第133話 枯れ草色の輝き


【グレン視点】


 火傷するほどに熱い告白を受け取ってから、私は意識を失ったらしい。これも初めての経験だった。

 気がつけば、シンロンの屋敷の自室に戻っていた。寝台に横たわっている自分を自覚する。狼が連れ帰ったのだろう。


「グレン様っ! どうしてこんなことになったんですか! あと一歩遅ければ死んでましたよ!!」


 枕元で大声を出されて、顔をしかめた。

 声の主は見なくても分かる。アンジュだ。この赤毛の小柄な男は治癒魔法を得手とする。治癒に限って言えば魔族随一の腕前だ。

 アンジュがここまで怒るということは、本当に危なかったのだろう。


「彼女は?」


 言って身を起こせば、全身に鈍い痛みが走った。痛みは心臓へ収束する。左胸を押さえて、あの鮮烈な思い出に顔が緩むのを感じた。


「開口一番それですか……。あの人間の女なら、別室で寝かせてますよ。魔力回路がグレン様と癒着しちゃってましたからね。切り離すにしても、もうちょっとあっちの状態を回復させないと危なくてできません」


「癒着」


「え、なんで笑うんです? 人間とつながっちゃたんですよ? 気持ち悪いでしょ!」


「嬉しくて……」


 アンジュは無言で私の脈を診始めた。ついでに額に触れ、薄く魔力を流して様子を見ている。

 どうやら寝ぼけていると思われたらしい。


「私は正気だよ。彼女とつながれたのが嬉しいんだ。しかも心臓だろう」


「心臓ですよ。あのねグレン様、心臓が融解しかけたんです! 分かってます? 魔王陛下の秘蔵っ子を死なせたら、ボク、確実に死刑でしょ! 勘弁して下さいよ」


「陛下はお前のような有能な男を殺したりしないよ」


「本気で言ってますう?」


 アンジュはぶつくさ言いながら診察を続けている。相変わらず賑やかな奴だ。


「うん。処置完璧。経過良好。さすがボク」


「彼女に会いたい」


「マジですか……。おかしいなぁ、魔力回路の動きも癒着部分以外は正常だし、脳やその他の臓器の損傷もきれいに取り除いたのに……」


「会いたい」


 重ねて言うと、アンジュは渋々といった表情でうなずいた。


「あの人間、まだ意識が回復してませんけどね。重傷度はグレン様とどっこいだったので。人間は魔力弱い上に体も脆くてめんどくさいですねぇ。今はとりあえずシャンファが面倒見てますよ」


「寝顔で構わない。彼女に会いたい」


「えぇぇ……」


 その時のアンジュの顔は表現し難い。あえて言うなら酸っぱいものを無理に食べた時のような。

 気をつけて動いて下さいね、修復はバッチリだけど違和感はあると思うので、などと続けられる小言を聞き流しながら、私は彼女がいるという部屋に向かった。普段使われていない客室のひとつだった。







 部屋の中で最初に目に入ったのは、寝具からこぼれた枯れ葉色だった。髪が一房。たったそれだけなのに、その場所が輝いて見える。


 寝台の傍らでは、忠実な侍女であるシャンファが椅子に腰掛けていた。常と変わらないきっちりと髪を結った姿で、どうやら読書をしていたらしい。

 私の姿を見るとすぐに立ち上がり、一礼して一歩下がる。


 私は恐る恐る寝台に近づき、脇の床に跪いてそっと覗き込んだ。


 そこに確かに、彼女がいた。

 青ざめて血の気を失った目蓋は固く閉じられていて、あの金剛石の輝きは見られなかったけれども。

 力なく薄く開かれた唇は何の表情も刻んでおらず、あの微笑みの面影はなかったけれども。


 彼女だ。あの魂まで燃えるような熱を注いでくれた彼女が、私の眼の前にいる。


 包帯で隙間なく覆われた右手が、毛布の上に横たえられている。少しだけ魔力を揺らせば、私の心臓と彼女の右手とを繋ぐ糸が視える。

 闇色と白銀。私の魔色だ。その色が彼女の右手に入り込んでいるのを確認すると、心が喜びに震えるようだった。


 ゆっくり手を伸ばし、指先で頬に触れてみる。ほんのりと温かい。あの時のような激しい熱ではなく、ゆっくりと暖かさを感じられる温度。

 とても心地が良い。ずっと触っていたくなる。


「あの、グレン様?」


 背後からアンシュが声をかけてきた。そういえば彼の存在を忘れていた。


「もういいですか? なんかボク、すごい気まずいんですけど」


「アンジュ」


「はい」


「彼女はやつれたんじゃないか?」


「そりゃそうでしょうね。死にかけて、現在進行形で重傷なので」


「唇がひび割れている。手入れをしてやっていないのか」


「やってるわけないでしょ。グレン様の殺害未遂犯ですよ、そいつ」


「もっと大事にしてやってくれ。いや、私が世話をやろう」


「えぇ?」


 振り返って睨みつけたら、アンジュは黙った。


「何をすればいい?」


「……では、水を飲ませましょう」


 今度はシャンファが答えて、サイドボードの水差しを取り上げる。

 私は眉をひそめた。


「眠っているのに飲めるのか?」


「注ぎ口を口に入れてやれば、ちゃんと飲みます」


「だめだ。乱暴すぎる。窒息したらどうする」


「気道を確保しておけば問題ありません。今まで何度かやりました」


 シャンファの言葉にアンジュもうなずいている。

 そんなやり方は納得できない。


「今後は禁止する。もっと丁寧に扱うように」


 するとアンジュは不満そうに口を尖らせた。この男は時折、このような子供っぽい仕草をする。


「めんどくさいなぁ。そんなに言うなら口移しでもすればいいんじゃないですか?」


「成る程、いい案だ。そうする」


「えっ」


「えっ」


 アンジュの言葉を受けただけなのに、2人は驚いたような声を出した。


「恐れながら、グレン様。それはやり過ぎです」


 シャンファが言った。心なしか動揺しているように見える。いつも冷静な彼女が慌てるとは、珍しい。


「何故だ? 窒息せずに確実に飲ませるには、良い方法だろう」


「たかが人間ごときにそこまでする必要はありません」


「たかが人間、ではない。私の……愛する人だ」


 言いながら、頬が熱くなるのを感じた。たったこれしきの言葉で照れるとは、我ながら情けない。

 アンジュとシャンファは黙り込んだ。しばらく私を凝視した後、互いにひそひそと小声を交わしている。


「アンジュ、貴方、治療に失敗したのですか? グレン様がご乱心です」


「失敗なんてしてないよ! 肉体上は完全に正気のはずだって」


「そんな、嘘でしょう。グレン様がこんなイカレトンチキみたいなことを言い出すなんて……失礼」


 一体何だと言うのか。

 彼らの態度は大いに不満だったが、それよりも枯れ草色の彼女が気になった。

 眠り続ける彼女はやつれ果てていて、まるで人形のよう。

 そっと指先で頬を撫でても、髪の一筋をなぞっても、何の反応もない。その痛々しさに、愛おしさで胸がいっぱいになるのを感じる。


「グレン様」


 こほん、とわざとらしく咳払いをして、シャンファが言った。


「どこまで正気……いえ、本気かわたくしには分かりかねますが、仮にも『愛する』とまで言うのでしたら、きちんと大事にして差し上げなさいませ。

 意識のない間に唇を奪うような真似は、するべきではありません。嫌われますよ」


 嫌われる。その一言が重い一撃となって私を打ちのめした。

 アンジュもここぞとばかりに続ける。


「ボクも同感です、グレン様! もっと飲みやすい吸い飲みが倉庫にあったはずだから、取ってきます。それ使って下さい」


「……分かった……」


 彼女に嫌われるなど、想像しただけで崖から飛び降りたくなる。

 頭を振ってやっと気分を切り替えた。


「シャンファ、今日から彼女は私が世話をする。お前は通常の仕事に戻るように」


「かしこまりました。ただし、明日からになさいませ。グレン様も重傷だったのです。今日はお体をお休め下さい」


「しかし」


「シャンファの言う通りですよ! ボクの治療はカンペキですけど、失った体力は一度には戻りません。病み上がりなんです」


 アンジュも言い募る。2人とも絶対に引かないという意思をみなぎらせていた。

 仕方ない。たった1日だけだ。1日待てば彼女のそばに居られる。そう思えば心が浮上した。


「分かった。けれど明日から必ず、私が付きっきりで世話をする」


 アンジュがため息交じりに答えた。


「そうして下さい。

 ……そうそう、あとで狼と話してやって下さいね。彼、自分の失態がこんな事態を招いたってめちゃくちゃ落ち込んでますから。ほっとくと自害でもしそうな勢いでした」


「不問にすると伝えてくれ。私は今、とても気分がいい」


「そうでしょうねえ」


 眠り続ける彼女を見る。

 私が捕まえている限り、彼女はどこにも行かないだろう。明日も明後日もここにいる。

 来週も、来月も、来年も。ずっと一緒に居られて、毎日彼女に会えるのだ。


 退屈だった日々が金剛石ダイアモンドと枯れ草色の輝きに満たされて、見慣れた光景すら美しく感じる。

 これも、初めての想いだった。

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