第36話 もう一度、あなたの元へ




 セシル、と。


 そう呼ぶ、彼の声が耳に届いた。


 ずっと伝えてこなかったが、セシルは彼に名前を呼ばれるのが、すごくすごく好きだった。

 彼の屋敷に来るまでは、母以外の人に、ずっと小娘か聖女としか呼ばれてこなかった。だから、初めて身内以外から「セシル」と呼ばれて嬉しかったのもある。


 少しの照れを織り交ぜながら嬉しそうな声で、彼から「セシル」と呼ばれるのは、くすぐったく感じていた。それは、彼を信用していなかった時からそうだったかもしれない。


 だから、敵の手の内に落ちるか、四階から物理的に落ちるか。そんな瀬戸際でも、彼の声で名前を呼ばれて、セシルは嬉しかったのだ。


「伯爵め、もう追いついたのか」


 エレンは忌々しげに舌打ちをして、いよいよセシルを捕まえようとする。しかし、セシルは口端を上げて彼に微笑みかけた。


「ごめんなさい。あなたとは、一緒にいられない」


 そのままセシルは後ろに倒れた。後ろには支えがないため、セシルは下へと落ちていく。すぐに落ちていく浮遊感に見舞われるが、不思議と恐怖はなかった。セシルは、信じていたからだ。



 きっと、あなたは受け止めてくれると。



「セシル!!」


 ふわり、と。誰かが自分を受け止めてくれた感覚がした。


「アルベール様‥‥‥」


 セシルがゆっくりと目を開けると、そこには予想通りアルベールがいた。彼は険しい顔をしている。


 こうして、セシルをアルベールが受け止めたのは、二度目だった。初めは、セシルが王宮から追放された時。セシルはルーウェンに突き飛ばされてバルコニーから落ちたのだが、あの時アルベールが受け止めてくれたことから、全てが始まったのだ。


「君は、どれだけ危ないことをしたのかー‥‥」

「好きです」


 その言葉を、言わずにはいられなかった。きっと、今言わなければ、一生言える気がしない。セシルは彼の首に手を回して、顔を見せないようにした。


「好きになってしまいました。あなたを」


 それしか言えない、セシルの精一杯。しかし、以前よりも距離の縮んだその言葉に、アルベールは目を見開く。

 そして、長い長いため息をついた。


「‥‥‥‥君は、本当に無茶をする」

「ごめんなさい」

「なのに、怒る気も失せてしまった」


 どうしてくれるんだ、と。アルベールはセシルの頭を抱き寄せた。彼の吐息が耳をくすぐる。


 セシルは、その状況にドキドキして、うまく言葉を紡げない。


 彼が優しいから、勘違いしてしまいそうになる。


 アルベールはセシルの腕を解いて、目と目を合わせた。そして‥‥‥


「セシル。俺も‥‥‥‥」

「よくもやってくれましたね」


 声を上げたのは、まだ建物の中にいるエレンだった。彼は、窓から身を乗り出してこちらを見ていた。

 怒りの感情を浮かべながらも、セシル達を馬鹿にするように笑った。


「けれど、これは王宮命令ですよ。国自体があなたの敵なんです。どうなると思いますか?」


 セシルはその言葉にビクリとしたが、アルベールは全く動じなかった。


「‥‥‥‥愚かだな」

「は?どういうことですか?」

「王宮から出る前に、協力者から情報をもらったんだ。実はあのパーティ、隣国の重役が来ていてな。聖女の扱いにご立腹だったんだ」


 アルベールはあくまで淡々と言葉を続けた。大司教が来た時には、アルベールは既に王宮を出ていたが、そこでの様子の情報を今回の協力者から得ていた。

 エレンは体を震わせながらそれを聞いていた。


「もちろん、セシルが連れ去られたことも知って、大司教は説明を求められた」


 相手を嘲る訳でもなく、馬鹿にするでもなく、彼は淡々と事実のみを伝える。


「これは、エレンという元聖女がやったことで、自分は何も知らないと言ったんだ。貴様は罪をなすりつけられたんだよ」


 彼は体をわななかせた。


「許さない!!」


 そして、こちらに向かって手をかざした。その瞬間、強い光が二人を襲う。


「エレンの名の下に命ず! 私にとっての敵をすべて払え!!!」

「聖女・セシルの名の下に命ず。彼女の魔法を妨げ」


 セシルはすぐに、彼の魔法に対抗をした。魔力量はギリギリだ。しかし、セシルの魔法は明らかにエレンの魔法を圧倒していた。


 その証拠に、彼の聖魔法の光は、こちらまで届かず、セシルの聖魔力の光が飲み込もうとしていたのだ。


「なんで、なんで‥‥‥?!」

「私の母は大聖女ですよ。あなたの言う通り、能力に血が関係しているのなら、私の方が強いのは当たり前です」

「‥‥‥っ!」


 セシルの黒い光が強い閃光を放ち、彼の魔法を飲み込み浄化した。その瞬間、彼は力尽きて後ろに倒れてしまったようだ。彼の姿が窓から見えなくなる。


 セシルは彼の見せた必死な表情を思い出して、少し切なくなった。

 彼は、自分の父に認めれたかっただけなのだろう。彼の行動原理は全て大司教にあったのだから。


(私は、あなたを兄だと認めます)


 これからも彼を許す気はないし、再び彼と会うこともないだろう。しかし、誰が認めなくても、自分だけは彼を家族だと認めようと。セシルはそう思った。


 そこで、セシルは力尽きて、膝をついてしまう。


「大丈夫か?」

「はい。彼は聖魔法で眠らせただけです。なので、大丈夫ですよ」

「俺は君の心配をしているんだ」


 へらっとセシルが笑うと、アルベールはひょいとセシルを横抱きにして持ち上げた。セシルは「わっ」と声を出す。


「ちょ、歩けますって」

「それはよかった」

「下ろしてって話です!!」


 しかし、アルベールはガッツリとセシルを抱えており、下ろす意思はないようだ。


(前もこんなことがあったような‥‥?)


「嫌なのか?」


 アルベールは、コツンとセシルの額に自分の額をぶつけた。どうやっても、目を逸らすことが出来ない状況だ。


「嫌とかではないですけど‥‥‥」


 嬉しいけれど、恥ずかしい。何より、こんなことになってしまって情けない。そんな複雑な気持ちを言おうとすると‥‥‥


「あ! アルベール様、セシル様は見つかりましたかー‥‥‥」


 やって来た兵士は、額を合わせている二人を見て、固まる。そして、顔を真っ赤にして頭を下げた。


「失礼致しました!!」

「ちょっと、違いますから!!!」


 何が違うのか分からないが、セシルは言わずにはいられなかった。


 その後も、セシル救出に来てくれた兵士たちがいたのだが、アルベールはセシルを下そうとしなかった。


 そのせいで、皆から生温かい目線を送られるはめになった。デニスでさえも、その中に混じってニヤニヤと笑っていたのだから居た堪れない。


 “穴があったら入りたい”という気持ちは、こういうことかと思ったセシルだった。

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