第174話 後片付け
眠るつもりはなかったのに、目をつむっているうちにウトウトしてしまったらしい。
はっと気がつくと、時刻はもう午後になっていた。
辺りから人の気配が消えている。しんと静まり返っていた。
気だるい体を引きずるように起こして、シャワーをした。さすがにお風呂にお湯を張る気力も余裕もなかった。
着替えて中庭から空を見上げたら、黒い太陽はすでに西に傾き始めている。思ったより長く眠ってしまった。今から出発しても、境界にたどり着くのは夜になってしまう。夜にあの暗い森を進むのは、できれば避けたい。
グレンたちが戻ってくるまで、まだまだ時間がある。出発は明日にしようと決めた。
南棟に行くと、お弁当箱がいくつも積んであった。
食卓にメモが置いてある。グレンの字だ。
『日数分の食事を用意した。保存の魔法をかけておいたよ。順に解けるように調整済みだから、ひとつずつ食べてね』
メモはもう一枚あった。シャンファさんの字だった。
『リス太郎のお世話をお願いします。連れて行くよりもゼニスと一緒に留守番させた方が、寂しくないでしょう』
どちらも私への気遣いを感じさせるものだった。みぞおちの辺りがぎゅっとなって苦しかった。
食欲がまるでなかったので、先にリス太郎のケージに行く。
彼は私の顔を見ると、「キュ、キュ! ピャ!」と騒いでいた。いつもは朝一番に外に出してもらえるのに、こんな時間まで閉じ込められていておかんむりのようだ。ケージの扉のところをげしげしと蹴っている。
ケージの扉を開けたら飛び出して、私の足から背中、肩までよじ登ってきた。
リス太郎の大きさは猫くらいあるけど、毛がとってもふさふさしてるので中身(?)はかなり細い。体重も軽くて、肩に乗っかられてもそんなに重くないのである。
「何、どうしたの? 寂しかった?」
「キュッ!」
耳元で文句を言っている。私はふさふさ尻尾をモフってやって、食堂へ戻った。リス太郎のごはんに木の実をあげたら、肩に居座ったまま食べている。やっぱり寂しかったみたい。……これからもっと寂しい思いをさせると思うと、心苦しい。
食欲は相変わらずゼロだったけど、境界までの道のりを考えれば体力はつけておきたい。
保存の魔法が解けているお弁当の箱を開けた。内容は野菜炒めと、鹿肉のロースト。前に好きだと言ったやつだ。
蒸しパンに鹿肉を挟んで食べる。味がしない。以前は確かに、あんなに美味しかったのに。
無理やり胃に食べ物を流し込んで、お弁当箱を洗った。
そうだ、出発する前に掃除と片づけをしておこう。立つ鳥跡を濁さず、だ。
グレンの北棟に行って応接室を見渡す。
ここでたくさん本を読んだ。
何冊か読みかけの本がテーブルに置いたままだったので、本棚に戻した。グレンがプレゼントしてくれた本と、彼の子供の頃の教科書。その他、お屋敷に元々あった本など。
贈られた本を一冊だけ持って行っていいだろうか、と、ちらりと考えて。すぐに打ち消した。それは図々しすぎる。やめておこう。
他にも私専用になっていたグラスやお皿類を棚に仕舞った。ずいぶんすっきりした。
次に寝室に入る。
肩のリス太郎が飛び降りて、ベッドの上でぽんぽん跳ねた。シャンファさんやグレンがいると叱られるけど、私相手だと甘く見られている。
「こら、降りなさい。シーツ洗濯したいんだから」
毛布を畳んでシーツを引き剥がそうとしたら、……昨夜の行いの跡が色濃く残っているのを発見してしまって、思わず頭を抱えた。
これは可及的速やかに洗って汚れを落とさねばならん。なるべく見ないようにしてシーツを剥がし、浴室でゴシゴシ洗った。
リス太郎が手元を覗き込んできて、泡を鼻先にくっつけている。ついでなので彼も捕まえて洗ってやった。
毛が濡れてぺしゃっとしたリス太郎は、別の生き物みたいにヘンテコな有様だ。思わず吹き出すと、怒りのキックを食らった。
洗い終わったシーツを西棟の洗濯物干しにかけ、新しいシーツをベッドにセットする。
きっとシャンファさんなら、洗い方や干し方が雑だと言うんだろうけど。そこは勘弁してもらおう。
北棟に戻ってリス太郎を乾かしてやる。ドライヤーの魔法で温風を当ててやれば、気持ちよさそうにしていた。
こんなことをしているうちに、時刻はもう夜だ。
次に東棟の私の寝室を片付けた。
すっかり乾いてフサフサが復活したリス太郎もついてきた。
グレンの部屋に入り浸っていたせいで、ここはあまり物がない。最近は洗面セットすら北棟のお風呂のところに置いていた。
一通り片付けて、明日着る服を見繕う。
ユピテルと魔界は文化が違うから、服の雰囲気も異なる。なるべく地味でユピテルでも悪目立ちしない服を選んだ。今まで着ていたような、袖が長くてふわふわの服とはお別れだ。
まだ眠るには早い時間だけど、もうベッドに入ることにした。
魔界に来て約3ヶ月、そのうち1ヶ月は意識不明だったけど。それでもこのお屋敷には、色んな思い出が詰まってる。
今は思い返したくない。くじけそうになる。
「リス太郎、おいで。今日だけ一緒に寝よう」
「モキュ?」
リス太郎が首をかしげながらトコトコ近づいてきたので、抱き上げて布団に入れてやった。洗いたての毛並みから石鹸のいい匂いがする。
リス太郎は布団にもぐったり、もぞもぞ移動して足の方から頭を出したりしている。
「キュッキュ!」
暖かいお布団が気に入ったらしい。それにリスも巣穴で寝るから、布団にくるまれた感じが好きなのかも。
「今日だけだからね。私がいなくなったら、ちゃんとケージで寝るんだよ」
「キュゥ?」
胸元にやって来たリス太郎が、つぶらな瞳で見上げてくる。私の様子がおかしいのを彼なりに感じているようだ。小さい手を伸ばしてきて、私の頬をぺちぺち叩いた。
「何でもない。大丈夫。ただちょっと……お別れが寂しいなって思っただけ」
リス太郎のモフモフした体を抱きしめる。ふわふわであったかい。
彼は「ムキュー」とため息をもらして、満更でもなさそうにしていた。野生のリスだったのに、すっかり甘えん坊になっちゃったね。
眠気はなかなかやって来なかったけど、それでも目をつむって横になっていたら、いつしかまどろんでいた。
次に目を開けた時は、早朝。
いよいよ、魔界とお別れする日が来てしまった。
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