第138話 羊のチーズ

 次の日、グレンは約束通り羊のチーズを持ってきてくれた。魔界の羊だから魔羊だろうか。

 チーズは細かく刻んで熱が通しており、おかゆにとろりとのせられていた。


『シャンファとアンジュに聞いたら、この種類のチーズが消化にいいと言っていた。一種類だけだけど、まだあなたはそんなに量が食べられないし、他のはまた今度でいいかな?』


 めちゃくちゃ気を遣われている……!

 気まずくなりながらベッドで食べる。美味しい。お米とチーズの組み合わせは大好きである。ドリアとかチーズリゾットとか、前世でも好物だった。

 私、チーズは熱を通す派なんだよね。舌の上でとろける。魔界の羊もいいお乳を出しますなあ。

 グレンはいつものにこやか笑顔で、私が食べ終わるまで見守っていた。


『美味しかった』


『良かった。もう少ししたら、粥以外も食べられるようになるから。そうしたら、腕によりをかけてゼニスの好きなものを作るね』


 グレンはいつものように食器を片付けて、ちょっと首をかしげた。


『髪を梳かしていい? 少し乱れてしまっているよ』


『え、うん……』


 当たり前のように言われて、とっさに断れなかった。

 彼は私を一人用の椅子まで抱えて運ぶと、座らせた。リハビリで必要なので、抱きかかえられるのも慣れてしまった。

 それからクシを取り出して髪梳きを始める。その手付きは丁寧で、寝癖がかなりついている髪をゆっくり解していく。


 今日も甘やかされている……。どうなってんだ。

 体はまだ不自由だし、ここが敵地だと忘れたわけではない。でもけっこう快適で、逆に困っている。


 ユピテルで暮らしている頃も、環境に不満はなかった。

 あの国は土木工事の国で、古代っぽい雰囲気の割に上下水道も完備されており、お風呂もトイレもちゃんとしてた。

 身の回りはティトがきちんと面倒を見てくれて、部屋が汚部屋化することもない。

 仕事はやりがいがあって、師匠は頼りになる。気心の知れた友だちもいる。同僚や部下たちは報連相を心がけていて、風通しのいい職場だ。

 何より魔法の追求はとても楽しい。充実した暮らしである。


 けれど今、思い出すのは前世の最期の時期。

 朝から深夜まで仕事に明け暮れ、食事の準備や家事をする時間などなかった。だんだん余裕を失って、定食屋に行くことすら億劫になり、コンビニでポテチを買って食べてばかりいた。

 ポテチは好物だったけど、末期になるとおいしいとも思わないで漫然と食べてた気がする。帰って寝るだけだからだと、大して掃除もしない部屋で寝起きしてたし。今思えば汚部屋一歩手前だわ。

 職場環境は、どうだったかな。長時間労働が横行していたのは確かだが、それ以上に私が抱え込んだのが悪かった気もする。誰にも相談できないと思い込んで、限界までストレスをためていたっけ。


 あの時と比べると、今の状況は至れり尽くせりだ。食事は黙っていれば出てきて、しかも美味しい。部屋は清潔。お布団ふかふか。

 仕事はリハビリと魔法語会話のみ。

 お風呂に入れないのが、不満といえば不満だが。



 …………。



 いやいやいや! おかしいでしょ! しっかりしろ、私。

 頭の中がやけに呑気な思考に侵されていると気づいて、私はぎょっとした。

 確かにここのところは快適だけど、その前はセクハラまみれでひどかった。そして、いつ何時似たような状態に逆戻りするか分かったものではない。

 グレンは貰われてきた子犬じゃない。猛獣だ。忘れちゃいけない。じゃないと噛み殺される。


 スッ、と髪にクシが通る感触がする。頭皮の近くの根本から、毛先まで。

 背筋がぞわぞわとしたが、前と違って不快一色ではなかった。ちょっとくすぐったいような感覚が混じっている。

 そう気づいて、愕然とした。







 これはまずい。メンタルがおかしくなってきてるのでは。

 ストックホルム症候群だっけ? 長いこと人質になってた人が、極限状態のストレスの防衛反応として犯人に好意的になってしまう精神状態。私、今まさにそれでは?


 なんだよ、これ。怖い。

 このまま流されて脱出の決意が鈍ったらどうしよう。嫌だ。私は絶対に帰るんだ。

 まずはグレンの手を振り払わないと。

 意を決して振り返ると、彼は幸せそうに微笑んでいた。目が合うと小首を傾げて、さらに瞳を細めた。


 ――こんなので、絆されてたまるか。


『もう十分だ。やめてくれ』


 するとグレンはすぐに手を止めて、クシを抜く。

 そしていかにも嬉しそうな、大好きなご主人と一緒に遊んでいる時の犬みたいな表情で言った。


『他にやって欲しいことはない? あなたのためなら、何でもやるよ』


 それなら、私を故郷に帰して欲しい。そう言いたかった。

 でも、口に出せない。これを言えば恐らく警戒される。脱出が不利になる。本心は隠さねばならない。


 私は今、体が弱ってるから心も弱気になってるんだ。体力が回復すれば気力も戻る。それまで耐えろ。

 心を開くな。グレンは敵だ。犬っぽく見えるのは、ただの目の錯覚だ。好意的に接してくるなら、利用してやるって決めたはずでしょう。

 大丈夫。その決意はちゃんと覚えてる。まだ大丈夫。


 私の本心を知らない彼は、無邪気に笑っている。

 罪悪感にちくりと心が痛かった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る