第93話 消火活動
火事の現場が近づくにつれて、周囲は逃げ出そうとする人、反対に野次馬で集まろうとする人、立ち往生した荷車などでごった返しており、進むのも大変になった。
今や火の手ははっきりと感じられる。夏の空気に黒煙の煙たさと炎の熱気が混じって、息苦しかった。
いち早く到着した消防隊が、懸命に消火活動をしていた。
とはいえ前世のような装備や消防車があるはずもなく、水をかぶった普通の衣服で、バケツや水がめの水を使っている。一抱え以上もある大きなクッションを重ねて、建物の上階から飛び降りる人を受け止めたりもしている。長いはしごを使って救助活動をしている人もいた。
ユピテルのアパートは1~2階部分だけが石造り。それ以上は木造だ。
木造部分の方が大きいから、炎はさかんに燃えて衰える様子がない。
消防隊の隊員と思われる魔法使いたちが、水の魔法で放水していた。
私とシリウスも呪文を唱える。
『清らかなる水の精霊よ、その恵みを奔流として、我が手より放ち給え!』
燃えている建物に向かってかざした手から、勢いよく水が噴き出した。何度も唱えて放水を繰り返す。
けれどユピテルの建物はぴったり密集して建てられていて、火の回りが早い。この程度の放水じゃ埒が明かない。
前世の江戸時代の消防隊は建物を打ち壊して延焼を止めたというけれど、ここらの建物は5~7階と高層。平屋のように壊すのも不可能だ。
不幸中の幸いで今日は風がない。大きな通りを挟んだ向かい側は、火の粉は飛んでいない。
けれどこのままでは燃え広がる一方だ。せめて延焼を止めたい。
「壊すのが無理なら……」
一つ思いついて、私は呪文を唱え始めた。
位置は大通りに面した路地の脇、火に近いけどまだ燃えていない場所。
『母なる大地の精霊よ、岩なる御身を高き壁として、此処より或れなる場所まで、隆起せよ!』
片手をついた地面、細い路地の入り口を基点として、路地の土が盛り上がった。地面を突き破るように石の壁が出現する。
壁の厚さは50センチ程度だが、高さは20メートル以上!
7階建ての建物の屋根を一回り超えて、岩の壁がそそり立つ。
かなりの広範囲を指定して魔法を使ったせいで、魔力の消耗が激しい。今日は朝から記述式の実験を繰り返していて、それなりに魔力を使っていたせいもある。もう一度同じ魔法を使うのは難しそうだ。
「シリウス!」
魔力切れの頭痛をこらえながら、私は叫んだ。
「火を大通りと岩の壁で囲って、延焼を防ぎたいの! もう片方の『辺』をお願い!」
「わ、分かった!」
シリウスが走っていく。こういう時、言う前に意図を察して行動を合わせてくれればかっこいいのに、あいつ察するのドがつくくらい下手くそだから。
まあいいや、ワンテンポ遅れでいいからがんばってくれ!
ややあって、大神殿の丘に面した方の大通りを基点にして岩の壁が立った。
よし、やった!
これで岩壁と大通りで四辺を囲ったことになる。風のない今日であれば、火を閉じ込められるだろう。
体の力が抜けて膝をつきそうになる。ティトが支えてくれた。
「お嬢様、また無理をして!」
「ごめん、ごめん。でも今回は、私の無理なんて安いものでしょ」
「そうですね……ここまで大きい火事を食い止めるなんて、出来っこないと思ってました」
ふらふらでこれ以上は役に立てそうにない。下がろうとしたら、群衆をかき分けて兵士の格好をした人が走ってきた。
煤と汗にまみれた顔で、軍隊式の礼を取る。
「今の岩壁の魔法は、あなたが?」
「はい、これは私が。もう片方は、魔法学院の同僚が。――消防隊の方ですか?」
「ええ、第3分隊小隊長を務めている者です。おかげで延焼は防げそうです。大火災を覚悟していたのに、なんとお礼を言っていいか……。後日、改めて礼をさせて下さい。お名前は?」
名乗るかちょっと迷った。「名乗るほどの者ではございません」とか言って去るのもいいかと思ったが、そこまでカッコつけても仕方ないかな。
「ゼニス・エル・フェリクスです」
「なんと! 名高い氷の魔女様でしたか。さすがです」
小隊長さんは驚きと尊敬の表情を浮かべた。
うへぇ、やっぱり名乗らない方が良かったかも……。
「では、後ほど改めてフェリクス家門に伺います。表彰確実ですよ」
「あ、はい、おかまいなく」
しかし彼は聞いていなかった。くるりとこちらに背を向けて、消防隊の隊員たちへ声を張り上げる。
「みんな、聞け! あの氷の魔女様が大魔法で岩壁を作って下さった。これ以上の延焼はない、消火と市民の救助を急げ!!」
「おおっ!」
「この壁は、氷の魔女様が!」
「氷の魔女様、万歳!」
うわああぁ、やっぱり名乗らなきゃ良かった! それか、全部シリウスの手柄にしておけば良かった!
「お嬢様、いいかげん諦めましょう」
ティトがぽんぽんと背中を叩いた。
やだー! 目立つのやだー! 小っ恥ずかしいし、ムズムズして落ち着かねぇー。
でも被害を小さくできたのは良かった。じゃあこの悪目立ちもやむなしか。
そんなことを思っていたのだが。
「なんだ、あれは!」
そう叫んだのは、誰だったか。
何気なく見上げた空を、異様なものが塞いでいた。
巨大な、とても巨大な体躯。その体に相応しい、とてつもなく大きな一対の翼。
四肢の鉤爪は鋭く、一本だけで子供の胴体ほどもありそうだ。
体は暗い光沢を放つ鱗で覆われ、口元から覗く刃のような牙に、爬虫類に似た縦長の瞳孔の目。
鱗と瞳は炎の照り返しを受けて、禍々しい赤に染まっていた。
「
悲鳴が上がった。
そこにいるのは間違いなく、物語や伝説で語られる竜そのものだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます