タクシーに乗せた客

増田朋美

タクシーに乗せた客

その日は、何故かわからないけれど、例年より寒い日であった。その日が寒いということだけではなく、単に平年並みなだけなのかもしれない。だけど、みんな、今日はいつもより寒いねと、口を揃えて言う、おかしな日であった。

その日も、雨宮香津代は、駅でワゴンタイプのタクシーに乗って、客待ちをしていた。普通のセダン型のタクシーであれば、まだ乗りたがる客がいるかも知れないけれど、香津代が担当しているタクシーは、いわゆるUDタクシーというもので、一般の客だけではなく、車椅子の人とか、セダンに乗りにくい服装をしている人向きのタクシーであった。だけど、セダンに乗りにくい服装をしている人と言っても、大概の人は、セダンに乗れる服装をしているし、それに考慮する必要は無いと思われるほど需要はなかった。ワゴンタイプのタクシーであっても、小型車と運賃は一緒なのに、そのような形のタクシーでは、運賃が高いのではないかと言われることも多く、一度乗ろうと思っても、別の車両に乗ってしまう客も少なくなかった。そうなると、香津代はなんで、こんなタクシーの担当になったんだろうと、駅で客を待ちながら、よく考えてしまうものだった。

もともと、タクシー運転手になるなんて気持ちはサラサラなかった。学生時代は、これでも、音楽学校で声楽なんか習っていた。学内のオペラ公演で脇役だけど、舞台に出演したこともある。まあ、高音が出るわけではないので、メゾソプラノということになったがそれでも歌に関しては自信があった。でも、大学を出て、そんな彼女を受け入れてくれる会社というのはまったくなかった。それにソプラノではなかったので、合唱団の指導の仕事などももらうことができなかった。それに音楽学校は忙しすぎて資格を取ることもできなかったから、香津代が持っている資格は、車の運転免許しかなくて、結局それを生かして、二種免許を取りタクシーの運転手になったというわけだ。一応、岳南タクシーに入らせてもらったけれど、女性であり、若いということもあって、香津代は、UDタクシーの担当になってしまった。本当はセダンに乗って、いろんなお客さんを乗せることができたらいいのになあと思うけど、その仕事は、高齢のおじさんたちが取ってしまった。だから、UDタクシーの担当なんて、お客は来ないし、暇な仕事だった。それでは、なんのために自分はタクシーの運転手をやっているんだろうと思ってしまうほど、つまらない仕事だった。

そんな彼女にも、平等に幸せはもらえた。一応、会社員の男性と結婚し、息子を一人設けることができた。夫は、香津代が、仕事を続けたいというのも快く承諾してくれたし、息子は息子で独立心が旺盛な子供だったから、何でも一人で自分でやりたがる性格で、暇があれば友達と一緒にでかけてしまうので、香津代は、幸せな生活を送っているのかもしれなかった。でも、この仕事をしていると、どうして自分はこんなに退屈な仕事をしているのだろうと思う。それは、ある意味では寂しいという感情に変わっていく。つまり、香津代は居場所が無いのだった。職場では退屈だし、家庭内では、普通にご飯を作って、洗濯をして、それさえしてればそれでいい。あとは、夫や息子たちも自分でしてしまう。誰一人、香津代には関心を向けてくれなかった。夫も、息子も、香津代のことを無視していた。つまらない毎日。香津代は、なんだかそんな日々に疲れていた。

そんな事を考えながら、今日もUDタクシーに乗って客待ちをしていたのであるが。

「おーい、お前さん、お前さんだよ!」

といきなり誰かに言われたような気がして香津代は後ろを振り向いた。すると、タクシー乗り場に、着物を着た男性と、着物を着て車椅子に乗っている男性がいた。その着物を着た男性は、どこかの映画俳優でもにた人物がいるのではないかと思われるほど、美しい顔つきをしていて、少し白髪交じりになっていたが、それがまた美しく見えてしまうのはなぜだろうと思われるほどきれいな人だった。一方の車椅子に乗った男性は、まず彼の引き立て役というべきだろうか。

「あのね、電話で予約した影山なんだけど?」

と、車椅子の男性が言った。

「ああ、ああ、ご予約でございますか?」

香津代は、予約の電話が入っていたのかどうか思い出しながら言った。

「おう。お前さん忘れたのかよ。車いす用のタクシーを一台予約したんだけど?」

車椅子の男性に言われて香津代は、そうだっけとやっと思い出した。その言い方が、どこかのヤクザの親分みたいな乱暴な言い方だったので、もしかしたら本当にそういう関係の人かと思ってしまった。

「忘れちゃ困るぜ。僕、電話したからちゃんと覚えてるぜ。名前は影山杉三。略して杉ちゃんだ。こっちは連れの磯野水穂さん。二人で乗るってちゃんと予約したはずだ。とりあえず、僕らを大渕の富士山エコトピアの近くまで乗せていっておくれよ。」

車椅子の男性に言われて、香津代は、

「わかりました!じゃあ、後ろの座席に乗っていただけますか?」

と急いで、後部ドアを開け、車椅子が乗るためのスロープを出した。そして、杉ちゃんと名乗った男性の車椅子を動かして、彼をタクシーに乗せた。

「おうありがとうな。全く静岡のタクシーは親切でいいな。東京の介護タクシーなんて乗り降り介助とかで、一万円近くかかってしまうぞ。」

と、杉ちゃんはカラカラと笑った。続いて水穂さんと紹介された、あの美しい男性が、

「すみません、よろしくお願いします。」

と言って、後部座席に乗り込んだ。香津代はこの男性が、あまりにもきれいなので、思わずぼんやりとしてしまったくらいだ。

「何をぼんやりしてんだよ。早く乗せていってくれ。」

そう言われて香津代は、わかりましたと言って、運転席に乗り込んで、エンジンをかけた。とりあえず、富士駅の敷地内を出て、大通りへ出た。道路は混んでいなかったので、タクシーの走りは至って軽快だった。

「お客さんは、こちらに観光で来たんですか?」

香津代はそう聞いてみる。

「ええと、それはその反対。僕らは帰り道なんだよね。」

杉ちゃんがすぐに答えた。ということは、大渕ということなので随分田舎に住んでいることになる。そんな地域で、着物を着て生活しているなんて、かなり目立つのではないかと香津代は思ったが、それは、その美しい男性に失礼になると思って言わないでおいた。

「それでは、なにか習ってらっしゃるとか、そういうことですか?茶道とか、あるいは、剣道でもやってらっしゃるんですか?」

香津代がそう聞いてみると、

「いやあねえ。剣道も何もやってないよ。僕らはただ着物がすきで、洋服より便利であることを知ってるから、それで着てるだけなんだよ。」

と、また杉ちゃんに答えを言われてしまった。香津代としてみれば、水穂さんという男性に応えてもらいたいものだった。

「そうなんですか。今どき珍しいですねえ。男性で着物を着ていらっしゃる方はそうはいませんよ。もしかして、お能を見に行くとか、そういうイベントがあったんでしょうか?」

香津代が、今度こそ水穂さんに応えてもらおうと思ってそう言うと、

「いや。そういうわけでも無いんだけどなあ。僕らはただ着物がすきで着ているだけでさあ。それではいけないのか?やっぱり、なんか理由が無いと着物を着てはいけないのかな?着物なんてリサイクル屋で、500円とかそこらへんで買えるものだけどねえ。」

と、また杉ちゃんのほうが答えた。

「そうですか。」

香津代はちょっと不機嫌な顔になった。

「まあ怒るな怒るな。僕らは、怖いやつでもないし、ただ着物がすきで着ているだけだからさあ。それだけのことだと思ってちょうだいよ。全然、珍しいことじゃないんだよ。ただ、着物はずっとずっとむかしから、日本にあったというだけさ。はははは。」

香津代は、杉ちゃんにそう言われて更に不快になった。とりあえず、富士山エコトピアの看板が見えたので、

「ええと、エコトピアの近くに行けばいいんですね?」

と言ってみると、

「はい。エコトピアの近くに、和風の建物が見えてくると思いますが、その前でおろしてください。」

とやっとあの美しい男性が発言した。その声は顔に合わず、渋い声だったが、香津代はかえってそのほうが着物にあっている感じがした。

「はい!わかりました!」

香津代は、すっかり嬉しくなって、またアクセルを踏んだ。

そうこうしていると、日本旅館のような建物が見えてきた。杉ちゃんが、おう、ここで下ろしてくれというと、香津代は、その建物の前でタクシーを止めた。

「ありがとうございました。おいくらでしょうか?」

と水穂さんに言われて香津代は、

「2400円です。」

とだけ言った。水穂さんが、それを香津代にわたすと、

「ありがとうございます。」

と香津代は笑顔で言った。

「今日は本当にありがとうございました。また定期的に利用することもあると思いますが、そのときはちゃんと電話をしますので、よろしくおねがいします。」

と、水穂さんがタクシーを降りながら言った。

「おう、僕も下ろしてくれ。」

と杉ちゃんがいうので、香津代は渋々彼をタクシーから下ろした。

「今日は予約の電話がちゃんと伝わっていなかったようでごめんなさい。次回は、しっかり予約を入れますから。よろしくおねがいします。」

水穂さんにそう言われて、

「いえ、いえ大丈夫です。あたしのほうが、予約されていたのに気が付かないで、間違っていたんですわ。これからも、岳南タクシーを利用してください。」

と、香津代は、にこやかに言った。

「じゃあ、また頼むときもあると思いますから、よろしくね。」

杉ちゃんに言われて香津代は、すぐにタクシーに乗り込み、ありがとうございましたといった。その日は、そのまま営業所へ帰ることになると思われるが、なんだか水穂さんの側を離れてしまうのは、名残惜しかった。でも、水穂さんは、定期的に利用するといった。ということは、また会えるんだ。それでは、また乗ってくれる日を心よりまとう。なんだかつまらないタクシー運転手業務も、これで少し楽しくなったのかなと思われた。

その日、香津代は幸せだった。タクシー運転手業務を終えて自宅へ帰っても、一日にこにこしていた。息子は、お母さんどうしたの?なんてからかっていたけれど、ちょっと楽しいことがあったのよ、とだけ言っておいた。

その日からまた一週間経ったが、あの二人は乗車しなかった。また土曜日がやってきて、香津代がいつもどおり営業所に出社すると、一時にUDタクシーを希望するという電話があったと上司から告げられた。ということはもしかしたら、杉ちゃんと水穂さんが乗るのかなと香津代は直感的に思った。その日も富士駅の敷地内で、客を待っていると、杉ちゃんと水穂さんの姿が見えた。水穂さんという人は、本当に容姿がとても美しいだけではなく、着ている着物も個性的であった。前回は紺色の葵の葉を大きく入れた着物であったが、今回は茶色の、もみじの葉を大きく入れた着物である。あんなに派手な柄を入れた着物というのは、初めて見た。そして水穂さんが、その着物がよく似合うほど美しいのが、香津代は魅了されてしまった。

「あ、こないだの、UDタクシーだな。それでは、お前さん、またこないだと同じところに乗せていっておくれよ。」

杉ちゃんに言われて香津代はわかりましたと言って、彼をタクシーに乗せた。そして、水穂さんに後部座席に座ってもらうように言った。水穂さんは座ろうとしたとき少し咳をしたが、香津代は何も気にしなかった。

「それでは、行きますよ。またエコトピアの近くになりましたら、確認入れますから、どこへ下ろしたらいいのか言ってくださいね。」

と言って香津代はタクシーのエンジンを掛けた。そして、また大通りを走り、西富士道路近くを走って、大渕へ。それから富士山エコトピア近くへ走っていく。今回は、杉ちゃん水穂さんが、なぜタクシーを利用するのか聞き出すことができた。二人は、水穂さんの体力を回復させるため、時々富士市内にあるセラピストの先生を訪ねていると答えた。そんな人が富士にいるなんて全く気が付かなかった。夫も息子も健康だし、そういう世界には縁もゆかりも無いのである。だから、そう言われてもピンとこなかったけど、水穂さんたちと話をするのが、とても楽しかったのであった。そして今回も、製鉄所の近くに到着し、2400円をもらうのであるが、それがなんだか、本当に名残惜しいというか、そんな気がしてしまうのであった。香津代は二人を下ろして、営業所に帰っていく間、どういう道を通ってきて帰ってきたのか全く覚えていない。

それから数日後のことであった。香津代が、食事の材料を買いに、夫と二人でスーパーマーケットに行ったときのことである。レジに並んでいた香津代は、

「あれ、タクシーの運転手さんだよね?制服着てなくても顔を見ればわかる。そうだろう?」

と声をかけられた。香津代がその方を向くと、車椅子に乗った杉ちゃんと、また着物を着た水穂さんがそこに立っていたからびっくりした。

「まあ奇遇だわ。こんなところで遭遇するなんて。今日は、お買い物ですか?」

香津代がそうきくと、

「おう、食品の買い出しにこさせてもらっただよ。」

と、杉ちゃんは答えた。

「そうなんですか。お客さんは、買い出しに行くときも、着物で来るんですか。」

香津代が思わずいうと、

「だって昔の人は、着物で買い物していて当たり前だったんだぜ。」

と杉ちゃんに言われてしまって、香津代はそうねとしか言えなかった。

「びっくりされても仕方ありませんが、僕達は着物の方が良いのです。」

水穂さんがそう答える。

「そうなんですね、いいなあ。私も着物を着てみたいですよ。」

香津代が思わずそう言うと、

「ほんなら、通販とか、そういうもので買ってみればいいじゃないか。着物はすぐ買えるよ。」

杉ちゃんはあっさりと肯定した。

「まあ、そんな事言って。私に着物なんて似合うと思う?それに帯の締め方だって私はほとんど知らないのよ。」

香津代がそう言うと、

「いや、簡単に着られるように仕立て直す方法も知ってるし、作り帯も簡単に作れるので、心配いらないよ。」

と、杉ちゃんはカラカラと笑った。一方の水穂さんは、ちょっとごめんなさいと言って、二三度咳をした。口の周りを拭いたちり紙に、赤い液体が着いたので、香津代はいまは、二十一世紀に入っているのかわからなくなった。もしかしたらこの二人、明治とか大正とかからタイムスリップしてきたのではないか?そんな事を考えてしまった。

「まあ、着物を着てみたくなったら、いつでも相談に乗るよ。僕らは和裁屋だから。いつでも連絡してね。」

杉ちゃんはそういったのであるが、香津代は、二人がレジでお金を払っていくのを見て、ぼんやりと見つめているしかできなかった。

そう思ったのは、香津代だけではなかったらしい。香津代が家に帰ると、すぐに夫が、お前恥ずかしくないのかと言ったのである。

「恥ずかしくないって何が?」

香津代が思わず尋ねると、

「お前、あんな色男と嬉しそうに話していて、何をするつもりなんだ?もしかしたら、」

と夫に言われてしまって、香津代は困ってしまう。

「そんな事しないわよ。あたしはただ、あの二人が今どき珍しいなと思っただけよ。」

そう答えるが、夫は、嫌な顔をした。

「珍しいなって、それだけではあんなに馴れ馴れしく話もしないだろう。今どき着物を着ているやつなんてのは、ろくなやつじゃないんだ。どうせ、暴力団とかそういう奴らに決まってる。そういうやつと、関係を持とうとしているわけではないだろうね?」

「そんな人達では無いわよ。あの二人は、そういうおっかない組織にいるような人たちではないわ。私はただ、あの二人と仲良くなりたいだけよ。」

「はあ、仲良くなりたいね。それでは、あんな美しい男のほうが、良くなってしまったというわけか。ああいう、時代遅れの、暴力団の組合員に、惚れてしまったのか。」

夫は、いくら香津代が言っても、暴力団の組合員と勝手に決め込んで、香津代に、そんな奴らと仲良くするのはやめろと言った。香津代がいくら、そのようなことは絶対にない、あの二人は、着物を着るのがすきな人たちだと説明しても聞かなかった。もし、そういう奴らと仲良くなりたいのであったら、仕事をやめろとまでいい出した。香津代は、仕事をやめさせられるのは困るので、それ以上何も言えなかった。

また一週間たった。また杉ちゃんから予約があるかなと香津代は思ったが、杉ちゃんから電話がかかってくることはなかった。その次の週も来なかった。香津代はまた水穂さんに会いたい気持ちが募った。でも、水穂さんは香津代の前に現れることはなかった。香津代が、営業所で、しょんぼりとしていると、同僚の運転手のおじいさんが、

「最近あの銘仙の着物を着ているお客は見かけなくなったねえ。」

と言ってきたので驚いた。

「銘仙?」

香津代が聞き返すと、

「そうだよ。あんなきれいな顔して、銘仙とは可哀想だねえ。俺が、子供の頃だったかなあ。確かいたんだよなあ。銘仙の着物でさ、外出していたやつ。あれはね、貧しいやつが着ている着物だよ。今どきそれを日常着にしてるやつはいないと思ってたけど、まだいるんだな。」

と、おじいさんは言うのであった。香津代は、あの美しい男性は、実はそういう事情を持っていたのかと考えると、騙されたのか、それとも自分がいけないことをしたのかわからない気持ちになった。私は、あの人が好きになったのだろうか。それとも、ただ着物を着ていて面白いと思ったのだろうか。それとも、彼の境遇に、同情しただけだったのだろうか。香津代は、おじいさんに言われたことをもう一度頭の中で復唱し、水穂さんという男性のことを、忘れてしまったほうがいいのかなと思い直した。


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タクシーに乗せた客 増田朋美 @masubuchi4996

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