第三話『勇者の孫、エル』

――――彼の目に映った、空を裂いて駆ける幾本の鏃、それは私の視界右側から彼を射貫こうとしており、見れば広場を背にしていた弓兵の姿が五人、その後ろに剣と盾を持った男達数人が、今か今かと待機していた。

 眼前で繰り広げられる映画かアニメのような場面に、それこそ映像作品を眺めているような気で見入ってしまうが、ふと世界が止まる。

 これが何の前兆か大体わかってしまった私は、次に出てくる私の虚像にびっくりすることはなかった。

 ただ、疑問だけが思考を奪う。なぜなら虚像は立ち上がり、目の前で死を受け入れることしかできないカンダタと呼ばれた男の前に立つと、矢を代わりに受けたのだ。

 もちろん、私の体はこの鎧だ。理由はわからないが考えたところで仕方ない。故に水平を駆けるだけの矢ならば貫かれることはないだろうし、貫かれたところで二度目の死を迎えるかもわからない。

 けど、けどだ。

(私があいつを助ける理由は、なに?)

 撃退できたとは言えあの人数にいたぶられ、そこから一瞬の隙をついたタックルで倒れたと思えば、馬乗りになられてガラ空きだった首元にナイフの刃を押し込められたのだ。

……あの時、肉体があれば私は確実に死んでいた。

 それを助ける道理なんて、ない――――


『たすけてあげて』


 頭の奥がぴりつく感覚、再び聞こえてくる謎の声。


『あなたにはこのつらさがわかるはず』


 外にいるのに妙に反響する声と、謎の声が喋り出すと感じる死角に張り付く何者かの粘着質な気配、その不愉快さと一方的なことしか喋らない謎の声に私は僅かにイラつき始めていた。

 だから、問うた。

(なんの話? なんで私なの?)

 全てをわかった風な口振りの言葉、なら私がそうしなければならない理由もこの声は知っているはずなのだ。知っていなければ、おかしい。

 異世界転生をさせるなら、死が救済であると願って死んだ者ではなく、もっと相応しい人物がいただろうに、そんな思考の果て、

(どうせ、答えは返ってこないけど)

 辿り着くは地平線に沈み、夜を落とす空のような静けさ。

 私の半透明の虚像だけが動き続ける。

 時が動かなくなり無音となった世界で、私の本能は死を手招き小鳥が歌うよう拒否を囀る。

(あの男が死のうが私には関係ない……だけど)

 それでも私は迷う。その囀りが本能的に望んでいることだと理解しているが、雷霆招く雲の合間から差し込んだ光芒が示すのは、見捨てないというもう一つの選択肢である。

 思い出してしまう思い出に碌なものはない――――人なんて嫌いだった。他人という括りじゃない。私自身ですら愛せないのだから人を愛すことなど到底できない。

 生前私を馬鹿にしたあいつも人間だった。

 生前私には無理だと言ったあいつも人間だった。

 生前一度も振り向いてくれなかったあいつも人間だった。

 私に勉強も運動も向いてないとわかった時も、高校卒業後に就職した会社でミスを連発した時も、それが原因でいじめられて引きこもった時も……一生懸命描いたマンガを見てもらった時も……全ての出来事は人間で始まり人間で終わる。

 私は、私はそんな『人』という存在が下らなくて嫌になって――――

(だけど)

――――無意識に、いいや、意識を置いてきぼりに体が動いていた。

 虚像の動きの通り既に重傷を負ったカンダタの前に立ち、水平を進む矢の行先を阻む。

 私が動けば世界が色を取り戻し、私の体に当たる無数の矢は私の体を貫けぬと悟ると自壊していく。

「な、んで」

 背後からの途切れかけの問いかけに、矢を放たれながらも振り向いて私は答えてやる。

「生きることを諦めたようには見えなかったから」

 覗いた男の瞳に、まだ生への執念が見えたのだ。

 死ぬわけにはいかない、死んではいけない……死に抗い、生を謳歌しようとしていて、だが死のうとしていた。

 矛盾を孕むそれに私は――――助けてしまった。

 あの謎の声の言う通り、私は知っていたから。


 その後、カンダタと呼ばれていた盗賊の男は、意識を失った。

 当然だろう、膝ではなく胸に矢を受けたのだ。助けた手前、放っておく訳にもいかず私は地面へ倒れようとする男の体を支えてやった。もちろん矢傷のある正面からではなく男の脇へ回って抱えるように。

 しかし、例え倒れるのを防げたところで胸に深く突き刺さった矢をどうにかしない限り……この男の命は風前の灯火にも等しい。

 人間にこれ以上の血が詰まっているのだと、そう思わせる量が彼の着る服を赤黒く染め上げ、体外へ失わせている。

 私は抱えるように支えていた彼を、仰向けのままゆっくり地面へ下ろした。

 改めて確認してみれば呼吸も浅い。体温も低くなった気がする。だが、私に医学の知識は無い――あったとしてもこの致命傷をどうにかできる設備など、この世界にあるわけがない。

 あの謎の声の、たすけてあげて――――私にその力なんか、ない。


『どうするべきかは、そのからだがわかってる』


 まるで、私の心を見透かしたようなタイミングで、また声が聞こえてきた。

 ただ、謎の声の答えは答えになっていない。

(どういうこと?)

 困惑しながら男の行く末を眺めるしかない私は、そこで自身の状況に気が付く。

 また世界が止まっているのだ。空を飛ぶ鳥が吊るされた剥製のように止まり、風に揺られた木々が糊で固められたように躍動したままで、兵士らしき男達が人形のように固まった姿もあった。

……そんな中で一つだけ、動き続ける影がある。

 私の影だ。眼前に【こうしろ】と言わんばかりに動く、私の影。それは先程の山賊らしき男達との戦闘時にもあった半透明のガイドのようなもの。

 だが今回のそれは派手な動きなどしておらず、男の胸に刺さった矢を引っ掴むとすぐに引き抜き、即座に空いていた左手を傷口へ翳していた。

 いったい何をしているのかと疑問符が浮かぶが、それが謎の声の答えなのだと察し半透明な自分通りに矢を掴む。

 すると、やはりと言うべきか、世界が動き出す。

 生気の無かった生物達に色という生気が戻り、まるで見えない何者かに手のひらで抑えつけられ固まっていた木々や林は、解放される。

 私は、素早く矢を引き抜いた、その一瞬、彼の傷口が脈動したかと思うと出血が酷くなる。

 即座に左手を翳す。

――――私にも何が起きたのかわからなかった――――

 翳した左手から白色が淡く光を放ち、傷口へと吸い込まれていく。

 そして、次に失われたはずの血液が戻っていくのだ。

 傷口という開けられた穴から零れ男の着ていた服を染色していた血液が、液体から既に目視できる範囲では液体かすら判断できない状態だったのに、まるで戻るはずのない時間が戻るように液体へと変わっていき、矢傷という穴を通して体内へと戻る。

……一連の現象は兵士らしき男達が私と男を取り囲んだ時には完了しており、小汚い衣服にあった穴すらも、綺麗さっぱりと無くなっていた。

「何者か」

 警戒と殺気の入り混じった野太い声と共に、すらりと使い込まれた両刃の剣が私の視界端に映る。

 さて、私はどう答えるべきかとここまでの状況を毛細血管ほどの細かさにまで巡らせていた。最初こそまた私の影によるガイドが出てきて解決してくれるのではないか、と期待していたが、残念なことに現れる気配もない。

 多少心の中で毒吐くも、

「答えろ」

 更に突き出された剣が、時間はそう長くないと語る。

 状況で言えば私は怪しさ満点の不審者なのだ。早く何かを答えなければ……とは言え、事実のみを言ったところでどうする? それを信じてくれるだろうか? 

(いや、ないな)

 ちらと見た剣を持つ男の目は、敵意に満ち満ちている。私をこの賊連中と同じ仲間だと判断しつつあるのだろう。まあそりゃ確かにこの男を守るように立ったけども。

「答えなければ、その鎧を盗んだ罪として、この場で斬るぞ」

 けれど、男の言葉は少し予想外だった。

 私はてっきり、剣を突き付けられているのはこの地面に横たわる男を守るよう立ち塞がったせいだと思っていたのだが、どうやら違うらしい。

 確かに思い返してみれば、あの山賊共が奪おうとしていたのもこの鎧で、十人弱で私達を取り囲み、今し方兵士らしき男が言った言葉も今や私の新しい体となったこの鎧のことだ。

 だとしたら……考えれば考えるほど説明などできないこの状況に、私はただ沈黙を貫く事しかできなかった。

 私の体となったこの鎧が、どれだけの物かなんてわからない。それでももう、脱ぐことすら不可能なのだ。

(なにをどう答えても、転び方が予測不能……)

 死ぬかわからない体で一生閉じ込められる可能性すらあるのだ……半ば、絶望しかけた中で、まだまだ大人と比べたら幼子同然の声で「あの……」と声が聞こえてきた。

 剣を持っていた男も含め、その場にいた数人の兵士達がその声の発生源へ目を向け、私を除く驚愕がさすらう。

 そして、誰かが言った。

「エルか!?」

――乾きつつある血を手にべっとりとつけ、階段を転げ落ちた際にできた額の傷、傍から見れば自分の血に塗れたあの少年の姿。

 私を取り囲んでいた内の一人が少年へ駆け寄る。

 エルと呼ばれた少年は、それでも言葉を続けた。

「その人、は、助けてくれた……倒れてる、ひと」

 まだ完全には立ち直れていないのだろう、それとも頭を打った影響が出ているのか、どちらにせよまだ朦朧とした意識でのその言葉は、兵士らしき男達を納得させるには十分だったらしい。

「なんと、助けて頂いた方でしたか! これは失礼した」

 私へ敵意を向けていた男は左腰に佩かれていた鞘へその剣を素早く収めると、これまでの非礼を詫びるように頭を下げた。が、

「ですが、あの子をいくら助けて頂いたとは言え、沈黙は感心しません。その鎧も早々に返却願います」

 頭を上げる途中、ぴたりと動きが止まったかと思えば、私にだけ聞こえるよう男は声を潜めた。

「……」

 私は特に何も答えなかった。

 この鎧が彼らにとってそれだけ大切な物であることは理解できたし、そもそもがカンダタのことが気掛かりだったのだ。

 あの少年の証言によって、私が捕まることはなかったが……

「斬る、ね」

 私へ剣を突き付けていた男のその言葉が、助けたカンダタという男の、最期なのではないかと考えていた。


 つい数時間前までの騒がしさが嘘のように静かな町並みを、夕闇に包まれながら二階の窓から眺めていた。

 まだ明るかった時分でも、人通りはあれどあまり活気があるようには見えなかった往来を、ぽうっと蝋燭が灯る他人の家を羨ましそうに見ながら歩く、小さな影が見えた。

 それはとぼとぼと歩き、こちらへ向かってくる――一目見た瞬間にわかった。あの少年だ。

 蝋燭と松明の灯りしかないらしいこの世界で、死に際海馬を抉り取ってはめ込んだ猟奇的な絢爛さを思い出させる夜に浮かぶ星から目を逸らし、一回へ続く螺旋階段を降りた。

 窓は割れ、扉は壊れ、机や椅子はひっくり返った惨状はそのまま、私の気配に気づいた少年は後退った。

「だ、だれっ……?」

 どうやら夜の帳が落ちたこともあってか、少年に私は見えていないらしく、私は警戒されぬよう出来る限り優しげな口調で答えた。

「私……えと、ほら、さっき襲われてた時にいた鎧の……」

――そこまで言ったところで、自分がどういった存在なのか、明確に自分自身の言葉で表現できるほど状況を理解できていないことに気付いてしまう。

 けれど、またごちゃごちゃと頭の中で雑多に粗大ゴミをかき回し続けるが如く思考をする前に、少年にはたったそれだけで伝わったようで、

「助けてくれた、ひと?」

 恐る恐る、その言葉が最も当てはまる身振りに一握りの戸惑いを入れたような態度ではあるが、思い当たる節を問うてくれた。

「そうそう! って言っても人なのかな……」

 私としても胸を張って「そうだよ」と言いたかったが、喋る度に自身でもわかる鉄兜越しのくぐもった声と、どれだけ小さく抑えようとしても鳴ってしまう鉄と鉄の摩擦音によって、心の内が言葉の端々に滲み出てくる。

 だがそんなことを知らない少年は、この年頃相応の、いやそれ以上に旺盛な好奇心で不思議そうに首を傾げ、剰え不用意に近づいても来た。

「……どういうこと?」

「ちょ、ちょっと待ちなさいって、あなたと私は初対面でしょ!」

 まさか怪しさ満点の不審者側である私が、子供にそう言うことになるとは思ってもなかった、しかも人の言葉を無視して何をするかと思えば、ぐちゃぐちゃの部屋の中を見渡し、物が散乱する床を探ると蝋燭を手に持ち上げ、次に見つけた燭台へと乗せると火を灯し始めたよ、この子。

 温かくはあるがそれほど明るくはない灯りに、エルと呼ばれていた少年は、そのまま私の姿を探るようこちらへ近づいてくる。

 私の声が聞こえて来た方向を無暗に探しているのだ。

「聞いてる!?」意図がわかりそんな風に思わず聞くが「でもお姉さんがさっきのお姉さんかどうかわからないから……」

 やはり人の話を素直に聞くつもりはないらしい。

 横目で周囲を見ても、二階の螺旋階段はとうに過ぎ去っており逃げ場はない。それでも後退るものの、やがて背後に壁が触れ、行き止まる。

 そして灯りから逃れられなくなった私の姿が、淡く輪郭は朧にしながらも、暗闇の中で微かに灯に照らされた。

 すると少年はそこまで見て漸く安心したのか、小さな胸を膨らませ「ほんとにお姉さんだぁ……」と呟きながら撫で下ろした。

「……君、不用心だよ」

 少年らしい好奇心に呆れながらも、危険があるかもしれないとわかりながら簡単には諦めない姿に少し感心してしまうが、後者の感情は押し殺し少年へ忠告する、が当の本人は安堵からか家の中の方へと意識が向いてしまったらしい。

 徐に燭台を足元へ置き、最も目につきやすく簡単に直せるであろうひっくり返ったテーブルを小さな体躯を使って僅かに持ち上げ、本来の形へと戻す。そして足元の燭台をテーブルへ……やはり私の言葉など一つも聞こえていないみたいだ。

 私としてもだからと言って何かをする訳にもいかず、内心戸惑いつつ少年を眺め続けていると、

「……その、ありがとう、ございました」

 テーブルの次に目につくであろう倒れていた椅子二つを立て終えたところで、そんな言葉が少年の口から発せられた。

 視線は逸れ私に言っているのに関わらず合っていない、その上声も消え入りそうと見てわかる人見知りであるが、全てを我慢してあの山賊連中から守ったことに対しての感謝の言葉は、本物なのだろうと思う。

 本来、喜んでもいいのかもしれない。

(でも、私自身がこの子を助けたわけじゃない。そうなるように仕向けられたんだ)

 理由の見えない異世界転生、謎の声、謎の力、どんな物かはわからないが山賊連中のタイミング、色々とわからないことがありすぎて気疲れしそうだが、不意に私の右腕に何かが触れた。

 見れば少年が私の腕を掴み、こちらの気を向けようとしていたのだ。

「あ、あの、これを着ていて違和感は……?」

 着ていて、その言葉に違和感を覚えてしまう自分がいて、少し嫌になる。それに違和感とはまた含みがあって気になる言い方だ。

「違和感?」と問いかけてみれば、

「その鎧、僕のおばあちゃんが使っていたもので、大切に保管してて……でも今まで誰も着れなかったんです」

 そう言えば、私が出てきたのは二階の箱みたいな場所だったと記憶している。確かに大切に保管されている感じだ。

 ただし、着れなかった、はまた気になる言葉選びだ。

「……大きさが合わなかったとか?」

 着れない、に合うような状態を試しに言ってみるものの、このまだまだ発育途中の少年が祖母の物と言うくらいならば、軽く十年以上は経っていてもおかしくない。

 なのに誰も着れる人がいないのは若干おかしな話だ。時間をかければサイズ程度、合う人物がいてもいいはずなのだ。それに、私の言葉を聞いた少年の反応もよくない。

 大っぴらに言えないことなのか、あるいは言い辛いことなのか、少年は数秒ほど口を噤んでいたが、やがてこの鎧の【曰く】について語りだした。

「そ、その鎧、呪われているんです」

 鶏卵の黄身を箸で掴むように恐る恐ると言った様子、私はただ続く言葉に耳を傾ける。

「声が……聞こえるそうなんです。その鎧を着ている時だけ……それどころか誰かに見られている視線も感じるみたいで……だから呪われてるって」

 少年の声のトーンと視線が落胆や困惑の色を漂わせながら落ちるが、すぐさま私の顔を見上げる。

 そして漸く少年がした最初の質問の意図が理解できた。その声やら視線を感じたり聞こえたりしていないか、そう聞きたいのだ。

 この質問に嘘を吐く理由もない、メリットもない。なぜならこの鎧が例えこの少年の物だとしても、私はもうこの鎧を脱ぐことはできないのだ。

「――聞こえるよ、視線も感じる。でも周りを見てもそんな人物いなかったし、視線はどこかわからないのに確かにある」

「! なら早く外さ……」

 驚愕に見開く目、続こうとした言葉を遮り私は首を横に振って、決心した。

「この鎧自体が私なんだ」

「え?」

――きっと信じられないだろう。私なら信じないし相手の正気を疑う。だけど私にはそれを証明できる。

 もし見せればあの盗賊の男と同様に驚くのは目に見えていたため、私はゆっくりと右手を鉄兜へ持っていき下がっている目庇を上げた。現代的に言えば敬礼の元となった動作だが、同時にテーブルに置かれていた燭台を左手で持ち、目庇の奥を照らすよう目元へ近づけた。

……瞬間、ごくりと喉が鳴る。当然私ではない。

 少年のか細く汗が一滴伝う喉から鳴ったのだ。

 見れば見るほど現実を突き付けるような少年の瞳に映る虚。

 本来そこにあるはずの眼窩、眼球、瞼、何もかもそこには無い。ならば私が見ているこの景色は、少年と合い続ける視線は、一体何なのかと狂気に苛まれそうになる。

 しかも狂気と共に濡れタオルのような感情から絞ったが如く後悔が流れ落ちてきた。

 私は、恐れられる存在であると、わかってしまったからだ。予想はしていた、わかってはいた。あのナイフを私に突き立て殺そうとしていた盗賊の男の反応を見れば、どういった存在なのかは予想できていた。

 改めて、それをこんな小さな少年に見せられると、人生賭して尚漫画家になれなかったなど幾度の挫折を味わった私でも、ショックでしかない。

 まさか死は救済、そう考えて死んだのにまたこんな……と破壊された扉の方へ歩く。

「……ごめん、私、もういくね」

 どういった理由があってこの小さな少年が鎧の持ち主であるかは先程までわからなかったが、大切にしていたことだけは確かだったこの鎧を、私自身だとしても黙って持ち去るのは流石に悪いと思い、できなかったのだ。

 だけれどこんな感情になるのなら行ってしまうべきだったのかも……ふっと消え去る罪悪感、握った拳が軋んだ。

 それに、化物が……魔物がいつまでも町中にいれば、想像するまでもなく大騒ぎになるだろう。少年だって恐らくは――――水底のように昏い感情は、無意識に少年へ背を向けさせ、玄関だった場所からたった半歩だがそれでも外へと歩を進ませようとする。

 感情のままに背を向けていた私に、少年の表情はわからない、当然どう思っているかもわかるはずがない。

 先走り続ける偏見に、絶望と深淵の縁でバランスを取り続ける中、私の耳に届いたのは私へ恐怖している声色とは到底思えない嬉々に満ちていたもので、屋内にすら落ちる夜闇という黒いベールを容易に引き裂いた。

「――――父さんの言ってた通りだ!」

 予想外でしかない少年の声に思わず歩みを止め、視線を移す。一瞬、恐怖で気でも狂ったのかと思うが声変わりのしていない少年の「ちょっと待って!」そんな甲高い声と深い思考に沈む様子はそれを否定していた。

 唖然としつつ自身の世界に入った少年を眺めていると、数秒後ににぱぁっと夜明けの空のように表情が明るくなり、少し得意げで少年特有の生意気な顔をした。

 そうして記憶を遡っていたであろう彼は、ある文章の一節を口にする。

「なしえぬことをなせるそんざい、しんのゆうしゃがあらわれる」

 胸を張って言い終えた次に少年は……いや、エルはにやっとスライムでもしないようなしたり顔をし、腰に左手を当てながらビシッと右人差し指を私へ……


「あなたが真の勇者様だ!」


……無邪気さを内包した無垢な瞳で、そう言った。

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