五章

 季節は冬。

 学校は冬休みへと入り、冬季講習はあるものの自分の時間は格段に増えた。

 だと言うのに、俺は何をする訳でもなくただ無為に時間を浪費していた。


『もう私の事は忘れて。』


 川崎の言葉が頭から離れない。

 川崎の入院している古山第一病院の待合室で、俺は、今年一番のため息をついていた。


 あれ以来、どうしても来れない日を除いて、ほぼ毎日お見舞いに来ているというのに、面会謝絶で俺は川崎の顔すら見られない状況が続いている。

 ゲームも、オンラインになっている様子はないようだし、川崎の様子は何も分からない。せめて元気でいてくれればと願うが、あの痩せ細った体を見た後ではそう楽観的にもなれない。


 東京の病院に移動するという話は聞いているため、その前にどうにかもう一度接触したいと思うのだが、それは叶わずにいた。


 手土産として持ってきたシュークリームの箱を眺め、もう一度深くため息をつく。


「甘いもの、俺はあんまり好きじゃないんだけどな。」


 せめて受け取ってくれればと思うが、それすらも届かない。

 どうやら川崎は、本当にもう俺と関わる気はないらしい。


 今日も変わらぬ受付の対応に、帰ろうと立ち上がった時。

 俺を呼び止める声がかかった。


「あの!葛谷くん、よね?」


 そこに立っていたのは小綺麗に着飾った貴婦人という言葉が似合う女性。初めて会う顔で、見覚えがない。

 俺の事を知っているようだが…声をかけられるような心当たりはまるでない。


「そうですけど…あなたは?」


 警戒の色を隠しきれず目線が険しくなってしまった。

 女性は慌てたようにバタバタと手を振る。


「怪しい人じゃないのよ?私が一方的に葛谷くんの事を知ってるだけで。

 ───うちの美雨と仲良くしてくれてありがとうね。」


 うちの美雨…?それはつまり


「川崎のお母さん?」


 そう言うと、女性はこくりと頷く。

 なるほど。言われてみれば目元や雰囲気がどこか面影を感じる…かもしれない。いや気のせいか?


「少し時間あるかしら?」


 詰んだ状況だった俺にはまさに渡りに船とも呼べる誘いであった。




 そうして川崎の母親に連れられ、俺は病院の屋上へと訪れていた。


 屋上と言うだけあり、この季節に来るべき場所ではないと思うほど、風が冷たい。そのせいか周囲に人の姿は見えない。

 しっかりと防寒具を身につけてきていた事が唯一の救いだろうか。


「こんな場所でごめんね。葛谷くんとはどうしても2人きりで話したくて。」


 今日初めて会ったばかりだというのに、随分と俺の事を知っているような口ぶりだ。


「…全然大丈夫です。それで、話っていうのは?」


 どんな温度感で接するべきか測りかねる。印象が悪くならない程度に、無難な返答を返した。


「まずは自己紹介かしらね。私は、川崎小百合。美雨の母親です。

 ───まずは葛谷くんに、私と夫から精一杯の感謝を。美雨と仲良くしてくれてありがとう。」


 そう言って、小百合さんは頭を下げた。

 慌てて俺も反射的に頭を下げる。

 話があるというので身構えていれば、まさか感謝を伝えられるとは。


「そんな、頭を上げてください。」


 会って早々、頭を下げられるだなんて、何だか凄く悪い事をした気分だ。

 俺のその言葉に、下げた頭を上げる。


「美雨の事はもうある程度聞いているのよね?あの子の病気の事も。」


 それは、川崎から聞いた内容であった。


「ある程度は…。」


 小百合さんはそれを確認し、言葉を続けた。


「美雨は、物心ついた時から、ほとんどの時間を病院で過ごしてたの。

 そんな自分の存在が、私達に迷惑をかけているとでも思ってたんでしょうね。自分の状況に、文句もわがままも言わずただいつもニコニコとしていて…凄く空気の読める子だった。」


 川崎の卓越した観察眼は、その責任感と環境ゆえの能力だったのだろう。空気の読める子、か。確かに外から見ればその言葉がぴったりだろう。

 欲しい言葉を欲しい時にくれる。

 それがどれだけ心温まることか。実に川崎らしくて大馬鹿な考えだ。


「でもね、本当はそんな強い子じゃないの。普通の子と何も変わらない。

 寂しさで1人夜泣いているのも私はずっと見てきたの…。健康な体で産んであげたかったと何度悔んだかも分からないぐらい。

 だからね、美雨にも普通の生活をさせてあげようと思って、体調が良くなってきたのを見計らって、夫が高校二年生の間だけでも学校に通えるようにって星恩高校に転入させてくれたの。

 美雨はそんな事しなくても良いって言ったけど、普通の生活をして欲しいっていうのは私達の願いだったから」


 ───それが川崎がうちの高校に転入してきた真実。

 俺は本当に、川崎の事を何も知らなかったのだと改めて突きつけられる。川崎が、夜1人で泣いているなんて俺には想像もつかなかった。


「だから、本当に嬉しかったの。美雨が、友達や学校の事を嬉しそうに話すのが。

 今まで同い年ぐらいの子と話すことなんて全く無かったから心配だったけど、みんないい子だよって笑顔で話してくれて…。

 そんな中でも葛谷くんの話をする時は目がキラキラしてた。本当に、年相応の女の子みたいで…」


 いつの間にか小百合さんは少し涙ぐんだような声になっている。

 川崎が俺の事をそんなふうに話してくれていたなんて。胸が締め付けられるようだ。



「だからね、葛谷くん。

 葛谷くんには美雨をこれ以上傷付けないでほしいの。」


 今までの方向から一転し、急激に雲行きが怪しくなる。

 傷付ける?俺が、川崎を?


「まって、ください。どういう事ですか?」


 そんなつもりは毛頭ないし、川崎の事を誰よりも考えているつもりだ。

 小百合さんはゆっくりと語り始めた。


「毎日、お見舞いに来てくれてるわよね?それは美雨も知ってる。本当にありがとう。

 でもね…美雨にはどれだけの時間が残されてるか分からない。まだ治療法も確立されていない病気で、いつ悪化してもおかしくないしそもそも治るかも分からない。

 そんな美雨の側に、軽い気持ちで近寄らないであげて欲しいの…大切な人が増えれば増えるほど別れが辛くなる、裏切られるリスクも増える。いつかいなくなるのなら最初から近づかないで。あの子にそんな辛い思いはしてほしく無い…」


「俺は、軽い気持ちなんかじゃ…!」


 だが、言いかけて先日の会話が頭を過る。


『私に全てを捧げられる?』


 その川崎の質問に、俺は即答出来なかった。あれは俺に覚悟が足りなかったって事じゃないのか?


 あの俺の行動はきっと深く川崎を傷つけた。だからこそ、今こうして母親まで出てきて、これ以上はやめてくれと釘を刺されている。

 その事を俺はもっとちゃんと認識するべきだ。好きだから、なんて曖昧な理由を免罪符にして関わっていいほど、川崎の人生は軽くない。


 ───文字通り全てを捧げられるかと川崎はあの時俺に問うたんだ。それに応えられなかった俺に…側にいる資格はない。


 返す言葉なくぎゅっと手を握りしめる。血が出るんじゃ無いかと思うほど、硬く、強く。


 俺は、次の日から病院に通うのをやめた。




 ◆




 窓の外に広がるビル群が、太陽の日差しをキラキラと反射し、幻想的な様を映し出す。

 そろそろ桜の季節だというのに、この街には緑なんてなく無機質極まりない。

 忙しなく通りを歩く無数の人々を、私は病院の窓から羨ましく眺めていた。



 東京の病院に移って来て早一年。私の体はあいも変わらず病に侵されていた。

 今の医療では、進行を遅らせるのが精一杯であり、未来の医療に期待する他ないのだ。

 だが、それもいつになる事やら。状況が芳しくない事は、医者や両親の反応から分かっていた。

 こんな時は、私の観察眼が憎い。せめて希望を持って生きられたのなら幾分かマシだっただろうに。


 ───私の人生は一体何だったのだろう。


 そんな事をぼんやりと考える。

 学校に通っていたあの頃の時間は、私にとって本当に夢のような時間だった。

 病気の事を忘れられるほど、毎日がキラキラと輝いていて今でもたまに夢に見る。教室でみんなで授業を受けたり、文化祭の出し物を作ったり。放課後友達と遊ぶなんて私には無縁だと思っていた事を沢山経験した。


 もし私が普通の体に産まれていたら、あんな未来もあったんだろうか?

 …どうして私だけこんな思いをしないといけない?どうして、私だけ。


 ───きっともうみんな私の事なんて覚えていないのだろう。

 たった数ヶ月行動を共にしただけの存在など、普通の人の人生の中で見ればほんの1ページ程度のもので次から次に塗り替えられていく記憶でしかない。いなくなった人の事なんて、気がつけば風化し、私の名前など思い出話でも口にされる事はなくなるのだろう。


 私だけ。私だけが前に進めないまま、未だ過去に囚われている。

 進みたいと願うばかりで、道がどこにも存在しないのだ。いつ途切れるやも分からぬ暗闇をただ1人、大丈夫だと騙し騙し言い聞かせ進んできた。でも、この人生が誰の記憶にも残らず、役に立たず、気付かれる事なく消えていく。


 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。怖い怖い怖い、死にたくない、どうして私が、1人にしないで、忘れないで側にいて…。

 弱りきった心を守るように、私は布団を頭から被り、己を世界から隔離する。



 コンコン!



 病室のドアを叩く軽い音が部屋へと響き渡った。

 …看護師さんだろうか?もうそんな時間になってたっけ。


「はい、どうぞ!」


 私は、浮かんでいた涙をぐっと体内へ押し戻し、見る人に元気を与える自慢の笑顔を貼り付けた。この笑顔は私にとって鎧だ。

 ニコニコと、どんな状況でも笑って生きていける強い人間。そんな人になりたいという、本当は弱い私を守る鎧。


 私の声に反応し、ガラッと病室のドアが開かれた。


「なん…で…」


 私の自慢の笑顔は、一瞬で剥がされる。

 それと同時に、ずっと忘れたいと思っていた感情が胸から溢れだした。


「久しぶり。…遅くなって…ごめん」


 そこに立っていたのは看護師でも親でもなく。私の人生で唯一、好きになった人。何度、普通の恋が出来ればと願ったか分からない。諦めて、諦めさせた人。

 一年ぶりに会う彼は、罰が悪そうな顔で、立っていた。


「葛谷…くん?」


 私は幻でも見ているのだろうか?過去の事を思い出しているうちに夢を見ていたり。そうだ、それに違いない。

 だが、全身で感じる感覚が、紛れもなくこれが現実だと知らせてくる。でもそんな事あるわけない。ないのだ。


「他の誰に見えるんだよ。それとも俺の事忘れちゃった?」


 くしゃっと笑う彼は、久しぶりの再会を喜んでいるように見えた。

 でも…何で?


「どうして…来たの。だってここ東京だよ!?そもそも、私の事はもう忘れてって…言ったのに。どうしてまた会いに来たの。」


 本当に、分からない。どうして今更。どうして今頃。あの時、私と一緒に生きる事を選んでくれなかったあなたがどうしてまた私の所に来るの?

 私は、あなたが思っているような人間じゃなかった、強くない。そんなキラキラした感情を向けられても返してあげられる自信がない。


「あー…話さなきゃいけない事は沢山、あるんだよな。

 ───まぁでも、今日ここに来れたのは、川崎の母親のおかげだ。」


「お母さんの…?」


 2人に接点があったなんて、初耳だ。いつから?お見舞いに来てくれていた時だろうか。


「───覚悟が出来たら、その時は連絡して欲しいって言われてたんだ。ようやくその覚悟が決まったから、今日はそれを伝えに来た」


 覚悟?


 あの頃は、葛谷くんに心が読めるなんていう嘘をついていたが、所詮嘘。内容まで私に当てる能力はない。

 葛谷くんがしたという決断が私には分からない。


「川崎。これからはずっと一緒だ。

 俺はもう、どこにもいかない。俺をを見て、不安なら俺を頼ってくれ。

 周りに誰もいないなんてそんな寂しい思い俺がさせない。俺が保証するから。大丈夫だっていつでも言う。

 だから───俺を信じてくれ。」


 それは、前に私が言ったセリフだった。



 ずっと言われたいと願っていた、側にいるという言葉。言って欲しかったセリフを、ずっと言って欲しかった人にこんな風に貰えるなんて。


 やっぱりこれは夢か。夢だ、だってほら。何故だか視界が霞んで前が見えないのだから。


「何を、言ってるの。こんなとこまで来て…早く帰らないと。」


 飛びつきたくなる本心を必死に押し殺す。ずっと一緒にいるなんて綺麗事だ。だって葛谷くんは普通の人なのだから。わざわざ私なんかを選ぶ理由がない。喜んだらダメだ、もっと辛くなる。


「帰らないよ。俺さ、4月から東京の大学に通うことにしたんだ。だから、ずっとこっちにいる。」


 どうして、どうしてそんな事をしたの?

 わざわざこんな遠くまで。

 ───葛谷くんの前では、私が私でなくなるような…見せかけの元気が使えない。


「どうして?」


 葛谷くんは恥ずかしそうに、顔を背ける。


「好きな人がいるからに決まってるだろ?」


 好きな人、という言葉に、私の心臓がどきりと跳ねる。

 発作か?いや違う。これは私の感情だ。

 葛谷くんの言葉に、嘘はどこにもない。私のがそう言っている。


「どう…して…」


 さっきと同じ質問をもう一度繰り返す。もう私は泣いていた。言い訳のしようもないほどに、目から涙が溢れて止まらない。

 葛谷くんは優しく微笑む。


「川崎の事が好きだから。」


 その言葉で抑えていた感情が一気に溢れ出して葛谷くんの姿が見えなくなる。私も恋をしていいんだろうか。普通の女の子になっていいんだろうか。もう全てどうでもいい。

 この熱に全てを任せる。葛谷くんさえいればいい。


 泣きじゃくる私を、葛谷くんは優しく抱きしめる。


「返事を、聞かせてくれないか?」


 その声は、凄く優しかった。溜まりに溜まって爆発寸前だった不安なんてものが嘘のように消えてなくなってゆく。


「私、心臓が悪くて」


「知ってる」



「いつまで生きてられるかも分からなくて」


「関係ないよ。ずっと側にいる」



「ずっと1人で」


「もう1人じゃない、俺がいる」



「普通の女の子じゃなくて」


「普通の女の子だよ」



「君の理想じゃない」


「俺の理想は川崎だけだ」



 葛谷くんは私の言葉を一つ一つ全て聞き、その全てを許容した。大丈夫だ、と抱きしめるその体はとても暖かい。


「私なんかで…いいの?」


 最後の確認。でも、その答えをもう私は知っていた。


「川崎がいいんだよ。俺を救ってくれた川崎を、今度は俺が救いたい。」


 物心ついて以来、初めて人前で大きな声で泣いた。

 弱い所は見せちゃいけない。ただでさえ、迷惑をかけているのだからその上不快にさせるなんてってずっと思ってきた。

 でも、今だけは。今だけは涙が止まらなかった。





 そうして私が泣き疲れるまで、ずっと葛谷くんは私の事を抱きしめてくれていた。

 我に帰って離れると、顔が熱くなる。

 好きな人の胸であんな風に感情を晒して泣くなんて。


「泣いてたのはナイショだからね!」


 必死になって抵抗する私に、葛谷くんはおかしそうに笑う。


「はいはい。」


 その言葉はまるで小さな子供の相手でもしているよう。

 絶対分かってない、、あんな姿を見られたなんて恥ずかしくて死んじゃいそう。


「あぁ…誰にも弱音見せた事なかったのに。」


 落ち込む私に、葛谷くんはただ横にいてくれる。


「俺はもっと色んな川崎を知りたいよ。」


 久しぶりに話す会話は、以前と何も変わらず、気まずさなんてものもない。なんて心地良いんだろうと、酔いしれる。こんな時間がいつまでも続けばいいのに…いや、これからはずっとそうなのだ。

 もう私は1人じゃない。



「その川崎っていうのやめて。私の事は美雨でいいよ!」


 せっかく両思いになれたんだからね。これぐらいの贅沢許されるだろうか。

 葛谷くんの驚いたような顔が面白い。


「…美雨。」


 …ただ名前を呼ばれているだけなのに、胸が躍るように弾む。


「なーに?」


 意地悪にそう尋ねれば、顔を真っ赤にした葛谷くん───いや啓太がいた。あぁ、本当に可愛い。


 この道が啓太にとって幸せなのかどうかは分からない。でも、良いのだ。だって私は今こんなに幸せなのだから。




「私ね、実は夢があったの。私みたいに1人ぼっちの子供達を救ってあげられる心理カウンセラーになる夢。いつか体が良くなったらさ、なれるかな。」


 誰にも打ち明けた事のなかった夢。

 今なら口に出せる。


「なれるさ。だって君は、誰よりも人の心に詳しい超能力者なんだから。」


 その言葉は、私に勇気をくれる魔法の言葉だ。







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太陽のような君に恋をする @Irohagashi

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