新入社員研修で隣の席になった子のことを考えていたら、研修が終わっていた。
よこづなパンダ
短編 新入社員研修で隣の席になった子のことを考えていたら、研修が終わっていた。
俺・
学生生活に終わりを告げて新社会人となった俺は、今日から一週間、この部屋に集められる他部署の同期たちとともに、会社の新入社員研修を受けるのだ。
しかし、いよいよ始まる新生活に希望を抱いて胸を膨らませ―――などということはなく、俺が今手元のパンフレットに目を通しているのだって、ただそれ以外に特にやることがないからというだけである。
いっそのこと、こんな新人研修なんて早く終わんねぇかな、とすら考えていた。
知り合いに内定先を話せば田舎暮らしと馬鹿にされたが、俺自身はといえば、地方で勤務することには特に何の抵抗もなかった。むしろ、余計な人付き合いから解放されてせいせいすると言いたいくらいだ。学生生活が終わるのを落ち込み、そのせいで開き直っていたとでも周囲には思われていたのかもしれないが、それは否定しておく。―――俺は学生生活が終わることにもせいせいしていたのだから。
運動音痴。お酒が飲めない。
この2つが揃った瞬間、学生生活なんて簡単に灰色一色に染まってしまう。
学生生活の醍醐味といえば、何を思い浮かべるだろうか。
そう尋ねられたとき、多くの人々の頭の中に描かれたそれは……おそらく、どこかしらに恋愛が絡んだイベントではないだろうか。
大学生なんてそんなものだ。
俺の場合、まあ根本的に同じ大学内には女が全然いなかったから、周りの陽キャたちなんかは必然的に、インカレサークルで女を捕まえることに必死になっていた。
別に俺は彼女を作りたいなんて思ったことはなかった。
もうずっと何年も気になる子さえできないし、そういう生活にも慣れた。
だからそれは構わないのだが……問題はそこじゃない。
彼女を作ろうとしなければ。
それだけで、周りの奴らから『陰キャ』のレッテルを貼られてしまうことにあった。
それが嫌だったから、俺だって最初はインカレサークルを探したさ。でも、どれもこれも運動部なんだよこれが。
運動音痴でも、楽しめればいいだろって思う奴もいるかもしれない。だけど、楽しめるわけなんてないんだよ。
ちょっと仲良くなれそうだなって奴らが、俺の運動している姿を見て、スーッと引いていく、あの空気。特に可愛い子から、一気に冷めていくような視線を向けられることに、俺は耐えられなかった。
中学の頃、密かに想いを寄せていた子の……あのときの目を、俺は忘れることができないだろう。
筆記テストの成績は隠されるのに、体育のテストは公開処刑されるのって理不尽じゃないかってずっと思ってた。あんなのカンニングだろ。
そして、あり得ない話だが、仮にその視線に耐えられたとする。すると、次に待っているのは飲み会だ。
酔った勢いで女の子をそのまま……なんて展開に憧れてるわけじゃねぇよ。―――ただ、「飲まないんですか?」って目の前に座った可愛い子に尋ねられる場面を想像してみてほしい。
いや、飲まないって言えばいいだけじゃん、って思ったか?無理させる奴はハラスメントだって。
まあそうなんだが……ずっと気を遣われる状況ってのは、なかなかにしんどいものだ。
周りの男女のテンションがどんどん上がっていく中、その様子を自分だけ1人、シラフのまま見届けることしかできないんだぜ。そんなの、惨めなだけだろ。
だから俺は、必然的に学生生活を陰キャとして過ごしてやったんだ。陰キャになりたいだなんて、一度も考えたことはない。
でも、陰キャにしかなれねぇんだよ。
だから俺は人と関わるのが嫌いだ。
世の中、つまんねぇ打算で友達を作ってる奴らばかりだ。
あいつと一緒にいればモテそうとか、そんなお花畑なことしか考えていない人間が、世の中どれほど多いことか。
そして俺は、そういう奴らに見放された人生しか送れない。
別にそれでいいさ。あんな奴らと同類になるなんてまっぴらゴメンだ。
でも、だからといって、『陰キャ』って負の印象を与える言葉でまとめないでほしいんだよ。
わかるか?
だから俺は、そんな他人の冷たい視線を浴びることのない田舎町で、ひっそりと勤務できる仕事を選んだ。
工場勤務で給料はそこそこ貰えるし、これから老後まで1人で暮らしていくうえで不自由なことは何もないだろう。
釣り、キャンプ、カメラ、旅行……出費のかさむ趣味を1つや2つ持ったところで、きっとお金は有り余るに違いない。
そんな将来を想像しつつ……
どうしてこの新人研修だけはこの東京という気怠い人混みの中で受けなければいけないのかって、ずっとそればかりを考えていた。そんなわけで、パンフレットの中身なんてぼんやりと目で追っているだけであり、実際のところその内容は少しも頭の中に入っていなかったのだけど。
ガラッ
―――しかしそんなとき。扉を開けて、1人の新入社員が部屋へと入ってきた。
なんと、女の人だった。しかも、わりと綺麗な子。
……それもそうか。事務や営業の子だっている。
どうせ顔採用だろ、人生イージーモードで良かったな。
真っ先に頭の中に浮かんだのがそれなのだから、俺はクズなのかもしれない。なんて考えつつも、しかし彼女のことをぼんやりと眺めていたら……うっかり、彼女と目が合ってしまった。
その瞬間、彼女はこちらへと向かってきた。
「隣、座ってもいいですか?」
―――ああ、面倒なことになった。
彼女は、控えめな口調でそう尋ねてきた。仕方がないので、俺はさっきまで考えていた最低な思考を一旦横に置き、「いいですよ」とだけ返す。
自由席って書いてるからどこに座ってもいいだろ、なんて野暮なことは口にしない。こんな俺でも、この空間に1人で入らねばならない女の人の気持ちがわからないわけじゃないし、別に陰キャだからって女と会話をするのに苦手意識があるわけでもない。だからといって、積極的に話したいとは思っていないが。
「……勉強、熱心なのですね」
しかし隣に腰掛けたこの子は、空気を読めないのだろうか、退屈そうにしていただろう俺に対し、そう言って首を傾げた。
後ろで束ねられた黒髪がふわりと揺れる。
優しそうな黒い瞳が、真っ直ぐ俺のことを捉えている。
……だからといって、俺が動じることなんてあるわけないが。
「そんなんじゃないですよ。暇だから目を通してるだけで、実際内容なんて少しも頭に入ってませんから」
こんなところで見栄を張ったって仕方ないから、俺は正直に答える。真面目系イケメンアピールなんて、するだけ無駄だ。―――どうせいずれ、冷めた目を向けられ……いや、その前にこの子とは縁が切れるだろうから。
「……ふふ、なんですかそれ」
そんな俺の返答に彼女は微笑んだ。別に大して面白くもないだろ。
だが、それは不思議と見ていて心地の良い笑みだった。決して作り笑いの類ではなく……そこには、俺との会話を楽しもうとしてくれている意思が感じられた。
「私、
それから、俺と彼女は出身地や趣味など、他愛のない世間話を続けた。彼女の名前は
そして、不思議と話が続いて。
もしかして気が合うんじゃないか。
―――そんな馬鹿げた発想浮かんだ瞬間。
俺の頭の中は文字通りに真っ白になっていった。
心地よい会話のはずなのに、所々、頭の中にまるで言葉が入ってこなくなった。
俺が話したことに対して、彼女の目が、眉が、髪が、少し動くだけで、俺の心臓が跳ね上がっているのがわかった。
冷静になろうとするのが精一杯で、彼女の話に一番嫌いな作り笑いを浮かべてしまいそうになる自分に、嫌気が差した。
さっきまであんなに退屈だった待ち時間はあっという間に過ぎていき、講義が始まってからも……俺は時々、スライド資料が投影されたスクリーンを見ている愛敬さんの横顔を、ちらちらと目で追ってしまっていた。
その夜、俺は宿舎のベッドで必死に思考を巡らせた。
この俺が……
高校時代から、気になる子なんて1人もできなかった俺が、たったの1日で……
あり得ない。
真っ先に浮かんだ感想はそれだった。
なのに、どれだけ眠ろうとしても、彼女の顔が頭から離れてくれない。
こんなに他人と会話が弾んだのは久しぶりだった。陰キャと群れているときなんて、みんな各々の言いたいことを一方的に話すだけだし、それを聞いているだけでコミュニケーションが成り立つのだから楽でいいかな、なんて思っていたが……
自分の話を、あんなに楽しそうに聞いてくれる人がいるなんて。
決して、一度見たら忘れられないほどの美人というわけじゃなかったはずなのに、彼女のことが……
「可愛かった、な……」
うっかり口にしてしまったが最後、俺は彼女のことをそういう対象として認識していることを、否定できなくなってしまった。
冷静な部分の俺が、自分に問いかける。
『どうせ研修の一週間の付き合いだろ。俺は彼女に何を求めている?』
たとえ彼女に対する恋愛感情を自覚してしまっても、俺はそれを認めるわけにはいかなかった。
彼女はこのまま東京で仕事をすると言っていた。一方の俺は、遠く離れた他県での勤務となる。地方間での転勤はあれど東京に工場はないので、彼女と会う機会は、この研修が終われば必然的に二度と訪れない。
「田舎で1人でなんて……すごいですね、たくましいです」
彼女のあの言葉を本心と受け取るとすれば、愛敬さんにとって田舎暮らしとは耐えられないものなのだろう。つまり、俺と彼女には一緒になれる未来がない。俺が都内に転職して……なんて馬鹿な発想を入社直後に抱いてどうする。
まあ、せいぜいこの一週間を楽しもうじゃないか。
色々と考えこんでしまいそうになったが、とりあえずはそういう結論に至らせた。
そう考えると、少しは気持ちが落ち着き、俺は眠りにつくことができたのだった。
◇◇◇
しかし、翌日。
隣に座った彼女と目が合って、互いにおはようと挨拶を交わしたとき……
また、俺の心臓は跳ねた。
しかも、昨日よりも大きく。
ほんと、どうなってるんだよ……
今の言い方は少しぶっきらぼうじゃなかったか、とか、些細なことが気になって仕方ない。
髪型とか、スーツの着こなしとか、まあそういうことは社会人になったから強めに意識しているだけで……
そうだ。そうに決まってる。
「昨日はよく眠れた?」
動揺を隠す意味でも何か話したいと、適当な話題を探す。
だが、咄嗟に尋ねてから、もしかして変なことを訊いたんじゃないだろうかとかえって不安になる。
「……いえ、実は落ち着かなくて、少し寝不足で……」
しかし彼女は特に何かを考え込むこともなく、ただただ可愛く苦笑いをした。
「はは、実は俺もあんまり寝れなくてさ」
よし。今はちゃんと、愛敬さんの目を真っ直ぐ見れている。
……でも、彼女が眠れなかった理由と、俺の理由では根本的な部分で大きく異なってるんだろうな、と思ったとき、それはどうしようもなく寂しいことに感じられた。
とはいえ、その後は自然に会話を続けることができた。愛敬さんの微笑んだ顔は今日も最高に可愛くて、何度もその表情を見たくなって、たくさん話題を振ってみた。
結果として、着実に彼女との距離を縮めることができただろう。そう思った俺は2日目の夜、週末を除けば残り3日の研修期間で彼女と何を話そうか考えては、当初では考えられなかったほどに、期待に胸を膨らませていた。
◇◇◇
しかし、3日目。
事件は起きた。
「今日は皆さんがより親睦を深められるように、席替えをしたいと思います」
指導係の社員がそう告げたとき、同期の皆が盛り上がる中で、俺はどう反応すればよいかわからずにいた。
ふと隣に視線を向ければ、彼女もまた、俺の方を見ていた。
「それでは……」
席を離れるとき、彼女はそう口にしたが、その本心は……
新しい人と関わりが持てることを嬉しく思っているのか、俺と席が離れるのを寂しく思ってくれているのか、陰キャにはどうしても読み取ることができなかった。
「……よろしく」
そして、新しく俺の隣になった人は、円縁メガネがよく似合う、真面目で無害そうな男だった。
「こちらこそ」
そのことに少しだけホッとした俺は、彼にそう返しつつ―――
しかし実際は気もそぞろで、横目で愛敬さんのことを追ってしまっていた。
新しい席で彼女の隣になった男は、見るからに体育会系のコミュ力モンスターって感じの奴だった。
たしか、自己紹介のときにあの人も東京勤務だって言っていたっけ……
そんな彼のマシンガントークに相槌を打つ彼女は、無理をしていないだろうか。
彼の方に顔を向けている彼女が今、どんな表情を見せているのか―――それは、俺の座る位置からでは残念ながら確認することができなかった。
それ以降、休み時間の度に彼と会話をしている愛敬さん。
彼女のポニーテールが会話の度に左右に揺れるのを、ただ見ているだけの俺。
俺は、何をしてるんだろうな……
そんな疑問が浮かぶ度に、俺の胸はチクリと痛むのだった。
その日の夜。
俺は当然のように、眠ることができなかった。
……というのも、あの後、宿舎の男子風呂でたまたま例の東京勤務の彼やその友人とすれ違ったとき、うっかり余計な会話を聞いてしまったのだ。
「愛敬さん、だっけ。そこそこ可愛いけど、どんな感じなん?」
「いやー、連絡先を交換するところまではいけたけど、ガード固いわあの子。まあもうちょい押してみるけど」
「えー、なにそれつまんな。それならそれで、お前がそこまで追いかけるほどの子じゃねぇだろ」
「ハハハ」
……何が面白いのだろうか。そうやって笑い合っている姿を見て、ああ、これが陽キャだと思ったのは言うまでもない。
―――ただ、それ以上に実際はといえば、俺の頭の中は愛敬さんの連絡先のことでいっぱいになっていた。
ウソだろ……
たった1日で、彼女の連絡先を……
間違いなく、俺は焦った。何に焦っているのか、もはや理解不能だが、自分の心に嘘をつくのは無理だった。
だから、俺と彼女には未来がないってわかってるだろ。彼女にとっても、将来一緒に同棲できる東京勤務の奴と仲良くした方がいいに決まってる。
頭ではそう理解しているはずなのに……どうして心はわかってくれないんだよ。
愛敬さんが東京の彼に心を開いているわけではないことはわかったが、どうしても安心できなかった。彼女と会話できないだけで、他の男と話しているのを見るだけで、連絡先を交換したと知るだけで、どうしようもなく胸が苦しかった。
そんな自分が嫌になる。
……俺の一番嫌いな、頭の中がお花畑に近づいている気がして。
「あークソっ、クソ……」
何度も枕を叩いて、そんな俺の脳内では何度も日菜子の名前がこだましていた。
◇◇◇
研修もついに4日目。
今日が終われば週末ということもあり、同期の皆は昨日までよりも少し浮足立っているように感じられた。
東京の彼も例外ではなく、いつの間にか作っている友人たちと、近くの店でランチを食べる計画を練りつつ、休み時間に部屋を出ていった。
ぽつんと、愛敬さんが1人になっていた。
だから俺は……
気がつけば、彼女の元へと歩み寄っていた。
「愛敬さん。良かったら、連絡先を交換しませんか?」
……言ってしまった。
最悪だ。
「いいですよー」
あっさりとOKする愛敬さん。
……しかし、特に抑揚のない言い方で返答してくれた彼女の瞳は、自身のスマホだけを捉えていた。
「これで良いですか?」
まるで事務作業の如く、淡白な態度。
それは、俺が心地良いと感じていた、作り笑い等のない本心からの態度であるはずなのに……
俺の心臓は、少しも跳ねなかった。
俺に向けられることのない彼女の表情は、どこか冷たく見えて、そこには確かに俺への警戒の色が示されていた。そうとしか、感じられなかった。
「おー。よろしくー」
だから陰キャな俺は、そう返すだけで精一杯で、これ以上、彼女と話を続けることができなかった。
緊張して、脚が震えた。元の席に戻ったとき、結果としてただ連絡先交換をするためだけに話しかけてしまい、明らかに行動がキモかったということに気づく。
だけどもう、取り返しはつかなかった。
怖くて、その日はもう愛敬さんのことを目で追うことすらできなかった。
◇◇◇
週末。
男子用の宿舎だから愛敬さんに会えるはずもないが、もう残された研修期間はあと1日しかないというのに、俺の頭の中は愛敬さんのことでいっぱいだった。
焦る云々の前に、東京の彼が愛敬さんと気が合うわけないだろ。
少し冷静になれば、そんな当たり前のことに気づく。
人と話すのが得意でない、と彼女は言っていたが、それはおそらく、彼女が他者に対して気を遣いすぎてしまう性格だからだろう。
相手のことをよく考えて、皆と平等に接しようとするからこそ、本心からの表情が出る一方で、きっと彼女自身は疲れてしまう。
しかし、彼女のそんな一面が、俺にとって非常に魅力的に映ってしまったことは紛れもない事実で。
―――不思議だったのは、昨日、彼女の冷めた表情を見たにもかかわらず、それでもなお、俺の中の愛敬さんへの気持ちは消えなかったこと。
中学の頃、体育の授業中に気になってた子の冷めた目を見たときは、俺の心も急速に冷めていったというのに。
……あー、何やってるんだろうな、って思う。
ガードが固いってあいつらが話してたように、愛敬さんはそういう真面目な子ってだけなんじゃないかよ。
だから、俺が連絡先の交換を提案したとき、一気に彼女の心はスーッと離れていった。
でも……
もう時間がないんだよ。
だから、今後のことを考えたときに、縁が切れないためにはそれしか思いつかなかった。
多少嫌われてしまっても、ここで仕掛けるしか手段がなかったんだよ。
―――その結論が導かれたとき、ふと、愛敬さんの初めの言葉が思い出された。
「これから一週間、宜しくお願いします」
……なんだよ。初めからわかってたことだろ。
彼女自身、俺とはこの一週間だけの付き合いだって、初めから理解してた。そう考えれば、東京の彼と話を合わせようと頑張って会話してるのは、彼女のこれからの生活のためでもあるのだろう。
それに、俺だってわかってた。
愛敬さんとはこれっきりの付き合いだって。
俺は頭の中お花畑の陽キャでなないのだから。
せいぜいこの一週間を楽しもうじゃないか。
そう考えていたはずだろ。
それなのに……
どうしてこんなにも、彼女のことが気になるんだよ……
「日菜子……」
一度口にしてしまえば、もうこの感情を抑えることができなかった。
「日菜子、日菜子……」
俺が一生をかけても呼べるはずのない彼女の名前を、何度も何度も布団の中で囁く。
本当に気持ち悪いな、俺は。
自己嫌悪に陥りつつ、もう頭の中はぐちゃぐちゃで、あるはずのない彼女との未来の妄想が渦巻く。
だから、絶対に結婚できないんだよ彼女とは。
そんな相手に恋愛感情を抱いて、何の得があるって言うんだよ。
最後の一日すら話しにくくして、そこまでして彼女の連絡先を求めた意味は何なんだよ。
頭では理解しているはずなのに、気持ちだけが暴走してまともな行動ができていない。
そんな俺は、今この布団の中に日菜子の身体があったらな、なんて無意識のうちに考えていることにゾッとする。
人生最後の都会だというのに……俺は一日中部屋に籠もって、何やってるんだろな。
◇◇◇
あっという間に週末が過ぎて、研修最後の月曜日が訪れた。
「これからもよろしくね」
そう言ってきたのは、愛敬さんなわけもなく……隣の席のメガネ君だった。
なんと、彼は俺と同じ配属先だったのだ。
全然気づいていなかった。
本当に俺は、この数日間何をやっていたのだろうか。
これからは彼と仲良くやっていこうと思いつつ、しかしそれでもなお、俺の視線の先には愛敬さんしか映っていなかった。
結局、最後のこの日も夕方まで彼女とは一言も言葉を交わせず、貴重な時間は無情にも過ぎていった。
空き時間で、離れた彼女の席に近づいて話しかけるチャンスは十分にあったのだが……これ以上、彼女に距離を取られるのが辛かった。
もういっそのこと、このまま終わっちまえ。
―――しかし、最後の最後で、俺にチャンスは巡ってきてしまう。
夕方になり、皆が別々のバスへと乗り込む中で、偶然近くに、愛敬さんの姿があったのだ。
「愛敬さん。バイバイ」
だから俺は……その短い言葉を、彼女の目を見て伝える。
―――それが、俺にできる精一杯だった。
「磯川さんも、頑張ってくださいね」
そのとき、俺にそう言葉を返してくれた彼女の表情は……
少しだけ、最初に出会ったときと同じ、素直な明るさが感じられた。
それが、彼女と言葉を交わした最後。
俺はあれから一週間が過ぎた今でも、彼女の最後の表情の意味を考え続けている。
俺とこれからも話してみたいと思ってくれているのか。
俺との縁はこれで最後だと思うと、安心しただけなのか。
ガードの固い彼女の警戒心が、どのように働いているのかわからなくて……
あーもう美人なんだからもっと楽に生きろよ。
しかし、そう思うも、俺が好きになったのはそんな器用なのに根本的に不器用な彼女の一面であるのだから、色々と終わっていた。
打っては消して。
スマホのメッセージアプリを操作するだけで、無意味に時間だけが溶けていく。
田舎の暮らしがこんなにも寂しいものだなんて、思わなかった。
余計な夢を抱かせるなよ馬鹿。
くだらない他人との馴れ合いなんて、昔から大嫌いだろ。
……だから、メッセージの1つも書けないんだよな。
仮に送って、返信が貰えたとしても、それに何の意味があるのだろうか。
寂しい。会いたい。好き。
そんな目の前の気持ちをただ一時的に鎮めるだけの応急処置で、根本的な問題解決に至ることなんてない。
問題を先延ばしにして、これ以上彼女のことを好きになってしまったら……
もしくは、そもそも彼女から返信が来なかったとしたら……
だから、メッセージを送りたくない。
それなのに俺は……
ほんと、何をやってるんだろ。
纏まらない思考はそのまま文面に如実に現れて、それを目にするたびに、俺は自分に対して萎えていく。
ため息をついても返事はなく、窓の外には豊かな自然に恵まれたあんなに広い世界があるというのに、俺の心はどうしようもなくちっぽけなままだった。
新入社員研修で隣の席になった子のことを考えていたら、研修が終わっていた。 よこづなパンダ @mrn0309
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