2話 髪も心もサラサラ

 読書を始めてから数分後。


 授業が終わってから数分はまだ同級生の生徒たちが友達同士で他愛ない話をし続けていたけど、今では生徒がほとんど残っていない。

 残っていたとしても、指で数えるほどの人数しか残っていなく、すぐにでも教室から出ていきそうな雰囲気をかもし出している。

 そんなことをお構いなしに私は読書を続けていると、とうとう教室には私以外の生徒が姿を消していった。

 やっと静かに読書ができる。

 といってももう既に騒がしい中で本を読む事には慣れてしまったので、大きな差は出ない。


 そして安心しながら目の前の本に視線を落としていると、教室の中に一人の男子生徒が戻ってきた。

 忘れ物をしたのだろうか、なんて思いながら特に気にも留めずに読書をしていると、私のすぐ近くまで彼が寄ってくる。


「幸薄ちゃん、まだ教室に残ってるなんてどうしたの?」

「ふぇぁっ!?」


 私は驚いた拍子で間抜けな声を出してしまった。

 変なやつだと思われないといいのだけど。

 そして声をかけてきた男子生徒の顔を確認する。

 黒い髪を短めに切りそろえ、少し切れ目で黒い瞳。

 正しい年齢はわからないけど13歳か14歳のどちらか。

 名前は愛鬼(あき)で、クラスの人気者というわけではないけど、比較的みんなから好かれている印象はこのAクラスを過ごしてきて感じる。


 そんな愛鬼君が私に声をかけてきてくれた。

 なんだか緊張して考えがまとまらなくなってきている。


 私がおどおどとまごついていると、愛鬼君は続けて質問してきた。


「あれ、本読んでたんだ」

「ふぁ、はい、うん」

「面白い?」

「まだ読み終えていないからなんとも言えないけど、まぁ、ほどほどには。愛鬼君も小説に興味あるの?」


 もしかしたら、愛鬼君も読書するのが好きだったりするのだろうか。

 もしそうだとしたら、愛鬼君と好きな本について一緒に喋ることができる。

 それどころか、仲良くなって友達になれるかもしれない。

 そんな下心が私の心の奥底に芽生え始める。


 よこしまな思いと期待を胸にしていると、愛鬼君は硬い笑いをこぼしていく。


「あー俺、小説は読まないかなぁ」


 私の淡い期待は一瞬にして否定され、粉々に砕け散っていった。

 勝手に愛鬼君も小説が好きと期待して、それが私の一方的な願望だったことは自分でもわかっている。

 だとしても完全には衝撃を軽減することはできず、私の心に小さな傷が刻まれてしまった。


 勝手に自爆して傷心していると、愛鬼君はすぐに続けて話す。


「あぁ、でもマンガは読むよ。紙でも電子書籍どっちもいける。でもスマフォ――携帯端末、スマートフォーンの略――の画面だと小さくて、最近は紙の方が読みやすいなぁって感じてる。どこでも読める点は電子書籍の方が上だけどね」


 愛鬼君は嬉々としながら漫画情報を私に教えてくれる。

 せっかく愛鬼君の情報を教えてもらって申し訳ないけど、私は漫画より小説派であり、そのことについては今小説を読んでいる私の状況から察して欲しいと思った。

 むしろ漫画は愛鬼君のように、興味がないかもしれない。

 私も実際に何作品かを読んでみれば面白いと思える作品に出合えて、考え方が変わり、趣味が増えるかも。

 でも、その最初の一歩がとても重く、私にはなかなか手を伸ばしづらいジャンルだ。


 そんな私の事情を愛鬼君に教えればいいんだろうけど、たぶんそれを言ったらここで愛鬼君との会話が終わってしまうのは分かる。

 さらに趣味が合わないということで、今後、愛鬼君と喋る機会が殆どなくなるかもしれない。

 私は最悪な展開になるのを避けるために、無理やり自分の気持ちを押し殺しながら会話を続ける。


「へぇ、そうなんだね。愛鬼君はどんなマンガ読んでるの?」

「んー、やっぱり冒険ものかなぁ? あ、戦闘シーンがあるとやっぱり興奮するよね。って、あれ、幸薄ちゃんもマンガ興味ある口?」

「え、私は、小説の方が好みかな」


 しまった、つい先ほど警戒していた口にしてはいけないことを出してしまった。

 このままでは会話がここで終わり、愛鬼君に嫌われてしまう可能性が高い。

 なんとかさっきの言葉をフォローしなくては。


「でもマンガも読み手の感情を揺らす作品もあるし、絵があるから気軽に読めていいよね」

「そうそう、気軽に熱い気分になれるからよく読んでるよ」


 咄嗟とっさに出た私の嘘に愛鬼君は話に乗ってくれた。

 私の自衛のための言葉に答えてくれていることに申し訳ない気持ちがあふれてくる。


 愛鬼君は少しにやけた顔で尋ねてきた。


「幸薄ちゃんはどんな小説読むの?」

「私は恋愛ものとかよく読むよ」

「ファンタジー系は興味ない感じ?」

「興味ないってわけじゃないけど、普段あんまり読まないかな……」


 愛鬼君は私が読んでいる、机の上で開いている小説を指差しながら言う。


「今はどんなの読んでるの?」

「まだ最後まで行ってないから、今後がどうなるか分からないけど、冴えない女性が勇気を出して自分の逆境を変えようとしていく物語かな」

「いいじゃんいいじゃん、人生逆転劇。熱くて面白そう」

「たぶん、愛鬼君が想像してる内容じゃないと思うけど」

「そう? でも内容はどうあれ、俺って幸薄ちゃんの読書の邪魔したよね、ごめんね」


 愛鬼君はそう言うと、申し訳なさそうな顔をしながら片手を口の近くで立てて、片目をつむって謝罪する。

 

 確かに読書の邪魔をされたけど、声をかけられた程度で怒るほど私は自分勝手な人間ではない、と思いたい。

 むしろこんな、みんなと一緒に帰らないで、教室で一人で本を読む寂しい女に声をかけてくれて嬉しい感情や、どんな人が何の目的で声をかけてきたのか好奇心がある。


 とりあえず、愛鬼君が気に病まないように何とかしなければ。


「ううん、気にしてないよ」

「あ、あのさ。謝罪ってわけじゃないけど、もしよかったら俺に幸薄ちゃんの髪をとかさせてくれないかな?」

「え、どういうこと?」


 髪をとかすの意味が一瞬理解できなかった。

 一般的に考えたら、私の髪を整えてくれるという意味なのだろうけど、万が一愛鬼君が変なことを考えていた場合、なにか薬品を私の髪の毛にかけて溶かしてきそう。

 けどそんな危ないことをする雰囲気じゃないのはわかるので、必然的に彼の言っていることは前者だろう。

 だとしても、どうして愛鬼君が私の髪をとかすことになるのか。

 謝罪なら言葉だけで十分なのに。


 愛鬼君は背負っていたバックパックを肩から下ろし、胸の前に持っていく。

 そして抱えているバックパックのチャックを開けていき、中に手を突っ込ませてクシを取り出した。

 用が済むとチャックを閉じて、再びバックパックを背負う。

 そしてクシを強調するように前方に掲げて言った。


「これで幸薄ちゃんの髪をとかそうかなーって。もちろん読書を続けてていいから。その間に俺が幸薄ちゃんの髪を綺麗に整えてあげるよ」

「いや、いいよ。そんなことしなくて大丈夫だよ。私一人で静かに読んでるから、愛鬼君は先に帰っていいよ」

「そんなこと言わずにさー、俺に髪をとかさせて」

「でも……」


 私がおどおどと戸惑っていると、愛鬼君は私のことに構わず、背後に移動してくる。

 そしてクシを私の頭頂部に押し当てているのか、クシのとがった先端が頭皮を刺激してくる。

 クシの先端は確かに尖っているけれど、鋭利な針のようなものではない。

 もしそんな鋭いものが商品として世に出回っていたら髪を整える人が世界からいなくなるだろう。

 程よい痛みが頭に走っていき、でもどこかその痛みが心地よく感じる。

 私の髪の間を何本もの無機質な物体が差し込まれている感覚があり、それがゆっくりと毛先に、つまり肩や背中、首に向かって移動していた。

 頭皮の痛みは最初だけで、そのあとはするするとクシが髪をかき分けながら髪の海を渡っていく。

 しかし、私の頭皮にたくさんの情報が走り回っている状態で、どう読書を続ければいいのだろうか。

 視線は目の前の小説に向いているけど、文字を一切読むことなく全神経を後頭部に持っていかれている。

 そしてその状況を拒まずに、淡々と受け入れている自分もどうかしていた。

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