第167話 境界へ3

「ゼニスは人界に帰りたいと思ってる?」


 そう聞かれて、私はなぜか心が波立つのを感じた。

 グレンは何気なさを装っているけど、答を間違えたら面倒なことになる、そんな警戒心が私に芽生えた。理由はよく分からない。彼の態度にどこか違和感があるというか……あえて言うなら勘だろう。

 勘は馬鹿にできない。自分でも気づいていない無意識の警告でもあるから。


「それはそうだよ。故郷だもん。ホームシックになることくらいあるでしょ」


 私も平静なふりをしながら、なるべく軽い調子で答えた。上手くできているだろうか。

 グレンは何も言わない。

 原因不明の不安がこみ上げてきたが、我慢した。

 しばらくして彼はようやく口を開いた。その表情は抜け落ちて、人形のようにさえ見えた。


「実は、あなたに言っていなかったことがある」


「なに?」


「人間の魔力回路では、境界を何度も超えられない。ゼニスはこちらに来てしまった。もう一度戻るのは不可能なんだ」


「え……?」


 今、彼はなんて言った? よく理解できない。


「人為的に起こした重なりを超えるには、相応の強靭さが要る。無理に通ろうとすれば体が崩壊してしまうよ」


 それって。それは、どういう意味?

 ついさっきまで楽しく境界装置を見て回って、その前は……お互いの心が通じたと、そう思っていたのに。

 頭が混乱して理解を拒んでいる。そんなはずはないと心が叫んでいる。

 だって私は帰りたい。私を待ってくれている人たちがいる。責任を持たなければならない仕事もある。

 それなのに、どうして。


 彼に両手を握られ、ぎくりと体が強張った。

 見上げたグレンの紅の瞳の内側で、夜のような闇色が揺れている。迷うように揺らいでいる。

 そうしてしばらく、見つめ合って。

 やがて意を決したように、彼は言った。


「――ごめん、ゼニス。私はまた嘘をついた。

 もう二度と超えられないのではない。あと一度だけだ。あなたの魔力は人間としてはかなり強い上に、一度目が私と癒着した状態だったから。あと一度なら出来る……」


 でもそれは……行ってしまえばもう戻れないということでは。


「真実を伝えれば、あなたが去ってしまう気がした。けれどもう、嘘はつきたくない」


「…………」


「行かないで。酷なことを言っている自覚はある。それでも、行かないでくれ――」







 言葉が出なかった。どうすればいい。

 私は帰りたかった。それは確かだ。

 故郷のみんなはきっと心配してる。どれだけ心を痛めていることか。お別れも言えずに別離するのは、前世で死んだときだけで十分だ。もう二度とあんなことはしたくない。


 けど、魔界に残ってグレンの隣にいたいと思っているのも嘘じゃない。

 嘘じゃないどころか、心からそう思っていた。彼が一番大事だと、今となってはそう言ってもいいくらいに。

 だからちゃんと魔界に戻ってくるつもりだった。それなのに、どうしてこんなことに。


 彼が一番大事だ。でも、だからって、二番目以下の全てを諦めろと?

 そんなの、出来るはずがない。


 ……いや、まだ諦めると決まったわけじゃない。方法はあるはずだ。

 せめて連絡ができれば。

 そうだ、手紙を送るのはできないだろうか。私の無事を知らせて、心配しないようにと伝える内容で。


「グレン。境界を通じて物を送るのはできる? 手紙を書いて故郷に届けられれば」


「それは……物を送ること自体は問題ないが、あなたの故郷にどうやって届ければいいのか……」


「私が調査に行ったみたいに、来る人もいると思う。その人たちに託すのはどう?」


「……難しいかもしれない」


「どうして!」


 私は思わず叫んでしまった。最後の頼みの綱なのに。


「あの日、私と狼が何度も立て続けに転移したせいで、あちらの周辺が不安定になっている。空間が揺らいでいるから、人間がもう一度辿り着けるかどうか」


 そんな。

 いいや、まだ諦めるのは早い。


「でもそれは、ずっと続くわけじゃないんでしょう? それなら今まで、迷い込んでくる人がいるわけないもの」


「ああ、一時的なものだよ」


「だったらそれが終われば、可能性があるよね。いつまでかかるの?」


「短く見積もって、……20年程度だ」


 20年。思わず奥歯を噛んだ。

 魔族にとっては一瞬かもしれないが、私には長すぎる。

 それにたとえ20年後にまたあの遺跡に人が行ける状態になったとして、都合よく誰かが来てくれるのはいつになる? あの境界は、長らく誰も気づかずに存在していたのに。


 私のお父さんとお母さんはもう40代に差し掛かっている。70歳まで生きれば村をあげて長寿のお祝いするようなユピテルの国で、両親が生きているうちに無事を知らせるのは、この方法ではまず無理だ。

 それに私だって、20年後はどうなっているか分からない。魔界は人界と環境がかなり違う。病気などであっさり死ぬ可能性もあるだろう。


 どうしたらいい。どちらを諦めたらいい。決められない。


「私がゼニスの手紙を持って、人界の人間に託す手もあるが……」


 それは、グレンに死ねと言うのと同義だろう。

 境界から最寄りの集落まで、徒歩で5日もかかった。途中は森で、日光を完全に遮るのは無理だ。身を隠す洞窟なんかもなかった。

 私が「それはやめて」と言ったら、彼はうなずいて視線を地面に落とした。


「この話をしたくなかったから、あなたが境界に行きたいといっても誤魔化していた。……ごめん」


 私は首を振った。

 許せない……というわけではない。もっと早くに打ち明けてくれたとしても、どうしようもないのは変わらないから。

 私だって、早く言わなきゃと思いつつ帰りたい気持ちをちゃんと伝えられなかった。

 ああでも、さんざん私を甘やかして、彼のことを好きにさせておいてから言うのはずるいのかな……。


「ゼニス。歩けるかい? 帰りは私が抱えて戻ろうか」


「ううん。大丈夫。歩ける」


 魔界に残る決心がつけられないのに、グレンにこれ以上頼りたくない。


 こんなことになるなら――彼に心を許すべきではなかった。好きにならなければよかった。

 最初の頃の気持ちを変えずに、騙してでも脱出してやると思い続けていればよかった。




 恋なんてするべきじゃなかった。そう、思った。

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