【玖】探偵登場/明治時代の『探偵』とは――

 †

「例の殺人犯、まだ捕まってないらしいわよ。怨恨は怖いわよねぇ」

「え? 強盗だって話を聞いたけど。何か金千圓を奪ったとか。あ、ヒデクン! 例の事件の噂知ってる?」

「…………」

 黙る秀三郎ひでさぶろう

「ちょっとやめなさいよ、およね。秀三郎さんはそういう話嫌いよねぇ?」

「…………あぁ」


 かの殺人犯の風説ふうせつは、驚くほどの速さで広がった。今朝雄が旅立ったその日にも関わらず数人が集まれば、すぐにこの話をする。

 揣摩しま臆測おくそく

 不節ふせつ妄言もうげん

 喧々けんけん囂々ごうごう

 様々な憶測や無責任な言葉が飛び交う。その度に、秀三郎は不快に想い、耳を塞ぐ。耳を閉じても、深く悩み苦悩しても、それが無意味であることを知っている。

 耳が遠い老母ろうぼのおえいも、この悪い噂が外から聞こえると晩ご飯の途中だが箸を置き、そのまま寝室に入った。しかし布団に入らず、火鉢の前でしゃがんで考え込んでいる。物憂げに時々、ため息を出すだけである。


 †

 秀三郎は汚れた皿を洗っていると、なお今朝雄けさおのことが気掛かりとなっている。

(彼は今頃、無事に国府津こふづ駅から降りて、どこかの宿を探しているのだろうか。素早いが見つけだし、野口君を恐るべき牢に投獄しないことを祈るばかりだ……)

 思い返せば、寝ている間に見た彼の青ざめた顔、血のついた足袋、怪しげな革提かばんの中の金圓きんえん拳銃ピストルの不在、等々、歴然れきぜんとして鮮明に目に浮かぶ。

 恐怖で体が震えると、手に持っていた皿を落とし割ってしまった。


「秀さん、寒いから明日の朝になさいよ」

 秀三郎はお榮に呼びかけられ我に返った。

「オバさん、とんでもないことをしてしまった。今朝雄さんが潮多うしおたさん貰ってきて大事にしていた染付けの皿をこわしてしまった……」

「あの皿が割れましたか……寒いからねぇ。手が凍っているときは滑らして割るものだよ」

「野口君が帰ってきたら、怒るだろうな……。いけないことをした……。どうにかして同じような物を買ってきて、ゴマかしておこうか。オバさん、ごめんなさい」

「ナニ。いいよ。いっそのこと割れてしまった方が未練みれんが無くなってよかろうよ」

 このおえいの一言は秀三郎の心臓に名刀をくわえるかの如く刺さった。先ほど思い返していた考察がフラッシュバックする。

 掃除用具で割った皿を片付けて部屋に戻る。おえいは火鉢の前に座っているが手を暖めようともせず、膝の上で手を組み合わせ、目を閉じて、「南無阿弥陀仏なむあみだぶつ……」と唱えていた。秀三郎はただ黙然もくねんして、いのった。


「秀さん。お前さんはお聴きだろうね」

 秀三郎は深夜に警鐘けいしょうを聴いたかのように驚いて。

「何を……オバさん何を……」

「潮多が、誰かに殺されたって」

「……聞きました。可愛そうな人でしたね」

「いいえ、ちっとも可哀想なことはありません。人の生血をしぼり非道なことをするような人尾はどうせ終わりはこうなるものですよ。あぁ、おふきちゃんが少しでも親の気を受けていたら今朝雄もあれ程までには思いつめないものを……それはそうと犯人は見つかったんですかね?」

「どうだか……見つからなかったら大変だ。うーん……見つからない、見つからないかもしれん」

「悪いことをした人でも、ひと一人殺しては命は助かるまい。でも命を投げ捨てでも殺すというのは、よくよく我慢がならなかったのだろう。ああ、可哀そうに」

 犯人をおもんぱかるおえいを、秀三郎はとがめた。

「オバさん、冗談を言っちゃァいけない! オバさん、どんな恨みがあったにしろ人を殺す….これはいけない。今時そんな不条理ふじょうりなことがあって堪るものか。それにきっと、お金を沢山持っていたもんだから奪いにかかったが巧く奪えなかったから襲ったんだ。そうかもしれない。それさ。きっと物取り、強盗に違いない」

 力を込めて怨殺えんさつであることを否定したがおえいは納得しなかった。

「でもねぇ、潮多さんは大昔から恨みを買うようなことばかりしてた人だしねぇ。ここだけの話、金儲けの為に怪しい人と繋がっていたなんて噂もザラだった。誰だったか、確か雅桐がとう――」

 評定所に在籍した過去から今日まで、あらゆる罪跡ざいせきを喋り、如何に強欲ごうよく非道ひどうであったかを語った。

 しかしここで最も心配しているのは、「かの犯人は息子ではない」と思っているような言動だった。


「オバさん。今朝雄けさおさんは一体何の用があって静岡に行ったんです? 何だか知らないがとても陽気だったから変だと思ったんだが。急な用とはどんな事なんです?」

せがれの事はどうでもいいが、私はおふきちゃんが可哀相でならんよ。あんな親でも親には違いないし。それにおふきちゃんは大の親思いで……あの通り気が優しいだけになおの事。不憫でならないよ」

「おふうちゃんは驚いただろうね。これは驚くのももっともだ。だがこれを野口君にどう知らせようか……それにしては、僕には主空所を知らないし……」

「今朝雄はどこと定まった宿所はないだろう。いずれ出先で聞くには違いないが。それにしても用を達して帰ればいいと思うね。それが心配でならないよ」

「どんな用事なんだろう。オバさん。僕が気掛かりなのはなんか潮多さんと喧嘩したような事を…….」

「喧嘩喧嘩も大喧嘩。そんで潮多家で喧嘩をしてから急に旅行することが決まったって。それから帰りに水口みなくちとかいう人の所にへ行った。ところが、あいにく留守ねで。そこの家でも「今に帰ります。帰りますから!」というものだから一時過ぎまで待っていたら、その青澄はるずみとやらが返ってきて」

 おえいは、「倅は短気だからねぇ」と愚痴ぐちて。

「また大喧嘩をして、それから埒をこじ開けたのですぐに家に帰ったと言いましたが。本当に喧嘩好きで困るよねぇ……」


 この驚くべき大珍事だいちんじを聞きながらも平然として語るおえいの心中を察するに、まだ解明されていないものがある。秀三郎は有耶無耶の内に居続けさせられて、すぐ近くに答えがあるのに見失っている。

(これはもう直接聞いてしまうか……)


「私にはその用が分からない。何が目的ですか?」


 何故かおえいは笑みを浮かべ、少し笑いつつ。

「遅くも16日には帰るから、まあ、その時まで言いますまい。佳報かほうがある上でのこと」

 そう言い残して思い出したかのように、おえい二階へのぼって行った。


 秀三郎は行火あんかの火を消して、一人で考え込み夜を明かした。


 †

 その後、秀三郎は喧嘩の顛末てんまつを知りたくて、自分の心の迷いを解決するために、日ごとに新富町の潮多や木挽町の水口の家の前をうろついたりしていた。おふきにしろ青澄にしろ会えないものかと思うけれども明らかに問える話がなければ尋ねられるものではない。なのでひたすら奇遇きぐうを待ったが結局時が無駄に過ぎるだけだった。

(ひょっとして僕が阿保あほなだけなのではないだろうか……?)

 今の時点では今朝雄は疑われていないし、探偵にも捕まっていない。秀三郎の心の中には、今朝雄に対する心配のみがあった。それ以外のことで危機を感じることは無くなった。

 それからは毎日、両方の場所を通りながら、前のように人の家を覗くようなことはしなかった。


 †

 こうして日が経ち、一週間経った今日、今朝雄からの良い知らせが届くはずの1月15日がやってきた。

 おえいは朝から待ち遠しそうに2階の窓を開け、冷たい風が吹く中でも気にせず、通行人をじっと見ていた。

 秀三郎も新橋駅へ迎えに行った。


 †

 午後11時の電車の到着アナウンスが流れた。だがその最終電車にも、野口今朝雄は乗ってこなかった。



 秀三郎は呆然として家に帰った。


 ――野口今朝雄は、帰ってこなかった。


 †

 1月16日早朝。

 昨夜は「明日には帰ってくるだろう」と語り疲れて、朝起きてからも心疲れていた。

 朝食の準備もおえいにも手を借りてようやく朝餉の膳が並んだ。

 

 その瞬間とき。何やら玄関で物音がした。


「帰ってきたんだ!」

 秀三郎は飛び出すかのように玄関に向かい格子戸こうしどを開けた。


 そして、"その者たち"を見た瞬間、秀三郎は真っ青になった。


小官しょうかん警視庁けいしちょう第二局づめ警部けいぶであります。貴殿きでん当家とうけの何でありますか?」

「わ……私は……」


 ――が来てしまった。


「野口今朝雄は本月7日の夜。京橋区竹河岸にて潮多うしおた寛三かんぞうなるもの。それから昨夜さくや15日11時10分に木挽町四丁目にて水口みなくち青澄はるずみなるもの。両名を殺害した嫌疑けんぎがあり。それゆえに一時的に捕縛ほばくをしました」



 †††


 探偵【たん-てい】

 刑事巡査のこと。


 ――明治めいぢ時代の探偵とは、である。

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