第10話 かりそめの
始まりは一冊の日記を手にしたことだった。
それは私の人生を一変した。
日記を持つ手は震え、読み終える頃私は激しい嫌悪感に吐き気を覚え、それを懸命に堪えていた。でも堪えきれずその場に吐いた。
涙と吐瀉物と鼻水で私の顔は汚れ、場は異臭に満ちている。
私はしばし呆然としてから、やがて声を殺して泣きはじめた。
泣いて泣いて泣いて泣いて、涙が尽きるまで延々と泣き続けて、そしてついに涙が費えた時に漠然と決めた。
復讐をしようと決めたのだ
「ねえねえ、まーくん!聞いて聞いて!」
「何だよ、うるさいなぁ」
小動物のように愛らしい少女が青年にじゃれついている。まるで子犬が飼い主にまとわりついているようだった。
その少女の名は川内祥子と言った。
そして彼女の相手をしている青年は中肉中背、髪は短く切りそろえられ清潔感がある。
顔は、整っている方だろう。
切れ長の目がやや冷たい印象を与えるが、言動とは裏腹に少女を見る眼差しは優しいものだった。
青年の名は三浦雅弘と言った。
二人はどこにでも居そうな有り触れた普通の恋人同士だった。
雅弘は顔を上げ読んでいた本から目を離すと祥子を見た。祥子は愛らしい丸い目をキョロキョロさせながら内緒話をするように雅弘の耳に口を寄せると。
「あのね、一緒に行きたい所があるの」
と囁く。
「どこだよ」
「行くまで秘密にしたいの。ねぇ、一緒に来てくれる?」
小首を傾げるとフワフワと揺れる茶髪は、思わず触れたくなる。誘惑に負け雅弘は祥子の髪に指を絡めた。
「どこに行きたいんだよ」
「だからー、内緒なの!」
雅弘はふと、もうじき自分の誕生日が来ることに気がつき、ニヤッとほくそ笑む。
「内緒なのか?」
「うん。ねぇ、いいでしょ?」
祥子は雅弘の首に腕を絡め体を密着させた。
雅弘が祥子の細い腰に腕を回すと、慣れた様子で祥子は雅弘の膝に腰を下ろす。
「分かったよ」
「約束よ。絶対に一緒に行ってね!」
「はいはい」
「楽しみにしててね」
祥子は天使のように微笑んだ。
目を覚ますと雅弘は学校にいた。
見覚えのある校舎だ。ここは自分の通っている高校に間違いない。
しかし、何だこの違和感は。
何故だかしっくり来ない。着慣れている筈のブレザーが体に馴染まなくて、雅弘は自分の体を確認するかのように何度も見回した。
おかしい所はない。
「三浦」
名前を呼ばれて振り返るとそこにはクラスメイトの宮迫が立って居た。
「宮迫か、何だ?」
「ちょっと一緒に来てくれないか?」
ニコニコと微笑む相手に、雅弘は何の違和感も警戒心も抱かず応じたのだった。
そこでついていかなければ恐らく、結果は違っていた。
その日から唐突に、何の前触れもなく雅弘はイジメの対象となった。
それは壮絶を極めた。殴られ蹴られ、所持品は切り刻まれた。見えないところにはいつも痣があり、それが消える前に新しい痣がつけられていく。
全ては動画に記録され、辱めを撮られた事で周りに言うことも出来ず、またプライドからも真実を話すことは出来なかった。
自分がイジメられている。
それが信じられなかった。
イジメられる前に一緒につるんでいたクラスメイト達が、クラスで目立たなかった宮迫と一緒になって自分を攻撃して来る。
一体何が起きているのか。これは現実なのか。
雅弘は混乱した。必死にイジメに耐えながら、歯を食いしばって耐えた。
だがいつの間にかイジメはクラス中に広がり、雅弘は唯一のターゲットとして認識されてしまったようだった。
無視やからかいは序の口、物はなくなり机は暴言を刻まれ、ネットには荒唐無稽な有り得ない言葉があたかも真実であるかのように書き連ねられ、教師の目の届かない所では激しい暴行を受け続けた。
雅弘は日に日にやつれて行った。
しかしイジメは止まるどころか拍車をかけて酷くなっていく。
いつしか生きているのが嫌になってきた。
生きているからイジメられるのだ。
それなら。
それに思い至った時、初めて雅弘は涙を流して泣いた。
何でこんなことになったのかわからない。ただ普通に生きていただけだったのに。
雅弘は見知らぬマンションの最上階の通路に立っていた。
「ごめんなさい、お父さんお母さん・・・ごめんな、祥子」
楽になりたい、もう終わりたい。
死にたくない、だけどもう耐えたくない。
泣きながら雅弘は手すりを乗り越えた。細いそこに立つと階下を見た。車がとても小さく見える。落ちたら間違いなく死ぬだろう。
でもそれでいい。
雅弘は身を躍らせた。
かけらほどの躊躇も無かった。
雅弘は目を覚ました。全身は冷や汗をかき小刻みに震えていた。
数度瞬いてから横を見ると見慣れた顔が自分を覗き込んでいた。
「・・・・・祥子」
「まーくん起きた?」
震えている雅弘とは裏腹に祥子は酷く楽しそうだった。
「俺、いま・・・・」
「あれ、忘れちゃったの?夢を見せてくれるお店に二人で来てるんじゃない」
祥子は酷く楽しそうに言った。
雅弘は真っ白になっている頭で必死に思い出した。そうだ、誕生日に特別なことをと、祥子が妙な店に自分を連れて来たのだ。
あれは夢だったのかと、その事実に雅弘は安堵した。しかしそれなら、
「あの夢は何なんだ?」
決して愉快な夢では無かった。雅弘の中にフツフツとした怒りが湧き上がって来る。
上半身を起こしながら雅弘は祥子を睨みつけた。しかし祥子はまるで気にした様子は見せず、むしろ雅弘が怒りを向ければ向けるほど楽しそうになっていく。
「おい!」
苛立ちから祥子に掴みかかかろうとすると、見知らぬ男に制された。
「何だよお前!関係ないやつは引っ込んでろ!」
「関係はないが無関係って訳でもないんでね」
飄々と男は言った。
そうだ思い出した、この怪しい店の従業員とやらだ。
雅弘はギリギリと歯を食いしばった。
「俺を嵌めたのか」
すると祥子は「違うわ」と一言言うと唐突に真顔になった。いつも笑顔を浮かべている美麗な顔から表情が消えると能面になってしまったようで薄気味悪い。
雅弘は背筋を這い上がる悪寒に、わずかに身震いする。
「罪には罰を。罰として同じ苦しみを与えるの」
「同じ?・・・・罰ってなんだよ、俺は」
「覚えてもいないの?自分が殺した人間のことすら」
「殺した?」
「宮迫英雄、勿論知ってるわよね?」
雅弘はギクリと体を強張らせた。
二度と聞きたくない名前だったからだ。恐らくは唯一の自分の中の汚点と言ってもいいだろう。それを何故祥子が知っているのか。
「何故知ってるかって?それは宮迫英雄が私の実の兄だからよ。苗字が違うのは両親が離婚したから」
雅弘の表情を読んだのか馬鹿にしたように祥子は言った。
「・・・・・・は?」
「高校時代、貴方が率先して行っていたイジメのターゲット、それが私の兄なの。覚えているんでしょう?自分が死に追いやった人間の名前なんだからっ!」
淡々と語っていた祥子だったが、話しながら感情が抑えきれなくなったのか最後には激昂しながら雅弘を睨みつけていた。
「不思議だったわ。兄は私から見たら本当に唐突に死んだから。でもね、兄の日記を見つけてやっと事実を知ったの。貴方がクラス中を巻き込んで兄を死に追いやったこと、全部・・・兄は自分が何をされたか、どんな目に遭っていたかを全て日記に書き遺していたのよ。私、それを読んで吐いたわ。あんまりな内容に、あなたの人間性の無さに」
雅弘は祥子の話す言葉を黙って聞いていた。正確には何も言えなくなってしまっていた。
そして内容がうまく飲み込めない。ガンガンと頭でが痛くて吐きそうだ。
収まったはずの震えと冷や汗が再び吹き出してくる。
「凄いわね、同じ人間とは思えない」
「・・・しょうこ」
「気安く名前を呼ばないで。あなたとはもうなんの関係もなくなるんだから」
吐き捨てるかのような物言いに、雅弘は体を強張らせた。
「ここであなたとはさよならするの。やっと終わったの。もう顔も見たくないのよ、だって本当に嫌だったから」
あなたといることが。
侮蔑の眼差しで祥子は当然の如く言い放ち、雅弘は半笑いで「へ?」と間抜けに言った。
「祥子、何だよ。お前何言ってんの?それって俺と別れるってことか?」
「・・・・そもそも付き合っているつもりは無かったわ。だって初めから復讐する為だけにあなたに近づいたんだもの。あなたを地獄に突き落とす為に・・・騙していたの」
祥子はそこで笑った。まるで天使のような愛らしさだった。
反対に雅弘は呆然とする他無かった。
信じられる筈がない、だって昨夜も愛し合ったのだ、ベットの中で。
あれが演技の筈ない。
「嘘だ!」
真っ青になりながらも雅弘は叫んだ。
「嘘じゃないわ、全て真実」
祥子は髪をかき上げ、小首を傾げる。
「それとね、あなたの内定先に兄の日記と詳しい内容を書いた手紙を送っておいたの。・・・・内定、取り消されなかったら良いわね」
ふふ、と祥子は嬉しそうに笑いながら頬を赤く染め、
「あなたが私にベタ惚れになるまで待ったの。その上で全てを失ってもらいたかったから。恋人も、就職先も、未来も。あなたの生命以外の全てを捧げてもらうわね」
それが兄を殺したあなたの罰なの、と。
雅弘は化け物を見る目で祥子を見た。
愛らしいはずの容姿が途端に悪魔か化け物になってしまったようで、吐き気を覚える。
止まらない冷や汗と震えにそれでも手をつき必死に体を支えていた。
これ以上ここにいたら頭がおかしくなってしまう。
雅弘はベッドから飛び降りかけ出そうとした。その背に男の声が投げかけられる。
「もう一つ付け加えておこうか」
それは自分の意思とは関係なく雅弘の動きを止めた。マネキンのように硬直した雅弘の背に、男は言葉を続けた。
「今日見た夢はこれきりじゃない。お前はあの夢に囚われている。繰り返し、何度も同じ苦しみを味わうだろう・・・・せいぜい発狂しないよう、精神を鍛えておくんだな」
雅弘は青ざめた。震える唇を噛んで無理矢理抑えつけ、振り返る。
祥子の見慣れた笑み、しかしそれは見たことのない満面の笑みだった。
雅弘は全てが事実である事を悟った。祥子が言ったこともあの男が言うことも、全てが。
「ひぃっ」
一つ奇声をあげて、雅弘は転げるようにそこを後にした。
一瞬後には何も無かったかのようにそこは静まり返る。
「ふふっ、見た?」
可笑しそうにそう言って笑いながら祥子は泣いた。
「やっと・・・やっと、お兄ちゃんの、仇を・・」
両手で顔を覆い、静かに祥子は泣いた。
復讐を果たし兄の無念を晴らした。
さぞや晴れ晴れしいだろうと思っていたが実際は違った。
自分の中には何も残っていない。何も残らなかったのだ。
虚無しかない。だって復讐を果たしてももう兄には会えないのだから。
「お兄ちゃん・・」
「さて、それじゃあ今度はお前さんの番だな」
店の男、こと青柳有美は、祥子の頭に優しく手を乗せた。
「え?」
「お前の兄貴に会わせてやるよ、夢の中だけどな」
ぐしゃぐしゃと、髪を乱されながら祥子は新しい涙を流した。
「ほんとうに?」
「当然だ、ここは見たい夢を見られる店だ。客の望みは全て叶えてやるさ」
勿論別料金もなしだ、とウィンクをしてみせる。
有美は子供のように泣き続ける祥子をベッドに寝かせ、二度髪を優しく撫でると瞼を手の平で覆った。
「目一杯話してこいよ?・・・それじゃあ、良い夢を」
有美の手のひらの下をいくつもの涙が滑り落ちていく。
有美は眉根を寄せながら、ため息を吐くように言った。
「おやすみ」
そして少女は夢に落ちていく。
大好きだった兄と再会する為に。
夢見処 伽藍堂 鴻月 麻 @asa-kouzuki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。夢見処 伽藍堂の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます