辻かわり
尾手メシ
辻かわり
人間、誰しも苦手なものの一つや二つはございます。それは食べ物だったり生き物だったり、人によって様々でございますが、ときに妙なものを苦手としているものもいるようでございます。
その話を私に聞かせてくれましたのは、林田和成という男でありました。
彼とは仕事で知り合ったんですが、歳が近かったせいか、妙に気が合いましてね。担当から外れてからも、どちらからとなく誘い合って飲みに行くというような、そんな間柄でございました。
彼、酒を飲んでワァーッと騒ぐというようなそんなタイプじゃございませんで、どちらかといえば、静かに酒を舐めているような、そんな人間でありました。
私も酒を飲んで騒ぐといったことは、これはあまり得意じゃございませんから、それでウマが合ったのかもしれません。
あの時も、行きつけの居酒屋で二人、酒を飲んでおりました。
子どものときはピーマンが苦手だっただのというようなくだらないことを話しながら酒を飲んでいたんですが、そこそこ酔いの深まってきた頃でしょうか、
「私ね、十字路が苦手なんです」
彼がそう言い出したんです。
十字路?十字路とはあの十字路だろうか?
虫が苦手や絶叫マシンがダメなんて話は聞いたことがありましたが、私、十字路が苦手なんて話は寡聞にして聞いたことがございませんでしたから、にわかに意味を取りかねましてね。その惑いが顔に出ていたんでしょうな、彼は私を見て「しまった」という顔をした。
「すみません、忘れてください」
そう言ったっきり、静かに酒を飲み始めてしまった。
でも、それじゃあ忘れましょうとはいかないでしょう?だって気になるじゃありませんか、何がどうして十字路が苦手なんてことになったのか。
それで私訊ねてみたんですが、「いやいや、その話は……」と言って、彼はなかなか話そうとしない。そうなるとこちらも半ば意地のようになりましてね、「気になって尻の座りがどうにも悪い」と食い下がりましたら、やがて観念したのか、ぽつりぽつりと話してくれました。
*
それは小学校三年の頃というから、もう三十年近く前のこと。
Aには双子の兄がおりまして、名前を和成と言うんだそうでございますが、二人は一卵性の双子というやつでございまして、
その日もいつものように二人連れ立って学校を出たんだそうでございます。
二人並んで通学路を歩いていく。彼らの通っていた小学校から家までは、子どもの足で三十分ほどだったそうで。
小学校を出て畑沿いの道を行きますと、大きい通りに行き当たる。今度はその通りに沿って進んで行きますと、川が流れているんだそうであります。その川を越えてすこしばかり行ったところから通りを渡りますと、道は住宅街へと入っていく。住宅街をつーっと進んだ先に大きい公園があるそうでして、この公園というのが近所の子ども連中の遊び場になっていたそうでして、その時も二人が通りがかった時にはすでに何人かの子どもが遊んでいた。
「おーい、早く来いよ」
なんて声を掛けられましてね、
「わかったー」
と返事を返しながら公園を通り過ぎた。
そこからいくらか行ったところが彼らの家だったそうなんですが、もうすぐ家に着くというところ、最後の十字路を越えたところで妙な心地になったんだそうであります。
いつも通っている通学路でありますから、これは当然見える景色もいつものもの。どこにもおかしなところはないはずなのに、なんとは言えない違和感がある。思わずAは立ち止まったんだそうでございますが、隣を歩く和成は何も感じなかったようでして、そのまま歩いていってしまう。
「何してんだ、先行くぞ」
と和成に言われまして、
「待ってよー」
と言いながら、Aもその背中を追いかけた。
「ただいまー」
声を掛けながら玄関に入りますと、常ならば返ってくる母親の「おかえり」が聞こえてこない。ただこれは別に不思議じゃございませんで、家の中、声の聞こえにくいところにいたり、ちょっと近所に行っていたりした時にはままあることでございましたから、とくに何とも思わずに靴を脱いで玄関に上がった。
玄関を上がったところで「じゃんけんぽん」と二人手を突き出す。これは二人のお約束というやつでして、それというのも子ども部屋というが二階にありましたから、負けたほうがランドセルを部屋に置いてくる係という、こういう取り決めでございました。
この時はAが負けましたから、和成がAに背負っていたランドセルを渡した。和成はそのまま家の奥、台所に向かって歩いていく。Aはといいますと、自分のランドセルを背負ったまま、片手に和成のランドセルを持って、トットットッと階段を上がっていった。
階段を上がった先、最初の部屋が子ども部屋だったんだそうですが、入って左手には二段ベッドがあり、その向かい側の右手には二人の勉強机が並んで置いてある。正面の壁には窓が一つ切ってあって、カーテンは開けられていて、レースカーテンだけになっていた。どうやら窓も開けられていたようでして、レースカーテンが揺れていたんだそうであります。
Aはランドセルを勉強机の上に乱暴に放りますと、またトットットッと階段を下りて台所に向かった。台所には和成が一人いたんだそうですが、その和成、なぜかコップに注いだオレンジジュースをじっと見ている。首を傾げながらも、Aもオレンジジュースを飲もうと冷蔵庫に手を伸ばしたんでありますが、
「ダメっ!」
背後から鋭い声が掛かった。
驚いて振り向きますと、和成が冷蔵庫を睨みつけている。
困惑するAの腕を和成が掴みますと、
「公園に行こう」
こう言って、ぐいぐいAの腕を引っ張って玄関に向かっていく。Aは訳が分からぬままに、和成に引っ張られながら家を出たんだそうでございます。
公園にたどり着きますと、公園は静まり返っていたそうでございます。
Aが公園を通り過ぎてから戻ってくるまでに十分か十五分か、まあ、そんなに時間は経っていなかったはずだそうですが、なぜか遊んでいたはずの友だち連中は誰もいない。
「おおーい」
Aの呼びかけには、当然、誰も返事を返さない。Aは大変困惑したそうですが、和成は構わずにずんずんと公園の中に進んでいく。
「何してんだ、早く遊ぼうよ」
和成が呼びますから、Aも仕方なしに公園に入っていった。
二人して遊び始めまして、ブランコを漕いでみたり、滑り台を滑ってみたり、逆に滑り台を登ってみたりとしておりましたら、まあ、子どものやる事ですから、じきに遊びに夢中になって先刻まで感じていた困惑なぞはどこかへといってしまった。
タイヤの下半分は地面に埋まり、上半分だけが地面から出ているものが飛び石のように等間隔に並んでおりまして、それの両端からそれぞれタイヤの上を渡って進んでいく。二人出会ったところでじゃんけんをしまして、負けた方はタイヤを下りてもと来た端に戻って、再びタイヤの上を進んでいく。また出会ったところでじゃんけんをして、先に相手の端までたどり着いた方が勝ちという単純な遊びでございますが、公園には二人の
「じゃんけんぽん」
という掛け声だけが響き渡っていたそうでございます。
ひとしきり遊んでおりますと、少しずつ日が低くなっていく。空の赤みが増してきまして、Aが公園の時計を見ましたらば、五時をいくらか過ぎたところだった。とくに門限などは決められてはいなかったそうなんですが、そうはいってもあまり遅くなりますと、これは母親に叱られますから、
「そろそろ帰ろうよ」
Aが言うのですが、
「もう少し遊ぼうよ」
と和成が渋る。
「もう五時過ぎたよ」
「いいじゃん、もう少し」
「ダメだよ、お母さんに叱られるよ」
帰る帰らないの押し問答を繰り返した末、来る時とはあべこべに、Aが和成の腕を引っ張って公園を出たんだそうでございます。
夕暮れが迫っておりますから、二人、住宅街を駆けていく。静かな住宅街に二人の足音だけが響いている。
いくらか進めば、やがて家が見えてきます。もうすぐ家に着くという、最後の十字路を越えた時でございました。
どうにも妙な心地がいたしまして、Aがふと隣を見ましたならば、一緒に走っていたはずの和成がいない。足を止めて後ろを振り返りますと、和成は十字路の真ん中で立ち止まっていたんだそうであります。
Aが和成を見ておりますと、和成の背後の家が崩れた。砂浜に描いた絵が波に浚われるように、さぁっと崩れたんだそうであります。家が崩れ、空が崩れ、地面が崩れた。唖然と見ているAの視線の先で、和成がさぁっと崩れた。
双子の絆というのは、それ以外のものには想像の及ばないところがあるそうでございます。ましてAと和成は一卵性でございますから、Aにとって和成とはもう一人の自分といっても過言ではなかったそうでございます。
その和成が目の前で崩れたものですから、Aの受けた衝撃たるや凄まじいものがあった。ざわっと全身に怖気がはしり、衝き上がる衝動のままに
「ぎゃー!」
と叫んだ。ばっと身を翻すと一目散に家へと走り、乱暴に玄関を開けて家の中に転がり込んだ。
物音に何事かと思ったんでしょうな、台所からエプロンを着けた母親が出てきた。その母の姿を見たところで、Aの中に張り詰めておりました糸がぷつんと切れた。靴を脱ぐのもそこそこに、ダッと母に駆け寄りまして、その腰に縋りついて声を上げて泣いてしまったんだそうです。
結局その日は泣き疲れて寝てしまったんだそうですが、問題は次の日であります。
Aが目を覚ましますと、いつの間にやらベッドに寝かされていたんだそうでありますが、ベッドから見える風景が昨日までとはまるで違う。
Aは普段、二段ベッドの下の段を使っておりまして、和成が上の段を使っていたんだそうでございますが、本来そこにあるはずの上の段は影も形もなく、ただ天井だけが見えている。困惑しながら体を起こしますと、ベッドの向かい側、二台並んでいるはずの勉強机が一台きりになっている。もしや自分の部屋ではないのかと頭に過りますが、部屋に一つだけ切ってある窓、そこに掛かっているカーテンはたしかに見慣れた自分の部屋そのものでございました。
混乱した頭のままに階段を下りていきますと、台所では母親が朝食の支度をしていた。父親は席について新聞を広げている。
「あら、おはよう。気分はどう?」
「うん、大丈夫」
と返しながら、さして広くもない台所を見回しますが、和成の姿はどこにもない。
「ねえ、和成は?」
「何言ってるの、和成はいるじゃない」
母は何でもないように言うのですが、再度Aが台所を見回してみても、やっぱり和成の姿はどこにもない。
「和成いないよ」
Aが言いましたらば、
「和成はあなたじゃない」
母の顔は、作り物めいた能面のようであったそうでございます。
助けを求めようと見た父も顔も、やはりこれは能面のごときであったそうで、それでAは二の句が継げなくなったんでありました。
*
「それからは和成として生きてきました。だってしょうがないでしょう?誰も彼もが、私が和成だと言うんです。和成に成り代わる以外に道はなかった」
静かに彼は言いました。
「和成に成り代わるのはさして難しくはなかった」、というのは彼の弁でございます。これはまあ当然のことで、なにせ双子として常に一緒に生きてきておりましたから、和成のことは彼が一番よく知っている。そうはいっても所詮は別の人間ですから、やはり多少の差異というのはあったそうでございますが、相手が訝しんでも、「そうだったかな」と笑って誤魔化せば、相手は勝手に納得していく。やがてはそういった些事は日常の中に埋没してき、彼を疑うものは誰もいなかったそうでございます。友人や、彼の親でさえも。
「なんでこんなことになってしまったのかは分かりません。ただ、私にはあの十字路を越えたことがきっかけだったと思えて仕方がないんです」
以来、彼は十字路が苦手になったのだと語りました。十字路を越えようとするたびに、成り代わってしまった兄のことが頭に過るんだそうであります。
もしかしたら、この十字路は兄のところに通じているのではなかろうか。兄を取り戻せるのではないか、いや、あの時の兄のように、今度は自分が崩れ去ってしまうのではなかろうか。
十字路にさしかかるたびに身構えてしまって、竦んでしまうんだそうであります。
「すると、あなたの名前は和成ではない?」
「ええ、私の本当の名前は――です」
彼は私に名前を教えてくれたんでございますが、私にはどうしても彼の名前を聞き取ることはできませんでした。
私の表情からそれを察したんでしょうな、
「すみません、変な話をしてしまいました。忘れてください」
彼はそう言ったっきり、ふつりと黙り込んでしまいました。
結局その日はそれでお開きとなりました。彼とは居酒屋の店先で別れたんでございますが、私は何だか狐につままれたような心地で、何となく去っていく彼の背中を眺めておりました。そうしましたら、彼が交差点を渡る寸前で立ち止まり、やにわに周囲を窺いました。左右だけじゃございません、上下も窺うのです。私、彼のそんな様子を見て、ようやく彼の話がすとんと腹の底に納まったのでございます。
*
彼と最後に会ったのは、もう五年ばかり前になります。
いえいえ、べつに彼が死んだとか、行方知れずになったとかいったことじゃございません。彼、それからほどなくして海外の支社に行くことになりましてね。「左遷ですよ」なんて彼は嘯いておりましたが、立派な栄転でございます。
彼とは今でも連絡を取り合っていて、どうやら充実した日々を過ごしているようでございます。そんな彼からそれが送られてきたのは、彼が海外に発って三年ほどが経った頃でありましょうか。
一枚の写真が送られてきまして、ただ一言、
見つけました
とだけ、書き添えられておりました。
彼はその写真について、何か語ることはございませんでした。私も、なにやら憚られまして、写真について訊くことはいたしませんでした。ですから、その写真が実際のところ何だったのかは、今もって謎でございます。
写真に写っていたのは二人の男であります。異国の街を背景に男が二人並んで立っておりまして、一人は彼であります。そしてもう一人は、こちらは浅黒い肌に彫りの深い顔立ちをした異国の男でございましたが、なんとも奇妙な写真でございました。
二人の顔は、当然ながら似ても似つかないのでございますが、写真からただよう雰囲気と申しましょうか気配と申しましょうか、私には、二人が仲のいい双子の兄弟に思えて仕方なかったのでございます。
辻かわり 尾手メシ @otame
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