第16話 つくったお菓子を渡したい
セシルはベットに寝転がり、今日作ったクッキーを見つめた。地面に落とされたものだったが、放置するわけにもいかないので、拾ってきたのだった。
(結局、渡せずに終わっちゃったな)
レインやデニスには、転んで落としてしまったと伝えた。余計な心配はかけたくなかったし、嫌がらせで落とされたなんて惨めで嫌だった。
二人は「また作ればいい」と励ましてくれたのに、いつまでもウジウジ考えてしまう。
(だめだな、私)
伯爵家に来る前は、こんな風に一つのことに固執することなんてなかったのに。すべて仕方ないと割り切ることが出来たのに。
その時、コンコンと扉が鳴った。セシルは慌てて棚にクッキーを隠す。こんな遅くに誰だろうと思いながら、開けるとそこにはアルベールがいた。
「遅くに悪いな」
「いえ、まだ寝巻きにも着替えていないので」
常識の範囲内だろうとセシルは考え、部屋に招き入れたのだが。
「いや、ここでいい」
「寒くないですか?入って下さいよ」
「‥‥‥分からないのか?」
セシルが怪訝な顔を見せると、アルベールは
「若い男を部屋に入れることが、どれだけ危険か」
「‥‥‥‥‥!」
思わぬ言葉に、セシルは顔に血が上るのを感じた。
「わ、分かってますけど!」
「それならいい。勘違いする輩もいると思うから、気をつけてくれ」
渋い顔をしている彼を見て、セシルは呟いた。
「旦那様、お父さんみたい‥‥‥」
「お、お父さん?!」
セシルは教会にいた時、大司教から理想の父親像というものを習っていた。アルベールは、その時に習った娘を心配する父親像にそっくりなのだ。
そんなセシルの言葉を聞いたアルベールは軽くショックを受けている。しかし、すぐに気を取り直し、セシルに問いかけた。
「ところで、だ。何か渡すものはないのか?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥え?」
「例えば、お菓子とか」
(なんで、知ってるの?!)
セシルは「なぜ」と目を回した。しかし、答えは分かっている。レインかデニスが彼に話したからだろう。それ以外考えられない。しかし、そのお菓子は捨てられてしまった。ここはしらばっくれるしかないと、セシルは覚悟を決めてにっこりと笑った。
「いえ。何も渡すものなどありませんよ」
それに対して負けず劣らずの笑顔でアルベールも返答をする。
「そんなことはないだろう」
「そんなことあります。夜も遅いですしお帰りを」
「ところで、今日は何をしていたんだ?」
「レインとお喋りをしていました。お帰りください」
「デニスとも一緒にいたのだろう?」
「もう! お帰り下さい!!」
セシルはアルベールの背中を押して、帰る方向へと向かわせる。アルベールもそれに特に抵抗しなかったので、これで大丈夫だと思ったのだが‥‥‥
アルベールに気を取られていたため、セシルは自分のポケットからこぼれ落ちたものに気づかなかった。
「なんだ、それは?」
「あ‥‥‥」
アルベールに指摘されて、ようやくセシルは顔を青ざめさせた。
それは、クッキーが成功するまでに作られた試作品だった。残して捨ててしまうのももったいなかったので、三人で分けて持ち帰ってきたものだった。
「拾わないで下さい!」
セシルの言葉に反して、アルベールはすぐさまそれを拾う。そして、その中から一つ取り出してマジマジと眺めた。焼きすぎてしまって焦がしたものを見られて、セシルは恥ずかしくなった。
「黒いな」
「焦げて炭になってしまったので。返してください」
セシルは手を伸ばすが、アルベールはそれを渡そうとしない。それどころか、黒こげのクッキーをパクリと口に入れた。
「何して‥‥‥!」
「固いな」
「炭ですからね!」
「それに、苦い」
「炭ですからね!!」
もうやめて下さい、とセシルはアルベールに手を伸ばす。が、アルベールはヒラリとその手を避けた。
美味しくないだろうし、何よりお腹を壊す危険性がある。かくなる上は、聖魔力を使って無理やり奪い返すかと覚悟を決め始めていると、アルベールはセシルの口元に指を指して微笑んだ。
「固いし、苦いが。うまいと思う」
「はあ?」
思わぬ回答に、セシルは目を剥いた。固いし苦いなんて、美味しいわけがない。それに、彼の楽しげに口角を上げている顔を見ると、からかっていることが見て取れた。
「美味しくないですよっ!返してください!」
「美味しいって言っているだろう。どの店のクッキーよりもおいしい」
「プロに謝って下さい!!」
セシルの言葉にアルベールはクスクスと笑う。そして、セシルを覗き込んだ。
「君が作ったから、美味しいんだ」
「‥‥‥‥」
セシルはその言葉に顔がカァッと赤くなるのを感じて俯いた。からかっているだけ、からかっているだけ、と心の中で呪文を唱える。
それでも、アルベールは追撃の手を緩めない。
「君のつくってくれたものを、また食べたい」
「‥‥‥‥」
「次は黒くも固くもないのを頼みたいがな」
「わ、分かりましたよ!!」
セシルは諦めて、アルベールの顔を見た。きっと顔はまだ赤くなっているだろう。でも、これ以上誉め殺しにされるのは居た堪れなかった。
「また、作りますから。これ以上はやめて下さい!」
「楽しみにしている」
彼は、満足げににっこりと笑う。
(また、そうやって笑う‥‥)
彼は、気難しそうで意地悪そうな第一印象とは違い、時節優しい笑みを見せる。その笑みの大部分がセシルに向けたものだから、時々どうしていいか分からなくなってしまう。
しかし、彼はすぐにその笑みを消してセシルの髪を軽く撫でた。先ほどまでとは打って変わった雰囲気にセシルはドギマギした。
「これから少しだけ屋敷を開けることになる」
「そうなんですか」
アルベールの言葉にセシルは目線を下げる。
(あれ? 今、”寂しい”って思った?)
しかし、その感情を知らんぷりして、セシルは彼の次の言葉を促した。
「君に会えないのは寂しいが‥‥‥それでもすぐに戻って来るから」
セシルはもう一度顔を上げた。やっぱり、彼は優しくセシルを見つめていて、どうしていいか分からなくなる。
「待っていてくれるか?」
「‥‥‥‥はい」
美味しい物を用意しますね、とか。また会えるのを楽しみにしてます、とか。そういう可愛いことは言えなかった。
ただ、頷くだけが精一杯。
それでも。それだけでも、彼は目の前で嬉しそうに笑ってくれるから。
「少しだけ、待っています」
「はは」
セシルは精一杯の言葉を返した。
(とりあえず、お菓子の練習はしておこう)
そうしようと決めて、その日は別れを告げる。次に会うのを楽しみにしている自分を確かに感じながら。
それから、数週間が経過した。その知らせは、ある日突然やってきた。
「セシル様!!」
尋常ではないほど焦った様子のデニスが、勢いよくセシルの部屋に入ってきた。
「デニスさん。マナーが‥‥‥」
「アルベール様が!」
レインが小言を言おうとするが、デニスは珍しくそれを遮った。
「アルベール様が
「え?」
「セシル様! アルベール様を治して下さい!お願いします!」
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