時空超常奇譚4其ノ壱〇. 超短戯話/真夜中の悪魔

銀河自衛隊《ヒロカワマモル》

時空超常奇譚4其ノ壱〇. 超短戯話/真夜中の悪魔

超短戯話/真夜中の悪魔

 誰にでも不思議な体験の一つや二つは少なからずあるに違いないが、殆どは夢や錯視など、つまりは気のせいや見間違いであったりする。

 無秩序な視覚情報が、精神的な状態によって脳内で意識的既知プロセスに処理される事で起こるパレイドリアなどの心理現象はその典型的な例である。


 村上加奈子は5歳の頃に山で死に掛けた事がある。それは、恐怖と安堵の入り混じった不思議な経験だった。

 両親と山登りに行った加奈子は、舗装されていない泥濘ぬかるんだ道端に足を取られて斜面を滑り落ちた。母親が一瞬目を離した隙の出来事だった。可奈子は転がった後、岩場を掴もうと藻掻きながら谷底へと引きずり込まれた。

 薄くなっていく意識の中で右手を出すと、運良く途中に突き出た枯れ木を掴む事が出来た。崖の上で父親の叫ぶ声と母親の悲鳴が聞こえている。

 かなりの急斜面の崖で身体を右手だけで支えている状況だ。父親と母親がが崖を降りようとして止められている。

「今直ぐ救急車が来るから、それまで頑張れ」と見知らぬ人の叫ぶ声がした。

 5歳の加奈子がこの状況にそれ程長い時間耐えられる筈はない。突き出た枯れ木を掴んでいる事が既に奇跡的であり、谷底へと真っ逆さまに落ちて行くのも時間の問題だ。加奈子は遠退く意識の中に湧き上がって来る恐怖に声も出ない。

 加奈子の右手の握力が限界を超えた。被っていたピンクの帽子が風に吹かれて谷底へ飛んで行った。

 もう駄目……と思った瞬間、空中から何かが出現した。それが何なのか、加奈子にはわからない。自分の右手の上に、誰かの人差し指が出た次の瞬間にそれは手に変わり腕の形になった。その手は躊躇する素振りもなく加奈子の手を握り締めた。その手は柔らかく温かい。

 それから暫くして消防隊が到着し、加奈子の身体を崖の上へと引っ張り上げた。


 不思議な体験ではあったが、その手は少しも怖くなく、今でもその手の温もりを覚えている。あれは誰の手だったのか、或いは夢だったのか、幻だったのか、神の救いだったのか。

 幼い頃の思い出は、当然の如くいつしか記憶の混濁によって都合の良いストーリーに変化していく。だから、いつの頃からかそれは夢だったのだと思うようになった。

 その後にその手が現れた事はなく、時の流れによって曖昧なままで遠い過去へと消えていった。


 その後、加奈子は特に何事もなく大学を卒業して就職し、社内結婚をして二人の子供を授かった。今は平々凡々な毎日で、先日念願だったマンションも購入した。

 最近のマンションは良く出来ている。ファミリータイプの部屋になると目玉が飛び出るかと思うくらいに高額だが、その替わりに設備としてはあれもこれも当たり前のように設置されている。洗面台の鏡が一面ではなく三面鏡であるのも標準だ。


 快適なマンションライフなのだが、一つだけ大きな問題がある。引っ越して来て以来、不思議な夢を見続けているのだ。

 その原因が何なのか、マンション自体に問題があるのか、それとも加奈子自身に何らかの精神的な変帳のせいなのか、理由はさっぱりわからない。

 小さな女の子が泣きながら、こちらをじっと見つめて何かを言っている。怖いというのとは違う感覚で、目覚めた後も嫌な感じではないがスッキリもしない。

 今日もその夢を見て深夜に目覚めてしまった。時計の針は午前2時をを指している。トイレに行って洗面所で手を洗いながら、意味もなく三面鏡を合わせ鏡にした。

 合わせ鏡を見ていると都市伝説を思い出した。午前2時に合わせ鏡を見ると、時空間が歪んで悪魔が走り抜けるのだったか。詳しい内容は思い出せないし、都市伝説が現実に起こる事もあり得ない。

「何も起こる訳ないか……」

 そう思った時、鏡の奥に何か黒い影が動いた。 

「あれは何?」

 黒い霧のような塊が遥か向こうから合わせ鏡を渡って来るように見える。その黒い塊が一体何なのかは皆目見当がつかないが、確実に加奈子に向かって来ているのだけはわかる。

 お化け……妖怪……違う、都市伝説の悪魔だ。即刻この場を離れるべきなのだろうか、身体は金縛りで動かない。夫を呼ぼうにも声が出ない。

 間違いない、悪魔だ……新築のマンションに魔方陣なしに悪魔が出現するのか。土地が呪われていたのか、駄目だ……喰われる。

「わぁ」と一瞬だけ声が出た途端に、黒い霧状の塊は加奈子の目の前にまで来て動かなくなった。きっとその中から悪魔がその恐ろしい姿を見せるに違いない。これは現実なのだろうか、それとも寝ぼけているのだろうか。


 黒い霧状の塊が揺れた。すると、黒い霧は半透明に変わり、薄ぼんやりしたその中にヒトの形が見えた。やはり悪魔だ、そう確信して凝視すると、ピンクの帽子の小さな女の子が、こちらに右手を伸ばしつつ泣いている。加奈子はそれが夢の女の子だと直感した。

 いや、例えそれが異形な悪魔や化け物でなく小さな女の子だとしても、いきなり鏡にそんな光景が映っているのだ。どう考えてもとんでもない状況である事に変わりはない。


 加奈子は再び目を凝らした。能々よくよくその光景を見ると、そのシチュエーションが理解出来た。それは、鏡の中にいる小さな女の子が枯木に掴まり、今にも崖から落ちそうになっている鮮明な映像なのだ。女の子のピンクの帽子が風に吹かれて谷底へ飛んで行った。

 ちょっと待て。それが恐怖の映像だとしても、目の前の女の子の生死が掛かっているのならば悲鳴など上げている場合ではない。そんな強い思いが込み上げてくる。

 加奈子は鏡に向かって腕を伸ばし、躊躇する事もなく女の子の手を握り締める。映像の筈なのに、その手は柔らかく人肌の温かさがある。女の子の手の温もりを感じたところで映像は消えた。その感触は余りにも現実的で、とても幻とは思えなかった。


 翌朝、洗面所で鏡を見ていた加奈子の脳裏に、昨夜のあの映像の女の子は果たして救かったのだろうかと、疑問が湧いた。そして同時に「大丈夫、きっと大丈夫・」と加奈子は呟いた。

 昨夜の鏡の中の映像が夢だったのは言を俟たないだろうが、女の子は無事に救助されたに違いない。そして間違いなく今でも元気だ、そんな気がした。





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