【伍】悪夢

 †

 おえいを寝かせた後、秀三郎ひでさぶろうは二階に聞こえるように大きな音を立てて、ちゃんと玄関の扉を閉めた。

 そして二人分の寝具を敷き、一人で寝床に入る。



 †

 布団に入りはしたが、寝られない。

 寝ようとするも、どうしても眠れずに必死に目を閉じて布団を被る。

 すると、何かが目に映り出してきた。


 暗闇あんこくの中、今朝雄の姿が目の前に浮かぶ。その表情はあまりにも凄惨せいさんであり、免職クビの辞令を受けた時よりも、結納を反古ほごされた時よりも、かつてどの不幸があった時よりも更に失意を強めている。


 ――まるで死人のような顔だ。


 眼は充血し、肌は血の気が無く、額は鈍く光り、色のない唇が震えている。

 顔面がんめん蒼白そうはく眼睛がんせい悲憤ひふん。どう言い表すべきか分からない。


(消えろ……消えろ……)

 幻想もうそうを頭から消す為、秀三郎は布団を跳ね除けて寝なおした。


 今度は大晦日の夜から妄言ノロケを吐く今朝雄が、手に取るように大言壮語する姿が浮かぶ。

 昨日の午後に出かける時の異常な様子まで思い出すと、彼が出かけた際に胸が落ち着かなかったことを思い出す。

 おえい潮多うしおたを侮蔑する愚痴ぐち幻聴きこえてくる。今朝雄が失意しついして、ほとんど人としての判断を失い、激怒する姿が幻視みえてくる。

 睡眠を妨げる悪夢もうそうが止まらない。

(早くかえってきてくれ……)

 今夜こそは早く戻り喜報をもたらすと、母にも秀三郎にも安堵させると、今朝雄は強く誓って出かけたものの、彼は帰らない。


 秀三郎の心配は尽きず、彼を念じ、彼を想い、心にもない想像を引き出し、脳の血がたぎり、胸が痛み、全身が麻痺し、興奮剤を服用したように神経が鋭く、まなこが冴える。


 耳に、狂響ひびく。


 †

 一時の音が聞こえる。


 ――彼はまだかえらない。





 二時の音が聞こえる。


 ――彼はまだかえらない。





 三──の──こえる。


 ――彼──まだ――





 ――――――――


 ――――




 ――――――――


 ――――





 ――六時の音が聞こえた。

 ――――ッ





 †

(野口君は……!?)


 秀三郎は頭を上げ、周りを見渡した。

 枕元のランプはまだ微光を漏らし、自分以外に眠っている人の顔の半分を照らしている。


「んがー」

「…………」


 野口今朝雄がイビキをいて寝ていた。

 いつの間に帰ってきたのか。枕は足元で、身体は布団の上。表裏も前後もひっくり返って、非常に疲れ果てた様子で深く眠っている。


「なあキミ、生きてるか?」

「ぐー」

 揺り動かしても起きる様子がない。

「返事がない。ただのしかばねのようだ」


 この時、初めて自分が二時間ほど疲れに疲れて眠っていたことに気づいた。恐らくその間に今朝雄は帰ってきたのだろう。

のために長い冬の夜を思い明かしながら過ごしたのか)

 そう思うと、なんだか可笑おかしくなり、昨夜の異常おかしい幻想もうそうは春の雪の如く消え失せてしまった。

 『疲れ切った者を無理に起こすほど無粋な行為は無い』とは誰の言葉か。自身で目覚めて起きるまで、彼の睡眠を任せるべきだと思った。

 足音を立てぬようしのび足で自身の布団を畳む。ついでに枕元へ朝日が差し込まないよう、古びた二枚折りの屏風で今朝雄の頭の周りを閉じ、安眠できるようにした。


 †

ひでさん、せがれは帰ってきたかい?」

「死んでます、イビキをいて」

「なら良かった」

 今朝雄は朝の支度を終え、おえいに朝食を持っていき、自身も同様に食事を済ませる。

 しばらくすると一階の寝室から雷聲らいせいのような大きな声が響いた。


「ヒギャぁああああ!!」


 二人が向かうと今朝雄は大きくイビキを掻いて、再び寝返りを打っている。だが深い眠りから覚める様子はない。

 時折、何かに怯えるかのように見え、恐ろしい声を上げて苦しんでいる。何度も見ていると、額から汗が滝のように流れ始めた。

 内海は手早く今朝雄の頭に手を当てた。


 ――その時、何か光るものが見えた。


「どうだいひでさん? せがれはどうしたんだい?」

「これは――」

 息を呑むように状況を把握し、確信を以て告げた。


「――悪夢あくむを見てうなされているだけです」

「そうか、なら良かった」

 おえいは再び二階に上がり戻って行った。


 お榮が戻ったことを確認した後、秀三郎は手を伸ばしてそっとを取り出した。

 見ると、それは高級そうな新品の革提かばんであった。

(おかしいな、この革提かばんは見たことがない)

 今朝雄が所有する物品について、秀三郎が全て把握しているという訳ではない。だが昨夜いつもと違って遅くに帰宅をし、今も普段持ちそうにない革提かばんを置いて寝ているというのは、彼の行動に疑問を抱かざる得ない。

(いや……いや……馬鹿な事を考えるな。あれは幻想もうそうだ)

 いつもは信頼している秀三郎の心境も、今ではすっかり参ってしまっている。

 精神は迷い、魂すら混乱し、疑問とまでは言えないが、何かが胸をざわつかせている。


「そうだ、話を聞きに行けばいいだけじゃないか」


 今ここで疑問に満ちた苦しみに悩み考えるより、新富町に行って、何とかしておふきに会い、昨夜の事情をうかがう方が確実だ。

 それで安心出来るだろう。そう思い立ち、その謎の革提かばんを元の位置に戻して、急いで二階に上がった。


「オバさん。僕はチョイとそこまで用事を済ませに行ってきますから、少し下を気にかけてやってください。今朝けささんはとても草臥くたびれてるようで、まだグーグー寝ていますから。僕が帰ってくるまではそのまま寝かせておいてください」

「あいよー」

 おえいに伝えた後、秀三郎は襟巻えりまきを取って首に巻き、帽子を取って頭に被った。そして、玄関で脱ぎ捨てていた自身の下駄を履き、格子戸こうしどを開けてすばやく飛び出して行った。

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