【弐】27歳の独身息子が突然会社をクビになり婚約破棄されました助けてください

 †

 野口のぐち今朝雄けさおは中央官庁電信局の役人であった。

 月給は四十えん。高給取りとまではいかないが相応の生活ができる程度の給料を貰い、貧しさとは無縁の人生を歩めている。

 しば櫻田備前さくらだびぜん町(現在の港区西新橋)にて老母ろうぼと共に暮らし、同郷である静岡から上京してきた親友、『内海うつみ秀三郎ひでさぶろう』という二十三歳の書生を止宿としゅくさせていた。

 順風満帆な人生だが、そんな彼の先々を懸念けねんする者がいた。


 野口今朝雄の母、『おえい』である。


「なあせがれよ。そろそろ家事が上手で、気遣いが出来る、そんな素敵な家族が必要だと思わんか?」

「? お手伝いさんがいなくても我が親友であり懇情實篤こんじゃくじつとくを体現したかのような内海クンが家事をしてくれているだろう。彼のどこに不満があるんだい」

「……あー、そう」


 いつもそんな調子なもんだから、老いたる者の常として、おえいは息子が二十七歳にもなって独り身であることが心配でならなかった。

 もういっそのこと秀三郎を嫁にするんだか、今朝雄が嫁になるんだか、『そう』であるのならば、それはそれで諦めがつく。しかし二人の言動と態度を見るからに『そう』ではないらしい。ならば早く良い嫁を迎えて自分が生きているうちに初孫の顔を見せてほしい、と明け暮れに迫っていた。

 おえいは自ら人をさがし、近所の若い娘たちにもそれとなくうかがうこともあった。


「なあ、おいちちゃん。うちの今朝雄はどうだい?」

「うーん、私はどちらかというとダンディな今朝けささんよりイケメンのひでさんの方が好みなのよね」

「そうかね、それじゃあ仕方がないね。およねちゃん。あんたはどうだい?」

「え?! 今朝雄けさおさんってヒデクンとそういう仲じゃないんですか!?」

「ちゃうよ。はい、じゃあおいつちゃんは?」

「ごめんなさい……私は二人の関係を遠くから眺めている方が好きなんです。なんなら野口家の柱になりたい!!」

「ギャヒーー!!」


 それから程なくして、同じ故郷の静岡から上京じょうきょうした御家人、今年で二十九度目の春を迎えた潮多うしおた寛三かんぞうという男が、妻のおみき、そして可愛らしく育った娘『おふき』の二人と共に新富しんとみ町二丁目にて隠居している事を知った。


「今朝雄オにィ様? 覚えてますヨ! おえいさんにシコタマ怒られていた

 はい、です。


 よくよく聞くと、おふきと今朝雄は幼き頃に顔見知りの仲であるらしく、これは良縁になるだろうと思ったおえい寛三かんぞうのもとに訪れて縁談えんだんを申し入れた。


 寛三は

正直せいちょく不撓ふとう(真っ直ぐで不屈な者ならば娘を差し上げてもいい)」

 と前提して。


澆季ぎょうき溷濁こんだく(だが昔と違い今の世は人の心の義理を薄くしてその妻を迎えるにしても愛人を抱えるが如く扱い、飽きればすぐに離別して新しい愛を求めようとするような奴がいる。これというのも結局、姿だけを見て心を問わない罪である)」

 と語り。


比翼ひよく連理れんり(ならば彼方そちら令息れいそく此方こちらむすめを互いに親しく交流させて、気心が通じた後に結納ゆいのうするのも遅くはない)」

 と答えた。


 それもそうやね、とおえいも納得し、それから野口家と潮多家は親戚のように交流することとなった。

 今朝雄とおふきは同郷という話題があったので自然と話が弾み、おえいも注視はしていたがそれに任せていた。でも正直しょうじきな所、正直せいちょくとは言い難い不当ふとうせがれだから、おふきちゃんに悪い事したかもしれないねぇ、と非常に申し訳ない気持ちを抱えつつ粛然しゅくぜんとしていた。

 

 だが人の心は数奇なもので。

 今朝雄は、おふきに惚れに惚れて真面目になった。

 おふきも、そんな今朝雄を慕うようになった。


 明治20年6月18日。

 ──ついに二人は結婚けっこんする事となり。


 その日の前日、つまり6月17日。









 突然とつぜん、野口今朝雄は仕事を免職クビになった。





 当然とうぜん、結婚も見合わせる事になった。





 誰かがその良縁を妬んだのか、それとも単なる偶然ぐうぜんか。





 その原因は依然いぜんとして判明していない。


 †

 大晦日の混雑は深夜にも及んでいたが、午前三時となれば世間もしずまる。野口の家でも三人はゆく年くる年、寝ようか寝まいか悩んでいたが、あっと言う間に明治めいぢ21年の1月1日を迎えた。


 『年の節目は一夜をさかいに人の心があらたまる』と今も昔も言われてはいる。それはさておき、年始は近所を巡りて挨拶周り、雑煮ぞうにを炊いて、お屠蘇とそを振る舞い、年賀の式はすみやかに、まるで玉を落とすかの如く時は過ぎていく。


 明日こそ七草粥に箸を取るべき、1月6日。


 おえいは寒気のせいか気分を悪くして夜から二階で伏していた。

 一階の座敷ではのんびりくつろぐ野口今朝雄と、書を読み居る内海秀三郎が相対している。


「野口君、あてにされちゃ困るけど例の話はほぼ纏まりそうだ。アレさえ出来れば、まあ少しは……」

 秀三郎は上を仰ぎ見て。

「……心配事が減るだろう」

「いやあ親友は持つべきものだなぁ! キミの親切しんせつは実に有難い。ところで親切って『親を切る』と書くが物騒だと思わないかい?」

したしくせつに想うのが親切。さんざんおやを泣かせ期待を裏切うらぎったのが野口君」

「アーハハハ。これは一本取られた。ウンウン。もうあんな事はしないよ。道楽どうらくとは縁を切ったからね」

 秀三郎の皮肉な冗談にも意に返さず、今朝雄は上機嫌であった。

「まあ喜んでくれたまえ! 僕も多分15日には少し懐が快復する事があるから。そうしたら、いよいよ『ふ』の字と立派に結婚する! 実は大晦日の晩にも大泣きに泣かれてさぁ……デヘヘ」

 『』の字な今朝雄は意気揚々と妄言ノロケを続けるが、その戯言を秀三郎は怪訝な顔で受け止めていた。

「なあ君、僕はどうも気にかかることがあるんだ」

 秀三郎は本を閉じる。

木挽こびき町八丁目にいる『水口みなぐち青澄はるずみ』という男を知ってるか? どうもアイツが『潮多の人に直談判して既に事の半ばを成就した!』なんて嘯いている、という噂が流れている、らしい。おふきさんだってあの通り素直すなおな性格だから、親の言いつけならどうも嫌だとも言い切れまい。僕はこれが実に気にかかって……」

 その懸念を知らずか今朝雄は手を振って制止した。

「よろしいよろしい。もうそれを心配するな。明日の晩は新富しんとみ町へ是非行かなくってはならないから、その時に立派に談判だんぱんを遂げてくるよ。なぁにそんなハルズミだかバイキャクズミだか知らないが、そんなどこぞの誰が潮多家に言い寄ろうとも、野口今朝雄の名において他人に愛慕あいぼを奪われるようなドジは決して踏まんさ! アーハハハ」

 と今朝雄は大言壮語を吐いて忠告を打ち消し、寝室へと入っていった。


 相変わらずつまらないだけの筈の今朝雄の冗談ジョークも、今回は致命的な失敗をする予感フラグにしか思えない。強いて尋ねることはしなかったが大晦日の時といい、素振りが怪し気な感じが秀三郎を密かに心悩ましていた。




 同刻、奇しくもその不安は新富町の方でも伝播でんぱしていた。

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