第四話『カンダタ』

 現代の街並みはそれそのものが星のように瞬いているが、明かりの乏しいこの異世界の空は、脳に焼き付き脳漿を沸騰させたあの現実感のない怪奇的な星たちとも違って気が触れるような思いもなく、美しい天の川がただただ広がっていた。

 空を流れる川と言う果てしない大きさなど忘れ、見た目と相反した静かな川に、聞こえてくるはずがない清流のさらさらとした水音が聞こえてくる気がした。

――――遥か上空へ打ち上がっていた意識を戻す。

 辺りは暗い。背後からの微かな足音に私は問うた。

「あれだけのことをされておいて、本当に来るの?」

 ざり、地面の砂利を踏み締め夜目の効かない普通の人間の子供でしかないエルは、注視して注意深く足元を見ていた視線を上げ、最初とは打って変わった態度で答えた。

「体のことならだいじょうぶ、頑丈なのが自慢だし、オレがあそこにいたのはおばあちゃんの形見を守るためだったんだ」

 月が雲に隠れた。

 星明かりのみになった道を、難なく先を歩く私の背を視認しながら必死に追い続けるのは、想像に難くなく大変そうだ。既に私には痛覚も疲労もなく、どこか人間であったことが霞んだ地平線に広がる山々を眺めているようだ。

 心の奥底に抱いてしまう羨望を隠し、前へ向き直ると目的の場所へ向かうために進む。だが確かにエルの体のことも心配だったが、聞かされた答えは問いの意図とは少しズレていた。

「……あの男を助けることに対してだよ」再度はっきりと伝えると「あー……」とその答えにエルは迷いを見せた。

 あの男……カンダタという恐らく数人の盗賊達のリーダー的な存在で、今や囚われの身となった男のこと、それを私は今から助けに行くかもしれない。

 理由は、ある。

 確かに連中がやろうとしていたことはただの強盗傷害で当たり前に裁かれるべき行為だが、どうしてもあの男の行動が気になるのだ。

 だから問いかけに行く。そして男の答え次第では助け出すことになるかもしれない。

 でなければ日中にいたあの兵士らしき男たちに罪に対する罰として、殺されるのが当然となる。

……ここまでのことは、あらかた着いてくると聞かないエルに通してあるが、改めて覚悟を決めさせなければ。

「オレは」

 まだまだ幼いエルは、暗闇に溶けて輪郭しか見えないだろう両手を見つめ、声にならない言葉を、それでも言葉として発した。

「殺す気で、刺したから、あの人たちとさほど変わらないと、思う。あの人は、もう死んじゃってるかもしれないし」

 しょうがない、君はああするしかなかった、なぜなら殺す気でなければ殺されていたから。そう声をかけてやるのはビルから飛び降りて死ぬことよりも簡単だ。

 そうわかっていても、私は何も言えなかったが。

「だから、いい。オレは――勇者サマに従うよ」

 性善説、性悪説を問う気はない。私だって所詮は元人間、人に対する罰を天秤で量れるほど清廉潔白な生き方はして来なかった。

 それこそビルから飛び降りた時、わざわざ人が歩き始めるような時間帯を選んだんだ。明らかに裁かれる側だ。

 しかも、私はまだ、死ねて良かったと思ってる。

(そんな人間に、正義の天秤を使う資格はないだろう)

 でもたった一つだけ量れることがある。それは死にたくないという思いと、死にたいという思いだ。

「止まって勇者サマ、あそこだ」

 左耳から聞こえてくるエルのひそひそ声に思考の内部に入り浸っていた意識が呼び戻されると、暗闇を物ともしない視界に揺れる焚き火が映った。距離にして大体十数メートルほどで、大体同じ場所に一人の男が舩を漕ぎながら座っている。

 見覚えがあった、昼の騒ぎに駆け付けた兵士の中にいた一人だ。けれど私にはあそこが牢屋のようには見えない。

 なぜなら私達がいるのは町の外周、つまりこの町と他の町とを繋ぐであろう外へ続く街道があるだけで、あの兵士が悠長に剣を抱きながら水の上にいる場所は、ほぼ平原。

 どれだけ簡易的であっても建造物の影くらいあるはず……だが、

「……あそこ?」

 こくり、家屋を抜け開けた場所で少しでも目立たぬよう屈んだ私は、同じく左後ろで屈みながらあの兵士の様子を窺うエルを見るが、答えは変わらない。

(嘘を吐く理由もないしね)

 そうして微かに私の体から鳴る金属同士の摩擦音にうんざりしながらも、十メートル前後まで近づいたところで、漸く確認できた――焚き火辺りから更にその後ろ側に縄で腕を縛られ地中深くに刺さった棒に括りつけられた、あの男。

 カンダタだ。座って眠りこけている兵士に隠れ見えなかったのだ。

 私から出る摩擦音で兵士が起きないことを祈りつつ、気絶か寝ているのか、顔を俯かせたままのカンダタへと素早く近づく。

――――その刹那、ガラ、と何かが崩れた。

 極力音を鳴らさぬよう気を張っていた私の全感覚が、冷水を浴びたかの如く跳ね上がった。

 視線は音が鳴ったであろう背後へ反射的に向く。

 最初こそ荷物たんまりの麻袋を背負ったエルが何かを落としたのかとも思ったが、少年も全身の毛を逆立てながら後ろへと視線を向けており、その音はエルではないのは確かだった。

 そうして行き着くのは焚き火の心地よい破裂音と温かさに包まれながら、任された仕事をすっかり放棄し、夢の中にいる兵士が抱えるように持っていた一振りの剣だ。

 どうやら動物の毛皮の上で胡坐をかき、左肩に自身の剣を立てかけ、取られないよう腕を組んで固定されていた剣が、腕が解きかけになると同時にずるりと向こう側へ落ちようとしたのだ。

 運が良いのか悪いのか、寸でのところでまだ組まれていた腕に鍔がひっかかり、なんとか落ちずには済んでいる。

 あの見た目通りなら、時間はあまりない。

「生きてる?」

 助けたのだから当たり前だが、できるだけ声を抑えてカンダタへと声をかける。だが一度目では流石に起きる事はなく、二度三度と揺さぶって声をかけたところ漸く男の意識が戻った。

「……なんだ、ってんだ」

 あまり寝起きのよろしくない質なのか、それとも私の声がまとわりつく虫の羽音にでも聞こえているのか、眉間に皺を寄せ呻くような声で見てわかるほどにイライラした様子のカンダタは私が誰なのかを確認するため、垂れるよう俯いていた顔を上げた。

 そこで数秒のラグはあれど私を認識した彼は「おまえ……っ!」と腕が自由ではないことを忘れ、臨戦態勢に入ろうとするが、虚しく手首の縄が張るだけだった。

「なんなん……っ?」

 こっちが足音と気配をできるだけ決して近づいたのに、それをぶち壊されるのは勘弁である。見てる夢がそれだけ幸せなのかにへら顔の兵士を指差し、声の音量を落とすよう促す。

「……なんなんだよ、お前」

 錯乱して騒がれる可能性があったが胆力はあるようだ、言葉に困惑の欠片はあるけれど落ち着いている。ただし男の質問に答えてやれるだけの時間は無い。

 私は早速問いかける。

「死にたいのか、生きたいのか」

「はぁ?」

 こんな状況だから手短に、とは言うだろうが、切り詰め過ぎた。頭の中で簡単に考えもう一度言葉にする。

「死んでまで、飢えてまで、人の道から外れてまで、やらなきゃいけないことがあるの?」

 目は無い。だが間違いなく私の目は真剣そのものだったろう。カンダタはこの理解不能な状況にある一定の落ち着きを見せていたものの、多少目を白黒させ、私の真意を探ろうとあるいは噛み砕こうと短くとも深い思考へと入り込んでいた。

 なんであれ……やがて、時は来る。

 カンダタは私の目を見つめ返し、落ち着き払う。

 雫一つで波立ち気泡が浮く胸中に、一切の淀みを無く、けど光の届かぬ闇をどこか落としながら言った。


「俺の命の灯で――かじかむ誰かの手が温まるなら、喜んで死んでやる」


 そこにあったのは、妻子を持つ仲間が犬死をしないよう、自ら体を張って盾となることを選んだ時の目だった。自分の命など簡単に投げ出せる、そんな覚悟を持った目であり、私とある種同じだが本質は全く違うもの……

「――――今からあんたを助ける」羨ましく美しいその目に告げるが「ふん、そこに兵士がいるんだぞ」すぐさま顎で兵士を指し示す、言いたいことはわかるがそこに関しては大きな障害にはならない。

 なんだったら牢屋を想定していた以上、もっと派手に壊すつもりでいたので、規模が小さくなった以外に違いはなく、故に予定に変更はなかった。

 もっと言えばカンダタの両手首にキツく食い込む縄が更に括りつけられたこの木の棒を折るだけと、やることはたったそれだけになった。

 そうしてカンダタの自由を制限する木の棒へ、手を押し当てる。

「おいおいおい、ナイフはねぇのかよ?」

 すると、私の一連の行動に察しがついたカンダタが、小声だが迫真、そして瞼をぱちくりと瞬かせた。

 だけれどきちんとした作戦を立てる時間など既にないのだ。それどころかいつ交代の兵士が来てもおかしくないこの状況は、火の上の鉄板のようなもの、時間が経てば経つほどにヤバくなる。

 私にとっては、全てを計ることはできずともそれでも納得のできる答えが返ってきただけで十分。

 後はほんの少しだけ力を入れれば逃げるに事欠かない、そして――――と力を込めたその瞬間、背後から一層大きな音が鳴り響く。

 先程までなら心臓が飛び跳ねていただろうが、大体の予想がつく大きな物音は、予想に反さず兵士の剣だった。

……要は、背中を丸め寝ていた兵士の肩に凭れ掛かっていたその剣が、眠りが深くなればなるほどに前方へと倒れていく上体に押され、崩れかかった腕組みを超えて結果、倒れたのだ。

 金属らしい耳障りな高音は、例えそれが原因でなくとも眠りを妨げるには十二分だ。

「んぉ……眠っちま、って、た……?」

 寝起きのぼんやりとした意識ながら倒れた剣へ手を伸ばす兵士、そこでふっと目線が逸れた。

 灯る明かりなど蝋燭しかない町から期待はできず、申し訳程度の夜風を凌ぐ焚き火と月明かり程度しかない周囲へ、見張りという職務を全うするために見回したのだろう。

 こちらに向くその視線は――最初こそ目が合ったことに笑うしかないエルを眺めていたが、そのエルの体の向きが私やカンダタの方に続いていたからだろう。

 棒をへし折ろうとする私と目が合った。想定外の状況に兵士の体は凍ったように固まるが、一拍置いて跳ねるよう立ち上がったと思うと、慣れた手つきで鞘から刃が抜かれた。

 小さくなりつつある焚き火を両刃の刀身が映し、放られた鞘が少し遠くでからからと音を鳴らす。

(大丈夫、最悪とは程遠い)

――――私は力を入れた。カンダタをその場に縛る棒が、簡単に折れた。

「とりあえず町の外へ! 私は後から追いつく!」

 この騒ぎを聞きつけてどれだけの応援が駆け付けるのかわからない。だから一旦はここに残り、二人が逃げれるだけの時間稼ぎをする。

「こっちだ坊主、逃げるぞ!」

「は、はいっ」

 私の意図を汲み取ってくれたらしいカンダタは、まだ幼いエルを連れ町の外へ……と思いきや町中へと走っていく。

 気でも触れたかと正気を疑うが、そんな一秒にも満たない私の意識が逸れた隙を突き、兵士が踏み込み袈裟斬りの形で両刃の剣を振り下ろしていた。

「!」

 気配に気付き視界に男を入れるものの既に刃は私の左肩に迫っており、ガイドの出番を待つ暇すらなく半歩下がって左手甲を盾にするのが限界で、叩き切る、押し切るような一撃に火花が散るのが見えた。

……生身があれば衝撃に痺れていてもおかしく無い威力だった。

 まあ私に生身は無いけど、と身構える。が兵士は追撃はせず数歩後ろに下がり、先程まで自身がいた焚き火の傍に立つ。

 一体何をするのかと首を傾げれば、炎というには些か、だが光として多少効果はあり、炭化しつつも赤々とした薪に向かって足で土をかけ始めたのだ。

 そしておもむろに兵士は片目を閉じた。しかし視線は一切私から逸らさない。

 意図がわからず傍観するだけの私へ、兵士が語り始めた。

「――これが消えたってことは、俺に異変が起きたってことさ」

「……つまり」

 私の声に余裕綽々な兵士が被せる。

「あんたエルを助けたってやつだろ? 今朝みたいにあの人数の兵士がここに来るんだよ」

 私のことを訝しんでいたあの兵士の長のように、この眼前の兵士も私を訝しんでいたのだろう。

 夜闇でもはっきりと見えるこの男の表情は、カモがネギを背負ってきた、と言わんばかりに口角が吊り上がっており、しかも火を消す途中に閉じていた片目がいつの間にか開かれていた。

 最も驚いたのはその目が、暗闇の中で見えないはずの目線が、私の輪郭をはっきりと掴んでいるように見えたことだ。

 エルや私もそうだったように、ただの人間にとって光の無い闇は、恐怖を生み出す未知のはずなのだ。

 それがなぜ……と答えを求めようと思考へ入り込んだ時、兵士が動いた。

 初撃の横薙ぎから続くのは猛攻、何かを狙ったのか、もしくは私を殺せるだけの勝算があったのか、暗闇に小さな火花を散らしながら、鎧の隙間、弱点である関節の可動部を狙った斬撃が繰り出された。

 運動部ですらなかった私が、それを全てガイドの通りに捌き、受け流す。

「くそっ、なんでだ!?」

 毒吐く兵士に疲れが見え始めた。

 当然だ、最初こそ私の動きを制限させる致命傷にはならない一撃から、殺すつもりの一太刀に変え、全力で剣を振るっていたのだから。

 だけれども、私にも時間はない。今朝見たあれだけの兵士なぞ相手にはしていられないし、町中へと走っていった二人についてはもう逃げたと信じるしかない……そろそろ逃げよう、そう思った時分に、

「おおっ、馬車になんか乗っちまって随分気合入ってるなぁ――――おーい! こっちだ!」

 ここは町の外周、町中から来た私の背後の騒々しさに気づいた兵士の男が、勝ちを確信したように表情を明るくした。

 見ずともわかる――異変に気づいた待機中の兵士達が向かってくる音。

(くそっ、間に合うか……?)

 無情な時間切れを伝える馬車の走行音に、町の外周へと走り出した私だったが、その音に紛れて聞き覚えのある声が私の背中に迫っていた。

「――――!!」

 声変わりのしていない幼くも勝気なのが窺える少年の声に、こちらに向かうあの馬車への危機感が違和感へと反転する。

 後ろへ振り返った私は、生前どこかで見た馬車の運転席、言わば御者が座る場所へ目を凝らした。そこさえ見ればこの小骨が刺さったような違和感の正体がわかるはずだと思ったのだ。

 そしてそこに座るランタンの灯りに照らされた痩身の男の姿に、心の内でにやりと笑った。

 猛スピードでこちらに向かってくる馬車は、見張りの兵士が待ち望んだ増援ではなく、奪ったらしいカンダタとエルなのだ。

「乗れ!!」

 道なき道を走り、ガタガタと揺れる馬車の上でどうも馬の扱いには長けているらしいカンダタが叫ぶ。

 距離にして百も無い。馬車の後ろからは馬に乗った兵士達も追ってきている。

 馬車が馬車たる所以の馬が引いているキャリッジ側面からはエルがその小さなおててを差し伸べてくれてもいる。

 だが子供の腕力で引き上げるのは恐らく難しいだろう――――私自身の体の重さもあまり分かっていない。

 ならば、やることは一つ……馬車が目前にまで迫ったタイミングで、私は全身をバネが如く縮ませ、溜めた力を一気に解放するよう思い切り跳ねた。

 できるかどうかなど、常識的に考えればありえないことなので思ってもいなかったが、驚くことに高さ三メートルほどまで体が宙に浮き、私の視界に映る見張りの兵士も、カンダタすらも、その高さにはただただ目を丸くしていた。

 一瞬の浮遊感の後に、体が重力に従って落ちるのを感じる。

――――大体の計算通り馬車の真上に来た私の体は、そのままキャリッジの天蓋となる木枠を破壊して、乗り込んだ。

「……あんた、本当に何者なんだ?」

 流石に想像だにしていなかった乗車の仕方に、追手によって余裕は無くとも疑問の方が多く漏れ出たカンダタから、困惑と驚きと、様々な複雑な感情によってできた声がかけられる。

 どう答えるべきか、少し考えていると隣のエルが得意げな表情を浮かべ、代わりに答えてしまう。

「勇者サマだ! オレたちを助けてくれる!」

 しかし、カンダタにとってそんな妄言妄信じみたことは、どうでもいいのだろう。嫌味と共に親指で示されたのは追手だ。

「……そうかよ。ならそんなユウシャサマにゃ、この状況をどうにかしてほしいね!」

 馬を駆り立て猛進してくる兵士達に視線を向けたその瞬間、一本の矢が風を切った――私の中で思考よりも早く口が動く。

「弓兵……!」

 同時に上体を起こしていたエルへ頭をできるだけ下げるよう促しておく。

 場所は既に平原へと移り変わった。何か使える物がないかと揺れるキャリッジの中を見渡すが、木片しか見当たらない。

 思考すらも惜しく、刻一刻と近づきつつある兵士達からは矢が放たれては掠め、それどころか徐々に御者であるカンダタへと的が絞られつつあった。

「後少しで橋だぞッ」

(橋……?)

 不意に良いとも悪いとも言えない策を思いつくが、成功させるには三つの難題をクリアしなければならない。私は正面を見てるカンダタへ二つの事柄を確認した。

「川の規模と橋の材質は!?」

「はぁ!? そんなこと聞いてどうすんだ!」

「いいから早く!」

「っ、正確には知らん! だいたい幅が馬車四つほど、材質は木材!」

 多少の足止めにさえなればいい、だとすれば難題は後一つ――私は頭を抱え、キャリッジの中で腹這いになっていたエルへ目を向けた。

「たぶん、油、持ってるよね?」

 あの家の中の様相からの判断でしかなかったが、予想通り。

 こくり、頷くエルから麻袋を受け取り、軽く中を探らせてもらう。すると蓋のされたツボらしき陶器を見つけた。

 時間は無いけれど、中身が何なのかを確かめるため耳を澄ませば、馬車の動きと連動して液体が流動する音が聞こえる。

「そ、それだよっ」

……予想でしかなかったのがエルの、その短くも確信を与える返事に「ありがとう」そう一言だけ伝えておく。

 恐らくだが私の体に使う為の油だ、忍びないがありがたく使わせてもらおう。

「ランタン!! あと橋を渡る直前に合図!」

「んの忙しい時に……それ、成功するんだろうな!」

 やり取りを聞いて粗方私がやろうとしていることの想像がついたのだろう。手綱を強く握りながら軽くこちらを見やったカンダタの目は、言葉もそうだが懐疑的であった。

 だから私は答えてやる――雲に隠れていた月が顔を出し、夜を駆ける蹄に耳を傾け、空を劈く矢に身を晒して。

「矢傷を治したの、誰だったかな」

――――水の匂いがした。水の音がした。

 ガタンと揺れる馬車と私の言葉など意識にすらない、カンダタの声が続く――合図だ。

 車輪がガラガラと音を立てる馬車のすぐ下へ、力の限り油の入ったツボを叩きつけた。そして車輪の回転に混じって聞こえてくる、陶器がパリンと割れる造形もクソもなくなる虚しい音に、心の内でエルへ小さく謝りつつ、左手に持っていたランタンを右手に持ち直す。

 橋に到達して数秒、幾度かキャリッジがひっくり返るほどの振動が来るものの、私はその場で立ち上がって油がバラまかれた箇所を視認する。

……地面から橋へと移り変わってすぐ、初めの場所にバラバラになった陶器の破片が見えた。残念なことに油がかかっているかどうかまではわからなかったが、あれが割れた場所にはまず間違いなく油が広がっているはず。

 なら次にするべきは、このランタンを投げつけるだけ――――徐々に距離が空いていく中、待ちわびた【あれ】が起きる。

(来た)

 私以外の全て、世界が色を失う。

 現代とは違って夜に色の無い世界なのだから、一見ガイドが現れる兆候なのか判断できないが、右手に持ったランタンの灯りさえ白く冷たくなっており、時間が止まっているのが見てわかった。

 そして、現在地点は恐らく橋の中心を過ぎたところで、半透明の私がランタンを投げるような素振りを見せた。


 私はそれを確認し、一瞬の迷いなくそのガイドをなぞってランタンを投げつけた。


……ランタンが手を離れるのに呼応して急速に世界に色が戻っていき、それを証明するよう馬車の揺れが足元から伝わってくる。

 そうして無事、橋を渡り切った私達から一秒にも満たない時間で、矢などとはまた違う大きな弧を描いたランタンは油に塗れた箇所へ落下し……燃料には困らず、平原の吹き抜ける風に煽られる。

 小さかった灯は、たった一瞬で子供くらいの背丈の炎となり、馬に乗って追ってきていた兵士達の前に立ち塞がった。

 成功だ、そう喜びを口にしようとした矢先、馬を操るカンダタの呟きが向かい風に流れてくる。

「ダメだ……あの程度じゃ止められない……」

 どういうこと? と再度離れていく橋へ視線を戻せば、なんと兵士達は馬に乗ったまま軽々と炎を飛び越え、そのままこちらを追おうとしているではないか。

 どん底は言い過ぎだろうが、それでも高所から突き落とされたような最悪な気分に、どうするべきかと考えるものの、答えは出ない。

 要は、あれが失敗した時点でどうにもならないのだ。

「……私が足止めする」

 最悪、ではない。それどころか成功する自信すらある今ここで出せる最善の策で、走り続ける馬車から降りようとするけれど、

「勇者サマ、それはムリだって!」

 そう言って腹這いになっていた体を起こしたエルが、引き留めてくれた。それは本当に嬉しくてしょうがなかったが、私はエルに諭すように伝える。

「こっちが馬車な以上、絶対に追いつかれる。そうなれば私や君は大丈夫かもしれないけど、ここまで助けたあの人が死んじゃう、君が許したあの人が、だよ」

「それは、そうだけど……」

「色々な説明は後にしちゃうけど、私はあの人たちがそれほど悪者には見えない。君の、エルのおばあさんの鎧を、このまま借りちゃうのはごめんねだけどさ」

 心配そうに俯くエルの頭を撫で、今生の別れのような言葉を交わす。どこに行ったとしても追いかけるつもりでいるが、心配があるとすれば一つだけ、出会いが特殊とは言えここまで素直で真っすぐな子なのが、誰かに騙されそうで心配でしかない。

 そんな溢れる母性を抑えつけ、心配そうなエルの視線を受けながら、馬車を降りようと縁へ手をかけた――その時だ。

「必要なさそうだぞ。見てみろ」

 ちょくちょく追手の確認をしているらしいカンダタがそう言った。

 言葉の意味をいち早く理解した私が燃える橋を急ぎ注視すれば、なんと驚くことに炎を超えた兵士も超えれなかった兵士も、全員馬から降り消火活動をしているようだった。

 一体どういうことか思っていると「運……悪運がよかった」カンダタはそう呟き一人納得している感じで、張っていた気と力の入りっぱなしであっただろう拳をぐっぱぐっぱと緩めていた。

「なんで、追ってこなかったの?」

 それでもわからず聞いてみたところ、カンダタは振り返りながら僅かに怪訝な表情を浮かべ「おまえ、どこの生まれだ? 漁村か?」と逆に聞いてくる。がそんな質問の答えに意味が無いとでも判断したのか、まあいい、とだけ答えて、続けた。

「小さいがあれはあの町にとって王都、北部に繋がる大切な橋なんだよ。食料や兵士、何にしてもあの橋が無ければ分断されかねない……火を消す方を最優先してくれたのは、幸運としか言えん。分かれてもよかったんだからな」

 そう聞けば確かにカンダタの言っていた運が良かった、悪運が良かった、と言うのはわかる。

「ま、だからと言って追って来ないとも限らんから、このまま行くぞ。お前らは勝手に休んでろ」

 まあ私に疲労という概念は無いのだが、屋根は壊れ、質素な座る場所しかないキャリッジ内部で、例え罠だとしてもここは休ませてもらおう。

「よかったっ、勇者サマっ!!」


……犬のように喜ぶエルと共に。

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死は救済って本当ですか? 宇佐見レー @usamimirennko

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