第9話 愛と呼ぶべきもの
私は母親に愛されたことがない。
文字通りである。
でももへったくれも何もない。
私は生まれてから今まで母親の愛情を感じたことは一度もなかった。
具体的に言おう。
まず私は母親に笑いかけられたことがない。叱られたこともない。話しかけられたことすらないかもしれない。だって全く記憶にないのだ。
なので子供の頃の学校行事にももちろん来てくれなかったし、ご飯など作ってもらったことがない。
あの人の中には
私は私がどうやってここまで大きくなったのか本当に不思議でならないのだ。
そもそも、母親は私に興味がなかったのだろうと思う。
空気である。
母子家庭だったのでそれは尚のこと顕著だった。
一体なぜ私を産んだのか不思議でならなかった。
だからだろうか、側に居た一番近い人間がそんなだから、私は感情が希薄だ。
喜怒哀楽がほとんどない。
他人のそういった感情を理解しにくい。
明確な欠点だと気づいていても自分ではどうしようもなかった。
そんな私が自分を変えたいと思ったのだ。
何故か。
好きだと言われたから。
男の人にそんな風に言われたのは初めてだった。
正直、その気持ちはよく分からなかった。
でもほんの少し引っかかった。
だから、この気持ちがなんなのか知りたいと。
そう思ったのだ。
「ふーん、死んだ母親に会いたいと」
依頼自体はよくある類のものだ、さして気に留める要素はない。
青柳有美は穂紬から書類を受け取り内容に軽く目を通した。
「あまり表情の動かない子だったよ。感情がなさそうだった」
「・・・十八歳で感情がない、ねぇ」
「多分ネグレクトを受けてるよ、あの子。結構症状が一致してるから」
穂紬の言葉に有美は眉を顰めた。
「母親の遺品も読んだ、けど」
「・・・・・けどなんだよ」
「・・・これから見せる。見てから、お前ならどうするか聞かせてよ」
「?」
そして穂紬は手を差し出してきた。有美はその指先を掠めるように、一瞬だけ触れさせた。
穂紬の指先に、
手が触れた、瞬間。
「なっ・・・に」
走馬灯のように『それ』が意識の中に流れ入ってきた。
急激な吐き気を覚え、有美は無意識に口を手で覆った。しかし駄目だった。
その場に膝を折り崩れ落ちた有美は吐いた。
全身を震わせ、痙攣しながら吐瀉物の中に腕をつき、繰り返し吐き続ける。
「・・・・これでも『減らし』たんだ」
吐き続ける有美を見下ろす穂紬は泣き出しそうな顔をしていた。
それを有美が見ることはなかったが、きっとこの時二人は同じ顔をしていたのだろう。
吐き切り吐瀉物に
「これで・・・も、減らしてあるのか?」
掠れ切った弱々しい声だった。
「そう、お前に見せたのは『半分』にしてある」
穂紬は淡々と語った。
有美は歯を食いしばり顔を歪める。固く握り締めた拳が吐瀉物の中で震えていた。
「・・・・人間の、する事なのか」
「本当にね。彼女の母親は、そんな中に生きて来た。僕も正直、信じられないよ・・・・こんな扱いを受け続けた人が、子供を産んだなんて。そしてネグレクトをしながらも、同じ空間で子供と生きて来ただなんて、とても信じられない」
信じられない、穂紬が語るのはその一言だけだった。
有美はふらつきながら立ち上がるとフラフラと歩き出した。何とかシャワー室に辿り着くと服を着たまま頭から冷たいシャワーを被る。
今見た光景を洗い流してしまいたかった。
汚れを落としきってシャワー室を出るといつの間にか着替えが用意してある。まどかが用意したのだろう。
全てを新しいものに変え、有美は事務所内へ戻った。吐いた床は清められていた。
本来は彼女がやる必要のないことだ。だが、彼女は何も言わずにこの事務所内での出来事の全てを受け入れ、そして行動をする。
だから彼女を雇ったのだ。
チラリと投げた視線の先で事務の奥園まどかは何事もなかったかのように、黙々と事務作業を続けていた。
何も言わないまま、有美はソファに身を投げ出し横になると腕で目元を覆い隠す。
「有美」
「・・・んだよ」
「どうする?」
対面のソファにゆったりと座っている穂紬は、はんなりとした笑みを口元に浮かべていた。
それに気づいても有美は何も言わなかった。
しかしあれを見ても尚、平静を装える穂紬の精神に、僅かながらの畏怖を覚えたのは確かだった。
「母親には会わせない」
有美は声を絞り出し、そして穂紬は悲しそうに微笑んでいた。
簡易ベッドには少女が横たわっていた。
少女の名を有美はあえて呼ばなかった。
今頃少女は母親と会っているのだろう。けれどそれは有美が創り出した虚像であり、彼女の本当の母親ではない。
「悪いな、どうしても本物とは会わせてやれないよ」
ここは救いの場ではない、けれど。
「本物の母親と話して、君の心がそれ以上壊れては駄目なんだ。それではこの場所がある、意味がない」
社会的に見て彼女の母は母親失格の烙印を押されるような人間だった。
しかしそれは仕方のないことだった、母親もまた暴力と虐待の中に生きて来た人であるから。
真実は母親しか知らない。そしてその母親はもう死んでしまっている。
それならば、
「君の与えられたもの全てが、君の母親に出来る最大限の愛だったんだ」
たとえ虐待の類のものであっても。
「だから、許してくれ」
有美は深い苦しみを飲み込み、そんな言葉を吐いた。
少女に懺悔するかのように傍の椅子に座り項垂れ、両手をきつく握った。
ふと顔を上げると、夢を見ている少女が心なしか微笑んでいるように見え、有美はその頬を慈しむように撫でた。
それはきっと愛ではなかった。
愛と呼ぶべきものだったとしても、愛と形容してはならないもの。
「良い夢を・・・」
目を閉じた有美の眦から一筋の涙が伝って落ちた。
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