雲梯

@8163

第1話

 風呂水を入れ替え、沸かして入るとピリッとした刺激を微かに感じる。水道の塩素の臭いがして、それが原因なのかと思うが、それが好きなひとも居る。一番風呂が気持ちいいのだろう、親父がそうだった。誰か先に入るともう風呂には入らないと言う。けれども祖母や母は知っているので先に入る筈はなく、遠慮なく入るのは子供で、自分の子供でも先に入られたなら嫌なのか? 訳が分からない。

 塩素の臭いが好きなのか? 親父の子供時代にプールはあったのだろうか。知らないが、僕らの頃は教師が塩素の錠剤をパラパラと投げ入れていた。すると太陽の日差しで温められ、日向の水溜まりのように冷たさを失った水が、もう一度角が立ち鋭さを取り戻す。それが好きで教師の後を追い、細かな泡を出しながら沈んで行く白い錠剤を追いかけて潜ったりしていた。

 水泳は得意だった。小学校五・六年と市の水泳大会に出されて、クロールで優勝したこともある。だから他の同級生に引け目など感じた事はないのだが、例外がいた。痩せてちっぽけな女の子、アケミだ。

 痩せて脂肪が薄く浮力が無いのか平泳ぎなど、沈んでしまって、息継ぎは亀のように首を伸ばして口を尖らせてする。もっと酷いのはクロールの息継ぎ。手も足も、速さも力強さも無いので横を向いてする息継ぎが、ほぼ真上でする事になり、しかも、ここでも沈みそうになり、口を尖らせて息をするのたが、まるで波を被った潜水艦のようで、見ちゃいられない。沈んだまま腕を伸ばすから余計に顔が隠れて苦しいのか、口は殆ど上を向いて空いている。あの、泳げない子が二・三度漕いで直ぐに立ってしまうのと同じなので、もう止めるだろうと思うが、とんでもない。それから千メートルも泳いだのだ。

 それから音だ。学校にオリンピック選手が来て泳いだ事があったのだが、クロールのバタ足の音がディーゼルエンジンの響きがあって驚いたが、アケミの足は金魚のシッポみたいに揺らいでいるだけで音はない。しかし腕は前に伸びて水に入る時にばちゃぽん゙と池に石を落としたみたいな音がする。ちゃぽん、ちゃぽんと音を出し、千メートルも泳ぐ奴は誰もいないから、広いプールに独りだけ、今にも沈みそうになりながら、顔を真っ赤にして、もう何十分も泳いでいる。先生がもう止めてもいいよ、と、言っても止めない。痩せっぽちで小っちゃくて、意地っ張りで負けず嫌い。だが、運動神経が良いとは思えない。ドッジボールや徒競走でも目立った記憶もない。しかし思い出した。雲梯だ。

 遊びにも流行り廃りがあって、その時は校庭の隅に少し畝って赤、黄、みどりと塗り分けられたウンテイが流行っていて、しかも二段飛ばしとか三段飛ばしとかの難しさを競う遊びではなく、戦争ごっこに夢中になっていたのだ。三年生か四年だったと思う。それ以上でぶら下がった覚えはない。

 二組に別れ、両方から同時にスタートし、ぶつかった所で相手の胴体に両足で絡み付き、体重を掛けて落とすのだ。蟹挟みにするので腹筋で足を上に上げた方が有利になる。それと体重が重いほど有利だ。だから真ん中でアケミと鉢合わせしたのたが、ハナから勝負にはならないと思い、可哀想なので、こちらから近づき脚を巻き付かせてやった。やはり軽いので反動をつけて上下に揺すられても何ともない。

 「諦めろ、ちっとも効かないぞ」と、言ってやった。アケミは悔しがって、より一層激しく揺すったが鉄棒も得意で握力があったので落ちない自信があった。幾らでも揺すらさせてやった。何ならアケミの全体重をぶら下げても落ちないだろうと確信した。

 ところが、何を思ったのかアケミは、それまで二つ空けていた横棒を一つ進んで近づくと、挟んだ脚に力を入れ、体を浮かすようにして腕の力を軽くすると、左手を離して脇を触り、こちょこちょと、くすぐり出した。

 まさかとは思うが、僕の弱点を知っているのか? そんな筈はない。アケミと喧嘩したことはない。姉達と争うと最後には必ず擽りが始まり、腋の下といわず足の裏から脇腹まで、くすぐられて笑いが止まらず、転げ回っで止めてくれ゙と、涙を流して懇願する羽目になる。いちど笑い出すと止まらなくなるのだ。だが此処では簡単に笑う訳には行かない。ぐっと我慢してアケミを睨み付けた。

 探るような目をして見ていたアケミだったが、少しも笑い出す素振りが無いので゙奇怪しいなぁ゙と、首を傾げて不思議がる。そこで気づいた。アケミも笑い上戸じゃないのか? きっとそうだ。逆にくすぐってやれば落ちるのではないかと思ったが、アケミの脚が絡み付いていなければ片手でもぶら下がっていられるが、離すと落ちてしまうかも知れない。だが、右利きなので、右手でなら堪えられるかも知れない。迷ったが、もう笑いの我慢も限界で、それに賭けるしかない。左手を離し、どこを擽ろうかと探すと、アケミは両足を投げ出す格好なので仰向けで、白い首が目に入り、喉仏の皮膚が柔らかそうで無防備だ。掌を上に向け、指を曲げて人差し指から順番に動かし、擽るポーズを見せてから顎に向かって腕を伸ばした。

 目の前に細かく動く指が近づいて来て、それが顎の下を狙っていると気づいたアケミは、顎を引き皺を寄せて首を縮めると、目を開き口をへの字にして白眼を剥いて睨んだ。

 思った通りだ。想像以上に嫌がっている。だが、もう少しで顎の下に触れる所で怯えたアケミが後ろにひと枡下がった。バックしたのだ。

 両手なら何でもないが、片手だとまずい、と、慌てて左手を戻して掴もうとしたが間に合わなかった。右手一本で粘ったが両足で挟まれているので引っ張られ、体が半分回っただけで落とされた。

 初めて落とされて負けた。それまでは無敵だったのに、屈辱だ。

 見上げると歯を見せてアケミが満面の笑みだ。目尻も上がり瞳が輝き上から見下している。さらに次の相手に向かって伝って行くのだが、振り向いて赤い舌を出し、アカンベーをした。


 あの時の赤い舌を思い出した。別にさして悔しかった訳ではないが、ザマヲミロと蔑まれたのは初めてだったし、最初の可哀想だと考えたのが間違いだったのかとの疑問は今も付いて回る。千メートルも泳ぐ女の子が可哀想なものか! 何と言うスタミナ。此方は千メートルも泳げないし、あんな、溺れているようなフォームでは恥ずかしくてしょうがないし、と、言い訳くらいさせて欲しい。己を全て曝け出して泳ぐなんて出来ない。が、それに圧倒されたのも間違いない。それでも、まだ、己の本心は隠して置きたかった。有るのか無いのか分からない己の本心は、どんどん深く遠くへ引っ込んで、ますます曖昧で変化して捉えがたくなるなんて知らなかったのだ。  

 

 中学でも泳がされた。バレー部なのに市の大会に引っ張り出された。多分、小学五年の学童新記録が履歴にあっての事だと思うが、練習も何もなく、いきなりのレースだ。しかも百メートル。小学新記録は二十五メートル。息継ぎは無し。ターンも無し。百は別競技に思えた。しかも午前に予選、午後に決勝と、一日に二百メートルも泳がされ戸惑った。そんなに泳いだ事はない。プールには体育の授業以外には入らない。当たり前だ。バレー部なんだから。

 それでも3位。銅メダル。面目は保ったと考え、戸惑いは無くなりホッとしたが、幼馴染みのマモルは平泳ぎで優勝。ところが、此方は勝っても戸惑ったのだろう、キョトンとしていた。

 マモルの相手は市内の別の中学の生徒で、何処かの水泳教室に通っているらしい。ハナから相手にならない。まるで大人の水泳選手のようなピッチ泳法で、マモルがひと掻きする内に二・三掻きはする。息継ぎで顔を出すと白い波が盛り上がってザワザワと音がするようで、力強い。

 一方のマモルは音も波も無い。静かに伸びるだけだ。それはもう惚れ惚れするように滑らかな泳ぎなんだが、何せ相手が悪かった。陸上で言うなら百メートルの選手と四百、八百の選手が一緒に走るようなもので、勝負にはならない。マモルも直ぐに追うのを諦め、流しているのが判った。ところが、七十五メートルで異変が起きた。ターンする筈の先頭がプールの壁を掴んだまま動かないのだ。どうしたかと見ると、顔を赤くして肩で息をしている。スタミナが切れたのだ。二位のマモルはまだ五十のターンを終えたばかりで、ゆっくり泳いでも勝てる距離だ。だが、後ろも振り返らず頭も上げない。肩の上下に連れでハァハァ゙と、呼吸音が聞こえて来る。そんなに急いで泳がなくても楽に勝てるのにと思うのだが、何を考えているのか解らない。ただ、懸命に泳いだのは分かる。自分の全てを出して泳いだのだ。ひょっとしたら、こいつも百メートルを二回も泳ぐのは初めてなのかも知れない。そうも考えたが、そうすると水泳教室の話しは嘘なのか? そうも考えた。

 止まっている相手を見てマモルは一瞬、不思議そうな顔をしたが、取り敢えずピッチを上げ、出来るだけ追い付こうと考え、それでも相手が泳ぎ出さないので、何があったのかと相手を凝視しつつ近づき、最後のターンする時にはスタミナ切れを確信したのか、それでも壁に張り付いている相手を二度も振り返って眺め、自分の幸運を喜ぶべきか相手の不運を嘆くべきなのかを分からないままゴールした。

 相手の男はマモルがゴールしてから、やっと泳ぎ出してゴール。それでも楽々の二位で、二人の泳ぎが如何に速かったのかが分かるが、こんな、アケミの逆のような事が起こるなんて信じられないが、こちらも自分を曝け出した事象に違いない。

 午前に百メートル、午後も百メートルと言ったが、加えてリレーも泳いだ。これも予選、決勝とあり、合計は四百メートル泳ぐ事にになる。だから最後のリレーでは、もう、くたくたに疲れて力も入らない。中学生になったと言っても、つい数ヶ月前は六年生だ。そんなに早く背も伸びないし大きくはならない。まだ泳ぐのかと、うんざりして、リレーの前には闘争心も失せ、アンカーを任されたのだが、ラストスパートする気力がなかった。それでも持ちタイムは良く、五コースで優勝候補のひとつだ。四コースと接戦になったら、とても勝つ自信はない。と言うより、やりたくはない。そんな準備はしてないのだ。集まってリレーの練習すらしてない。他の皆は個人で泳いだのかも知れないが、学校からの連絡は何もなく、練習も打ち合わせも必要のない練習試合なのかと思っていたら、リレーのメンバー表には名前があり、おかげで四百メートルも泳ぐ事になったのだ。

 訊いてみたら練習したのは前日に泳いだマモルだけ、しかも家族と行ったマンモスプール。後は誰も泳いでいなかった。それでも決勝進出。しかも水泳部なんてない! 第一泳者のマモルはバスケ部、次のヒデは野球部、第三泳者のマサミチはテニス部。前の二人は小学校が同じ。それだけではない。家も近く、幼馴染みだ。一緒に遊んで育った仲だ。そして小学校では競いあって泳いだライバルでもあり、実力は知っていた。夏休みは、学校のプールで終日遊んで、特に雨の日などは泳ぐ人が居ないのでほぼ独占状態。プール全部が遊び場。飛び込みも一回転したり走って来てバク宙をして派手に飛び込んだり、中でも鬼ごっこは面白かった。四・五人でプールを駆け回るのだ。泳いで走って、まるでトライアスロンだ。だから、へばっても泳げないとか走れなくなる事はない。けれども、マサミチは違う。我々田舎者と異なり、都市部の商店の子供だ。しかも体が大きく、太っていた。だから浮力が大きいのだろう、バシャバシャと豪快に泳いだ。だが、器用ではない。力を加減して遅く泳いだり目一杯速く泳いだり、そんな遊びが出来ないのだ。だからマサミチもスタミナが切れた。プールの真ん中で止まり、顔を真っ赤にして水の中で足を着き、口で息をしていた。左手で顔を拭いキョロキョロと辺りを見回して自分の位置を確認したのか、このままレースを止めるのか又泳ぐのか決めかねているようだった。

 「ゆっくりでいい!」

 「焦るな!」

 スタート台の上で待っていたが、低く屈んでマサミチの視野に入るようにして叫んでいた。顔がまだ赤い。もう一度泳ぐのは未だ早い。

 「深呼吸しろ!」また叫んだ。今度はマサミチと視線が合い、理解したのか二回連続して胸を膨らませて息を吸い、吐いた。

 「ゆっくりでいい!」

 「ゆっくり来い!」

 そう言うと、マサミチは両腕を前に揃えて構え、バタアシをして泳ぎ出したが直ぐに又立ち止まって足を着き、口で息をした。だが顔は赤くない。もう目は動かさずに焦点はスタート台を見据えている。もう一度構えバタアシをして数メートル進み、それを繰り返して壁にタッチをして辿り着いた。もうクロールの腕を漕ぐ事すら出来なかったのだ。

 タッチしたマサミチの頭の上を飛び越えてスタートしたのだが、腕を伸ばして飛んでいる間、目はマサミチの顔を追っていて、疲れ切った顔で俯いていたのが、ぐるりと首を回して振り向くのを確認した。待ち焦がれて慌てて飛び込んだ風を装い、まるで正義の味方が颯爽と現れたような感じだな、と、不思議な高揚感を頭に思い浮かべて泳ぎ出した。力が抜けたのだ。もうヒリヒリするような競り合いも無いし、勝たなければと言うプレッシャーも無い。疲れ果てて失った闘争心も関係ない。全てマサミチが背負ってくれた。あのまま、普通にタッチしていたなら、自分がスタミナ切れに陥り、アンカーなのに試合放棄にしていたのかも知れない。だが、そんな、本当の事は言えない。窮地の友を励まし、諦めるのを翻意させて懸命に泳ぐ゙良い子ちゃん゙なのだ。そんな立ち位置を自覚しながら、力の抜けた綺麗なフォームで、最下位だったのに、最後はひとつ抜いて七位でゴールを成し遂げたアンカーだ。そして、自分を曝け出して何かをするのは、もっと後になりそうだ。 了

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