海月の骨は闇夜の煌めき

@koekubo

第1話


 それは僕がまだ、水槽の中の海月だった頃の話だ。ずっと水に揺蕩いながら、無気力に水槽の外の世界を眺めていた。何にも心を動かされず、日々をやり過ごしていた。

 だけどあの日キララを見つけて、どうしても連れて帰りたい強い衝動に駆られた。冬の訪れを告げるような、冷え切った晩秋の夜だった。降りしきる雨と夜の暗がりの中、微笑を湛える彼女の眼光が僕を捉えてやまなかった。

 積み上げられたガラクタの山から彼女を拾い上げ、近くで見るとより端正な顔を手袋で丁寧に拭った。

「ごめん。ハンカチ持ってなくて」そう呟くと、彼女の表情が心なしか柔和になったように見えた。

 マンションに帰ると親父は気持ちよさそうにいびきをかいてリビングのソファーで眠っていて、テーブルの上には空き缶が増えていた。親父は仕事の後毎日スナックや居酒屋で酔っ払って深夜に帰ってくるが、そんな時に反抗的な態度をとると、大抵殴られる。そんな時僕はいつも家を逃げ出して夜の街に散歩に出かけた。そして帰ってくると、奴はいつも酔っ払って夢の中にいた。それを見ても怒りのような感情すら湧いてこなかった。この無気力な性格もあるだろうが、それ以上に、変わりようもなくこうして生きていくしかない無様な生き物に虚しさを感じていたのだ。

 とにかく親父が寝ているのは好都合だった。懐に隠し持っていた彼女を取り出し、洗面所で衣服を脱がせると、身体や髪の毛をぬるま湯で丁寧に洗った。ドライヤーで髪の毛を乾かし、親父がどこかのホテルで持ち帰ってきたのであろう櫛で梳いた。衣服も丹念に洗ったが染みが取れず、仕方がないのでドライヤーで乾かし、彼女に着せた。

 女児向けの人形の一種だろうということは分かるが、西洋風の型ではなく、栗色の髪の毛と黒い瞳が、どこかアジアンチックな雰囲気を醸し出している。髪の毛を撫でると、本物の人の髪の毛のように柔らかかった。

「とても綺麗だよ」

 そう語りかけると彼女は微笑んだ。もともとそういう表情に作られていることは分かっているのだが、僕だけに向けられている微笑みのような気がして、僕はとても満足した。


 翌日、学校をサボって人形を懐に抱えて家電量販店に向かった。もともと親父に殴られた次の日は学校をサボっていた。少し時間を置いてクールダウンしないと、学校で和やかに青春を謳歌しているように見える皆と自分の置かれた境遇が乖離していて、居た堪れなくなるからだ。

 店に着いて玩具売り場で目当ての物を探し歩いていると、暖房でじわじわと暑くなりジャケットを脱いだ。すると、後ろから母親に手を引かれた幼い女の子に呼び止められた。

「これ、落としたよ。お兄ちゃんのお人形さんでしょ?」

 背中に冷や汗が流れる。

「あ、うん……。それ、親戚の女の子のもので、洋服の替えを買うように頼まれてるんだ……」

「ふぅーん。それなら、こっちにいっぱいあるよ」

 女の子に導かれるままについて行くと、沢山の着せ替え用の服が並べられていた。

「どうもありがとう。親戚の子も喜ぶよ」とお礼を言って、去って行く親子に手を振った。

 全くもって僕って奴は、いつも傍観者のように周囲の人間を眺め回しているくせに、周りの目が身に刺さるほどに気になってしまうのだから嫌になる。

 何はともあれ、目の前に並ぶ彼女の新しい服を見ていると、とてもウキウキした。そんな浮かれた言葉を身体感覚として感じたことは初めてだった。


 家に帰って早速洋服のセットを開けた。アメリカンなティーシャツとショートパンツ、ミニスカート、ワンピースなどがとりどり五着。カジュアルなティーシャツとミニスカートを選んで、汚れた衣服から新しい洋服に着せ替えた。アメリカの青春テレビドラマにでも出てきそうなキュートさにしばし見惚れる。

 机に彼女を置き、頬杖をついてしばらく彼女の過去に想いを巡らせていた。

「君の前の持ち主は、もう大人になっちゃったのかな。それでずっと物置にしまわれていたけど、いよいよ引越しかなんかであそこに棄てられてしまった。違う?」

 彼女の微笑は超然としている。

「僕も、母親に棄てられたんだよ。僕が小さい頃に男を作って家を出て行ったって親父は言ってたけど。そりゃあんな飲んだくれの暴力男、誰だって愛想つかせるさ」

 でも……、なんで一緒に連れて行ってくれなかったんだ。という問いは、呪いみたいにこの胸に沈殿する。僕が四歳くらいの時に母は家を出て行ってそれきり行方知れずだからもう面影は残っていないが、それなりに可愛がってもらった記憶はぼんやりとある。だから、見捨てられたという悲しみは、この身と心に深く刻み込まれた。結局僕は母にとっても邪魔な存在だったってことだ。

「自分を卑下しないことよ。何もかも、あなたのせいじゃない」

「……うん。……ほえ?」

 声が聞こえたような気がして顔を上げて人形を見た。昨日親父に殴られた場所が、打ち所が悪かったのだろうか。まさか、幻聴まで聞こえるようになるなんて。ため息をついて立ち上がり、振り返ると僕は仰天して叫びながらひっくり返り、腰を強打した。

 そこにいたのは、今しがた着せ替えた机の上の人形……の等身大の女の子だった。僕のベッドに座ってキラキラとした瞳をこちらに向けて……。

「……って、あ、あ、あい、あいひぇあい……!!!」

 あり得ない、と発っしたはずだが、あまりの出来事に呂律も回らなかったんだ。

「私だって、まさかまたこの世界に召喚されるとは思ってもみなかった。しかも、あなたみたいに大きい男の子に」

 僕は目をゴシゴシ擦ったり頬をつねったり叩いたり、ぐるぐる回ったり飛び跳ねてみたり、思いつく限りのことをして夢から覚めようとしたが、どうやら眠っているわけでもないらしかった。

「あの〜、ちょっと理解が追いつかないんだけど……、君は、この人形の子、だよね?」

 僕は机の上の人形を彼女の目の前に差し出した。

「そうよ。新しい服、ありがとう。気に入ったわ」

「え?あ、うん……」

 久しぶりに面と向かってありがとう、などと言われて僕は恥ずかしくなって頭を掻いた。しかも彼女のにっこりと笑う素敵な笑顔に胸の辺りがぞわぞわとくすぐったくなる。それはそうと、この状況を一旦整理しようと試みた。

「あのさ、君、幻だよね?あの人形に取り付いてる幽霊か何かなの?」

「幻っちゃ幻だけど、あなたに取っては真実よ」

 いまいちピンとこなくて首を傾げた。

「うーんと、ちょっと言ってることが分からないんだけど……」

「子どもは自分の内面の世界と現実の世界をごちゃ混ぜにして表現するけど、子どもたちにとってはどちらも紛れもない真実なの。そうやって私たち人形は息吹を与えられてその子の前に姿を現すんだけど……」

「それじゃ僕がまるで、幼い子どもと一緒みたいじゃないか」

 すると彼女はくすくすと悪戯っぽい視線を向けて笑い出した。

「内心、子どもみたいにウキウキしてはしゃいでたくせに」

「う、うるさいな!」

 納得できるような出来ないような話だが、深く考えることはやめた。いま、目の前に彼女がいる。それが僕にとって神様に投げキスしたいくらいにありがたい現実だった。

「君、名前はあるの?」

「昔はキララって呼ばれてたけど」

「キ、キララ……?」

 小さい女の子がつけたのであろうキラキラした名前だが、他に思いつきもしないし、元の名前を変えるのも忍びないので僕もそう呼ばせてもらうことにした。

「これからしばらくよろしくね」

 キララがウインクをして手を差し出すので、初めて握る女の子の手にドギマギしながら恐る恐る握手をした。その手はすべすべとして柔らかく、心の中までほんのりと温かく包み込んだ。

 キララが現れてからというもの、僕の世界はいっぺんに色づき出した。彼女は朝起きると毎日人形の洋服を着せ替えさせたり、学校から帰ってくるなり、恵介(僕の名前だ)と部屋にいるだけじゃ退屈だから散歩に連れて行けと言ったり。

「この格好じゃ季節外れだから冬用のコートが欲しい」と言ったりして、冬服を買いにまた玩具売り場に足を運ぶ羽目になったりもした。

 散歩をしていると、最初は人が通るたびに人形を焦って隠して、キララに白い目で見られたものだが段々と慣れてくると人目がどうでもよくなってきた。公園の池の前のベンチがキララのお気に入りで僕らはよくそこで日向ぼっこをした。


 その間も学校という場所は僕にとっては相変わらず現実感がなかった。あまり人に関わらないようにしているから友達もほとんどいないが、だからといってそんな僕をいちいち揶揄ってくるような意地悪な奴もいない。皆内面には色々抱えているものもあるのかもしれないが、部活やら恋愛やら、それぞれの青春を謳歌しているように見えた。

 家庭環境のせいか生まれ持った性分かは分からないが、僕はどうしてもそこに溶け込むことができない。やはり海月のように水槽の水の中で、ただ学校という外の世界を傍観していた。寂しくない、と言えば嘘になるが、でも、人間関係を築こうとすればするほど、空回ってしまうのは目に見えていた。そうしている方が僕にとってはずっと楽だった。

 休憩時間に席に座って今日はキララとどこを散歩しよう、などと思い巡らしていると、一つ席を挟んだ隣からクラスメートの声が耳に入ってきた。

「……もうクリスマスだってのに、ほんと俺らしけてんよな〜。彼女ってどうやって作るんだろうな?俺は誰でもいいんだけどさ、誰も俺の相手してくれないんだけど」

「バーカ、そもそも誰でもいいってのが悪いんだよ」

 クリスマス、という言葉に反応して僕はそちらに顔を向けてしまっていた。それに気づいたそのうちの一人は「おーい、お前も人並みに青春を謳歌しろよ〜!高校生活は今しかないんだからな!」とお節介を言いながら笑って、また元どおりだべりはじめた。

 それにしても、クリスマスか。毎年自分とは縁のない行事であるため全く意識の片隅にもなかったが、今年はキララがいる。何かプレゼントでも買った方がいいだろうか。夜は二人でささやかにケーキでも囲んで……、考えるだけでも心が弾んだ。顔がにやけるのを堪えきれず、授業が始まるまで机に突っ伏していた。

 学校から帰ると、キララに早速何か欲しいものはないかと尋ねてみた。

「クリスマスかぁ。昔はよく子どもたちが集まってパーティとかしてたっけ。懐かしいなぁ」

「それで、プレゼントは何か欲しいものある?」

「そうね……たまには髪の毛も巻いたりしてお洒落したいかな」

「巻くって、どうやって?」

「人形用カーラーとか、売ってるでしょ?」

 そんなわけでクリスマスイブの当日に例の家電量販店でカーラーを購入し、ショートケーキ二切れを購入した。プレゼントは夕飯後に渡そうと思っていたが、キララが早く巻いてみたいと言うので、仕方なく帰ってすぐに開けて試してみた。

 慣れない手つきで人形の髪にカーラーを当てて、キララを見て絶句した。

「どれどれ?」

 キララが鏡を覗くと、怒りでわなわなと手が震えているのが分かる。

「どうしたらこんなライオンのタテガミが爆発したみたいになるの!?洗ってやり直して!」

 その後僕は何度もやり直しを命じられて、ようやくカーラーのコツを掴んだ。

 夕飯はケンタッキーを買って、シチューを作った。ちなみにご飯は親父は作らないし家ではほとんど食べないので、いつも自炊するかレトルトやら冷凍食品で済ませたりしていた。

「髪の毛巻くと、少し雰囲気変わるんだね。大人っぽい」

 僕がそう言うと、キララは少し唇を尖らせて頬を赤らめた。

「だって、細やかなパーティでしょ?ちょっとくらいお洒落したいもん」

 それで帰ってすぐに開けたいと言ったのか、と合点がいった。それにしても、その照れたような表情があまりにもキュートで、僕は悶絶してしばらくの間息もできないくらいだった。

 食後、キララの提案で机に蝋燭を立てて、ケーキを並べる。蝋燭の灯りが静かに部屋を照らすと、何か温かくて切ないような気持ちがとろりと僕の胸を満たした。

「幸せって、こんな気持ちかな」

「そう思うなら、そうなんじゃない?」

「君に会ってから、初めての気持ちがどんどん湧いてくる。僕にもこういう感情があったんだって」

「それは人形冥利に尽きるわね。人間の心の成長の一端を担うのが私たち人形の役割でもあるわけだし?」

「それは、幼い子どもの話だろ」

 僕が反論すると、キララは「あんまり変わらないんじゃない?」と、ふふっと意地悪そうに笑った。その表情は僕の胸をきゅっと握った。完璧だと思った。今僕は完璧な幸せの中にいる。そう思うと、今度は途端に、海に流れ出る石油みたいな真っ黒い恐怖が押し寄せてきた。

「……こんな幸せなんて、僕は欲しくなかった」

「は?」

 突然何言い出すの?と言いたげにキララは訝しげに首を捻った。

「君は、しばらくよろしくねって言ったけど、それって、いつか僕にも君のことが見えなくなっちゃうってことだろ?」

 その言葉に、キララはあぁ、と小さく肩をすくめると、慰めるように言った。

「子どもが人形とかぬいぐるみ離れする時ってね、精神的な自立を意味するんだって。私だって寂しいけど、それって喜ばしいことじゃない?それに、思い出は残るんだし」

「思い出なんかいらない。悲しくなるだけだ」

 僕は言葉に詰まって下を向いた。キララは呆れたようにため息をつくと、そんな僕の両頬をバシッと掴んで無理やり顔を持ち上げた。

「大丈夫だよ。恵介が心を惹かれるものは、私以外にもきっとある」

 思わず赤面して顔を逸らした。

「そんなこと、今までほとんどなかったのに?」

「意識的に抑えてただけだよ、きっと。来て!私が解放してあげる」

 そう言うとキララは僕の腕を掴んで部屋へ引きずっていった。

 解放って……え?え?えー!?僕の脳内は妄想が暴走して、今にも頭から湯気が噴き出るかと思ったが、キララは僕のダウンジャケットを掴むと玄関へ僕を連れ出した。

「今からいつもの公園行こ。夜はイルミネーションがすっごく綺麗だって、この前通りすがりの人が言ってた」

「えー……」

 なんだ、そんなことか……とがっくりと肩を落としていると、キララは白い目で僕を睨みつけた。

「何、ガッカリしてるの……?変な妄想はやめてくれる?穴があったら突き落としてるところよ」

「……僕も、穴があったら奈落の底まで突き落とされたい気分だよ……」

 公園に着くと、クリスマスイブなだけにカップルが溢れていた。その中をキララと歩いた。植え込みも控えめな光で丁寧に彩られていて、歩いていくと中心部に大きなクリスマスツリーが出現して、夜の澄んだ空気の中で淡い光を散らしていた。人は沢山いるはずなのに、とても静かだった。

「確かに、綺麗だね」

 ほらね、と笑うキララの笑顔がそこにあって、また胸がきゅっと切なくなった。キララには気付かれないように、腕を組むふりをして、懐の人形を抱きしめた。

 

 夜分に警察から電話がかかってきたのは、年が明けて何週間か経った頃だったと思う。高校二年生を目前にして、僕は徐々に進路というやつに向き合わざるを得なくなっていたが、そのちょっとした事件が僕をより一層強く突き動かした。

 警察からの電話の内容によると、酔っ払って歩いていた親父が傘を振り回して、通りすがった女子大生の自転車にぶつかって転倒させたとのことだった。道路で揉めているところを交番に連れて行かれたという。僕は心臓の動悸を抑えて、ダウンジャケットを引っ提げて慌てて交番へ向かった。

 帰り道、僕と親父は何も言葉を交わさずに歩いた。交番に迎えに行った時、女子大生とその両親に睨まれて背中を丸めている親父の後ろ姿を見て悲しいほどに情けなくなった。僕はその場にいる全員に、ひたすらに頭を下げた。女子大生と両親もそんな僕を見て哀れに思ったのか、そんなに大事ないと思うし念のため病院に診てもらう医療費と自転車の整備代を出すということで話がついた。女子大生は、親父の謝らない態度にこちらも頭にきたけど、あなたの誠実な態度に免じて許す、と僕に向かって言った。

 言ってやりたいことは山ほどあるのに、真っ暗な寒い道を、親父のよれた背中を睨みながらただひたすらに歩いた。

 家に着くと、親父は信じられないことに真っ直ぐにキッチンに向かい、冷蔵庫からビールを取り出しグビグビと飲み干した。次の缶に手を伸ばすのを見て僕は頭に血が上ってその手を押さえつけた。

「クソジジイッ!!!人に迷惑ばっかかけておいて、反省もできないのかよ!!」

 こちらを見る目が据わって充血している。親父は僕の手を振り解くと「お前、親に向かって何様だ!」とものすごい力で僕の胸ぐらを掴むと拳を振り上げた。

 来る……!いつもならここで足がすくんで反射的に目を瞑って歯を噛み締める僕であったが、その日は無我夢中で全力で親父に向かって突進していた。男二人揉み合いながらリビングの床に倒れ込み、気がついたら親父に馬乗りになり右手を振り上げていた。僕は我に返ってぶるぶると震えている右手を下げた。そして呆気に取られて呆然としている親父の手を引っ張って起こすと、ソファに座らせた。

「親父……僕はもう、子どもじゃないんだよ」

 震える声で独り言のようにそう呟くと、これまた震える脚をどうにかしてひきづりながら部屋に引き返した。背後からは、親父が押し殺したように啜り泣く声が聞こえて、それは殴られた時よりも僕をひどく滅入らせた。


「恵介にしては、上出来じゃない。『もう子どもじゃないんだよ』って、カッコよかったよ」

 部屋に入ってベッドに倒れ込むと、キララが囃し立てるように言った。僕は一連の出来事で疲労困憊していて、何も言い返すことが出来ずに枕に顔を埋めていた。すると、キララがベッドに腰をかけて僕の背中に手を当てた。

「ねぇ、着替えた方がいいわ。汗でぐっしょりじゃない。風邪引いちゃう」

 確かにトレーナーの下のシャツが汗で濡れて、ぺったりと背中に張り付いている。ずんと重い身体をなんとか起こし、ベッドの下の引き出しからシャツを引っ張り出して、着替えを終えるとキララの隣に腰をかけた。

「親父のあんな姿、見たくなかった」

「あんな姿って、泣いてたこと?」

 黙って頷くと、キララは首を捻った。

「どうして?あんなに痛ぶられてきたのに?」

 僕にも分からなかった。親父のことを許せない気持ちは変わらないはずなのに、今、親父にひどく同情してしまっている。

 横暴で気に入らないことがあると暴力を振るうどうしようもない憐れな男。そう片付けて蔑んでいられれば楽だったのに。もしかしたらずっと、自分で制御出来ない自分を抱えて苦悶してきたのか?それを抱えきれず酒に溺れていたのか?そうして悪循環を繰り返して……。親父の色々な像が立ち現れてきて、僕はますます混乱してしまった。

 キララは項垂れる僕の背中に手を回すと、優しく抱きしめた。

「あなたはとても優しい人ね。でも、あなたのお父さんが抱えている問題は、あなたのせいじゃない。私はやっぱり、あなたのお父さんを許せない」

 僕の頭の中の混乱を鎮めるようにキララは囁いた。すると身体中の力が抜けて、キララに抱かれたままベッドに倒れ込み、そのまま彼女の腕の中で泥のように眠った。

 朝方ベッドの中で目を覚ますと、隣にはキララが眠っていた。キララは細く目を開けると、おはようと囁いた。

「昨日はありがとう。おかげでなんか、すっきりしたよ」

 キララは優しく微笑んで頷いた。

「実は、ちょっと前から考えてたんだけど、アルバイトしようかと思って。高校卒業したらこの家も出たいし、大学に行く費用も、貯めないといけないから」

 そっか、とキララはにっこりと笑った。

「恵介、ちょっと大人になったみたい。最初は、なんだか情けないなぁって思ったけど」

「もしそうだとしたら、キララのおかげだと思う」

「まぁね。言ったでしょ?人間の心の成長の一端を担うのが私たち人形の役割でもあるって」

「だから、子どもと一緒にするなって」

「そうだね。言う事何でも聞いてくれるしね」

「あのさ、下僕じゃないんだから」

 そう反論すると、キララはぷっと吹き出して、僕もつられて笑ってしまった。僕らはなんだか可笑しくなって、部屋が朝の光で充満するまで、おでこを付けてくすくすと笑い合った。


 それからしばらくして、親父が素面の時を見計らって僕はコンビニのアルバイトの契約書を差し出した。

「バイトしてお金貯めて、大学行く。それで、高校卒業したら家を出る」

 多分返事をしたのだと思うが、親父は低く呻いて、契約者の保護者欄にサインすると、ガサガサとリビングの棚を漁り一枚の紙切れを差し出した。それは学習保険の契約書だった。契約内容を見ると、満期で二百万円おりるようだ。大学の費用としてはちっとも足りないが、入学金と最初の年の学費くらいにはなるだろうか。

 それにしても、飲んだくれる傍らこんな風にお金を積み立てていたとは意外だった。毒親というのは生まれ持った入れ墨のようなものだなと思う。この身寄りのない男を見捨てられない僕は、結局墓場まで見送ってやるしかないのだから。

 アルバイト初日、部屋で制服のシャツを着てみるとキララは「なんだか子どもが大人の服着て背伸びしてるみたい」と僕を揶揄った。

「うるさいなぁ。すぐに慣れるさ」

 そう言い返して出掛けたが、帰るとキララの姿はなかった。おかしいなとは思ったのだけど、それ以上に慣れないアルバイトにとても疲れていて、インスタントラーメンを掻き込んで風呂に入ってすぐに寝てしまった。

 僕はその後もできる限りコンビニのシフトに入り、バイトの無い放課後は図書館や家で受験勉強をするようになった。

 今思えば、ずっと水槽の中で外界を眺めて漂っていただけの海月だったはずの僕は、いつの間にか否応なしに水槽の淵に足を踏み出していた。

 人形はその間ずっと僕の机の上に置いていたが、あれ以降キララが姿を現すことはなかった。そして僕は、それに気づかぬように勉強とアルバイトに明け暮れた。




「恵介くん、お疲れ様。あとは私が一人でやるから、もう大丈夫だよ」

 店長は僕の肩を叩いた。

 クリスマスイブの日、学校が終わってから僕は店頭でのケーキの販売で、夜遅くまでアルバイトに従事していた。仕事上がりに店長は心ばかりにとホールケーキを待たせようとしてくれたが、一人では食べ切れないからと断ると、それじゃあ、と一切れ分のケーキをくれた。

 家に帰るといつものように親父はまだ帰っていなくて、レトルトのカレーで晩御飯を済ませた。ケーキをテーブルに出すと、なぜか唐突に思い立って、部屋から人形を持ちだしテーブルに座らせ、去年と同じ蝋燭に火を付けた。

 部屋がぼんやりとした明かりで照らされると、僕は久しく呼んでいなかったその名を呟いていた。

「キララ」

 そう口にすると、同時に喉元に熱い塊が込み上げてきて、堰が切れたように、涙が溢れ出した。

 次から次へとキララとの思い出が蘇ってきた。ただただ、キララの笑顔が、たまらなく恋しかった。

 ダイニングテーブルからようやく顔を上げ、身体も脳も疲れ切っていた中、自然と足が向かった先は、一年前にキララと歩いた公園だった。イルミネーションはその日も同じように灯っていた。

 暗闇に淡々と浮かぶ大きなクリスマスツリーの控えめな光は、去年と同じように、やはり美しいと思えた。

 ありがとう、キララ。懐の人形にそう呟くと、僕の胸の奥にぽっと、暖かく凛とした小さな光が灯った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

海月の骨は闇夜の煌めき @koekubo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ