第20話 急病
時刻は夕暮れ時だが、外はまだ完全に暗くはない。私は2人を散歩に誘ってみた。
「お屋敷の回りを少し歩いてみませんか? 外の風に吹かれれば、気分転換になりますよ」
「ふむ、よいでしょう。閉じこもってばかりでは気も塞ぎますからな」
というわけで、近場を歩いている。この辺はフェリクスの警備兵が巡回しているから、治安は問題ない。
ティトにもついてきてもらいたかったが、夕食の片付けを手伝うとかで私だけで出てきた。
暮れなずむ坂道を3人で歩く。ヨハネさんは体格のいい人なので、ずんずんと進んでいる。子供の足ではついていくのが大変である。
振り返ると、ラス王子が遅れがちになっていた。
「ヨハネさん! もう少しゆっくり歩いて下さい。殿下が追いつけません」
「甘えたことを。小さくとも殿下は栄えあるシャダイの王族です。このくらいのことで音を上げるわけがない」
んなこと言ったって足の長さが物理的に違うだろうがよ!
あと王子くん5歳だぞ、もうちっといたわってやれや!
と思ったが、口には出せない。私はラス王子の隣まで戻った。
「大丈夫ですか? ゆっくりでいいので、私と一緒に行きましょうね」
「へいきです。ヨハネの言うとおりです。僕はシャダイの王族だから、もっとしっかりしなくちゃだめなんです」
そう言うけれど、口調が弱々しい。
「じゃあせめて、手をつなぎましょう。私の弟は、手をつないで歩くのが好きなんですよ」
まあアレクは私とではなく、お母さんと手をつなぐのが好きなわけだが。イカレポンチな姉だったから、警戒されていたのだ。今なら私ともつないでくれるかもしれない。里帰りしたら頼んでみよう。
ところがラス王子は私の手を取ろうとはせず、首を振った。
「だめです。シャダイの男子たるもの、よその女の人とむやみに触れ合ってはいけません」
男子ったってあんたは5歳で私は8歳じゃん。ノーカンだよ。日本の銭湯だって5才児なら女湯入ってても文句言われないだろうよ。
とっさにそう思ったけど、やっぱり口には出せない。くそ、もどかしいな。
散歩に誘ったのは失敗だったか。とりあえず適当なところで切り上げて帰ろう。
「…………」
とうとうラスの足が止まってしまった。
ふと彼の顔を見ると、顔色がかなり悪い。うつむきがちだった上に夕暮れ時で薄暗く、今まで気づかなかった。
「ラス王子」
「いきが、くるしい……」
私が声をかけるのと、彼が胸を押さえて膝をつくのは、ほとんど同時だった。
「大変! ヨハネさん、王子が!!」
大声で叫ぶ。だいぶ先に進んでいたヨハネさんが振り返り、すぐに駆け戻ってきた。
小さな王子はかなり苦しそうで、荒い息を何度も繰り返してうずくまっている。どうしていいか分からず、私は彼の背を撫でた。
「またか……」
ヨハネさんが眉を寄せて、呟く。
「また? 前にもこんな状態になったことが?」
「ええ、ユピテルまでの旅の間に何度か。かなり苦しみますが、長くは続きません。しばらくすれば落ち着きます」
そうなの? でも、こんなに苦しそうだよ?
ラス王子は小さな額に冷や汗を浮かべて、苦しそうな息をしている。かわいそうで私の胸まで苦しくなりそうだ。
……ふと思った。この症状、前世で見たことある気がする。
あれは確か、中学生の頃。全校朝礼で倒れた同級生の女の子がいた。貧血かな? って思ったら、すごく息が苦しそうでびっくりしたっけ。
先生たちがすぐ担架を持ってきて、保健室に運ばれていったけど……。
後でその子が「過呼吸だよ」と言っていたな。いろんなストレスがかかると出やすいって。
対処法はなんだっけ、紙袋に口をつけて息をする……のは、一昔前のやり方でかえってよくないんだったか。
くそ、うろ覚えだ。思い出せ。
――そうだ、息を吐くのに重点をおいてゆっくり呼吸する、だった。不安やストレスで悪化するから、なるべく優しく声をかけて。
「ちょっと待って下さい。まだ動かさないで」
ヨハネさんが王子を抱えあげようとしていたので、制止する。今、体勢を無理に変えるのも苦しいだろう。
ヨハネさんが不審そうな顔をしながら、でも手を止めた。
ラス王子の膝を立てて座らせて、そっと背中を撫でる。
「大丈夫ですよ。落ち着いて、ゆっくり息をしてね。深呼吸するみたいに、ゆっくり。吸って、ゆーっくり吐いて」
息の間隔が取りやすいように、言葉に合わせて背中を撫でる。だんだん前世の記憶を思い出してきたぞ。一回に10秒くらいかけて息をして、吸う1に対して吐く2くらいの割合がいいんだったな。
「はい、息を吐いて、吐いて。吸って……」
そんなことをしばらく繰り返していたら、徐々に呼吸が落ち着いてきた。
おお、効果あった。背中を撫でるのは一度やめて正面に回って顔色を見てみる。
と、思ったら。
「うぅ、げほっ」
咳と一緒に夕食で食べたものを戻してしまって、ちょうど前にきた私に嘔吐物がかかった。
苦しさで涙を浮かべたラス王子が、「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返す。
「大丈夫、なんでもないよ。気にしなくていいから、楽にしてね」
まあ正直言えば「うへあ」という感じだったが、そんなことも言っていられない。お屋敷はすぐそこだから、洗濯お願いしてお風呂に入ればいいや。何なら服も自分でざっと洗うし。
今度は隣に座って背中を撫でた。だんだん落ち着いてきたので、ヨハネさんに抱き上げてもらってお屋敷に戻ることにする。
口の中で祈りの言葉を呟いた後、ヨハネさんが言った。
「こうなった殿下がこんなに早く落ち着いたのは、初めてです。いつもはもっと苦しむのに……。ゼニス殿に感謝を」
「いえ、私こそ体調が悪いのに気づかず、散歩に誘ってしまって」
道すがら、そんな言葉を交わした。
移動中もラス王子の容態は悪化はせず、けれど憔悴した様子だった。
出迎えた使用人たちが何事かと驚いている。ヨハネさんはラス王子の部屋に向かい、私は服が汚れてしまったので、一度別れてお風呂に行く。服の洗濯はちょい申し訳なかったが、洗濯係の奴隷の人にお願いした。
いやはや、めちゃくちゃびっくりした。
お湯に浸かりながら、私は思った。
でも今回はたまたま過呼吸――なんか正式な病名があった気がするけど、思い出せないからこれで――の対処法でうまくいったけど、他の病気がないとも限らない。そうなったら私はお手上げである。私に医学の心得なんてないわ。
前世の中学時代を思い出して動けたので良かったというところか。またパニクってフリーズしなくてほんとよかった。あんな苦しそうな小さい子を放っておくなんて、できないよね。
さて、さっさとお湯から上がって様子を見に行こう。まだ心配だもの。落ち着いてくれるといいんだけど……。
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