第103話 ラスの帰郷
その一報は、竜退治の翌年。早春の中でもたらされた。
――エルシャダイ王国の王妃、逝去。
ラスことランティブロス第三王子は、久方ぶりに故国の地を踏んだ。
五歳の時に故郷を離れてユピテルに行って以来、実に八年ぶりのことだった。
実を言うと、彼はエルシャダイ国が故国であるとの意識が既に薄い。
幼い日の記憶はもう遠くて、家族の顔もぼやけてしまった。
ラスにとって家族とは、ずっと付き添ってくれた師であるヨハネ。それにゼニスとアレクの姉弟がそれに当たる。
それでもエルシャダイの国は、ラスに不思議な感慨を抱かせた。
ふとしたことで遠い思い出が蘇るのだ。
砂漠から吹き付ける乾いた風に、ひび割れた地面。乏しい水源にしがみつくように茂る植物たち。
ユピテルにはない、街を取り巻く堅固な城壁……。
その一つ一つが、彼の心の奥に眠るシャダイの民の魂を刺激した。
もう忘れてしまったと思っていた肉親たちも、身近に接すれば懐かしさがこみ上げた。
父王と2人の兄、1人の姉。それがラスの家族だった。
母の葬儀は既に済んでいた。シャダイ教では、死後できるだけ早く死者を埋葬するのが重要とされる。
葬儀自体も簡素で、遺体に花を捧げる習慣もない。墓は遺体が埋められた場所に、白い小石が積み上がっているのみである。
シャダイの埋葬習慣は、彼らが流浪の民であった頃に由来する。放浪者は決まった土地に墓を持てず、また、長く遺体を安置することもできなかった。
旅の途中で白い石積みを見つければ、ただ黙祷をする。それが彼らの弔いだった。
エルシャダイ王国が建てられてからも、当時の苦難を忘れぬようにと多くの慣習が引き継がれている。
ラスは母の墓まで行って、白の小石を一つ積んだ。
シャダイ教の教えどおり、神の元での安息と約束された復活の到来を祈ると、家族たちは喜んだ。
「ユピテルでシャダイの心を忘れてしまったかと思っていたが、ランティブロスの信仰はきちんと生きていたのだな。嬉しいよ」
そんなことを口々に言った。
その後は家族での晩餐となった。
ユピテル建築に見られる列柱もあるものの、色彩が少なく堅牢な石壁は荘厳な印象を受ける。
ラスは年の離れた末っ子で、兄姉たちはとっくに成人している。
父は既に老境に差し掛かっていて、今は30歳手前の長兄が主に政務を取り仕切っていた。
「ランティブロスが帰国するのは、あと10年といったところか。それまで
「父上、そんなことをおっしゃらないで下さい」
「何、一足早く神の御許にゆくだけよ。死は別れではない。来るべき復活の暁には、神の楽園で永遠の命を分かち合おう」
王はそう言って静かに笑った。
「家族の絆は我らシャダイの民にとって、かけがえのないもの。それを取り上げるユピテルには、憤りを感じます」
次兄のシモンが言った。
「めったなことを言うものじゃない。ユピテルはなくてはならない隣人だ。アルシャク朝の武力に呑まれないためにも、彼らの力は必要だと、お前も分かっているだろう」
長兄アルケラオスが弟をたしなめる。けれどシモンはますます語気を強めた。
「ユピテル人は邪悪だ! 享楽と肉欲に溺れ、神を信じず、シャダイの民を軽んじて侮辱する。あのような民が我が物顔でこの地を闊歩しているなど、心底おぞましい」
シモンはユピテルに留学していた少年時代に、いわれない差別を受けてきた。孤立を深めて、信仰だけを心の支えにしていた。
「シモンよ――」
父王が低く言う。
「お前の言いたいことは分かる。だが、祖先が長い流浪の末に得たこの地を、そうやすやすと失うわけにはいかぬ。ユピテルに楯突くということは、国を失うのと同義である。こらえてくれ」
「…………」
シモンは不承不承、黙った。
そんな兄の姿を見てラスは思う。自分は恵まれていたのだ、と。
虚弱な子供だったラスを優しく受け入れてくれて、シャダイの慣習も理解を示してもらえた。
ユピテルから学んだことは多い。差別がないわけでもなかったが、少なくともゼニスやアレクたちはそんなことをしなかった。
(あぁ、ゼニスに会いたいなあ)
そんな思いが頭をよぎって、慌てて否定した。彼女に会いたくて寂しがるなんて、まるで子供ではないか。早く大人になると決めたのに。
長兄と次兄はぎこちない空気のまま、食事は終わった。
あくる日、朝の礼拝を終えたラスが王城の庭を散歩していると、長兄に声をかけられた。
「アル兄上、どうしましたか?」
「お前と少し話がしたくてな。歩きながら話そうか」
ユピテルとはまた違う趣の庭園を歩いて行く。
兄弟は幼い頃の思い出話に花を咲かせた。
「お前は小さい頃、甘えん坊で母上にべったりな子だった。覚えているか?」
「僕はそんなに甘えっ子でしたか?」
「ははは、すまん。大きくなったお前に言っても、困るよな。つい懐かしくて言ってしまった」
長兄と末弟のラスは年齢がかなり離れている。ラスが小さかった頃、長兄は父親のように見えたなとぼんやりと思い出した。
「そうそう、あそこだ」
ふと、兄が庭の一角を指で示した。腰丈ほどの岩が置かれている。
「覚えているか? あの岩の後ろに隠れて、かくれんぼをしただろう」
「あ……覚えています」
岩に近づいてみたら、ラスも思い出した。
「確か岩の真後ろに穴があって、宝物を隠しましたね。僕が隠したのは何だったろう」
品物までは思い出せなかったが、子供のやることだ。どうせガラクタの類だろう。
「あの岩の後ろの隙間は、私とお前の秘密基地だったね。……この先もし機会があったら、また岩の穴に宝物を隠しておくよ」
「……?」
どういう意味だろうとラスは首をかしげたが、長兄はさっさと歩いて行ってしまった。
「さあラス、おいで。次の思い出話と行こうじゃないか」
「はい、兄上」
この何気ない会話がある事件のヒントだったと気づくのは、まだ何年も先のことだった。
片道ひと月の道のりを経て、ラスはユピテルに戻った。もちろんヨハネも一緒だ。
かつて5歳で国を出た時は、不安と寂しさで一杯だった。でも今は、ゼニスやアレクといった親しい人々との再会が待ち遠しい。
「ラス、ヨハネさん、おかえり!」
フェリクスの屋敷の入口で、ゼニスとアレクが出迎えてくれた。どうやら待っていてくれたらしい。
「ただいま。ゼニス、アレク。他のみんなも」
「お母さまのことは残念だったね。ふるさとはどうだった?」
「懐かしかったです。でも僕は、ユピテルの方が馴染んでしまって」
ちらりとヨハネを見るが、師は僅かに苦笑しているだけだった。
「今度、ラスの国に連れて行ってくれよ。俺んとこの実家は何度も行ってるから、一度くらいラスの故郷を見てみたい」
と、アレク。
もちろんいいですよ、と言いかけて、次兄の頑なな態度を思い出した。
「遠いですから。なかなか行けませんね」
「そっかー」
でも死ぬまでには一度くらい! とアレクは笑いながら言った。
その言葉をさらっと流して、ラスはゼニスに問いかける。
「ゼニスは変わったことはありませんでしたか?」
「うーん、別に? ていうか立ち話も何だし、中に入ろう」
廊下を歩きながらアレクが言い出した。
「姉さんのところに、お見合いの釣書がどっさり来てるんだ」
「お見合い!?」
ラスは思わずゼニスを見た。彼女はばつが悪そうな顔をしている。
「でも、変な人ばっかりなんだよ。身分はだいたい下級貴族か騎士階級で、それはいいんだけど。やたら熱心な人か妙に上から目線の人かの二択なの」
「オクタヴィーさんが言うには、姉さんは女だてらに功績を立てすぎたんだってさ。んで、そんなスゴイ女の相手に名乗り出るのは、姉さんを踏み台にしてのし上がる気満々の野心家か、おこぼれにあずかってダラダラ暮らしたい怠惰な男か、ってとこなんだって」
「ゼニス、駄目ですよ! そんなろくでもない男と結婚なんて!!」
ラスの声が思わず大きくなった。ゼニスが目を丸くしている。
「しないって! 私、まだ未成年だし。嫁いで嫁の務めとかやるくらいなら、魔法の研究していたいもの」
「そ、そうですよね」
ラスは焦った己を恥じながら、内心でほっと胸をなでおろした。ふと横を見ると、ラスの恋心を知っているアレクがにやにやしている。肘鉄しておいた。
「結婚はゆっくりでいいと思います。少なくとも20歳までは独身がいいですよ」
「そうそう、姉さんが20なら俺らは17で成人だからなー。俺らも適齢期に突入だもんね」
「アーレークー」
ラスの親友はちょっとだけ意地が悪い。ラスが低く名を呼ぶと、アレクはわざとらしく身を縮めた。
そんな彼らのやり取りを、ゼニスは不思議そうに眺めている。
「なんかよく分かんないけど、ラス、ヨハネさんも、お風呂入ってきたら? 長旅で汚れちゃったでしょ」
「はい、そうします」
「それじゃ俺も一緒に入ろっかな」
旅装を解いて、三人で浴室へ行く。
ヨハネと少し離れた場所で、アレクとラスはぼそぼそと話した。
「姉さんは賢い人なのに、なんでこういうところは鈍いんだろうなぁ」
「もっと積極的にアタックするべきでしょうか?」
「どうだろ……。この前も何の考えもなく抱きついてきたじゃん? あれ完全に、俺らのこと子供扱いしてるよな」
「うん……。アレクはもちろん、僕も弟扱いですね……」
「だよなぁ。やっぱもうちょい大人になってから、ストレートに告白した方がいいんじゃないか。せめて背丈を抜いてから」
彼らは今、13歳。ここ一年で背もぐっと伸びて、そろそろゼニスを追い抜きそうだ。
けれど人としての力量は、まだまだ足りないとラスは思う。偉大な彼女に追いつくには、いったいどれだけの時間が必要なことやら。
「あぁ、こんなことなら『ゼニス姉さま』なんて呼ぶんじゃなかった。あれのおかげで弟扱いされた気がします。昔の自分を殴ってやりたい」
「あっははは、頑張れよ」
能天気にけしかける親友にお湯をかけてやって、ラスは大きなため息をついたのだった。
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ここまでお読みいただきましてありがとうございました。これで第二部少女期は終わりです。
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