きと行きましょ。ワインとエールの樽も開けて、今晩は大いに飲もうじゃないの」
「わっ! 待ってました!」
ミリィが拍手をした。そのおどけた動作で、わずかに残っていた不穏な空気も完全に払拭された。
リウィアが使用人を呼んで酒の用意をさせる。
皆それぞれグラスを手に持って、酒宴が再開された。
酒が回って賑やかになった席を、ラスはそっと離れた。
彼は宗教上の戒律で深酒が禁止されている。
ほとんど素面の頭のまま中庭まで出て、四角く切り取られた夜空を見上げた。
背後の宴席に対して、中庭はひっそりとしている。
しばらく夜風に当たっていれば、肩を叩かれる。振り返るとマルクスだった。手には何やら瓶を持っていた。
「よう、殿下。……やっぱり割り切れないか?」
「そうですね……」
ラスは再び空を見上げる。5歳の時にこの屋敷に来て以来、ずっと変わらないこの庭で。思い出の詰まった場所で。
「お嬢様の結婚話は、俺も驚いたよ。で、いくら命がかかってるからって、顔も出さないのは腹立つよな。お嬢様の心を掴むなんて、一体どんな奴なんだ」
マルクスの気遣いを感じて、ラスは少しだけ表情を和らげた。それまでは今にも泣き出しそうだったので。
独り言を呟くように言う。
「ゼニスは――要塞のような人です。グレンという人も、苦労したと思います」
「はは、要塞。確かに難攻不落だよ、お嬢様は。お見合いの相手もちぎっては投げ、ちぎっては投げしてよ。あまりの投げっぷりにティトが呆れてたもんな」
「でも彼女は、一度懐に入れた相手に対しては、どこまでも愛情深い……」
ラスは口を閉ざした。色々な思いが混じり合って溢れて、何を言っていいか分からなかった。
それにゼニスは、魔界とやらを指して「帰る」と言った。彼女の心はもう既にあちらに行ってしまったと、象徴している言葉だった。
ゼニスにとってユピテルは、故郷であるがもはや帰る場所ではない。そう思い知ってしまった。
マルクスがラスの肩に腕を回した。
「アレク坊ちゃまがいれば、もっと気の利いた励ましが出来たんだろうがなあ。俺じゃこのくらいが限界だ。
こういう時はしこたま飲むといい。ほらこれ、例の竜殺しの酒」
口の開いた瓶を掲げて見せる。蒸留酒の強い酒精の匂いが鼻をついた。
「でも僕は、シャダイの教えで深酒は……」
「大丈夫、大丈夫。そりゃブドウ酒の話だろ? こいつはエールを蒸留した酒だ。つまり麦酒。麦の酒なら好きなだけ飲んでいいって、ヨハネさんが言ってたぜ? あの人、シャダイの司祭だろ」
「まさか、そんな屁理屈が」
ラスは言いかけて、確かに聖典で禁じられているのはブドウ酒だと思い当たった。
「よし、飲もうな。この酒はえらい強いから、ちびちび舐めるように飲むんだ。付き合うよ」
「じゃあ。……今日だけ」
「おう、今日だけだ。まあ明日はひどい宿酔いになるだろうが、せいぜい頑張ってくれ。酒の酔いも宿酔いも、いつかは覚めて治るからよ」
ラスは瓶を受け取って口をつけた。ワインやエールと比べ物にならない熱が喉を焼いて、思わずむせる。涙が浮かんだけれど、彼は飲むのをやめなかった。
マルクスと交互に瓶を回し飲みしながら、ラスは酒に溶けていく理性を今日だけは気にしないでおいた。
ラスたちを探しに来たゼニスに見つかって、飲み過ぎだと怒られて。彼女に叱られるなんていつぶりだろうと懐かしくなる。
へべれけになって無理やり笑っていたら、ゼニスは恐るべき怪力を発揮してラスを片手で抱き上げた。ついでとばかりに酔い潰れたマルクスまで肩に担いでいる。
目を回しながら驚いていると、彼女はさっさとラスの部屋に行って寝台に降ろしてくれた。
「あの時みたいに5歳じゃないんだから。ちゃんと1人で寝るんだよ」
「ひどい人ですね、ゼニスは」
彼女は聞こえないふりをした。ふりをしてくれた。
「じゃあね、ラス。おやすみ」
「はい。おやすみなさい」
さようなら、とは言わなかった。また会える。けれど、もう前のように慕うことはできない。
それでも、つい。酒の勢いを借りて言ってみた。
「グレンとかいう人に愛想が尽きたら、いつでも戻ってきて下さいね」
「あはは。それはなさそうだよ」
最後まで残酷に笑顔を見せて、ゼニスは部屋を去っていった――
***
その頃の魔界
リス太郎『何をやっているんだ?』
グレン「ん、リス太郎か。ゼニスの人形を作っているんだよ。夜が寂しすぎて眠れないから、これを抱きながら寝ようと思って」
リ『人形? ……よく出来てるな。特徴が出ている』
(ゼニス人形)
グ「それに見てくれ、髪のこの部分。お風呂上がりで髪を手入れしてあげた時に、抜け毛を取っておいたんだ。全部には足りないが、本物を使っている」
リ『気持ち悪っ! お前、この前の誘拐犯と変態度いい勝負だぞ!? そんなんじゃ愛想尽かされるぞ!』
グ「また悪口言っただろう」(ほっぺつねり)
リ『だからなんで悪口だけ分かるんだ』
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