第43話 シリウス
「このチビが!さっさと帰れ!」
奴が丸めたパピルス紙を大きく振りかぶり、振り下ろす。
無防備な大振りだったので、私はさっと横に避けてみた。
すると彼は空振りの勢いのままに、ビターン! と漫画のように転んだのである。
「…………」
「…………」
気まずい沈黙が流れる。
いや、なんか、ぽかすか叩かれてムカついていたのが冷めちゃったというか。
このすごくトロくさい感じ、覚えがある。――前世の私だ。
今の私、ゼニスはごく真っ当な運動神経をしているが、前世はもうひどかった。
昔の私も、ちょっとしたことでよく転んだっけなぁ……。思わず遠い目になってしまった。
「クソ、くそっ! 馬鹿にしてるだろ。笑えよ!!」
床からようやく起き上がり、彼は悔しそうに身を震わせた。
「別に馬鹿にしてないよ。ただ、昔の自分を見てるみたいって思ってただけ。私もよく転んだから」
「嘘をつけ。お前、素早く回避したじゃないか。そんな風に動けるやつが、転ぶわけあるか」
「昔はトロかったよ。よく、何もないとこで転んだもの」
昔というか、前世だが。
「何もないところで……?」
「うん」
「僕もよく転ぶんだが、どうしてだろう」
さきほどの怒りはどこへやら、彼はしゅんとして言った。
どうしてだろうと言われてもねえ。まあ、前世の体験でよければ話してやろう。転びまくった昔の私が、靴屋さんに相談した時に返ってきた答えである。
「たぶん、歩き方に問題があるんだよ。あまり足をしっかり上げないで、引きずるみたいに歩くから、ちょっとした段差につまずいちゃうの。あとはよく考え事しながら歩いてたから、足元が不注意になる」
「…………」
私の言葉に、目の前の彼は黙り込んでしまった。
改めて彼を見てみる。年齢は14歳か15歳くらいの男子、明るい色の金の髪に青い目をしている。これはノルド人と呼ばれる北方民族の特徴だ。ユピテルは外国人もたくさん住んでいるので、それほど珍しいとは思わない。
服装は丈が長い貫頭衣。魔法学院の一人前の魔法使いたちが着ているような服だった。
「僕も、きっとそれだ……」
しばらく黙った後、少年は呟くように言った。
「長年の謎が解けた。すっきりしたぞ! 今度から足をなるべく上げて歩こう」
そう言って歩き始めた。宣言通り足を高めに上げている。
おい待て。一方的に人を叩いておいて、一人で転んで落ち込んで、勝手に去っていくつもりか? 自由すぎるにもほどがあるだろ!
「待ってよ! まだいきなり叩かれた理由、聞いてないよ」
「ん? ……あ、そうだった」
そうだった、じゃないよ! 痛くなかったからまだしも、あれは相手によっては喧嘩になるぞ。オクタヴィー師匠にやったら消されるぞ!
「お前、あんなデタラメの人体図を授業で使うな。魔力回路も魔力循環とやらも、あんなデタラメを元にしてる以上はエセだろ」
「デタラメじゃないし。何を根拠にデタラメ言うのさ」
「ふん、いいだろう。じゃあ本物を見せてやる。ついてこい」
そう言ってさっさと歩き出す。私は慌てて後を追った。
きっちり足を高めに上げて歩いているのを見ていると、デタラメ呼ばわりの怒りがまた冷めてしまいそうだった。
廊下を進む間に、彼は『シリウス・アルヴァルディ』と名乗った。
シリウスはユピテル語風だが、アルヴァルディの方は耳慣れない響きである。北方の言葉だろうか。でも、なんか聞き覚えがあるような?
「ここが僕の研究室だ」
そう言って立ち止まったドアは、私の研究室のご近所であった。なんだ、同僚だったのか。懇親会とかないから、未だに他の研究員のことをよく知らないのである。
ドアを開けて中に入る。
部屋の中は……筆舌に尽くしがたいゴチャゴチャっぷりであった。
とにかく物が多い。書物の巻物が一番多くて、床から壁、天井までうず高く積まれている。巻物をきちんと紐で留めていないせいで、中途半端に開いて、転がしたトイレットペーパーみたいに散乱しているのもある。
あとはよく分からないホコリをかぶった箱とか、鉱物のかけらとか、干からびた植物とか、とにかく散らかっている!
「えーと、確かこの辺りにあったはず」
シリウスが巻物の山の一角に手を突っ込んだ。無理やり引き出そうとしたせいで、ホコリが舞い上がる。くしゃみが出そうだ。
「くそ、引っかかってやがる」
「あ、ちょっと……」
危ない、という言葉は間に合わなかった。一部を引き抜かれた巻物の山はバランスを崩し、ドドドドドと雪崩を起こした。
「よし、あったぞ」
唖然とする私と崩れた山に目もくれず、シリウスは物でいっぱいの机の隅の方に巻物を置く。
「これを見ろ。これこそが正しい人体図だ」
仕方ないので、物を踏まないよう気をつけながら近寄り、彼の手元を覗いてみた。
そこには……人の体の輪郭と、左胸に心臓の絵。心臓からは謎の渦巻きがぐるぐると出ていて、体全体を満たしていた。
なお、輪郭の内部は心臓と渦巻き以外は何も描かれていない。
「…………」
「どうだ、すごいだろう! お前のあのデタラメは、すぐに取り消すように」
アホか!!
なんでこうなった!
私の正しさを証明するのに、お前を解剖してやろうか!?
いくらユピテル人の医学レベルが低くて人体はブラックボックスだと言っても、これはない。なさすぎる。
と、一瞬だけ思ったが、そうもいかない。
なるべく冷静に声を出した。
「これ、出典どこ?」
「我が家に伝わる秘伝の書の一部だ」
「残念だけど、こっちが間違ってるよ。人間の体の中は渦巻きだけじゃなくて、筋肉も内臓もあるもの」
「騙されんぞ。もっともらしいこと言って、言いくるめる気だろう」
んなわけあるか。
「じゃあ、私と一緒に来て。料理人に頼んで豚の解体を見せてもらおう。そしたら、人間の中身と似てると分かるから」
「嫌だね。なぜ豚と人間を一緒にするんだ? 無意味だろう」
無意味なのはお前さんの脳みその中身だと思うがね?
「同じ動物だもの。だいたいのところは一緒でしょ」
「どうだか。人間と豚じゃ違いすぎるだろ。確かめるなら人間をバラしてみなきゃ、分からない」
それができれば苦労しないわ。
するとシリウスは、ぽんと手を打った。
「おっ、そうか。本物の人間の中身を見てみりゃいいんだな」
「え?」
なんかいきなり殺人鬼みたいなことを言い出したので、後ずさる。
「うん。確かに、僕もまだ人間の中身は見たことがなかった。いいだろう、どっちが正しいかは実物を確かめてから決めてやる」
「や、やめてよ。なにする気?」
「何って、人間の死体くらい、貧民街に行けばその辺に転がってるだろ。一つその場で切り刻んでみるだけだ」
「駄目!!」
顔色変えずに何言ってんだこいつ! 怖いわ!
シリウスはきょとんとした顔で首をかしげた。
「なんで駄目? さすがに生きてるのを殺すのがまずいのは分かる。だから引き取り手のいない死体を……」
「駄目ったら駄目! ……そうだ、猿! 猿の解体でどうよ!? 猿なら人間に似てるでしょ!」
「ああ、うん? まあ豚よりかは似てるか?」
「じゃあどうにかして猿探してくるから、それまで待ってて」
猿は、以前フェリクスの宴会で料理が出ていた。脳みそ食べるやつ……。
どっかで手に入ると思う。がんばって探す。
「猿、見つけたら知らせるから。絶対死体に手を出したら駄目だよ!?」
シリウスは「やれやれ」みたいなジェスチャーをした。ムカつく!
マヌケな言動で油断したが、ヤバい奴と関わり合いになってしまった。
本当は猿だって解体なんぞしたくないが、いつまでも難癖つけられても困る。さっさと決着つけておさらばしよう。
「ふぇっくしょん!」
ホコリだらけの部屋でくしゃみも出てきた。
こんなところにもう、いたくない。
私は汚部屋ならぬ汚研究室を飛び出すように出て、フェリクスのお屋敷に走ったのだった。
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