frog lady 4

 カエデはオレと会ったあの日の晩、自宅の風呂場でで手首を切っていた。


 喪服は実家に置いていたので、取り急ぎ黒いネクタイだけコンビニで買って、リクルートスーツで通夜に駆けつけた。


 斎場に着いた頃にはもう通夜は終わっていて、参列者はあらかた帰ったあとだった。

 がらんとした小さな斎場。

 BGMにはカエデが好きだった女性歌手のアコースティック曲。

 左右均等に並べられたパイプ椅子、弔花。そしてたくさんの花に埋め尽くされた遺影。 

 黒に縁取られた笑顔のカエデがそこにいた。

 懐かしくて、愛おしくて、目の奥がつんとする。


 だがオレはそれ以上進めなかった。

 カエデを見つめるパイプ椅子の端っこに、喪服の女性がひとり、うなだれて座っていたからだ。

 彼女は振り返ってオレに気づき、疲れた顔に精一杯の笑みを浮かべた。


「アツシさんですね。カエデの母です、来てくれてありがとうね」


 深々とお辞儀をする女性。


「あの、オレ……な、なにも知らなくて……」


 開口一番、出た声は情けないほど震えていた。

 お母さんは柔らかい笑みのまま、ふっと息を漏らした。


「やっぱりなにも言えなかったのね、あの子」


 オレを見るお母さんの目は、目尻にシワと涙のせいで化粧が滲んで寄っている。

 そのにオレは縮み上がっていた。

 罵倒されるのか?それともビンタ?

 いっそ蛙みたいに轢いてくれ。


「黙っていてごめんなさいね。カエデは消化器系の難病を患っていたんです。発見が遅くて、でもアツシさんに迷惑かけたくないからって、あの子……」


 お母さんはそう言って目元を拭った。

 ……難病だって?

 予想外の言葉に呆然とするオレに、お母さんはなぜか深々と頭を下げた。


「アツシさん。カエデがたくさんご迷惑をお掛けして、本当に、本当に申し訳ありませんでした」


 カエデのお母さんがしているのがオレへの謝罪だと気づくまでに数秒かかった。

 どういうことだ?

 顔を上げようとしないお母さんにどう反応すればいいのか分からず、しどろもどろになってしまう。


「えっ? ちょ、あの、そんな……」

「あの子最近、アツシさんに失礼な態度をとったり、困らせたことがきっとたくさんあったわよね」

「はっ? あ、いや、えっと……」


 話が全く読めない。


「でもそれには理由があるんです。こんなこと、この場で言うことじゃないかもしれないけど、カエデのためにも、きいてくださるかしら」


 悲しみをこらえたお母さんの落ち着いた柔らかい声音は、どことなくカエデに似ていた。

 オレは生唾を飲んだ。

 お母さんは額縁の中のカエデに確かめるようになんども視線を移しながら、ゆっくりと話しはじめた。


「カエデが日常的に内服薬ピルを飲んでいたのはご存知だったかしら……あれは精神科の薬だったんです。最初は時々へんなまぼろしをみるだけだって言っていたけど、二ヶ月前から急にひどくなって……アツシさんが蛙に見える、最近はまできこえるんだ……って。私が言うのもなんだけど、カエデはアツシさんのこと大好きだったんですよ。だから余計に……蛙だなんだって、病気のことで不安定になっているのをアツシさんにぶつけてはいけないと叱りました。あの子も自分なりに向き合っていたみたいで、このところ少し落ち着いていたから安心していたんです。アツシさんがあえて距離をおいてくれたお陰だって、嬉しそうに言って……アツシくんの声、電話でちゃんときこえた、って、あの子、笑って……がんばる、病気のこと、アツシくんに伝えるよって……それなのに、こんな……私があの時、叱ったから、私が、カエデを、頑張らせてしまったから……」


 お母さんはこらえきれずに俯き、オレに見せまいと背中を向ける。

 震える喪服の向こうからこちらに微笑みかけるカエデの顔がぼやけた。


 オレは愕然とした。

 二ヶ月前から幻覚が見えていたって?



 いや、そんなはずはないだろ。


 だってこの二ヶ月、オレたちは変わらず愛し合っていたじゃないか。

 オレがカエルに見えていたのなら、じゃあ彼女は、



 足が地面を捉えている感覚がない、まるで轢かれたかのように。

 臭気のある脂汗が吹き出してシャツがぐしょぐしょだ、まるで潰れて吹き出した毒素のある分泌液のように。

 オレはげえーげえーと呼吸をしていた、まるて肺がひしゃげたみたいに。


 正面の棺桶はおろか遺影すら直視することが出来ない。

 だってオレにはもう彼女のがべつのものにしか見えないのだ。


 そして、真っ白な棺の中にいるのは……



「アツシさん、カエデのこと、愛してくれてありがとうね」


 震える声にはありったけの感情がこもっていた。

 お母さんはまた深々と頭を下げた。

 ハイと言ったつもりが、乾いた息にかすれた音が乗って、轢かれた蛙の最期の悪あがきみたいな声が出た。



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蛙になった男 松本貴由 @se_13

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