新しい着物

増田朋美

新しい着物

その日も春だというのに寒い日で、きっとその前後が暑すぎたのだとみんな言っているが、一昔前であれば、そんな事はありえないはずだった。今は昔ならありえないことが平気で起きている時代なのだろう。きっとそのうち、昔からある良い習慣は、もう文学の世界でしか存在しない時代ももうそこまでなのではないだろうか。まあ、そうやって変わっていくものもあるが、いつの時代にも変わらないものもちゃんとある。

その日、カールさんが経営しているリサイクルきもの店である、増田呉服店に杉ちゃんがやってきた。何故かその日、カールさんはぼんやりしていて、なんだかつらそうな顔をしていた。

「どうしたのカールおじさん。なにか嫌な事でもあったか?」

杉ちゃんがそうきくとカールさんは、

「いやあねえ、今まで雇っていた従業員さんが今日でやめていったんだよ。家の事情だって言うんだけどさあ、それは仕方ないことかもしれないけれど、この店でいくら従業員を雇っても、長くて三ヶ月しか続かない。そんなに、着物屋のしごとはつまらないかな?」

と、嫌そうに言った。確かに店の入口のドアには、従業員募集と書かれた貼り紙がしてあった。しかもその貼り紙は、何回も貼り直している。それだけ何回も従業員を募集しているということである。

「まあねえ。確かに、着物の販売なんて、限られたやつしか来ないし、訳アリのやつばかりで。嫌になるんでしょうね。ある意味、時代の流れに逆らう商売だからな。そうなっても仕方ないよ。無理解なやつは、すぐに辞めてしまうだろう。そういうもんだと思って諦めるべきでは?」

杉ちゃんは一般的な事を言った。

「そうだねえ。でも、日本のれっきとした民族衣装なのに、ここまでバカにされるとは思わなかったよ。なんでこんなに着物というものを着たがる人がいないんだろうねえ。着るところが無いだとか、着方がわからないだとか、そういう事は、僕らからしてみれば恥ずかしいことだよ。そういうこともわからないのかな?」

カールさんは珍しく弱気な事を言った。

「まあまあ、そういうこともあるんだろうけどさ、きっと着物がほしいって言う人も現れると思うよ。それを待つしか無いだろう。」

杉ちゃんが言うと、

「そうだねえ。僕からしてみると、着物ってなんて美しいんだと思うんだけどねえ。それに、実用的だし。それを良いと思う日本人はいないのかな?」

カールさんは大きなため息を着いた。

「まあ、着物というのがそれだけ今の時代にあってないということだろうかな。それにしても、日本人は日本の文化に関心がなさすぎるんだよね。着物の事を、外国の人に説明できないってことは、僕も情けないことだと思うな。けど、そういうやつに限って、すごい偉い地位についていたりするんだよな。」

杉ちゃんは即答した。

「それも、つまらないね。」

カールさんはそういった。すると突然、増田呉服店のドアに掛けてあるコシチャイムが、カランコロンとなった。

「はい、いらっしゃいませ。着物がご入用ですかな?」

カールさんが聞くと、二人の女性が入ってきた。一人は、ピンクの色無地の着物を着て、頭にイスラム教の教えに従って、スカーフを巻いている中村櫻子さんだった。そしてもうひとりは、なんだか事情がある女性のようで、着たきり雀のジーンズには膝に穴が空いていた。

「あの、すみません。外に従業員募集の貼り紙があるのでこさせてもらいました。彼女をこの店で働かせて貰えないかしらね?」

櫻子さんは、にこやかに言った。

「は、はあ。一体こいつは、どこの誰なんだよ?」

と、杉ちゃんが言うと、

「彼女は、渡邉明日香さん。明日香村の明日香と書いて明日香さんよ。ちょっと事情があって、今はこんな姿をしてるけど、絶対悪い人じゃないから、ちゃんと働いてくれると思うわ。先月から私のところに、カーヌーンを習いに来てくれているんだけど、働きたいって言うから、じゃあ、この店で働いて見たらどうかって、提案したのよ。」

櫻子さんは、そういった。

「はあ、えーとそうですか。それでは、ちょっとあなたに着物の知識があるかどうか、ちょっといくつか質問をしてみようかな。それでは、付下げと訪問着のちがいを、説明できますかな?」

カールさんがそう言うと、明日香さんという女性は、そんな事と言いたげな感じの顔をした。

「じゃあ、着物と浴衣の違いはわかるかな?」

杉ちゃんが聞くと、

「同じものなんじゃないですか?」

と、女性は答えるのである。

「全然違うわ。お前さん、この店で働きたいんだったら、どうしても着物の知識は必要になるよ。ちゃんと着物の事を調べて出直してこいよ。」

杉ちゃんが呆れた顔をしてそう言うと、

「でも、何年か引きこもってしまっていた女性を雇ってくれるのは、こういう店しかないでしょう?一般的な呉服屋さんとはちょっと違うでしょうし、ノルマとか、そういうものも一切無いでしょうし。」

櫻子さんがそういった。

「そうだけどねえ。着物の事をあまりにも知らなさすぎるので、着物を売る側としては困るんだよ。」

杉ちゃんが言い返すと、カールさんがそれを止めた。

「いやいや、今は誰か一人従業員がほしいのです。それに、着物のことはやっていけば自然に覚えてくれるでしょう。それでは、この店で働いてもらおう。」

「しかし、着物を売るわけだから、せめて浴衣との違いくらい知っておいたほうが、良いんじゃないかなあ?」

と、杉ちゃんが言うと、

「いや。自己流で来ている人も来る。そういう人には、知識があっても無駄なこともある。それに今は、先程も言ったけど、従業員がほしいんだから、とにかく雇うことにしよう。じゃあ、着物をまず種類別に乗せてもらおうかな。ここの段ボール箱に入っている着物をすべて売りだなに乗せてくれる?」

と、カールさんは言った。

「それから、着物屋に勤務するんだから、洋服ではだめだぞ。嫌でも着物を着てきてね。」

杉ちゃんがでかい声で言った。

「どうしよう、私、着物なんて着られない。」

と、彼女、渡邉明日香さんは言った。

「それじゃあだめだよ。お前さんは、これから呉服屋の従業員になるんだぜ。それなら、着物を着ることなんて当たり前のことじゃないか。」

と、杉ちゃんが言うと、

「でも、本当に着物の着方はわからないし、すごく難しいことだって聞いてます。」

「じゃあこうしたらどうでしょう?」

櫻子さんが言った。

「まず、着物デビューということで、ここで着物を一式買っていただきましょうよ。着物は、ここですと、一式買っても一万円しないそうですよね?そして、杉ちゃんもいることだし、おはしょりを縫ってもらうとかして、着られるようにしてもらったらどうですか?交渉成立みたいだし、そうなさいよ。ほら、ここにある着物だって、1000円とか、1500円とかそのくらいしかしないのよ。」

確かに売り台に置かれている着物は、皆値札を見ても、1000円とか1500円とか、そのようなものばかりだった。

「まあ確かにそのような値段のものもありますけどね。」

カールさんがそう言うと、

「でも帯が結べない。」

と、明日香さんは答える。

「いや、それなら大丈夫。作り帯と言うものがあるし。お前さんは何歳だ?結婚してるの?」

杉ちゃんがすぐ聞くと、

「言わなければならないのでしょうか?」

と、彼女は言った。

「もちろん。それに応じて着物の種類だって変わってくるよ。結婚してるしてないで、着る着物が違うってことくらい、お前さん知ってるだろ?結婚式に行ったことがあるか?その時に、年上の人達が何を着ているか、よーく思い出してみろ。」

杉ちゃんが言うと、

「わかりません。確かに、中学校のときの同級生の結婚式に行ったことがありましたが、皆着物は着ないで洋服を着ていましたので、着物を着ている人を見たことは無いんです。」

と、渡邉明日香さんは答える。

「はあ、じゃあ全く着物のことは記憶ないの?」

杉ちゃんが言うと、

「ありません。」

と、彼女は言った。

「それじゃだめだよ。いいか、お前さんは着物屋で働くんだから、せめて、着物の種類くらいちゃんとわかっておかなくちゃ。じゃあ、とりあえずおはしょりは縫って、着物を着やすくはしてあげるから、せめて、お前さんの年齢と、配偶者のある無し、これだけは教えてもらえないだろうかな?」

杉ちゃんがそう言うと、

「はい。私は、35歳で、結婚はしていません。」

と、渡邉明日香さんは正直に答えた。

「わかったよ。じゃあ、こうしよう。35歳で未婚ということなら、着物は、江戸小紋のようなものが丁度いいだろうね。京小紋だとちょっと、派手すぎるかな。帯結びは、一重太鼓結びでもいいけど、未婚ということで、文庫結びにしような。文庫結びは、あの、蝶結びのような結び方だ。それでは、ここに売っている文庫結びの帯と、江戸小紋を一枚。そして、長襦袢と腰紐三本。そして、帯揚げと帯締め、あと足袋と草履。それらをここで用意して、明日からそれを着て出勤する。これをクリアしないと、呉服屋では働けません。それができたら、お前さんをここで採用してやる。」

杉ちゃんは、腕組みをして彼女に言った。

「いやあ、着物の事は商品を扱っていけばすぐに覚えていけるよ。とにかく、そんな事をさせるより今は、人手がほしいんだよ。」

カールさんがそう言うが、

「ダメダメ。ちゃんと揃えてきてもらわなきゃ。それを誰かに頼らず自分の力で見つけ出してくることができたら、お前さんをここで働かしてやるよ。着付けについては、何もできなくてもしょうがないから、おはしょりは縫って上げるからね。」

と、杉ちゃんは呆れた顔で言った。

「とにかく、江戸小紋を一枚買ってくることができるか。それを、してもらおう。」

「わかりました。そう言われるのであれば私、頑張って手に入れるようにします。でも、江戸小紋と言っても、どれが江戸小紋なのか、全くわかりません。」

明日香さんは申し訳無さそうに言った。

「あのね、女性の着物で、江戸小紋というものがあるのよ。なんでも礼装として用いられていたものらしいわ。あたしも詳しくは知らないんだけどね。細かい柄を、隙間なくびっしり入れた着物のことをそう言うらしいのよ。」

櫻子さんが明日香さんに言った。

「じゃあ、これならいいのですか?」

明日香さんは、小さな声で、花を小さく入れてある着物を指さした。

「そうだねえ。梅の花を全体に散りばめてある縁起のいい柄の着物だな。よし、それでは、それを着て、出勤してもらうかな。あと、帯も買わなくちゃだめだぞ。」

杉ちゃんに言われて明日香さんは、作り帯はあるかと聞いた。カールさんが、こちらになりますと言って、半幅帯から作った文庫結びの作り帯を出してくれた。明日香さんは四角い結び方では無いのですかと聞くが、一重太鼓は既婚者でないと使えないと杉ちゃんは答えた。

「そうなんですか、そのような決まりがあったとは知りませんでした。私は、誰でも四角い結び方でいいのかと思ってました。時代劇を見ても、その結び方ばかりだし。それでいいのかと思ってました。」

「まあ確かに最近の時代劇は、史実を無視したものが多いですからな。ちなみに一重太鼓という結び方は、大正時代に発明された歴史の浅い結び方なんですよ。それなのに、最近は明治くらいに実在した人物を主人公にしても、一重太鼓をしていますからね、全く、テレビもそういうところがいい加減で、困ったものです。」

と、カールさんが、明日香さんの発言に付け加えた。

「もしかしたら有名な番組より、民放のほうが、ちゃんと時代考証しているかもしれないわよ。最近私も、時代劇を見ているけど、いい加減な番組ばかりだもの。」

櫻子さんが、彼女にヒントを与えた。

「それから、帯揚げと帯締めですね。今うちで扱っている帯揚げと帯締めはこれらになります。値段は、一本300円から500円程度です。」

と、カールさんが帯揚げや帯締めのいっぱい入ったかごを持ってきた。その中には赤や黄色などの様々な色の帯揚げや帯締めが入っている。

「帯揚げは、絞りがあるかでつける年齢が決まるのよ。絞りは、糸で縛って防染し、そこだけ白く残る染め方。そして、帯締めの対象年齢は、平らなものではなく、丸組と言ってロープのようになっているのが若い人用よ。」

「櫻子さん、着物に詳しくなったね。それも、イスラム教の教えか?」

櫻子さんがアドバイスすると、杉ちゃんが言った。

「だって、着物のことをちゃんと教えてくれる人は、誰もいないじゃないの。呉服屋さんに行っても、そんなことも知らないのかで追い出されるんじゃあだめよ。誰かが教えてあげないとね。それは、イスラムの教えにもそう書いてあるわ。そういうときに知っていて当たり前とか、そういう考えは持たないほうがいいって、ちゃんと書いてあったわ。」

「そうか。確かに、そういうことを知っている人でないと、着物の事を教えるのは無理かもしれないな。確かに、着物文化に精通している人は、みんな知っていて当たり前的な態度を取るもんね。それでは、行けないんだけどね。そして何も知らないで、教えてくれと正直に言うと、そんな事も知らないのかって怒るんだ。そういう偏見がないで教えられるのは、イスラム教がベースであることだな。」

杉ちゃんはそういう櫻子さんに言った。

「じゃあ、次は足袋と、草履。そして、着物を着るために大事な腰紐だな。それもちゃんと選び出すことができるかな?」

と、杉ちゃんがいうと、

「足袋は、着物にあわせてこはぜと呼ばれる留め具の数を変えるの。高尚な着物だったら5枚こはぜ。それでなければ4枚こはぜよ。通勤するんだったら、5枚こはぜがいいでしょうね。そして、足袋はストレッチとそうでないのとあって、そうでないほうが格上よ。」

と櫻子さんが言った。

「わかりました。それでは、五枚こはぜにします。でも履くのに心配なので、ストレッチにします。」

明日香さんはそういった。

「それから、草履も、着物に合わせて違うものを履くのよ。礼装では三枚芯、そしておしゃれ着には二枚芯、普段用には一枚芯よ。だけど、全体がい草でできている畳表という草履であれば格は関係なく、礼装として履けるわ。」

「わかりました。じゃあ、通勤用には二枚芯がいいのでしょうか?礼装ではちょっとちがうと思うし、普段用では行けないでしょうし。」

櫻子の説明に明日香さんは、そう言って、

「腰紐にも格と言われる順位があるんでしょうか?」

と聞いた。

「まあ、腰紐は、格よりも頑丈に着付けられるかということが問題なのでね。とりあえずモスリンの腰紐であればいいんじゃないかなあ。」

と、杉ちゃんが言うと、

「わかりました。それを3本ください。」

と、明日香さんは言った。

「わかりました、それでは合計いたしますと、着物が1000円、作り帯は500円、帯揚げと帯締めが各300円、そして、腰紐が一本200円ですね。あとは、足袋はどうしてもリサイクルではできないので、1800円です。そして、最後に草履がこちらの二枚芯の草履といいますと、こちらは1000円で大丈夫なので、合計すると。」

と、カールさんは、そろばんを動かして、

「合計で5500円ですね。」

と言った。

「その値段でいいのですか?」

と明日香さんが聞くと、

「はい。それで大丈夫ですよ。」

と、カールさんが答える。明日香さんは、急いでそれを支払った。カールさんはそれを受け取って、領収書を書いて彼女に渡した。

「それでは、お前さんの寸法を教えてもらおうかな。おはしょりを縫って、着やすくするからな。」

と、杉ちゃんが言った。

「はい。私の身長は160センチです。」

明日香さんが答えると、

「着物の身丈は、身長と同じくらいでおはしょりが取れると言われるんだがね、実際は、意外に短くても着れるんだよ。だから、150センチ台であっても着られるんだよね。」

と、杉ちゃんがでかい声で言った。

「ちょっと着てみてくれ。羽織ってみるだけでいいから。」

と、杉ちゃんが言うと、明日香さんはわかりましたと言って、着物を羽織った。杉ちゃんは素早くその着物の上前と下前を閉じると、腰紐で、彼女の腰を縛った。そして、縛ったあまりの部分を、おはしょりとして出した。おはしょりを縫うのはここを縫うのである。カールさんが持ってきた安全ピンを杉ちゃんはおはしょりとしてつけた。

「よし、これだけ縫えば、おはしょりを縫えるだろう。そして、紐をつければ、お前さんもガウンを着ているような感じで着物を着られるようになるよ。」

杉ちゃんは、彼女の着物を脱がせた。そして、カールさんが用意した針箱を出して、真剣な顔をしておはしょりを縫い始めた。その作業を、皆見学した。疲れたから帰るとか言って逃げてしまう人は一人もいなかった。おはしょりを縫うだけだから、すぐできてしまうのであるが、えらく時間がかかってしまうような気がした。

「よし、これでおはしょりができたぞ。あとは、胸紐を縫っておけば、いつでも着物が着られるよ。」

と言って、杉ちゃんは、腰紐の一本を半分に切って、着物の共衿の下に縫い付けた。

「うん、これで新しい制服の完成だな。」

そう言って、杉ちゃんは彼女に着物を渡した。渡邉明日香さんは、それを受け取ると、思わず涙をこぼしてしまったのであった。

「なんで、涙が出てくるの?」

杉ちゃんがそう言うと、

「ごめんなさい。私のためにこんな事してくれた人は、初めてで、私は、びっくりしてしまったのです。」

と、渡邉明日香さんは言った。

「だって、私がこんなに大切にされたことはなかったし。着るものは全部、既製品で、着るものは店で買うしかなくて、作ってもらったことは一度もありませんでした。着るものは、姉のお下がりとか、そういうものばっかりでしたから。」

と明日香さんは涙をこぼして泣き始めた。

「なるほど。それを寂しいと思っていたわけか。」

杉ちゃんに言われて彼女は、小さくうなずいた。

「ありがとうございます。これから、呉服屋さんで、この着物と一緒に楽しい人生になりますようにがんばります。」

「幸せは、きっと、望むべきものでもないし、自分で作るものでもないし、結果として与えられるものよ。」

と、櫻子さんがにこやかに笑っていったのだった。





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新しい着物 増田朋美 @masubuchi4996

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