コミックを読むの前から?後ろから?

 予めお断りしておくがこれは30年ほど前のことだ。

 

一体なんのこっちゃと思われるかもしれないが、日本語教師をしていた頃にタイ人学生からこんな不思議な質問を受けた。


「先生、日本のコミックは後ろから読むんですよね」


「いや、よっぽどの変人でない限り、普通に前から読むけれど。どうしてそんなことを聞くの?」


「あれ? おかしいなあ。だって日本語のコミックは後ろから読まなければいけないでしょう?」


「どうしてそうなるの?」


「だって、ほら! 先生も日本語の本はこう読むのでしょう?」


 そういうと学生はどこかで入手した日本で出版されたコミック(マンガ)を取り出した。そして普通に前からページを順番にめくってみせた。


「そうだけど?」


「でも、タイのマンガだとこっちから読むから」


 そう言うと学生は今度はタイ語に翻訳されたコミックを取り出して、ページを前から順にめくってみせた。


「ああ、そういうことか!」


 日本語の出版物は通常は縦書きのものが多い。文章は右から左へ読み進めることになる。縦書きの書籍はコミックも雑誌も含めて国語の教科書と同様に右じで右開きになる。


 一方、英語と同様左から右に横書きで書かれるタイ語の場合、文章は左から右へ読み進めることになる。なので書籍はコミックも含めて数学や英語の教科書と同様に左じで左開きになっている。


 少なくともタイ語でも洋書でも左綴じの書籍が当たり前のタイ人にとっては日本語は、タイ人にとっての一番後ろ側から書籍を読み始めなければならない奇怪な言語と思われていたのだ。なるほど。


 ここで問題がある。日本のマンガの場合、その頁のコマや吹き出しを読む順番もおおむね右から左へということになる。だが、これはタイ人にとって本来は非常に不自然な読み方である。その問題を解決するためにタイ人たちが当時とっていたた手段とは……


 元の日本のマンガの絵を全て左右反転にコピーしたのだ! なんたる荒技、力技! なるほど、そうすればタイ人にとって普段から馴染んでいる左から右へとの文章読む流れでコマや吹き出しを読んでいける!


 とは言うものの、このやり方には大きな問題がいくつもあった。


1.登場人物の利き手が逆転するため、やたら左利きの人物さうすぽーが多くなる。

2.セリフ内での左右と絵の左右で矛盾と混乱が生じかねない。

3.翻訳されていない看板など背景の文字や時計や、ゼッケンの名前や数字までも反転してしまう。


 たしかに作品によってはこれでは興醒めしそうだ。特にスポーツマンガは大混乱もあり得る。下手したら野球の場面では打者はいきなり左前方の三塁に向かって走る。頭が痛い事態だがタイ人は野球のルールどころか野球そのものに興味がないから全然問題はなかったとは思う。


 ところが週刊少年ジャンプに掲載されていた超人気バスケットマンガ『SLAM DUNKスラムダンク』はその点、異彩を放っていた。作者の井上雄彦が左右反転に不同意だったのかタイ語版編集者の意向なのかはわからないが、ジャンプのタイ語翻訳版マンガ週刊誌で、なんと日本式に左から右へページをめくり右から左へコマや吹き出しを読ませるレイアウトになっていた。


 これは非常に画期的で冒険であったと思う。タイ人にとって不自然な目線の動きを強いるのである。その結果どうなったか。








 タイ人はあっさり慣れた。


 タイ人はこの右から左の順番にコマや吹き出しに目を通し、文字はいつも通り左から右へという読み方にたちまち適応した。


 そしていつのまにか日本の縦書き右綴じのマンガについては文章は左から右に書くけれども絵が左右反転することもなく、本家同様に基本右綴じで日本と同じ順番でコマや吹き出しを読むレイアウトとして定着して、左右反転マンガを駆逐したのだ。



コミックを読むの前から?後ろから?



 なので、現在、このような不思議な問いがなされることはもうない。


 タイの書店では同じ横書きの日本の翻訳物でもコミックだけは右綴じ右開きで、そして実はやはり大量にあるラノベも含めてコミック以外の日本の書籍の翻訳物は、一般のタイ語書籍と同じく左綴じ左開きで売られている。


 ちょっとだけ不思議な気分である。


追記:日本語とタイ語訳のマンガを比較する写真を近況ノートに載せました。よろしければご覧ください。https://kakuyomu.jp/users/TokiYorinori/news/16818093088335899961

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熱帯で 暮らすワタシは よくぼや句 土岐三郎頼芸(ときさぶろうよりのり) @TokiYorinori

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