【漆】(異)日常→異常

 †

「いやぁ、昨夜ほど困ったことはなかったよ。確か8時過ぎだったはずなんだけど。中橋まで用事で行ったんだ。竹河岸を通ると警官が『待て!』って言って、二人がかりで前後から取り囲んできやがった。その時は何のことだか分からなくて、マジで驚いたよ。すると一人の警官がワイのバックを取って、中身を全部調べて、ポケットや袖、腰紐の間まで全部見られたよ。『おっとこれは失礼した。だがお前はどこから来たんだ?』って聞いてきて、『へぇ、中橋から、今、家に帰るところです』って言ったら、『家はどこだ』って、『南八丁堀1丁目……番地、真福寺しんふくじ橋の近くです』って答えたら、ようやく許してくれたよ。ほんとうに驚いたよ。あ、マスター。檸檬炭酸飲料レスカ一つ」

「そうだったんですか。実は今朝から大騒ぎなんですよ。少々お待ちください」

「その話、俺も聞いたぞ。窃盗だったのかな。たかだか六〇〇ろっぴゃくえんのためにそんなことをするのは変だけど、多額のお金が入っていると思って奪ったのかなぁ?ああ、俺は珈琲コーヒーもう一杯」

「そうかもしれませんね。ここだけの話……結構、ひどい金貸しで、多くの人を苦しめた人だと聞いてますから、ひょっとしたら恨みからの犯行かもしれませんね。少々お待ちください。先に珈琲コーヒーを注文された方にお出ししますので」

「ワイが聞いた話だと、今は愛宕下あたごのした(※現在の港区新橋付近)の慈恵じけい病院にいるらしいけど、言葉もろくに話せないって言うから、難しいだろうねぇ」

「なあ、何時頃のことだったんだ? 6時過ぎか7時前だったって、犯人は京橋方面に逃げたって俺は聞いたけど、京橋きょうばしを渡って銀座ぎんざの人ごみの中に消えたんじゃないの?そこに入ったら、もう見つけられないだろうね」

「本当に度胸があるよなぁその犯人。それに拳銃ピストルで腰の部分をバンッ! って撃って、すぐにその拳銃ピストルを川に投げて、革提かばんを奪って逃げたらしいよ。革提かばんの中身を奪うつもりだったのかもしれないけど。とにかく、そんなことをした犯人がどれだけ長くその革提かばんを持っているかな……?」

「お客様、お待たせしました。こー…お客様? 会計? 飲んでませんのに? あの! お釣り!」

「それなら、おそらく京橋のどこかに捨てたのかもしれんなぁ。去年は年末に吉原で恋人同士の自殺があったし、今年は年明け七日に都心の竹河岸で日が明けたか明けないかの時間に拳銃ピストルでの殺人があった。きっと七艸の日には何かには呪いがあるようだね。とにかく、俺も割と知っている人のトラブルだったから、実に驚いたよ。気の毒だよ。」

「本当に気の毒なことだわ。どうなるんだろう、助かるのかな? あの年だし。それに、銃弾も見つかってないっていうし」

「…………」

「どうしたんだいマスター? 珈琲コーヒーは?」

「ワイの檸檬炭酸飲料レスカは?」

「あ……いや、さっきのお客さん。なんか血相変えて、金だけ置いて出て行ってしまいましてね。……これ飲みます?」

「お、先悪いね、有難アザっす」

「マスター、分かりましたぜ。そのお客さんが慌てて出て行った理由」

「はい? あ、檸檬炭酸飲料レモンスカッシュです。どうぞ」

「どうも。きっとあの人はさぁ、ワイたちの話を聞いて……」


革提かばんを捨てるのを忘れていた事に気が付いて、家に帰ったのさ」


「「「アハハハハハハハハッ」」」


 †

 秀三郎は『革提かばんという言葉を聞いた瞬間、即座に帽子を取り上げ、ドアを開けて外に飛び出した。もちろんお金は置いてきた、お釣りはいらない。

 驚異的なスピードで走り、野口家のある櫻田さくらだ備前びぜん町に辿り着いた。息を切らしながら、彼は潜んで野口の家を監視した。

 特に異常な様子はなく、二階からはおえいの咳の音が聞こえた。安堵した秀三郎は家の中に静かに入った。見ると今朝雄けさおはまだ寝ている、何も気付いていない様子みたいだ。

 すぐに今朝に見た革提かばんを取り出し、中身を確認した。


 中には、六圓えんの紙幣と、潮多うしおた寛三かんぞうへの手形の代わりに、松川まつかわ玄七げんしちという名前の代理人の名前が書かれた金貸しの証書が入っていた。玄七げんしちは確か寛三かんぞうの手伝いだったはずだ。

 その他にも、潮多寛三の署名と印鑑が押された証書も見つかった。

「う……虚偽ウソ……これは……もう……」

 驚きのあまり、全身が冷たくなり、震えが止まらなかった。すぐに革提かばんを元の場所に戻し、布団の近くに座った。

 その時、目の前に映ったのは、今朝雄の足の爪先から上の部分があかく染まっている様子だった。

(なんで……そんな……)

 ほとんど息ができなくなった。まるで死んだかのように、思考が、心が停止している。

 今の状況、彼の姿、その事物は完全に先ほどの凶話きょうわが当てはまっていて、恐ろしくて仕方がない。否定する材料が見つからない。

 さらにおえいの話を思い出して更に胸がざわつく。


 ――他でもないひでさんが知っての通り、せがれは凝り性の代わりに一つの事が間違うと、ムラムラとした気が出て前後の考えもないあらい事をする病があって。時々これで泣くことがあるからねぇ。


「違う……野口君は……そんな……」


 内海は再び震え始めた。この状況でどうすべきか、そんなことも考えられない。ただ茫然として今朝雄の顔を見つめていた。

 彼の顔は淡黒あさぐろく、どこか悲しい表情をしていて、彼の本性が現れているように思われた。皮膚の色は血の巡りが悪いように見えて、さっきよりももっと恐怖を感じざる得ない。


(……拳銃ピストルって……言ってたな)


 ふと以前に今朝雄けさおが持っていたと言って大切にしていた拳銃を思い出した。


『年末にはぞくが出やすいからねぇ。私たちのような貧乏人でも、こういうモノは常備しておくべきだよ』


 半年前までは役人だったので、泥棒や暴漢が来るかもしれないと考え、準備としてその拳銃を油で手入れし、弾を装填していたのを覚えている。

 もし、その中の一発でも発射した跡があれば、残念ながら彼は殺人の疑いを避けることはできないだろう。

(いやいやいや……無い無い無い……そんなことあるわけが……》

 まるで夢遊病の如くフラフラと今朝雄の用具置きを漁る。拳銃を確認しようとして、小箱を手に取った。


 開けると、弾が装填されているか、さもなくば。


(信じさせてくれ――)

 発射の痕跡がないかを確認しようとして、緊張しながら目を閉じ、小箱の蓋を開けた。


 ――中には拳銃の姿は見えず、ただ紙だけが残っていた。




 あの喫茶店の客人の言葉を、思い出した。




 秀三郎はその場に倒れ、完全に意識を失った。





 †

 ようやく意識を取り戻した。秀三郎は息をするのもやっとで、周りを見渡し、腕をこすり、腰を撫でながら、力なく立ち上がった。

 今朝雄の姿が、無かった。


(野口君は……!?)




 野口は――




「ふぁあ。よく寝た。ああよく寝た。おかげでトイレが詰まるぐらいションベンが出たわアーハハハ。おっと、荷物の整理整理っと」

 普段通りに起きて、トイレで用を足し、洗顔をして、着替えていた。

 彼の顔色はちょっと青白く見えたが、昨日の彼と、今朝の彼に違いは見えない。


 内海は再び放心状態になった。

 真実しんじついつわりか、現実うつつか、ゆめか、を区別できず、深い霧の中に迷い込んだような感じで、全てが曖昧となり、大きな息を吐くしか出来なかった。


「どうしたんだい、秀三郎君。まるで化物ばけものを見るような眼をして。また私をバカモノと怒るのかい? アーハハハ」


 そこには、いつも通りの野口のぐち今朝雄けさおがいた。

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