第206話 晩餐
【三人称、ラス視点】
ゼニスが帰ってきたとの一報を聞いて、ラスはすぐにでも駆けつけたかった。
けれど今は仕事中。職務への責任は、上司であり後見人でもあるティベリウスから嫌というほど仕込まれている。
だから彼は逸る心を押さえて、仕事を終えるのに専念した。
ようやくフェリクスの屋敷に帰宅する。使用人や奴隷までゼニスの帰還を喜んでいる。
リビングにたくさんの人が集まっていて、その中心にラスの想い人がいた。
「ゼ――」
名を呼びかけて……ラスは気づいた。彼女のまとう雰囲気が変わっていることに。
ずっと昔から彼女だけを見ていたから分かる。
あるいは、彼でなければ分からない程度の変化。
いつまでも変わらない少女のような純粋さが薄れて、艶のある大人の色が見え隠れしている。それは確かに恋する女性の――色気だった。
ゼニスの右手に指環が光っている。黒の地金に白金の象嵌、ダイアモンドがあしらわれたもの。
見覚えのない装飾品が彼女を侵食しているようで、ラスの心の奥が軋んだ。
「ラス! ティベリウスさん!」
ゼニスが振り向いて満面の笑顔を見せた。
「長い間、ご心配とご迷惑をおかけしました。この通り無事に帰ってきました」
「うん。ゼニスも変わりがないようで、安心したよ」
ティベリウスが答える。
「ラスもごめんね。ずいぶん心配かけたって聞いたよ」
「いえ……」
言葉を見つけられず、ラスは曖昧に返事をした。
ゼニスの横にいたミリィが立ち上がって、肩を組みながら言う。
「ゼニスね、なんと結婚するんですって! このゼニスが、よ。相手はどんな人かというとね――」
浮かれた態度に早くも酒が入っているのかと思ったが、そうでもないらしい。
ミリィはゼニスの行方不明に責任を強く感じて、軍を辞めた後もずっと捜索を続けていた。1年経ってやっと少し諦めた所だったのだ。再会の喜びもひとしおだろう。ラスはそれを知っている。
「なんと、例の銀髪男よ! どういう趣味してるのか、疑っちゃうわ」
「ミリィ、その辺にしておけ」
夫のガイウスがたしなめている。
けれどラスはそんなやり取りを、どこか遠くから聞こえてくるような非現実的な音として聞いていた。
――結婚? ゼニスが?
何かの間違いだと思った。ゼニスを待ち望みすぎるあまり、幻でも見ているのかと錯覚した。
「今回は結婚の報告と、向こうで暮らすに当たっての身辺整理に帰郷しました」
ゼニスがティベリウスに話している。
「本来なら未来の夫とともに来るべきですが、どうしてもここまで来られない理由があって。代わりに手紙を預かってきました。
後ほど詳しい事情を説明します。その後に、お読み下さい」
「分かった。実家の家族とはもう会ったかい?」
「まだです。今日、首都に着いたばかりで。両親とアレクには手紙を出して、少し後で戻る予定です」
「そうか。では、今日の夕食はゼニスの帰還祝いだね。料理人たちもさぞ張り切っているだろう。皆もぜひ楽しんでいってくれ」
「恐縮です」
ガイウスとミリィ、それにマルクスとティトの平民組が礼の姿勢を取っている。
ラスがぼんやりとしたままでいると、マルクスが小声で話しかけてきた。
「殿下、大丈夫か? 素直に祝えない気持ちは分かるけど……」
彼はラスの恋心を知っている。頼れる兄貴分として今まで何度か相談に乗ってもらっていた。
「大丈夫です。元気なゼニスに会えたのだから、こんなに嬉しいことはありませんよ」
そう言ってにっこりと笑った。本心と態度を切り離すのは政治家の本分だ。この何年かでラスはそれをよく学んだ。
――そうだ。皆が喜んでいるのに水を差してはいけない。ちゃんとお祝いをしなくては……。
オクタヴィーとラスの師のヨハネもやって来て、皆で夕食を食べた。急な話だったのに、料理人たちが力を入れて作ったご馳走だった。
「おいしい! ユピテルのお料理、久しぶりで懐かしいよぉ。向こうのご飯も好みだけど、海のお魚がないのが残念で」
ゼニスはそう言って、あれこれ美味しそうに食べている。合間にラスへ気遣わしい視線を投げてきたが、彼は笑顔で受け流した。
皆が満腹になった後は、子供たちと使用人、奴隷を人払いしてゼニスの説明が始まった。
魔界と魔族の話は、既に聞いていたオクタヴィー以外の全員が驚いていた。ラスも信じがたい気持ちで聞く。
ティベリウスがグレンからの手紙を開いた。魔法語で書かれているためゼニスが代読する。
通り一遍の挨拶と結婚の許可を求める内容が、形式的に書かれていた。
「ここで俺が結婚の許可を出さなければ、どうなるかな?」
ティベリウスが悪童のような表情で言うと、ゼニスは目をぐるっと回して天井を見た。
「彼がとても気の毒なことになるので、出来ればよろしくお願いします」
「おやおや。我がフェリクスが誇る氷雷の魔女を、そう簡単に手放したくないんだがなぁ」
「本当よね。私の可愛い弟子をどこの馬の骨ともつかない男に渡すなんて」
これはオクタヴィーである。兄妹でニュアンスが微妙に違うが、彼らの言葉は本心だろう。
「ふむ、ではそれは一旦置くとして。この魔界という国だが、魔法が高度に発展している……どころか、そもそも魔法の発祥地と解釈していいね? そして人ではない種族が住まい、ユピテルとは大きく違う物が多数存在していると」
「はい」
ゼニスがうなずく。
「正直、すぐに信じるのは難しいが。他ならぬゼニスが言うからには、そうと飲み込むしかないだろう。
――では、確認だ。かの国とユピテルが取引、ないし技術提供を受けるのは可能かな?」
「……難しいです」
ゼニスはティベリウスを真っ直ぐに見ながら言った。いつの間にか和やかな空気は消えて、緊張感が生まれている。
「魔族たちは太陽を致死性の毒としていて、ユピテルまで来るのは不可能です。そしてそもそも、彼らは人間とやり取りする気がない。
魔界の王は2000年前の人界――当時のフィルヴォルグ古王国への干渉を後悔していました。私自身も魔界と人界の交流は時期尚早と考えます。両者の力の差はあまりに大きく、対等と程遠いからです」
「しかしゼニスを見初めた以上、対話ができる相手なのだろう。それだけ大きな力があるのならば、見過ごす訳にはいかない。きみも知っている例の件もある。力はあればあるだけ有利なんだ」
ラスは未だ知らない話だが、『例の件』とはユピテルの政体革命計画を指す。
ノルドに向かったドルシスは順調に勢力を伸ばして、ブリタニカを掌握しつつあった。
「……魔族たちの中には、人間に強い偏見を持つ者が多くいます。私も一度、身をもって知りました」
ゼニスが続けた。
「魔界の王は絶対的な支配者ではなく、各種族を束ねる盟主と言った方が近いでしょう。仮に魔王が独断で人間への支援を決めたとなると、必ず内部で分裂が起きます。それを分かっていながら、魔王が決断をするはずがありません」
「だが惜しい。直接の支援でなくとも、例えば効果の高い魔法素材の輸出でもいい。何かしら引き出せないかい?」
「それも……無理です。魔界の魔力は強すぎて、人界においてどんな作用をするか予想できないので」
「では、対価がなければ結婚を許さないと言ったら?」
「…………」
ゼニスは一度まぶたを閉じた後、挑むような瞳でティベリウスを見た。
「許されなくとも、私はあちらに帰ります」
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