第175話 出発の朝

 魔界の黒い太陽が、東の空を淡く薄く照らしている。

 中庭から空を見上げた私は、一つ首を振って感傷を振り払った。


 数日前に銀水晶にチャージしたグレンの魔力を確認した。問題ない。これだけあれば、境界を起動できるだろう。

 先程まで寝ていたベッドも、ちゃんと片付けた。

 リス太郎も目を覚まして、私の足元をうろちょろしている。


 食堂に行くが、どうしても食べ物を口にする気が起きなかった。お弁当の蓋を開けて、私の好物が詰められているのを見たらくじけそうだった。

 食卓に置きっぱなしだったグレンのメモに「ごめんなさい。せっかく作ってくれたのに食べられませんでした」と書き足してから。

 こんなメッセージはいらないと思い直した。

 みんなのことを騙して逃げ出すんだ。謝って許されるものではない。

 メモを指先に挟んで小さい炎を灯す呪文を唱える。


「小さき炎の精霊よ、その熱を我が指先に灯し給え」


 炎が生まれてメモを燃やした。指を離せば、灰になって床に落ちる。

 リス太郎が不思議そうに、燃え尽きた灰を覗き込んでいた。

 そんな彼の体を抱き上げて、ケージに入れる。

 朝から閉じ込められて、リス太郎は不満の鳴き声を上げている。


「ごめん。みんなが帰ってくるまで、我慢して」


 リス太郎用の食べ物と水をたくさんケージに入れておいた。3、4日程度ならこれで保つと思う。水は魔法のだと1日で消えてしまうから、井戸から汲んできた。

 彼の悲鳴のような抗議の声とケージに体当りする音は、耳をふさいで聞こえないふりをした。いつもはあんなに暴れないのに、何かがおかしいと思ったのかもしれない。

 次に戸棚を漁って、ビスケットのような焼き菓子とドライフルーツを袋に入れた。人界へ出た後も何日か森を歩かないといけない。携帯食料が必要だった。







 玄関の門に行く。扉を開けようとして、魔力で封じられているのに気づいた。

 単なる防犯目的か、それともやはり逃亡を疑われているのか。

 

 でも、問題ない。

 視神経に魔力を集中させて、魔力感知を起動する。見慣れた夜闇色の魔力が扉に絡みついているのが視えた。

 この術式は知っている。実物を見たのは初めてだけど、前に本で学んだ。オーソドックスな『施錠』の魔法だ。


『門扉を司る精霊よ、我が前の閉じた道を開け放ち給え』


 解錠の呪文を唱えた。施錠と解錠の魔法について学んだ時、詠唱式も作っておいたのだ。

 カチリと小さな音がして、魔力の錠前がほどける。

 障害が消えた扉を開けて外に出た。


 なるべく早足で石畳の道を歩く。一度も振り返らなかった。振り返ればきっと、未練が生まれたに違いないから。







 境界にたどり着いたのは、もうすぐ夜になるという頃だった。

 途中で魔獣が何度か出て、想定通り電撃とデコボコ地面の魔法で撃退できたのだけど、時間を食ってしまった。

 身体強化を併用しながら魔法を使ったので、疲労が強い。でもそうしなければ捌けなかった。

 その甲斐あって怪我というほどの負傷をしなかったから、良しとしよう。


 ようやく暗い森が途切れて、小高い丘の上に境界の建物が見える。

 夜の帳が降り始めた空はまだ月も星も出ておらず、昏いグラデーションを描いている。黄昏の空の下、境界は黒い影になって佇んでいた。


 もうすぐだ。

 もうすぐ人界に、ユピテルに帰れる。


 その思いだけを頼りに、疲れた体に鞭打って。私は進み続けた――







++++







【グレン視点】



 ふと、魔力回路に違和感が走った。東の境界の管理者として刻まれた術式が、侵入者の存在を知らせてくる。

 その侵入者の魔力を察知して、一瞬で体中の血が沸騰した。




 境界の近くにゼニスがいる。人界に逃げる気だ――!




 なぜ、どうして!

 たった2日前に、あんなに愛し合ったばかりなのに!


「グレン様!?」


 隣りにいたアンジュが私の腕に触れ、直後に悲鳴を上げた。

 怒りと動揺のあまり魔力の制御が出来なくなっている。魔力回路が狂ったように励起して、バチバチと青白い雷火を撒き散らした。

 衝動のままに私は駆け出した。

 魔王陛下の御前だったが、気にする余裕はなかった。引き止める声は全て無視した。

 階段をいくつか駆け上りテラスに出る。東の方角が、ゼニスのいる場所がはっきりと感じられた。


 逃げるなんて許さない。彼女の全ては私のものだ。

 あの夜、ゼニスから身を捧げてくれてどれほど幸せに思ったことか。それが全て嘘だったなんて。

 間違いであって欲しいという願望と、逃げ出すに違いないという確信がせめぎ合う。

 彼女と繋がっている心臓が――今はもうごく薄い結びつきが――破裂しそうな勢いで鼓動を繰り返していた。


「逃さない、絶対に――!」


 体を巡る魔力が弾けた。肉体の実体が薄まり、より純粋な魔力へと近づく。

 魔王の血筋の天雷族、その奥義の一つ……『天雷化』。

 物質である肉体を半ば捨てて魔力と同化し、雷光と同じ速さで移動する。この術であれば間に合う。彼女を捕まえるのに、間に合う!

 本来であれば事前の準備と精密な魔力制御を必要とする術。今の暴発状態でどこまで使いこなせるか不明だったが、無理矢理に魔力を注ぎ込んで反動をねじ伏せる。


 落雷を思わせる轟音と共に、私は東の空へと飛び立った。







++++







【ゼニス視点】



 低い丘を登りきって、境界の建物の前に立つ。

 グレンの魔力が入った銀水晶を掲げると、入り口の扉が開いた。――よし、予定通りだ。

 扉の向こうに空っぽの台座が佇んでいる。壁に刻まれた文字が、以前と同じくごく淡く光っていた。


 あと一歩、そう思った時。


 背後、夜になったばかりの空に閃光が走った。

 光は台座へと伸びた私の影を、一瞬だけくっきりと浮かび上がらせた。思わず振り返れば、轟音を伴う前の雷光に、あるいは白く燃え盛る流星に似た――白銀に輝く軌跡が見える。まだ月の出ていない空から真っ直ぐに落ちてくる。右手の魔力回路がぎしぎしと痛んだ。


 光は地面に降り立つと、ただちに人の形を取った。一瞬だけ遅れて空気を震わせるような衝撃が走る。

 それはまさに、雷の化身のようだった。


「やあゼニス、どこへ行くの?」


 白銀の残滓を夜に散らしながら、一番会いたくて、一番会いたくない人が。グレンが微笑んでいた。

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