『硝烟劔鋩/殺人犯』~日本最古の探偵~

九兆

前編 日本最古の〇〇探偵

【壱】明治20年12月31日

 何時がおとろえであるか

 何時がさかえであるか

 さだめはない。


 何處どこまるか

 何處どこるか

 さだめなければいけない。


 幾多の根拠を駆け抜けて

 は無数を探し出す。


 うたがい。


 うかがい。


 なに見得みえる。




 ─────────────

 ショウ   エン   ケン   ボウ


 サツ     ジン     ハン

 ─────────────


 †

 昼頃は雪が少し降り、寒さが厳しく感じられた。しかしすぐに雪が止み、雲は散り、空が晴れ渡っている。

 まるで春の空を仰ぐ景色に見えた。


 時は明治めいぢ20年(西暦1887年)12月31日。


 この日は一切の事を終わらせ、泰然たいぜんたる気持ちで新年を迎えるべき日である。

 市街地の賑わいは平日の十倍になっていた。

 『世は不景気なり』と言われてはいるが、道行く人々は服を一列に並べたかのように肩や袖を擦り合わせて歩いており、車はえん衝突ぶつけそうな勢いで走っている。まさにえんを交えぬ場所は無し。

 中でも東京都中央区の日本橋南側から新橋北側まで、京橋を中心として栄えている。日本橋方面では南伝馬町の歳の市があり、新橋方面にはレンガ造りの大通りに露店が並んでいる。

 せわしい人は前に進み難く、ゆるやかなる人も走り出す、そんな年末であった。


 唐突に時計台が金色こんじきの鐘の音を上げ、午後五時を告げた。

 すると街中のガス灯が光り出し、千万の照明が競い合うかのように輝きを放つ。それに負けじと商店街の店先には輝かしい提灯ちょうちんが高く掲げられ、数十の商店には花の如くイルミネーションが彩られていた。

 大昔の夜はあかりが無く闇黒あんこくであったが、今の時代は昼間と見紛う程に煌々こうこうとしている。

 この美しき景況を詳述するには巻物が必要なほどであり、それでもなお語り尽くせない。ただその一部を記すのみである。


 †

 その日の晩、午後9時40分頃。人影も下駄の音も少なくなった銀座一丁目の西側。

 丸十商店の前でたたずむ女性がいた。どうやら人待ちをしているようだ。

 目深に被った高級な絹織物きぬおりものの頭巾。ショールで包まれる半身。その下には琉球の織物で作られた美しい柄の小袖だけが見える。浅黄あさぎ色の鼻緒をたてた駒下駄を穿き、絹紐きぬひもで編まれた21.3センチばかりの足袋たびを履いていた。

 その何度も上げ下げしている足先を見るに、長いあいだ立ち尽くしているように見える。

 美醜については判別が難しいが、頭巾の隙間から透き通るような色白で美しい鼻筋を覗かせている。


 やがて京橋の方から急ぎ足で走る男が来た。

 古びた山高帽子をかぶり、鉄色の縮緬ちりめんえりきと黒紬くろつむぎの羽織を着て、甲州銘仙の二枚小袖に紺色の帯を締め、毛糸の股引きを履いたまま裾を高くたくし上げ、半靴を履いている。祝儀しゅうぎの袋に何かを入れて小脇に抱えていた。彼の顔は淡黒たんこく色の少し長め、キリキリと引き締まった顔立ちに美しい髭を蓄えている。だが、何故か焦っている様子だ。

 男は下を向きながら足を速めていたせいで、うっかりと佇んでいた女性にぶつかってしまった。


「これは失礼、つい急いでまして…………」

「いえ、どういたしまして。わたしもぼんやり致しておりました」

 と互いの挨拶のうちに顔を見合わせる。

「おや? おふきさんじゃありませんか!」

「まあ失礼、野口さんでしたか。最近はちっとも来られないから如何どうなさったかと思いましたヨ」

 相手がおふきだと分かった瞬間、その男、野口のぐち今朝雄けさおの引き締まった顔立ちは途端に心苦しそうな表情へと変貌した。

「あ、その、いや、どうも、そう仰られると誠に面目ないことで、誠に早くお伺いしなければならない筈ですが、誠に調整が難しいので、つい遠慮して、ご無沙汰ぶさたになってしまって、誠に申し訳ありません」

 矢継ぎ早にまくしたて、ヘコヘコと何度も頭を下げる。そのせいか帽子が今にも落ちそうだった。

「さぞ御隠居様はお立腹でしょう? 何とか利子だけでも持って、言い訳がてらにお伺いしに上がればよかったのですが。あのお方はご承知の通りの気性ですから、つい。ここで参らずに今夜は遅くに上がってお話しを致しますから。実はこの通り奔走ほんそう中で、どうかここでお目にかかったことは内緒にしてください。いずれお後から直ぐに上がりますから」

 そのまま立ち去ろうとする野口を、おふきは引き止めた。

「もう野口さんったら! みっともないですヨ。道端じゃありませんか。それにわたしはアナタにそんな言い訳をさせる為に聞いた訳じゃありません。そう取られるとわたしは本当に悲しくなります……」

 むしろ謝り倒したことで機嫌を損ねてしまったようだ。口を尖らせて怒るおふきに対し「それは私も……」と申し訳なさそうに呟く野口。

 ほんの少しの静寂の後、野口は何か気付いたかのように尋ねた。

「おふきさん、買い物ですか? お一人きりで御連れは誰も居ませんじゃないですか」

 おふきは疲れ切った様子で大きくため息を吐いた。

「あのね、ただ今、阿母おかあさんと一緒に参ったんですけどね。かんざし屋の中で夢中になって動かなくなっチャって、わたしはガス灯でのぼせてのぼせて仕方がないから断って、先に外へ出て待っていたんですヨ。そしたら……」

 おふきは微笑ほほえみ。

「本当よ、野口さん。アナタに会えてこんな嬉しい事はありません」

 その笑顔を見た途端とたん、野口は背筋をピンと伸ばした。先ほどのような見苦しさも心苦しさもない、キリっとした顔となり、おふきを見つめてハッキリと告げる。

「まあ聞いてください。今度こそ、いよいよ貴女あなたと結婚することが出来る。もう一月とは待たせませんから。きっと。おふきさん」

 彼の恋人であるおふきは、その話に歓喜かんきした。

「え、本当!? まあどうしよう……ぁ、嬉しい! 今度は間違いありませんよね? え、きっとですよ、ネ? ね?」

 今朝雄の顔を覗き込みながら、おふきは何となく憂いの色を見せつつ、「大層ご苦労したと見られますねぇ」とねぎらった。

「なに、別に苦労という程でもないですが、実は貴女と堅くお約束したのがこのような金事情の間違いになったものだから。もしや心変わりされるんじゃと思って心配で……」

「それはアナタ、わたしこそ決まりが悪くて、心配で心配でならないんですヨ。申し訳ないけどお父さんが妙な事言い出すし……でもわたしが言いたいのはそういうことじゃありません」

 今朝雄は今までガス灯の光を背に受けて商店の照明を斜めに避けていた。しかし直接向き合うと明らかに衣服や襟元の汚れが目立つ。冬に入った頃に新しくした筈の襟がくたびれ、友襟を外した場所が縞柄に見えるほど汚い。おふきはそれを見逃さず、彼の風貌や様子から先ほどの喜びを強く取り去っていた。

「野口さん、今の話は大丈夫ですか? またわたしを安心させようと気を使って言ったわけじゃないですよね? 前のことがありますから心配ですヨ」

 不安がるおふきに対し、野口はさも問題ないかのように「決して心配をなさるに及びません」と答えた。

「実はね、来月七日には他から約束の金が届く筈だし、それに静岡から二千圓ほど来る約定もある。これは私の所有権のある金だから決して間違いありません。だから遅くも二十日過ぎには立派に結婚が――」


 「阿母おかあさん」


 今朝雄が喋るのを遮るかのように、おふきは声を挙げた。振り向くと、おふきの母と思われる老女が店から出てきていた。

 おふきの母親、『おみき』である。

、待たせて悪かったね」

 鋭い眼付きで両人の立ち姿を見据えて。

「おやァ? 今朝雄さん良い所でお目にかかりましたね」

 おみきが現れた瞬間、今朝雄は先ほどの自信が消え失せ、急激に焦り出した。彼の気持ちを知ってか知らずか。

「ウチに御用があるだろうから、今晩の事ですから、大晦日でございますから。チョイとうちまで来ておくんなさい」

 まるでついでのような誘い文句である。しかし、どう聞いてもでは済まされない声色こわいろだ。

「さァ御一緒にいらっしゃって頂きましょう。真福寺橋しんふくじばしを渡ればすぐそこですからねェ。ふぅにお連れができて安心だ。さァご一緒に行きましょう」

 無理にでも連れていこうとするおみきに対し、今朝雄は頭を深く下げて陳謝した。

義母おっかさん、どうか今だけお見逃しして頂けませんか。出直して是非とも上がりますから。どうぞ野口のぐち今朝雄けさおを助けると思って、ね、ね。その代わり今度はきっと御違約はしませんから。ねね? 義母おっかさん」

 おみきは怪訝な表情を浮かべた。

「私はもうお前さんに義母ははと呼ばれる筋合いはございません。……まあ、お前さんが嘘を吐かずに義理堅くなさるなら再び義母ははと呼ばれまいものではありませんが」

「今夜は出直してすぐに行きます。それに一部の金は七日までにはお渡ししますから。どうぞ今夜お目に掛かった事は内緒に……それではせわしなくて申し訳ございませんがこれでお別れ申します。御歳暮にはいずれ後日……」

 そそくさと去ろうとする野口であったが。

「……ぁぁ、忘れてた。義母おっかさん、このせつは御持病は如何いかがでございますか? 丁度、日本橋の方で用事がございましたから、ついでに人形町で清婦湯せいふとうを買ってきたんですよ。少々お渡ししましょうか。なぁに沢山買いましたから、くすりというものは幾つあっても御用達でございますからね。ここに三つあります」

 ヒョイと今朝雄はたもとの中から薬を取り出して、紙に包み、おふきに手渡した。

 愛らしき手で受け取り母親に渡す。その際、おふきは密かに近づき、母親に聞こえぬように。

「あの、きっと今夜は来てくださいヨ。そうでないとまた違約だと言って、ますます面倒になりますから」

 そう言い伝えて母の方へ戻った。

「寒いから帰りましょう。野口さん、ではまた後で……」

左様さようなら、お待ち申し上げておりますよ」

「どうか内緒に……それじゃあまた後で……」


 野口は逃げるように走り出し、大晦日の夜を駆け抜けていった。

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