第92話 炎
***
遥か上空、星空を背負うようにして、『彼』は地上の生き物たちを眺める。
それらは小さく脆弱で、2本足に2本の腕を持って集団で動いていた。魔力の気配は薄い。山そのものから発する魔力の方が、よほど濃く感じられた。あの時、噴き上げて見えた魔力は山のそれかもしれない。
けれども彼は知っている。あの2本足の生き物は体は小さくとも、たまに非常に手強い個体がいる。
下手に手を出せば、痛い目に遭いかねない。
彼は周囲を見渡した。
連なる高い山々のうちいくつかは、白い雪冠をかぶっている。夜闇の中にさやかな月影が落ちて、美しい濃淡を描いていた。
なかなか住心地の良さそうな山だったが、少々寒いのと、二本足の生き物がたくさんいるのとで落ち着かない。
――もう少し、辺りを見回ってみよう。
彼はそう考えて、大きな翼を力強く羽ばたかせた。
それから暖かい空気の気配のする方向へ、南へと飛んでいった。
満天の夜空を往くものは彼のみで、空は広く、とても気分がいい。降りてきた山を離れると息苦しさが増したが、それも気にならないほどだ。
すぐに陸地が途切れて大きな水たまりになった。ものすごく大きな水たまりだ。
ここまで大きなものは、かつての彼の住処では見たことがない。海というものを彼は知らなかった。
よく見ようと水面近くまで高度を落とすと、飛行する風圧で水しぶきが上がって、魚の群れが驚いたように散っていった。
――おもしろい! 楽しい!
彼はますます気分を良くして飛んでいく。
やがて左手に見える陸地の一点に、明かりが灯っているのが見えた。
そこは数多くの建物が密集していて、見たこともないほど大勢の2本足たちがひしめいていた。
彼はその数の多さに驚き、次いで好奇心から近づいてみた。あまりにたくさんの2本足がいるけれど、強い魔力の気配はほとんど感じられない。手強い個体は不在なのかもしれない。
空から見た2本足たちの住処は広く、いくつかの丘と平地でできていた。川も流れている。
彼は丘の1つ、大きな石造りの建物のある上までやって来た。彼の姿に気づいた2本足たちが、空を指さして何事か叫んでいる。
それらの声音に緊張と恐怖を感じて、彼は得意な気分になった。故郷では小さく弱い彼が、こんなにも恐れられている。
もっと力を見せてやろう。そう思った彼は、石造りの建物の屋根に着地した。ずん、と重い音がして、2本足たちが慌てふためいている。
しっかりと足を踏ん張った。爪を立てると石が割れて、瓦礫がばらばらと落ちる。建物の中にいた2本足が、瓦礫に押しつぶされて断末魔の悲鳴を上げている。
そうして彼は、大きく口を開けた。喉の奥に熱が灯り、みるみるうちに炎の球となって、勢いよく吐き出される。
火球は丘の下、建物が立ち並んでいる場所に着弾して、燃え盛る炎と化した――
***
私とシリウス、ティトの3人は連れ立って夜の首都を歩いていた。
季節はもうすっかり夏。冷えた飲み物とかき氷が美味しい季節である。
夏の長い陽もさすがにもう落ちて、辺りは夜闇に包まれている。よく晴れた夜で、星空がきれいだった。
首都は夜も人出が多い。通りに面した居酒屋からは、にぎやかな声が響いてくる。歌声に、時々どっと沸く笑い声。楽しいお酒を飲んでいるんだろう。
日中は禁止されている馬車も夜間は解禁されるので、貴族用の豪華な馬車や、搬入用の荷車なども行き交っている。
私たちは、マルクスが経営責任者をしているレストランへ行くことにした。
あのレストランは初年度は飲み物とかき氷だけを提供していたが、次の年以降は食事もできるようになっている。フェリクスの料理人がレシピを作った料理も好評で、今では夏だけでなく通年で繁盛している。
私は白身魚の香草焼きが好きだな。臭みがいい感じに香草で消えて、香ばしさと身のジューシーさが同時に味わえるの。
ティトもお魚派、シリウスはお肉派である。彼らはもう成人済みだから、ビールもワインもばんばん飲むよ。
――と。
ふと違和感を感じて、私は夜空を見上げた。そんな私にティトが言う。
「ゼニスお嬢様、どうかしましたか?」
私は空をぐるっと見回したが、特に異常はない。前世とは違う星座の星たちが瞬いているだけだ。
「ううん、何でもない。空を何かが横切った気がしたけど、気のせいだったみたい」
「こんな暗い中で鳥が飛んでるわけもない。でかい蛾でもいたんじゃないか」
私が虫苦手だと知っていて、シリウスがそんな意地悪を言った。にやにや笑って感じ悪い!
言い返してやろうとした、その時。
道のずっと先の前方、大神殿がある丘の上に赤い点が灯った。
なんだろう? ここからあの丘まではそれなりの距離があるのに、こんなにはっきり見えるとは。あの赤、かなりの大きさではないか?
そんなことを考えた次の瞬間、地を揺るがすような轟音が鳴り響く。次いで炎が、まるで夜の闇を炙るように燃え上がった。
炎は夜空の下端を赤く照らして、大量の黒い煙を立ち昇らせる。
その向こう側の大神殿が、不気味なシルエットとして浮かび上がっていた。
「火事だ!」
誰かが叫んだ。
「大神殿の丘のふもとで、火事が起きた!」
やがて消防隊のラッパが鳴り響いて、辺りは騒然とし始めた。
「お嬢様、お屋敷に戻りましょう。大神殿とお屋敷は離れていますから、延焼の心配はありません」
顔をこわばらせてティトが言う。
それはもちろん、そうだ。あの辺りは特に知り合いの家があるわけでもない。でも……。
「行ってみよう。魔法を使えば、消火の助けになるでしょ」
「危険ですよ、やめましょう!」
「大丈夫、危なくない範囲でやるから。シリウスはどうする?」
「まあ、見物がてら行ってみるさ。水の魔法で手伝いするくらいならやってもいい」
「見物とか言わないでね、被害者の人と消火活動頑張ってる人に殴られるよ」
「お、おう、了解した」
ティトに先に帰るよう言ったが、「お嬢様が行くなら私もついていきます!」と譲らなかった。
私たちは駆け足で、火の手が見える方向へ向かった。
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