第165話 境界へ1
グレンとカイはもう1日かけて魔獣の駆除を進めた。
さらにその翌日、境界まで行く予定を立てる。
なし崩し的に境界行きが決まってしまったけれど、本当はユピテルに帰る時期を相談したかった。
何となく言い出しにくくて、「まあ境界の見学も帰るのに無関係ではないし、興味はすごくあるし、行っとくか」くらいの気持ちである。
もし可能であれば、境界の試運転をしてちょっと人界の空気を吸ってくるのもいい。
そして、当日の朝。
グレンと私は連れ立ってお屋敷を出た。シャンファさんがお弁当を用意してくれたので、持っていく。
東の境界までは徒歩で半日。西側の魔人族たちの街とほぼ同じ距離になる。
駆除はかなり捗ったようで、カイはついてこなかった。
東へ道を進んで、やがて黒い森に入る。森の中は昼間でも薄暗くて、石畳の細い道が闇に吸い込まれるように伸びていた。
外出はもう慣れたけれど、森の空気は魔素がさらに濃い。私はグレンに手を引かれながら、ゆっくりと呼吸する。少しずつ肺に魔素を取り込んだ。
濃い魔素に、ひんやりとした空気。不自然なくらい静まり返った森の、背の高い木々の根元。
一人だったら不安になっただろうけど、グレンがいたから平気だった。彼の体温を感じる右手に力を入れれば、すぐに握り返してくれる。絡めた指がちょっと恥ずかしい、でも、それ以上に嬉しくて、手を離す気にはなれなかった。
しばらく他愛のない話をしながら歩いていると、ふとグレンが首をかしげて言った。
「ゼニス。今日は魔力が少し乱れているけれど、大丈夫?」
「え?」
目が合ってドキッとする。2日前に唐突に恋心を自覚してから、イマイチ彼の目を見れないのだ。
「ほら、また。顔も赤い気がするし、もし具合が悪いなら無理せずに――」
「だ、大丈夫! なんでもない!」
大慌てで言ったら、グレンは足を止めた。一度手を離して、正面から顔を覗き込まれる。
「何だかおかしいよ。心配だ」
「う……」
鼻先がくっつきそうな距離で見つめられて、心臓がばくばく言った。あんまりうるさいから、彼に聞こえないか心配だった。
グレンはしばらく眉を寄せていたが、やがて何かに思い当たったように目を見開いた。
「ゼニス」
「はい」
「もしかして、私にドキドキしてくれてる?」
「…………」
そう言われて「そうだよ」と返せるほど、私は恋愛経験値が高くない。代わりに顔が真っ赤になった。
「え……本当に? 抱きしめたら『飽きてきた』と言っていたゼニスが?」
ううっ、悪かったね! あの時はまだ義務感の方が強くて、気持ちが整理できてなかったんだよ!
「距離を詰めようとするたびに、『ステイ、ハウス!』と犬相手の命令を言ってくるゼニスが?」
しょうがないじゃん! 急に変なことしようとするから、飛びかかってじゃれてくる犬を制止する言い方になっちゃうんだよ。
「嘘みたいだ。夢じゃないよね。わあ……私、今、心から感動してる」
「大げさじゃない?」
やっと言葉を口に出せた。ツッコミであればこういう時でも言えると実感した。ツッコミ大事。
「まさか、この感動を言い表せなくて、もどかしいくらいだよ。心が通じたんだ。嬉しいなぁ!」
ぎゅっと抱きしめられた。ハグするのはもう慣れたつもりだったのに、恥ずかしくて暖かくて、嬉しくて、体がすくんでしまう。
それでも優しく髪を撫でられていると、だんだん気持ちが落ち着いてきた。とくとくと心臓の音が聞こえる。私のものとも彼のものとも分からないくらい、ぴったりくっついて混じり合っている。
「ゼニス」
名前を呼ばれ、少しだけ体が離れた。その距離を惜しく感じていたら、頬に手を添えられて上を向けられた。
彼のきれいな顔がすぐ目の前にある。ゆっくり降りてくる。でも、もう嫌じゃない。自然とまぶたを閉じる――
ちゅ、と軽い音がして、鼻の頭にキスされた。
「今はこれでおしまい。さすがにこの森の中では、落ち着かないからね。帰ったら続きをしよう」
そう言っていたずらっぽく笑っている。
完全に硬直している私の右手を取って、笑いかけてくる。
「グレン!! からかったでしょ!」
鼻の頭を左手で隠しながら、思わず文句を言ってしまった。
「いいや、本気だけど? 魔獣は駆除したとはいえ、ここにバジリスクが出て、抱き合ったままの姿で石になるのは嫌だろう? もっとも、私は望むところだが」
「むうぅ」
なんかすっごく不満だけど、不満だと言うのも悔しい。それもこれも、私が中身アラフィフにして恋愛経験値が低すぎるせいだ。もっとしっかりレベル上げしておけば、小悪魔な感じで手玉にとれたのに!
「さ、行こうか。道はまだ長いよ」
そうだった、あまりのんびりしていたら境界を見て回る時間が減ってしまう。
私は文句を飲み込んで、また歩き始めた。
顔が真っ赤なのはなかなか治らなくて、本当に難儀した。
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